肌に張り付くような風だ、と思った。視線を投げた先は暗い色をした海。波は猫の額のような小島に寄せては引き、引いては寄せる。風は湿り気を帯び、かすかな生臭さすら感じる。捕らえるような風。引き寄せるような流れ。
――ここが
人の世の果て。社会との境界。シスネの先行きを暗示するかのように、空も海も、風も陰の気が強い。
そしてこれが、シスネの見る最後の景色なのだろう。
朽ちかけた桟橋に立ち、シスネは言葉もなく立ち尽くす。手には枷。杖は奪われた。衣は捕らえられた時のまま。着替えることも許されず、馬車に放り込まれた。
楽にはさせない、ということだ。バーテミウス・クラウチ・ジュニアの妹は、苦しんで苦しんで苦しんで苦しめという悪意だった。シスネは野伏で、必要とあらば野宿だってできる。馬の上でも眠れる。だが、不安定に揺れるお世辞にも上等ではない馬車と御者にかかっては、眠れたものではなかった。手枷は外されぬまま、膝を抱えるようにしてまどろんでは起きた。
魔法警察が苦言を呈したようだが、御者は「大臣の勅命ですので」と突っぱねた。危うく水すらも与えられないところだったが、何度か休憩をとった際、こっそりと水を飲ませてくれた。申し訳ない、と小さく言って。
シスネはただ頷いた。魔法警察だって仕事なのだ。わかっている。下手なことをすれば職を失う。ただのバグノールド家の養女のために、いいやバーテミウス・クラウチ・ジュニアの妹のために危険は冒せないだろう。責める気にはなれなかった。責めてもどうしようもないことだった。
「もうしばらくご辛抱ください」
どういう意味なのか訊くことはできなかった。全身が泥のようになっていたから。馬車の中は嫌な臭気で満ちていたから。休憩とは御者や天馬、魔法警察の護送隊のためのものだ。囚人のためのものではない。正確には容疑なんてものもなく、従って被疑者ですらなく、未だ囚人ではないものの、些細な問題だ。
わかっているのは囚人は天馬以下だということ。そしてその馬以下があれこれ垂れ流そうが、馬以下なのだから仕方がないということ。魔法族であろうが生理現象はあるのだ。事前に耐えるための薬でも飲んでいたのならともかく、限度というものがあった。
生あたたかいそれが冷えていって、シスネはうつむくことしかできなかった。臭気でそれと察知したのか、それともなんらかの形で異変に気づいたのか、移動中に箒からこっそりと馬車に乗り移った魔法警察が、シスネを綺麗にしてくれた。魔女であった。ただ無言で洗浄呪文をかけ、シスネの肩をそっと掴んだ。
馬車の座席や服は綺麗になったものの、馬車そのもの、内部には臭気がこびりついた。いったい何時間か、何日か。シスネは座席に横たわるしかできなかった。
――辛抱してくれと言われたが
それはいつまでのことか。これまでずっと耐えてきた、とみっともなく叫びたくなる。ずっとずっと。シスネのせいではないことで負い目を感じてきた……。
窓もない、薄暗い馬車のなか、息絶えたほうがマシなように思えてきた。どうせ自殺か事故死で片づけられるだろう……。
瞑った眼に、薄い陽が差し込んだ。そっと瞼を押し上げれば、金の髪が見え、鮮やかな紫の眼がシスネを射抜いた。
ひょいと馬車に飛び乗り、続いて箒を回収し、と彼はとても落ち着いていた。
ルキフェル、と言おうとして声が出なかった。魔法警察の温情があるとはいえ、それこそ雀の涙もいいところの水分なのだ。喉は乾き、必然として口を閉じるようになった。少しでも潤いを逃さないように、と。
なんで、と眼で訴える。最後に会ったのが何十年も前のことのように思えた。野伏は今や囚人で、死喰い人だ。あまりの変化に目眩がする。
「ご息女の護衛当番はまだ終わってないから」
さらりとルキフェルは言う。流れるように杖を振れば、嫌な臭気が消えていった。シスネは穴があったら入りたかった。なんの臭気か、ルキフェルでなくとも見当がつくだろう。誰がなにを垂れ流したかも。
現場を見られてないからまだマシ、と何回も唱えていると、前のほうが騒がしかった。御者の叫びだった。大臣の勅命がどうこうこいつはどうしようもない雌豚だぞ! と。極めて粗野で品のない言動に、耳をふさぎたくなった。
ルキフェルは無言だった。シスネの隣に腰かけたまま、前――馬車の壁を蹴った。一撃で穴が空いた。天馬がいなないた。
「お前はただの御者。僕は闇祓いなんだが」
声は笑っているが、奥底に冷たいものが潜んでいた。賢い天馬はぴたりと鎮まり、賢くない御者はなおもわめこうとした。ふ、とルキフェルは息を吐いた。
「わかりやすく言ってやろうか」
お前は闇祓い長官よりも偉いのか、と。
やっと言葉を覚えたのか、それとも本能で察知したのか、御者は黙った。ルキフェルは杖を振り、自分で蹴り抜いた穴をふさいだ。
「ルーファスは死喰い人案件に闇祓い局ではなく魔法警察を動かしたことにご立腹でね」
いいから行ってこいとのことで。
「――その気になれば攫って逃げられるけど、どうする?」
静かな静かな声で問われた。ほんとうに軽い問いだった。彼の眼は真剣で、言葉ほどに軽いものではないのだろうとわかってしまった。
「ただの」
苦労して唇を動かす。ざらついた声だった。老婆のような声だった。口の端がぷつりと切れて意外なほどに痛かった。痛くて痛くてたまらなかった。
「護衛、で」
「僕は任務に忠実だ」
あと、局のみんな、特に護衛当番たちは怒っている。もちろんルーファスも怒っている。ああそうだ、君の一個下のトンクスも怒っているね。
「なんのための護衛だと思っている」
監視だ、とは言わなかった。あくまでも護衛だと言った。バーテミウス・クラウチ・ジュニア、死喰い人の妹ではなく。バグノールドの息女だと。
「君は善い人間だと僕らが保証する」
歯を食いしばった。何を言うかわからなかった。今すぐここから攫ってほしいと言いたかった。私のせいじゃないのに、どうしてこんなことになったのか、と八つ当たりしたかった。誰かにずっとずっと言いたかったのだ。私は悪くない。全部、すべて、両親と兄のせいだと。
彼らが憎いと。
善い人間なものか。内実はこんなにもどす黒い。誰かの人生を破壊してでも、自分は助かりたいと願ってしまう。
ルキフェルはやってのけるだろう。シスネをここから出してくれるだろう。ルーファスは――闇祓い局はきっと黙認するだろう。でなくば、ルキフェルを送り出したりなんてしない。
魔法大臣のやり口への反発か、シスネへの同情かはわからない。理由がなんであろうとも、ルキフェルがここにいることが答えだ。逃がすことならできる、と。
――逃がすだけなら
それだけだ。魔法大臣が命令を取り下げるか、それとも弾劾されて引きずりおろされるか。その間、シスネは逃亡犯となる。そしてバグノールド家は逃亡犯を養女にしていたという不名誉を負う。
ミリセント・バグノールドが手を回したのではないか、と言われるだろう。それを口実にしてバグノールド家を貶めるだろう。シスネが監獄に入るだけならば、魔法大臣もそれ以上の手出しは控えるだろう。これは、シスネがクラウチの生まれでなければ、偽の印を刻まれなければ起こらなかったことだ。
魔法大臣は、狂った犯罪者の、その妹が恐ろしいのだろう。
そしてアンブリッジも満足するだろう。気にくわない「純血」の女が恥辱にまみれて監獄に入ることで……。
命令を出したのは魔法大臣でも、そそのかしたのはアンブリッジだろうから。あの眼を見ればわかる。
シスネは首を振った。わかっていたよとルキフェルが言った。そして彼は人差し指を立てる。
「長くても一年だ」
酷だとわかっている。だけれど耐えて欲しい。あれを排除するか、他の手段で君を出すかするには時間がかかるだろう。
呟くように言いながら、ルキフェルは懐に手を入れる。金の華奢な鎖、下がっているのは蒼い硝子玉――首飾りを取り出して、留め具を外し、シスネの首に回す。鎖が澄んだ音を立てた。
「セーミャからだ」
お守りだそうだ。言われ、シスネは蒼い玉を見る。硝子が蒼いのではない。硝子玉のなかに蒼い炎が封じ込められているのだ。表面に刻まれているのは古い古い言葉。身につけるものをどうか守ってくださいますように、という祈りの言葉だった。
シスネは首飾りを握りしめる。
「一年経っても――」
見込みがなければ、と言おうとした。そこに言葉が重ねられた。
「なるべく正攻法が望ましいけれど」
いざとなれば脱獄かな。それとも破ろうかな。
「何人か、省を辞めても構わないって連中がいるし。幸い、監獄に詳しいのもいるし」
そうそう、野伏局と、魔法生物規制管理部からも人が出せそうだ。お祭り騒ぎになりそうだ。
本当に祭りの話をしているかのような口調。どこか弾んだ声になにも言えなかった。そういえばこの人はリアイスだった。
つまり、このリアイスは。
護衛対象を奪い取られてお怒りで。
ファッジは獅子の尾を踏んだのである。
「では」
ご息女。桟橋に立つシスネの靴をルキフェルが脱がした。慣例として、監獄行きの罪人は裸足がふさわしいとされていた。古くは、裸足のまま連行し、この最後の島まで歩かせ舟に乗せていた、という。屈辱にまみれ、蛮人のように靴も履かずに歩け、と。
素足をさらしたシスネを、ルキフェルが小舟に乗せる。同乗するのは魔法警察の魔女。もう一つの舟に乗るのは数人の魔法警察。ルキフェルの護衛はここまでなのだ。
「ふふ」
寂しい見送りだこと。くすくすと笑うのはアンブリッジだった。シスネは、魔法警察たちから殺気がこぼれるのを察知した。彼らにとって意にそまない命令なのだ。魔法大臣の勅命とはいえ。こんな女がシスネをあざ笑うのには我慢できない、と。
シスネはそっと首を振った。ふ、と魔法警察の殺気がおさまった。見上げれば、桟橋に立つルキフェルは、腕を組んでじっとしていた。アンブリッジをくびり殺すのを我慢するためか、単なる癖かわからなかった。
「ねえバグノールド家のお嬢様」
いや、クラウチのお嬢様だったわね? お母様はお見送りにきてくれないのね。かわいそう。
「そうよねえ」
ただの養女で、死喰い人だものねえ。
ふふ、ふ。
アンブリッジはころころと笑う。不意に小舟が動き出す。ぱしゃん、と水が跳ねた。
誰かが合図の前に舟を動かしたのだろう。その証拠に魔法警察の顔は強ばっている。あまりの怒りに青ざめている者すらいた。アンブリッジの言動は、それほどに聞き苦しいものだった。
水面に綾が描かれる。桟橋からゆうらりと離れようとしたとき、その声が忌まわしい笑いを切り裂いた。
「悪かったね」
遅れてしまった。
髪には夜闇を、双眸には稲妻を宿らせたドラゴンがそこにはいた。
「あら?」
バグノールド閣下。
ぱちぱちとアンブリッジが瞬く。ミリセント・バグノールドはにやりとした。
「娘がお世話になったようだ」
「聞き間違いかしら。これはシスネ・クラウチで」
シスネは首を振った。養母は来てはいけなかった。なぜならシスネは死喰い人で、バグノールドの名誉に傷をつけたものだ。彼女には守るべきものがある。使用人たち。きょうだいたち。そして彼女自身……。彼女がなした功績。他にもいろいろ。そのなかにシスネは入ってはいけないのだ。
「この子は私の娘だ」
バグノールドの子だ。
養母が一歩、二歩、三歩、と進む。風を切り、すべてを従えて。王者のごとく。
「閣下――まさか逃亡……」
アンブリッジが叫ぶ。むっちりとした手を、養母の衣にかけようとする。だが、その手は振り払われた。
「私の邪魔をすることは赦さぬ」
言葉の鞭でアンブリッジを打ち据え、硬直する邪魔者に構わず、ドラゴンは桟橋から身を躍らせる。双眸が朝焼けを受けて輝き、衣が風をはらむ。とん、と着地したのは小舟。シスネのいる場所。
「おかあ、」
さま、と言おうとして仄かな香りとぬくもりに包まれた。
「すまん」
連れ出してしまいたい。だが、そうしても詰むだけだろう。
「耐えてくれ。出してやるから」
いざとなれば、檻を壊してでも。
そんなことをすればどうなるか、わからないはずがない。女傑ミリセント・バグノールドは秀才だ。それでもやってみせるという。娘のために、世界を壊してでも、と。
その心だけで充分だ。娘と呼んでくれただけでいいのだ。
言葉にならない思いを込めて、シスネは母の背に腕をを回そうとした。しかし枷が邪魔だった。かしゃん、と枷が外れる。私はなにも見ていませんと、魔法警察の声がした。粋な計らいに感謝を述べれば、なんのことやらと返された。
今度こそ、シスネは母の背に腕を回す。
そうして囁いた。
「行って参ります」
地獄へと。
シスネ・アポロニア・バグノールド
アズカバンの囚人。