【完結】転がり落ちた雛鳥は、   作:扇架

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七話

 天は昏く、海もまた同じ。吹き付ける風は悲鳴の響き。

 はぁ、と吐く息が白く凍る。季節などというものは、この島にはない。常に冬――酷寒とまではいかずとも、太陽の恵みに見放されている。

 いいや、とシスネは笑う。ひぃ、という音にしかならない笑い。ほんの少し前――どうやら二十四時間と少し、つまり一日と十数時間前には整えられていた建物の中にいて、仕事をしていたというのに。今では潮風にさらされた衣を纏い、裸足で岩場を歩いている。石段などという親切なものはない。うっすらとその痕跡があるのみだ。浮遊呪文でも使えばどうとでもなる。使えないのは罪人だけ。咎ある者が足から血を流そうがどうだっていいのだろう。それも代償。罪ある者が流すべきものだから。

 両手――正確には両手首に枷がはめられている。だからシスネが転びそうになれば、腕を掴み、あるいは腰を支え助けるのは魔法警察の護送部隊の役割だった。

 誰かが「抱えて浮遊呪文で運んでやれば」と小さく言う。なにかを恐れているような、押し殺した声だった。薄闇と氷に包まれたかのような島におそれをなしているのか、聳える監獄、浮遊する吸魂鬼に慄いているのか。たとえ守護霊の加護があろうとも、この島はあまりに影が濃く、闇がすぐそばにある。彼らの声をひそめさせるのは、理屈では語ることのできない恐怖だ。

「駄目だ」

 固い声が言う。隊長格らしい魔法使いだった。

「誰が見ているかわからん」

 吸魂鬼か、上層に閉じ込められている囚人たちか、それとも看守――吸魂鬼ではなく魔法族か。いずれにせよ、魔法警察は目立つ真似をできないのだろう。これまでだって囚人に水を与え「人らしい」扱いをしていたのだから。彼らはこっそりとシスネに温情をかけてくれたが、あくまでも見つからないように、だ。彼らは内心はともかく魔法大臣の命で動いている。危険は冒せないのだ。

「構いません」

 それだけを言う。それだけしか言えない。これ以上を願ってはいけないのだ。

 男がなにかを言いかけ、口を閉じる。シスネの背にそっと手を添えた。

「参りましょう」

 申し訳ない、と聞こえた。

 魔法警察の手を借りながら、なんとか岩場を乗り越える。足は燃えるようだった。にもかかわらずぐっしょりと濡れていた。ぺたりぺたりと足音が湿る。振り返らなくても、女の小さな足跡は、紅に染まっているだろう。

 黒々と聳える門の手前で立ち止まる。境界の向こうには、背の高い影が一つ。退廃の匂いを漂わせ、頭巾を透かして「視て」いるのはシスネの魂だろうか。

 吸魂鬼。島の主にして囚人。魂をすするもの。その誕生は明らかにされていない。無念の念が形をもったものとも言われている。わかっていることは、人の魂を、感情を好むこと。守護霊を厭うこと。その証拠に門の向こうから動こうとしない。魔法警察護送部隊が出した守護霊が、吸魂鬼を阻んでいた。

 そして、門の向こうにも銀色の光があった。吸魂鬼から少し離れ、なおかつ牽制できる位置に立つのはローブをまとった影だった。杖を掲げ、守護霊を従えて門へと歩み寄る。

「こちらに寄越してもらおうか」

 囚人を。声は女のもの。しかし柔らかさなど欠片もなく、ひたすらに厳しく、無機質だった。アズカバンという監獄は、看守も囚人も分け隔てなく人間性を奪い取るとでもいうように。

 シスネは息を吐き、銀の領域から踏み出そうとする。刹那、後ろから肩を掴まれかけた。つい振り返ってしまう。そうすまいと思っていたのに。

 魔女が唇を震わせていた。その腕を掴むのは隊長らしき男で。

 ただ、シスネを見る。ご無事で、と彼の唇が確かに動いた。

 シスネは囁いた。

「――ありがとう」

 そうして、守りの外に出た。途端に冷気が襲いかかる。現世のぬくもりはもはやない。

 血染めの足跡が、門を越えた。

 越えて、しまった。

 ◆

 がらがらと音を立て、吸魂鬼はシスネをすすっていく。シスネという魔女の人生を。端からそっと崩していく。

 看守が作り出す守護霊の恩恵はシスネにはもたらされず、ただ吸魂鬼になぶられるままに監獄に入り、真っ白い室に押し込まれた。

 吸魂鬼は室の外にいる。ああ、逃れられたと喜んでいられたのは寸の間だけ。看守が杖を振る。手首の枷が外れた次の瞬間には、両腕を広げた格好で、壁から伸びた鎖に戒められていた。

 なにが起こるのか、と息を詰める。アズカバンの詳細は謎に包まれている。そこが吸魂鬼の巣で、そこに勤める看守は守護霊の使い手であること、優れた戦闘力を持つことくらい。外で安心して眠りにつく、大勢の誰かたちにとってはそれで十分だ。監獄が機能している限り、わざわざ興味をもつこともない。誰かたちは囚人ではないのだから。見えないものはいないのと一緒なのだから。人の世の外にまで意識を向けられる者がどれだけいるだろう?

 シスネは凍りつくような心地で看守を見た。女の看守なのだ。まさかそんなことはないだろう。ないはずだ。

 呼吸が早くなる。足の痛みに意識を向けようとする。想像する最悪のことが起こるとして――もしかしたら、男の看守が何人かやってくるかもしれない――せめてなにも感じないうちに終わってくれれば――。

 震えるシスネに向かい、看守が再び杖を振る。するするとあるべきものが解けていく。あまりに軽い音を立て、衣が崩壊する。生まれたままの姿になり、シスネは自分がどうやって息をしているのかさえ忘れた。首飾りの熱だけがシスネに寄り添っていた。

「ただの検査だ」

 看守は淡々と言う。

 シスネの髪がぱらぱらと散る。赤い足跡に、絹糸の黒が加わった。

 髪の中になにも仕込んでいないことを確かめられる。そして、ありとあらゆる穴を検められて、シスネは泣いた。

「我慢しろ」

 そうして首を振るシスネの顎をがっちりと掴み、薬瓶を押し当てた。吐き出そうとしてもそうはさせてくれなかった。焼けるような液体が、口から喉、喉から胃へと落ちていき――。

 吐くものなどもはやないシスネは、泣きじゃくりながら吐瀉した。

 膝を突く。汚濁と恥辱にまみれた囚人に、冷たい、偽りを暴く雨が降り注いだ。

――ああ

 せめてこの雨が。

 兄の歪みを洗い流してくれればよいのに。偽りの印を浄めてくれればよいのに。

 俯く。ちゃりん、と首飾りが鳴る。尽きることのない涙が、雨と混じり合った。

 

 

「シスネ・クラウチ」

 あれの処置は適切だった。

 魔法大臣執務室に響くのは尖った声だ。声の主は机の向こうから彼らを見る。趣味の悪い猫の置物が威嚇の声を上げた。

――そろいもそろって

 頭の悪い。

 無能という言葉が真っ先に浮かび、すぐさま打ち消す。ルーファスは姿勢よく立ったまま、無言で執務室の主を見やった。恰幅のよい男だ。よくいえば鷹揚な、悪く言えば呑気、あるいは横着な男。それか無神経。

 今までは鷹揚な面が目立っていただけともいえる。ほんの少し前までは。魔法大臣コーネリウス・ファッジの眼は軽く充血し、険を宿し、彼が苦労して演出してきた「気の良い男」の印象を壊していた。

 現在の大臣は、ひたすらに神経を尖らせ、耳を塞いでいるバ――道化だった。しかもこの道化、無駄に権力があるから面倒であった。

「彼女はバグノールドですよ」

 隣から静かな――しかし鋭い声が飛ぶ。びくり、とバカが震えたがすぐさま鼻を鳴らした。

「生まれはクラウチだ」

「おや、それを閣下に直接おっしゃられては?」

 またもや隣から声が飛ぶ。ちらりと見ればアメリア・ボーンズが眼を光らせていた。

「――閣下は」

 私だ!

 だん、と音が響く。ファッジが机を叩いた音だった。うっとうしい猫の置物が悲鳴を上げた。彼はいい気味だと思った。

「シスネ・バグノールドは」

「クラ――」

 じろ、と彼は覚えの悪いバカを見た。バカは沈黙した。

「腕に蛇を飼っておりません」

「私は見たのだ!」

 ルーファス! お前は私の眼が節穴だとでも?

 豚のようにうるさいバカの言をルーファス・スクリムジョールは止めなかった。

「クラウチなんぞ濁った血は絶えてしまえ!」

 狂っている!

 兄からどんな影響を受けているかわからないだろうがあれは妹のことを最愛だと言っていたんだぞ。囚人どもからも証言はとれている! あの兄妹は同志だったのだ死喰い人だそうに違いないのだ。

 ルーファスの手がぴくりと動いた。さあどうやってこのバカの目を覚まさせようか。本来はここまで過激なことをしないはず。ミリセント・バグノールドの娘を監獄送りにすることなんて、おおそれたことはしないはずだったのだ。

 視線を感じて隣に眼を向ける。アメリアが我慢しろと言っているのだ。言葉がなくてもわかることはあるのだ。

 ルーファスは我慢した。そうとも、どんなにその首を飛ばしたくても――いっそ物理的に――我慢だ。友人が監獄送りにされて怒り心頭な愛娘から「お父さん、あいつの首を誕生日のお祝いにくださいませんか」と言われているが我慢だ。ルーファスは犯罪者になるつもりはない。やるなら完璧にやりたい。飾りのようにカラカラ鳴りそうな首でも、まだ引き返す余地はある。ルーファスはこいつの後任なんて面倒で嫌だ。アメリアも嫌だろう。

 シスネ・クラウチはなんの罪もないと言っても聞かなかろうが、暗に闇祓いの捜査の不備を言われようが――当時九歳の娘だぞ、ありえないだろう――耐えた。耐えようとした。

「裁判なしで監獄行きなんてよくあっただろう」

 現行犯でもなんでもない娘を不当な疑い未満の疑いをかけて監獄送りにした鬼畜は笑った。

「そんなに文句があるのなら」

 君たちが大臣になればいい!

 ルーファスの中で何かが切れた。そっと窺えば、アメリアの眼の中に炎が躍っていた。

 怒りという名の炎だ。アメリアが見たルーファスも、同じ眼をしていることだろう。

「面白い冗談だ」

 は、とルーファスは笑う。ははは、とバカも笑った。

 そうしてルーファスとアメリアは執務室を退出し、互いを見た。

「――やるか」

「そうだな」

 闇祓いの長と魔法法執行部の長は、この日、この夜決定した。

 彼の愚か者を引きずり下ろすことを。

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