【完結】転がり落ちた雛鳥は、   作:扇架

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八話

「よくやってくれた」

 魔法大臣執務室に、弾んだ声が響く。ゆったりと椅子に腰掛け、机の向こうからねぎらいをかける魔法大臣は、小者臭さが抜け切らない、と護衛として室に隅に控えたルキフェルは断じた。

 まず第一に、姿勢がよくない。闇祓い局の長――ルキフェルたち闇祓いを束ねる者ならば、立つにしろ歩くにしろ、背を曲げることはないだろう。ぴんと背筋を伸ばし、その気になれば音もなく動くだろう。彼は己が他者に与える印象を熟知している。強く揺るがない闇祓いの姿こそ部下たちに――そして民衆に支持されるのだとわかっている。であるから、公の場では騎士よろしく完璧な姿勢で立つ。それは彼の娘も同様だろう。セーミャ・アレティも大変姿勢がよい。魔法での決闘だけでなく、必要とあらば剣も抜く。まさしく闇祓いの、騎士の娘といえた。そしてどこか優雅なものを漂わせている。誰も彼女が孤児だったなどとは思うまいという領域にまで完成されていた。

『どうか』

 あの日、彼女は言った。激情に燐の色を燃え上がらせて、ルキフェルの手をきつく掴んだ。

 攫われた息女に追いつかんと、ルキフェルは箒を駆っていた。魔法警察護送隊は――いいや御者は、わざと風の強い場所を選んで飛んでいるようだった。それが魔法大臣の意を受けたものであろうことは明らかだ。どうせ大臣は命令していない、御者が勝手にやったことだ、と言うのだろうと思うと吐き気がした。

 幸いにも、ぽつぽつと印があった。たとえば眼下の樹の一本が赤く染め抜かれていたり。たとえば家の屋根に旗がついていたり。魔法警察が誰かに――たとえば闇祓いに助けを求めているのだ、とルキフェルは了解した。息女がどんな目に遭っているのか、と寒気がした。ただの御者になにができるのか、と楽観することはできなかった。息女は杖を奪われ拘束されており、魔法警察は大臣に――正当な手順を踏んで座にある者に、あからさまに逆らうことはできない。なぜならば彼らには彼らの人生があり、職があり、家族がある。それらを擲つほどの覚悟を求めるのは酷だった。それこそ職を失ってもさして影響がなく、大臣もおいそれと手が出せないような家か、組織の者でなければ介入は難しい。

 ぐっと箒の柄を握ったとき、叫びが聞こえた。振り向けばセーミャが炎の雷(ファイアボルト)を軽々と操ってルキフェルに追いついた。その手には包帯が巻かれ、顔からは汗が滴っていた。全身から湯気が出ていないのが不思議なほどだ。

「これを」

 包帯の白が目立つ手を、セーミャが差し出した。手のひらに乗るのは金の首飾りだった。ルキフェルが触れれば、力強い魔力が脈打っているのを感じた。綴る者(エクリチュール)が刻んだ祈りは、強力な守護も、最悪の呪いをも生むという……。

「確かに」

 ルキフェルは頷き、託されたものを仕舞い込んだ……。

「――あのクラウチの妹だ」

 どんなに狡猾か知れたものじゃない。兄のほうはどうやって脱獄したのだか……油断も隙も……。

「これで一安心だ」

 罪のない者を最悪の監獄に放り込んだことに、ファッジはなんの呵責も抱いていないようだった。彼の斜め後ろ――壁際に控える魔女がにぃっと笑っていた。

「狂人の妹もまた狂っているに違いないですからね」

 さらさらと魔女が言う。ドローレス・ジェーン・アンブリッジ。大臣によって「上」へと引き上げられた高官だ。着ているものはたいした品ではない。量産品の中でもよい品なだけ。それか、引き上げられた魔女が喜び勇んで服を仕立てた、そういう線もある。なんにせよ趣味が悪かった。生地を魔法で伸縮させているせいか、妙に身体に沿いすぎている。つまり、魔女のみたくもない身体の線を拾っており、あちこちに装飾されたリボンと、服のピンクと絡み合い、なんとも品のない様になっていた。心ある仕立て屋ならば間違ってもすすめないだろう。一流ならばなおさらだ。客の要望をくみ取りつつ、客の容貌を生かす服を仕立てるはずだから。

「私の部下――マグル生まれの子を詰っておりましたからね」

 酷いこと、とアンブリッジは言う。

「クラウチ家は腐っていたのですよ」

 それがどうです。腐った悪しき林檎を、お優しくもバグノールドは拾った。だというのに。

「慈悲にも気づかず、純血思想に傾倒したのです」

 閣下は正しいことをしたのです。悪しき芽を摘んだのですから。

 ふう、とかすかな音がした。魔法警察の長と、その部下――今回の「護送隊」の隊長が拳を握っているのが見えた。

 ルキフェルは腰――ベルトに挿した杖に触れる。声なき声を放った。短慮は起こすな、と。

 二人は肩を震わせる。そうして、ゆっくりと拳を開く。そこにあるのは真っ赤な爪痕。言葉にできない抗議の叫びだった。

 報告を終えた二人は退出する。ファッジはすっかり上機嫌だった。なにせ決して越えられない――ファッジはあくまでもその影に覆われるだけ、永遠に比較されるだけの者――ミリセント・バグノールドの大事な娘の一人を奪い取り、監獄に放り込むことができたのだ。ファッジがなにもかも話したわけではないが、察することはできた。ルキフェルは勝利に酔いしれ、その実、破滅に踏み出した男に「休憩をいただきます」と丁寧に願い出て許可された。扉を開け、廊下をしばらく歩き、魔法警察たちに追いついた。設けられた喫煙室からルキフェルを見ていた。

 ルキフェルは軽く片手をあげることもせず、あくまでも自然に、いかにも煙草が吸いたくてたまらないという風に、喫煙室に滑り込んだ。

 魔法警察の長が、煙草を一本寄越す。彼女は眼を怒らせていた。若い頃のテセウス・スキャマンダーはこんな眼をしたのだろうか、とルキフェルは思った。彼女は――魔法警察の長はニュート・スキャマンダーの娘であった。そして元魔法警察長官、テセウス・スキャマンダーの姪にあたる。

「私が省に入ったのは」

 こんなことをするためではない。吐き捨てるような口調だ。できるものなら吐きたかったことだろう。ファッジに向かって。

「できることはしてくれた」

 ルキフェルは返す。

「女性を隊に入れてくれたでしょう」

「娘にとっては辛い任だったようだ」

 長は煙草を噛む。長々と紫煙を吐き出す彼女に隊長が声をかけた。

「彼女はよくこらえました」

 私とて赦されるのならば――なにをしていたか。地を這うような声。喫煙室に熱が満ちて膨れ上がる。魔法警察、無実の娘を監獄へ護送するという任を押しつけられた者たちから放たれるものと、護衛すべき息女を攫われた闇祓いから放たれるものが。

「そうだな」

 ルキフェルは煙草に火をつけようとする。だが、手が震えて巧くいかなかった。言葉すらも滑らかに出てこない。かつてロングボトム邸に突入し、ベラトリックスたちと杖を交え、死線の上で踊ったというのになんという様か……。

 ベラトリックス、で思い出す光景がある。砕けた花瓶。濃い排泄物の臭い、転々と散る白い――白い爪。花びらのようなそれ。

 壊れてしまった人間の、どうしようもなく砕かれてしまった者の、あまりに惨い叫び。

――送り出してしまった

 攫って逃げてしまえばよかったのだ。けれどそれでどうなる……。ファッジは躍起になってシスネを追うだろう。ただの娘を。兄に消えぬ刻印を刻まれただけの娘、父によって巣から落とされた雛鳥を。監獄の闇に沈めるために。

 ことによったらバグノールド家を襲撃するかもしれず、なにをするかわかったものではない。なるほど、ミリセント・バグノールドは女傑だ。名大臣だ。しかしそれだけだ。一代でその名を馳せた成り上がり。民衆からの支持は篤かった。今もなお尊敬されている。しかし純血貴族ではない。そして魔法大臣でもない。尊敬される「元大臣」だ。

 ファッジはそのことに気づいたのだ。自分をすっぽりと覆う忌々しい影が、名家の出でもなく、権を持たないことに。魔法大臣であるのは自分であるということに。

 影を振り払えることに。

 

 

 

 灯火は少なく、ただ闇がうずくまる。切り離された幽世のなか、ひょうひょうと悲鳴だけが響く。

 吸魂鬼などいなくとも、気が狂うのではないか。闇にはそれだけの力があった。シスネは牢の中で獣のように身を丸めることしかできなかった。ここでは誰もが獣なのだ。人らしい扱いをされない。目の粗い衣を与えられ、食事を与えられても。味の薄いなにかだ。上階ならば窓もあろうが、この地階――何層なのか不明――に、そんな贅沢なものはない。

 わかっているのはシスネが深い階層に落とされたということだけ。そう――彼女たちと同じ場所に。

「ジュニアのやつは」

 しくしく泣いていたくせに。

「お前はなかなか骨があるな」

 妹。

 枯れていて、しかしわずかに艶を残した声が言う。女の声だった。

「あんなやつは知らない」

 シスネは声を投げ返す。身を丸めたまま、牢の外――独房のどれかに入っている女に向かって。

「私はシスネ・バグノールド」

 あなたがベラトリックス・レストレンジではなくブラック家のベラトリックス(レディ・ブラック)であるように。

 長い長い言葉を口にして、妙に息が切れる。今が何年で何月で、落とされて何日経つのかもわからない。時間の感覚など失われた。監獄は人間らしいものを一つ一つ奪っていく。獣に明日という概念はないとされる。シスネは段々と人ではなくなっていくのだ。足を鎖で繋がれ、犬のように椀に顔を突っ込むのだ。フォークやスプーンなんてものはない。自殺を防ぐためだ、と言われているが本当のところをシスネは知らない。

 ふ、と笑声が渡る。信じがたいことにベラトリックスは笑うことを忘れていなかった。十数年監獄に閉じこめられているというのに、極めて正気だった。

「バグノールドか」

 ふつ、とベラトリックスは言葉を切る。何拍かの後に――過去に思いを馳せたのかそうでないのか――続けた。

「お前は兄の手を払ったか」

 散々、妹も我が君にお仕えするのだと言っていたが。

「あなたの我が君は、九歳の子に印を刻まないでしょうに」

 シスネはついつい返してしまう。闇と話すより死喰い人と話すほうがマシだった。けして誰とも話すまいと思っていた――ように思うのに、そんな決意は脆く崩れた。裸足のまま歩かされた時に、生まれたままの姿にされた時に、牢に放り込まれ、足首に枷をはめられて、鎖で壁とつながれた時に、犬のように食事を食らった時に、シスネの心に亀裂が入ったのだ。

 シスネはただの魔女で、普通の女だった。

「あなたの我が君」

 わたしの我が君。くすくすとまたもやベラトリックスが笑う。わたしの、と何度も繰り返した。

「よい響きだ」

 聞き間違いでなければ、ベラトリックスは陶然としていた。監獄が彼女を狂わせたのではない。彼女は最初から狂っていたのだ、とシスネは悟った。わかりきっていたことだ。狂っていなければ、ロングボトム夫妻にあれほどまでに惨いことはできない……。そして狂っていたからこそ、監獄の中にあってベラトリックスは正常なのだ。

「ではバグノールド家のシスネ(レディ・バグノールド)

 なぜお前は落とされた?

 純粋な興味が滲んでいた。シスネをここに落とすにあたって、魔法省の者が死喰い人に――ベラトリックス一味に聞き取りとやらを行ったはずだった。「妹」は本当にジュニアの同志なのか、と。そして死喰い人たちは答えた。ジュニアは「妹」を、いずれ共に我が君に仕える者だと誇っていた……と。

 今更だった。ベラトリックスがなぜ訊きたがるのかもわからなかった。しかし、シスネは口を開いた。それはベラトリックスがシスネをバグノールド家の者だと言ってくれたことへの、礼だったのかもしれない。

「バーテミウス・クラウチ・ジュニアは」

 私を所有したかった。支配したかった。

 とつとつと言う。言えば言うほど枯れたはずの涙が溢れる。ここは悲しみと諦めに満ちている。怒りと憎しみが渦巻いている。あらゆる負の念の行き着く先だった。喜びも幸せも、吸魂鬼が奪っていく。監獄と書いて廃棄場と読むのだ。囚人たちはただ打ち捨てられ、朽ちるのを待つ……。

「愛する妹と言いながら」

 それは愛ではなかった。

「ろくでもないな」

 ベラトリックスが言う。ほかにもいくつも同意の声が響いた。一味は未だに正気らしい……。

 あなたたちもろくでもない、とはシスネは言わなかった。わざわざ言わなくてもいいこともある。シスネは話し相手を失いたくはなかった。孤独は人を弱くする。

「そんなろくでなしのせいでこの有様かいお嬢さん」

 そうよ、と素っ気なく答えようとして、思い直した。

「少なくともお優しい「ママ」を身代わりにして脱獄した意気地なしより、私のほうが上等よ」

 滴るような毒と恨みが言葉に染み込む。父も母も赦しはしない。兄のことも赦しはしない。シスネはもはやクラウチではない。

「私がここにいるのは」

 ミリセント・バグノールドのためだから。

 宣言する声は、情けないほどにか細かった。ぱちぱちと手を叩く音がする。

「確かにな」

 声の質が変わる。どこか嘲るようなものから、丁寧なものへと。

「きっかけはどうあれ、お前はここに来ることを選んだ」

 それは真に勇気あることだ。

 お前に敬意を。

 シスネ・バグノールド。

 

 

 

 死喰い人、ブラック家の令嬢だった者の敬意など、なんの役にも立たなかった。

 シスネは闇のなかでただ生きた。刈られた髪は段々と伸びていった。外に出たときのことを考えて、牢のなかを歩き回った。鎖は十分な長さがあったのだ。もしかして、看守の温情ではないかと思う。首飾りはとられず、思ったほど吸魂鬼の「巡回」は多くなかった。頻度が減ったように思う、とベラトリックスたちも言っていた。

 過去と現在の境はあやふやなものとなった。時に父の厳めしい横顔が、時にガリオンの詰まった袋がちゃりんと鳴った。腕の内側――灼きつけられた印が激しく痛んだ。兄によって闇に落とされたようなものなのに、その兄の印が皮肉にも、シスネをつなぎ止めた。狂気と正気の境界線上へと。

 アンブリッジがやってきて、シスネをあざ笑った。それがいつのことだったか、もはやわからない。みっともない髪だとけらけら笑っていた。ああご令嬢、お労しいことだと声を震わせていた。こぼれる笑いが耳障りだった。

 こんなに卑しい者を見たことがない、と思ったことは覚えている。こいつよりはマシだと。この女は外の世界にいながらにして、心は暗闇にどっぷりとつかっている……。奇妙なことだが、ベラトリックスのほうがよほどまともに見えた。「我が君」への忠誠心に偽りはない。アンブリッジは己の欲望のままに生き、誰のことも踏みつけ、必要とあらば引きずり下ろし、沈めてしまう。

 監獄の闇に浸るうち、心までも死喰い人になってしまうのか、と恐れた。そんな恐れも磨耗していき、やがて■■■はただ食べて眠るだけの者となった。なにも思わなければ楽なのだと悟った。それはある意味死に近かった。

 希望を抱けば食われるだけ。ならばなにも感じまい。そうすれば生きることだけはできる。それだけはできる。

 ひたひたと、何かの足音が聞こえた。湿った足音。身を丸め、紛いものの眠りのなかにある■■■の、瞑った瞼の裏に、血染めの足跡が浮かんだ。いつだったか、怪我をした足は治療された。看守の温情だ……。足が癒されようが、もはやここから出ることはできまい。

 じわりじわりと端から崩れていく。すすられていく。ひたり、と足音が近づく。ひたり。終わりの音が。

 楽になれるのだ。

 ああ、と笑う。笑った気になった。漏れたのは吐息だった。

 穏やかな闇の中に沈もうとしたとき、こつり、と音がした。こつり。

 硬い靴音。揺るぎなく、規則正しいそれ。楽になれると思ったのに、と瞬く。誰だろう、邪魔をするのは……と起きあがった。そのまま眠ってしまいたいのに、無視できない力がその足音にはあった。

 ぱっと、銀色が閃いた。闇を切り裂き、祓っていく。■■■は悲鳴をあげてうずくまった。闇の底の囚人にとって、それはあまりにもまばゆく、恐ろしい光だった。

「……ネ」

 囁きが聞こえる。柔らかい声だった。激しさをはらんだ言葉だった。容赦なく、■■■から狂気の腕を引き剥がす、力ある言霊が放たれた。

「シスネ」

 シスネは瞬いた。弱った眼が光にさらされたせいか、それともため込んでいたものが溢れたのか。次から次へと涙がこぼれた。

 ぼうやりとした影の世界に。ぎっと鉄格子が軋む。こつ、と足音がして、かしゃり、とシスネの戒めが解かれた。

 誰かの力強い腕が、シスネを引き寄せる。抱き上げられ、(さや)かな香りに包まれた。

 なすすべもなく運ばれる。外の光が降り注ぐ。あまりに頼りないものであっても、シスネにとっては紛れもなく光であった。呻きを上げ、誰かの肩口に顔をうずめる。痛む眼のせいか、言葉にならない感情が呻きとなってこぼれたのか、シスネにもわからなかった。

 とん、と軽い音がして揺れるなにかの上にたどり着く。ざざ、と波の音がした。

 その誰かは、しばらく――長いこと、シスネの背を撫でていた。最後に人の手のぬくもりに触れたのは、いつのことだったろう。これが夢ならば、覚めないでほしかった。

 声もなくすすり泣き、疲れ切った頃、シスネはおそるおそる顔を上げた。

 そうして、金の髪と紫の眼を見た。

「遅くなった」

 迎えにきたよ、シスネ。

 彼はシスネの頬に手を添えた。存在を確かめるように。

 ゆうらりと揺れる小舟の上で、彼は泣き笑いの顔をした。そして彼は、シスネの足にそっと触れ、靴を履かせた。

「帰ろう」

 僕の婚約者殿。

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