季節は夏から秋へと移り、冬へと滑り降りて行った。
無情にも。そんな言葉が浮かぶ。たかが一人の魔女が投獄されたところで魔法省は困らない。帆が破れかけようが構わず、船底に空きかけた穴も知らぬふりで、航海を続けるのみ。
「バグノールドが言おうがマグダラが言おうが無視なんだろう?」
ロンドンはブラック邸。響く声は淡々と、歯切れよく現状を整理する。
「その気になれば首を飛ばせるのに我慢してやったわけだ」
邸の主――シリウス・ブラックは実にさらりと言った。今すぐ魔法省に行って首をとってこようかといわんばかりだった。思うだけ、言うだけなら自由だろう。凶悪犯と一般人の線引きなど曖昧なものだ。やるかやらないかの違いであり、ルキフェルとてやろうと思えばできる。やらないだけだ。染み着いた道徳心のせいもある。打った手がどう影響するかの懸念もある。魔法大臣を物理的に片づけることならばできるが――そこまでやるのならば、リアイスが大臣の座を奪い取り、英国魔法省を掌握し、支配者になることを意味する。
――シスネ・バグノールドには
そこまでしてリアイスが動くだけの価値がなく、理由もない。なぜならば彼女は元大臣の息女であり、その生まれはクラウチであるから。
「そして僕らは切り捨てられる」
ルキフェルは珈琲をすすった。ブラック邸こと不死鳥の騎士団本部は静かだった。神秘部の見張りをしたり、その他諸々で皆出払っているのである。
「クロードとナイアードあたりか、お前につき合うなら」
酔狂にも家を捨てる覚悟で、とシリウスが続ける。ルキフェルはため息を吐いた。所詮仮定の話だ。ルキフェルがやらなくてもほかの誰かがやるかもしれない。魔法生物規制管理部の連中も、野伏局の連中も、シスネの一件には動揺し、そして怒った。
管理部のエイモス・ディゴリーは息子を殺されたのにも関わらず、知らぬ存ぜぬ事故だと言い張るファッジに怒りを募らせ、それでも省に勤めていた。不死鳥の騎士団に協力するために。省の内部にある耳であり眼であった。なにかのために動けるということは、エイモスにとって多少の慰めになったのだ。しかし、ヴォルデモートの復活を信じようとしないばかりか、八つ当たりのように無実の人間を――ただの娘を投獄したとあって、エイモスの堪忍袋の緒はちぎれ飛んだ。なにせその娘が管理部の下、野伏局に所属していて、見知ってもいて、息子の件でお悔やみを言ってくれた娘であったから。
杖を抜いて大臣執務室に向かおうとしたエイモスを止めたのが、野伏局の長であり、ハッフルパフ系の純血名門マグダラ家の当主であった。エイモスが直談判しようとしたところであしらわれるだろうと。いかにかつて魔法大臣を輩出した名門といえど、ファッジが耳を傾けるかは怪しいと。それに、シスネ・バグノールドは自分の部下であると言って。
結果はどうだったか。マグダラの言もファッジは聞かなかった。魔法騎士、グリフィンドールのリアイス、王を失ったスリザリンのブラック、中立たるレイブンクローのクラウチ、同じく中立たるハッフルパフのマグダラ。俗に四大と呼ばれる家門の一、その当主が言っても「あなたの前ではいい顔をしていたのでしょうがね。シスネ・クラウチは腕に蛇を飼っていたのですよ」で仕舞いだった。国の食糧の何割かを掌握している、いわゆる食糧庫持ちであるマグダラの言葉にも耳を貸さなかったのである。もちろんマグダラだけが食糧庫の役割を果たしているわけではない。おおざっぱに四割がマグダラ、三割がリアイス、残りは他家……である。地域の、ではない。英国の、である。リアイスが目立つだけで、マグダラも広い領地を持っていた。そしてファッジはこの一件で潜在的な敵を増やしたことになるだろう。
驢馬のように頑固なファッジは、ミリセント・バグノールドの訪問も拒否した。バグノールドが来客用の暖炉を使おうとしても使えなくした。元魔法大臣はそれならばと外来用の通路、地上にある電話ボックスを経由しようとすればそれも排除した。そこで諦める「閣下」ではなかった。黒髪のドラゴンは魔法省にいる養子の手引きで省に入り、魔法ビル管理部の助けを得た。元魔法大臣は雑用係、掃除係と見下されがちな彼らの名前と顔を覚えていたし、たまに休憩室で珈琲を飲んでいたこともある。廊下ですれ違えば軽く挨拶もした。つまり彼らを景色の一部ではなく、人として認識していたのだ。バグノールドにとっては当然のことだった。そして彼女の養女――シスネ・バグノールドも同じようにしていた。魔法ビル管理部の面々は、喜んで「閣下」を……親愛なる閣下を助けたのである。
魔法ビル管理部の制服に着替え、洗濯係としてバグノールドは魔法大臣執務室、かつての己の室を訪ねた。ファッジは大変驚いたようだった。その隙をついて「お前の名を汚すだけだぞ」「あの子が何の罪を犯したという」「私ではなく小娘を監獄に入れるあたりが最低だ」等々、立て板に水で警告した。ふん、とファッジは笑った。雑用係、洗濯係「なんぞ」に身をやつしたかつての大臣をあざ笑ったのだ。
あなたはもう大臣ではない。ほかの養子たちもご息女と同じところに送りましょうか? ああ、よくお似合いですねその格好は、と言って……。
野伏局の長、マグダラ家当主の直談判の時はウィリアムソンが、バグノールドの時はキングズリーがファッジの護衛当番であった。現場を目撃した彼らはルキフェルに言った。杖を抜かないだけで精一杯だった、と。
ここ数ヶ月を思い返し、ルキフェルは苦いものを飲み下した。
「……クロードとナイアードには立場がある」
なにせ二人はリアイス筆頭分家と第二分家の当主だ。第三分家当主の次男のルキフェルとは違う。そして本家当主のウィスタをつつくのも筋が違うだろう。彼は当主であっても学生で、今はホグワーツにいる。彼が相手をするのはアンブリッジである。ファッジ――魔法省ではなくて。ただでさえヴォルデモート復活以降張りつめている少年に、荷を投げるわけにはいかなかった。
茶器――珈琲色の水面を睨む。そもそも、ルキフェルが噛む問題でもないのだ。知らぬふりをすればいい。所詮死喰い人の妹なのだから切り捨てればいい。それが賢い立ち回りだろう。そのうちファッジは引きずりおろされる。そうすれば次の大臣がシスネを解放する。待てばいいだけだ。が、賢くない莫迦が魔法省には多くいる。闇祓いのシスネの護衛当番たちもそう。護衛をしていなくてもあまりの不当さに怒る者もいた。ルーファス・スクリムジョールとて怒り狂っている。
魔法法執行部、魔法警察、魔法生物規制管理部と野伏局。魔法ビル管理部。シスネの捕縛と投獄は密やかに行われた。だからと言って省員すべての口を塞げるわけではない。巨大な組織のなかのたかが一人。されど一人を襲った理不尽に、思うところのある者は確実にいるのだ。強いてルキフェルが動くことはない。こうしてシリウスに相談を持ちかけることもない。そんな必要などない。いくら護衛対象を攫われたからといって、ここまで苛立つことはなく、長くても一年で出してやるなんて言うべきでもなかった。
なかったというのに追いかけて、馬車に乗り込んで、小島まで護衛して、細い背を見送った。
そしてもはや大臣を片づけるか、密かに脱獄させるか、面倒だからいっそのこと監獄を破ってしまうか……と考え始めている。
「そろそろ半年だろう」
シリウスが呟く。まだ半年ではない。もう半年だ、という含みをルキフェルは感じ取った。監獄にはリアイスの人間がいる。守り人、番人――看守として。話は通してある。シスネの安全だけは確保できているはずだ。安全だけは。
――なにをもって
安全というのだろう。拷問されないことか。寝台があることか。飢えないことか。最低限生きているということが、真に安全だと言えるか。吸魂鬼の「巡回」の頻度を減らせても、完全になくせはしない。少しずつ、少しずつ、シスネは浸食されていくだろう。狂気という泥水に。あるいは穏やかな闇という安寧に。
「あなたは十二年耐えた」
出し抜けに言う。シリウスは小さく唸り、呻いた。
「俺には執念があった」
それが息子を父なし子にしない一心だったのか、己に罪を被せた穢らわしい男を必ず始末するという一念だったのか、ほかのなにかか彼は言わなかった。
代わりに、囁いた。
「……あとはリーンのお陰だ」
彼は永遠に喪った伴侶の名を呼ぶ。血を吐くように、届かぬと知っていてなお求めるように。
「彼女の守りが俺を生かした」
わずかに震える言の葉は、愛している、と聞こえた。喪っても、路が分かたれても、もはや会えずとも、永遠に、ずっと、と。
愛する者の残した刻印が――肌を重ねるという行為は最も原始的な魔法であるとされる――闇の底に堕とされた天狼星を生かしたのだろう。死してもなお、彼女の名残は息づいている……。
「喪う前に、取り返せ」
お前が抱く感情がなにか考えるのは後だ。切れる手札を持っているだろう?
燃えるような灰色が、ルキフェルを睨んだ。まるで覚悟を問われているようだった。
「極めて由緒正しい、古典的な正攻法があるだろうが」
「どうか」
冬。太陽の威光が衰え、年の瀬がせまるその夜、ルキフェルは片膝を突いた。魔法大臣執務室の、上等な絨毯に。魔法大臣コーネリウス・ファッジに向かって。
リアイスは孤高にして不恭。たとえ魔法大臣相手であろうが頭は下げぬ、と言われている。一族は魔法大臣を輩出できないのではなくしないだけ、冨も名誉も権も持っている。大臣職などほしくもなく、その気になれば奪えるちっぽけな座に興味もない、と。そして頭も下げぬ、と。
誇り高い戦争屋。魔法騎士の一族の、金の頭をファッジが見て、どう思ったかはわからない。
ルキフェルはただ絨毯を見ていた。心を灼かんばかりの屈辱を感じながら。このような愚物に頭を垂れる恥辱に歯噛みしながら。
「我が婚約者をお救いください」
吐き出すように言う。激しい感情が喉を塞ぎ、思うように話せなかった。掠れ、途切れる声が言葉に真実味を与えた。ファッジはひゅっと息を呑んだ。
「君の、婚約者と」
呆けたような声は続けた。
「なぜいままで……知っていれば……」
じわり、と室の温度が上がった。ファッジはハンカチで額の汗を拭った。なぜだかやたらと暑いと思った。それが黄金のグリフィンの
知っていれば? そうであれば投獄しなかったと? ルキフェルはひたすらに従順に振る舞った。いかにも国のため、魔法省のため、ひいては魔法大臣に仕える者だという態度を貫いた。
「……たとえ我が婚約者といえど、投獄をお決めになったのは大臣。相応の理由があったのだろう、と」
言葉に刺が混じる。びくり、とファッジは身じろいだようだった。ルキフェルは構わず続けた。
「そう思い、耐えて……耐えて、参りましたが」
言が切れる。渦巻く感情を宥めた。ヴォルデモートが復活した今、魔法省と争っている場合ではない。引きずり下ろそうにも、今しばらく時がいる。なるべく穏便かつ正攻法でシスネを助けるにはこれくらいしかないのだ。男女ともに切れる、婚約――結婚という手札を。
もはや自棄であった。いくらでも頭を下げてやる。くだらない誇りなど溝に捨ててやる。死ぬより惨い目に遭っている女がいるのだ。ルキフェルの屈辱など安いものだ。たった一人を助けられずして、なにが闇祓いであろうか。
――もう
誰かが壊れる様を見たくはないのだ。
「引き離され、早数ヶ月……」
監獄の闇は深いと聞きます。彼女は今どうなっていることか。考えるだけでも……もはや、と畳みかける。さらに深く、頭を垂れた。己のちっぽけな矜持を地の底に埋めて。
「シスネを」
お助けください。
迎えに行き、抱きしめた身体は枯れ枝のようだった。泣くだけの感情が残っていることに安堵し、喪わなかったことに目眩がした。今度こそ間に合ったのだと。
――間に合った
だけ、なのだと。
バグノールド邸の一室。寝台に眠る女の手を――傷だらけのそれをそっと握る。強く握れば壊れてしまいそうだったから。
寝台のそばに膝を突き、彼はひたすらに沈黙していた。
室の四隅には燭台が。宙には魔法灯が躍っている。眠るには適しない明るさだった。そうでもしなければ、女が眠れないのだ。真の暗闇を女は恐れ、悲鳴を上げるので。
監獄の数ヶ月は、永遠に近い。そしていつ終わるともわからずに、女は暗闇の中にいたのだ。狂気の足音を聞き、亡霊の影を見ながら。
闇色の髪が白く変じるほどの痛苦に耐えながら。
シスネ・アポロニア・バグノールド
太陽の下へ帰還した者。白銀の魔女。