大事そうにボールを抱えながら手を振る女の子を、
一件落着。そして。
「えっ、
「はいっ! 本当につい先ほど」
「そっか~。ようこそ
私と桃原さんは今、ベンチに並んで座っている。
まだ出会ったばかりの、お互い素性もよく知らない同士。だけど先程あの女の子のために協力できたこともあってか、私は早くも彼女に心を許していた。
桃原さんも、同じ気持ちでいてくれたらしい。栗色のロングヘアとふわっとしたワンピースを靡かせながら、人懐っこく身を乗り出して熱心に私の話を聞いてくれる姿が、なんだか愛おしい。
「それにしても、天知さんも同い年だったのは意外だったな~。ずっと敬語だから年下なのかと思っちゃった」
「癖なんですよね、敬語で話すの。距離があるように聞こえてしまってたらすみません……」
「ううん、全然平気だよっ! そういえばさっきの女の子にも敬語だったもんねーーってあれ、わたしと同い年で今日引っ越してきたってことは……もしかして、四月から学校は?」
「はい、転入する予定です。
晴上高校。その名前を聞いた途端、隣の桃原さんがぱあっ、と表情を輝かせたように見えた。
「晴上高校!? わたしも通ってるとこだよそれ!」
「そうなんですか!? ふふっ、なんだかすごい偶然ですね」
「そうだね~! せっかく友達になれたんだし、ここまできたら同じクラスにもなれるといいね!」
未来に思いを馳せ、桃原さんの声が弾む。
友達。桃原さんの口からあまりにも自然にこぼれた、その言葉に。
少し驚いて。
それから、心が解れるようにじわじわと温かくなる。
特別な何かをした訳じゃない。された訳でもない。それでもなんてことのないように、桃原さんは私を”友達”の輪の中へと手を引いてくれて。
……確かに、桃原さんと過ごせる時間が増えたら楽しいだろうな。なんて、私まで未来を想ってしまう。
「でも、高校の途中で転校するって寂しくなかった? 友達とか、みんな離れ離れになっちゃったんだよね?」
「……そう、ですね」
心の中で、少しだけ後ろを振り返る。
ここに来る前の気持ち。
思考はポジティブな方だけど。不安は、ゼロじゃなかった。
日常の形が大きく変わる。その先に見えるようになる景色は、想像したくても出来なかったから。
……だけど。
「信じられたんです。ここでなら、澄空町でならきっと大丈夫だって。」
空を見上げる私を、桃原さんが不思議そうに覗き込む。
眼鏡のレンズ越しに、今日も一面の青が映り込む。それだけで、文字通り心が晴れる気がして。
「あの空が私を変えてくれたんです。俯いてばかりだった私に、勇気をくれた。……それ以来、辛いことがあったら空を見上げるんです。また俯いてしまわないように、元気を貰えるから」
私が変わることができた、あの日。
空の広さを初めて実感した時。
私の世界が、空のように広がった瞬間。
忘れられないあの感覚は、いつだって私の傍にあった。
「だからいつでも空のよく見えるこの町でなら、何があっても大丈夫。そう信じて、私は澄空町に来ました」
視線を下ろし、桃原さんに向き直る。
きょとんとしたままの澄んだ瞳が、微笑む私を映していた。
「この町に来たから、桃原さんとも出会えた。……やっぱり私、来てよかったですっ!」
「! ……ありがとう」
桃原さんの瞳が、揺れる。
私を『友達』と言ってくれた桃原さんに、私なりの感謝を伝えたつもりだった。それは、おそらく桃原さんに届いたんだと思う。
だけど。
「好きなんだね、この空が」
先ほどまでと打って変わって、静かにそう呟いた桃原さんの表情は、少しだけ寂しそうだった。
「? どうかしましたか?」
「ううん……天知さん、きらきらしてるなぁって。ちょっと羨ましかったの」
きらきら。
桃原さんがその言葉に、好意的な感情を込めてくれているのはなんとなく感じ取れた。
それは、素直に嬉しいけど。
どこか、引っ掛かる。
「桃原さんは、きらきら……出来ていないんですか?」
思わずそう、尋ねてしまった。
私が出会ってからの桃原さんはずっと明るくて、誰かのために一生懸命になれる人。そう、見えていたから。
そんな彼女が寂しげな顔をするのは、まるで晴天を雲が覆ってしまったみたいに、苦しくて。
手を伸ばすように、差し伸べるように、聞いてしまったけれど。
本当に聞いていいことだったのだろうか、と一瞬後悔が脳を過る。
……ほんの少しの間、沈黙が流れて。
それからゆっくりと、桃原さんは答えてくれた。
「うん……できてない、かも」
返ってきたのは、短い返答。
ただその声に、先ほどまでの元気がないことは明らかだった。
それだけで分かる。桃原さんにとって、辛い話をしているんだって。
話すことで楽になる、なんてよく言うけれど。だからといって話していて辛くなるのなら、無理に続けさせるべきじゃないのかもしれない。
正解なんて、分からない。
正解なんて、無いのかもしれない。
だからそっと、桃原さんの手に自分の手を重ねた。
話を止めてもいい。続けてもいい。どちらを選んでも、私は隣にいるから。そう、伝えたくて。
一瞬驚いたような桃原さんと目が合って。その目が、少しだけ柔らかく細められて。
何かを決心したように。
静かな声が、また隣から聞こえ始めた。
「……最近、思うんだ。小さい頃はもっと真っ直ぐに、好きなものを好きって言えてたなぁ、ってさ」
桃原さんの視線は、遠くを見ていた。
鬼ごっこ、ボール遊び。思い思いに公園を駆け回る、子どもたちが見える。
「わたしね、小さい頃からプリンセスに憧れてた……ううん、今も憧れてるんだ。あんな風にきらきらしたいって、ずっと思ってた。プリンセスが、わたしの道標だった。……でも」
桃原さんが迷うように、言葉を切る。
いつの間にか、彼女の眼は伏せられていた。
プリンセス。お姫様。勝手なイメージだけど、優しさや美しさの象徴のような気がして。
それはなんとなく、桃原さんらしい憧れのように思えたけれど。
ーーやがてまた、ぽつぽつと言葉が紡がれる。
「成長したら、その憧れにも色んなことを言われちゃって……子どもっぽいとか、叶う訳ないだとか。わたしの顔を見て、笑ってきた子もいたんだ」
俯き静かに綴られる言葉に、少しずつか細くなる声に、ただ耳を傾ける。
「悔しくて、辛くて……その内、この気持ちにも蓋をするようになってさ。気がついたら、真っ直ぐに憧れられなくなっちゃってた」
桃原さんの頬を、雫が伝う。
手の平が、静かな震えを感じ取る。
「子どもじゃなくなったら、きらきらしちゃ……だめなのかなぁ……」
ぼろぼろと溢れた想いが、桃原さんのワンピースを濡らしていた。
どちらから握ったのだろう。重ねるように触れていたはずの私たちの手の平は、いつしか固く繋がれていた。
暫くの間、桃原さんは声も出せないくらいに泣きじゃくっていた。
……それだけ、独りで抱えていたんだろう。
「ごめんね……急に、こんな話しちゃって……いきなり泣いちゃって……」
無理に笑おうとするような上ずった声の間に、抑えきれない嗚咽が混じる。
涙を拭くためか、桃原さんの手のひらは私から離れてしまったけれど。私は変わらず、彼女の隣に寄り添っている。
「大丈夫、ですよ。桃原さんがプリンセスに憧れる気持ち、よく分かりました」
涙が物語る思いの丈は、痛いほどに私にも伝わってきた。
桃原さんの苦しみは簡単に解決できることでも、慰められることでもないと思う。
それでも、どうしても言いたくて、届けたくて、言葉を紡ぐ。
「ーーそれが、桃原さんの翼なんですね」
「つばさ……?」
ぽかん、という言葉が似合いそうなほど、桃原さんは口を開けたまま不思議そうな表情を浮かべていた。
慰められた、というよりは呆気にとられた、と言った方が良さそうな顔だ。
無理もない、と思わず苦笑する。少し突飛すぎる言葉だったのは間違いない。
それでも、その意味まで知ってほしくて、もう少し言葉を続ける。
「昔、ある人が教えてくれたんです。
『なりたい自分、目指したい場所、叶えたい願い。何があっても諦めない、強い想いがあれば、それが自分を羽ばたかせる翼になる』って。
……私の、大好きな言葉です」
その言葉を貰った、『あの日』を思い出すように。
ベンチから腰を上げ、青空にほんの少し近づく。
「私にとって空への想いが翼になったように、きっとプリンセスへの憧れは桃原さんの翼になって、桃原さんを羽ばたかせてくれていると思います。だからこそ、私たちも出会えたはずですから」
私が空に勇気を貰って、この町に来たように。
桃原さんがプリンセスを目標にして、優しい人であったから、泣いている女の子に手を差し伸べて、私たちが出会うことができた。
それぞれの翼が、私たちをこの場所に運んでくれた。私にはそう思えたから。
「だから憧れ続けても、いいと思います。
忘れなければ、翼はいつだって私たちを羽ばたかせてくれるから。
子どもじゃなくなっても、いつまででも、持ち続けていいものだって。私はそう思います!」
大きく見開かれた桃原さんの瞳が、はにかむ私を映し出す。
涙の粒は、いつしか止まっていて。
僅かに裾の濡れたワンピースも、お日様が乾かしてくれていた。
「つばさ、かぁ」
呟きが、青空へと吸い込まれる。
私に続くようにベンチから立ち上がった桃原さん。並ぶと、やっぱり桃原さんの方が少し背が高い。
ちょっとだけ、見上げるように伺えたその表情はーー
「すごいなぁ、天知さん。……わたしの心も、空みたいに晴れちゃった」
ふにゃっと。
花が開くように優しく、月が照るように柔らかく、笑っていた。
雨が上がれば、虹がかかる。
雲が覆っても、その向こうに青空はある。
当たり前だけど、当たり前だからこそ忘れたくない。
たとえ、今は黒い雲に覆われていても。周りに希望が見えなくても。
『翼』を信じる心は前を向くことを思い出させてくれる。
そうやって、羽ばたけば。
いつかは虹に、青空に、届くことだってできるはずだから。
そうして、私と桃原さんは歩き出した。
……その、直後だった。
「ふにゃっ!?」
「わーっ! 天知さんっ!?」
青天の霹靂、とはこういうことを言うのかもしれない。
空は好きだ。これまで何度も見上げてきた。……だけど。
いきなり空からぬいぐるみが顔に目掛けて降ってきたのは、これが初めてだ。
ずんぐりとデフォルメされた、ドラゴンのようなシルエット。
それを顔から剥がした後、私と桃原さんはまったく同じ、怪訝な表情でお互いを見合わせていた。
確かに空から降ってきたけど。
誰かがイタズラで放り投げたんじゃないかとか、常識しか知らない私の脳はそんな発想しかしていなかった。
常識の外側にも、世界は広がっている。
それをあと少しで、私たちは教えられることになる。
……他でもない、このぬいぐるみから。