Stella Break   作:無間ノ海

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よろしくお願いします。


断章

 

 

 

 

 

 暗い、暗い空だった。

 

 

 焼け爛れた空が見える。

 世界を燬き飛ばす灼熱が、雲を超え、空の鮮やかな青すらも灰色に焼き焦がしていた。

 

 

 ふと―――前を見た。

 

 

 炭にすらならず、灰と化した街並みが視界に映った。

 瓦礫と、屍と、灰をごちゃ混ぜにしたナニカ。

 

 まだ脳が働いてくれていない。

 視界のソレを、己の故郷たる街だとは認識できない。

 

 

 痛みは、無かった。地獄よりもなお酷いあの苦痛は、既に身体から去っていた。

 馬鹿なことだと思う。これを引き起こしたのは、自分なのに。

 それを思えばあの代償は、神様の下さる贖罪のようなものだった。

 

 

 血と、火と、塵の匂い。

 全てを失い今にも閉じられそうな阿頼耶識が、それでも、と。

 たった三つ残った宝物。一対の蒼と、黄金と、翠を捉えた。

 

 

 くすり、と微笑む。

 眼を閉じて、力が抜ける。

 

 

 

 ――その胸には、茫洋とした太陽が瞬いていた。

 

 

 

 

 

 

 水の大惑星たる、銀河辺境に瞬く宝石。

 

 そんな稀有たる惑星・地球を彩る13の広大な大陸の一つ―――イスタニア大陸の一角に、その平穏な王国は存在していた。

 

 アドリナ王国。

 起伏の激しいイスタニアの中でも、のべ数千キロメートル級のとりわけ大きな山脈地帯の側面に位置する小国である。

 場所が場所ゆえに、山に慣れない人間がここへ訪れるならば、しっかりと装備を整えた上で高山病上等で挑まねばならない。

 それほどの高地、辺境の小国家であった。

 

 とはいえ、別に貧しい国というわけではない。

 むしろ、年中涼しい気候ながら作物もよく育つ肥沃な土地である。

 

 急峻な山々には無数の大樹が根付き、凍土の雪解け水は土層によって綺麗に磨き上げられながらも、樹々が齎す栄養をたっぷりと含んでいた。

 その水は河や湧水として、いずれ流れ着く山脈の中腹や麓の植生に、豊かな実りを約束しているのである。

 そして、それを食べて健やかに育った家畜たちは、王国に住む人たちを支える隣人にして糧であった。

 

 年中崩れることが少なく過ごしやすい気候のため、周辺の大国家の者たちも、時に日頃の社会の荒波に蝕まれた身体を癒すために、避暑を兼ねてお世話になることも少なくない有名な観光地でもあった。

 

 …………そんな山間の安穏に満ちた王国は、今。

 

 

 

「うわああああっっっ!!!!やめ、やめぇ………!!―――ごぺっ!??」

 

「逃げろ急げぇっ!!これ以上近づかれたら――ぐえっ?」

 

「お母さんっ!おがあざあああ―――ぎゃっ!!」

 

 

 

 ―――人が、建物が、大地が。

 

 弄ばれ、潰され、喰い殺される、この世の等活地獄と化していた。

 

 

 

 

 

 ――――ズ、 ズ ゥ ン ッッッ!!!!

 

 天の裁きの如し轟音。地の怒りの如し激震。

 

 アドリナの先祖たちが開拓した街が、人々の心の拠る故郷である街が、それを抱えた山ごと、まるで路上に転がる薄紙のように容易く轢き潰されていく。

 

「あああ、嗚呼ああああああああ………!!!」

 

 人々の慟哭が、虚空に響いた。

 

 何も分からなくて、何も知らないのに、ただ本能の恐怖と絶望だけが心を満たした、あまりにも虚しい叫びだった。

 

 人間はいつか死ぬ。皆いつかは死ぬ。

 それくらい、皆も分かっていた。

 

 もしかしたら寿命が来る前に、下手をすれば明日にでも悲劇に見舞われ、呆気なくその命を吹き散らされることになるかもしれないと。

 その可能性は否定できないと。

 

 知識としては知っていた。

 分かっているつもりだった。

 

 

…………でも、()()()()()。これだけはない。

 

 

 こんな儚く、まるでゴミのように潰されるなんて。

 正体すらも分からない災害に遭って、ただ死んでいくなんて。

 

 逃げることすらも出来ず、何に殺されるのかも分からず、ただただ破壊されて終わる。

 

 何かを遺すことも出来ない。誰かに託すことも出来ない。

 屈強な男も、美しい女も、寿を全うしようとした老人も、これから未来を背負う子供たちも、このアドリナの山で故郷を共にした隣人たちが、纏めて等しくここで終わる。

 

 それは、あまりにも恐ろしくて、寒々しくて、許しがたくて。

 なのにどうすることも出来ない、凄惨極まりない現実であった。

 

 

 

 街並みが、踏み砕かれる。

 石畳が、家屋が、牧舎が、建物が、砂上の楼閣の如しに砕かれ、瓦礫へと姿を変えた。

 

 その、山すらも踏み潰すであろう、巨大な四肢によって。

 

 

 

 田畑が、牧畜が、喰らわれる。

 宵闇のように先の見えない喉と、鉄塔のような長大な牙が、大地ごと人々や牧畜に至るまで容赦なく貪った。

 

 その、太陽すらも呑み込もうかというほどの、恐ろしい顎門によって。

 

 

 

 そしてそこにいた人たちは。

 ―――それほどの大禍に突如として見舞われて、一体どうして生きていられようか。

 

 

 妻子を守ろうとした勇敢な元兵士がいた。

 異変を察知した彼は、頑丈な地下室の保管庫に愛する妻と長子を逃がそうとした。

 

 そしてその家屋ごと呆気なく踏み潰され、妻子と共に仲良く、ぐしゃぐしゃの一塊の肉団子に成り果てた。

 

 家屋と共に土砂の底に埋められた彼らは、もう二度と掘り起こされることはないのだろう。

 掘り起こしたところで、それが人間の遺体であるかすらも、既に定かではあるまいが。

 

 

 旅行に来ていたお金持ちな女性がいた。

 彼女は必死で車に火を入れ、もはや交通ルールなど無視して、一目散に逃げようとした。

 

 発進直後、鉄槌のような巨脚がすぐそばの建物を潰して落着し、その衝撃波が車を横倒しに吹き飛ばした。

 竜巻など比較にもならない横殴りの暴風が車を何回も横転させ、横転させ、横転させる。

 瓦礫と共に何百メートルも転がされた車は爆発炎上と共にようやく停止し、既に頸骨を折られ息絶えていた彼女の身体を、静かに灰に帰した。

 

 

 幼い子たちに、学舎で教鞭を振るっていた教師がいた。

 非常事態を示すサイレンを、モニターに数式の板書を書いていた彼が聞いたときには、既に手遅れであった。

 

 すわ地震であろうかと、子供達を机の下に隠れさせた。

 だが、窓にふと影が差したことで、それは違うと気づいた。

 数瞬後には、校舎の立っていた地盤ごと巨大な白牙が校舎を貫き、子供達を血祭りにあげていたのだ。

 校舎を丸ごと喰らわれたのだと、気づけるわけもなかった。

 

 愛すべき生徒たちは、絶望をその眼窩に浮かべていた。

 ああ、あの子の腕が飛んで。ああ、足が折れている、そんなにも血を流してしまって。 

 ゆったりと流れる時間の中、彼は手足の先から心臓までもが凍るような無力感に苛まれながら、直後閉じた大顎に微塵に砕かれた。

 

 

 

 目の前にある全て。

 比喩抜きに、大地も、そこに根付く生き物も、建造物すらも。

 その全てを『其』は喰らった。

 

 例外はない。

 理由もない。

 

 ただそこに存在するならば、視界が認識したならば、喰らうだけなのである。

 

 そうして一歩。そしてまた一歩と、その脚は全てを圧し崩し、その顎は全てを咀嚼し平らげる。

 

 

 厳寒が鎖ざす白き山脈ですらも、今の『其』にとっては何一つと障害とはならぬ。

 次なる糧を求めて、山々の頂上に爪を掛けた。

 

 その巨大な前脚は、アドリナの属する山を強く強く握りつぶした。

 響き渡る轟音と共に土埃が舞い、遠目からも見てとれるほど膨大な噴煙が噴き上がる。

 

「おい、あれ見ろっっ!!」

 

「ひっ、ひいっ………!?」

 

 アドリナの豊かな恵みを蓄えた悠々たる山脈を、其奴は遠慮なく踏み潰して。

 そして、天を覆うほどのその威容が、山の影から現れた。

 

 

 ―――魔狼である。

 

 

 其は、空へと届くほどの途方も無い巨躯に、暴食の本能に狂った血走る目を見開いた、空前絶後の魔狼であった。

 

 果たしてその躯体は、何キロメートルに届くのだろうか。

 その膨大な自重は、文字通りの山そのものにも匹敵するであろう。

 

 蒼白の毛並みは、その毛の一本一本が大樹を思わせる長さ。

 真白い牙は唾液でてらりと光り、次に切り裂き噛み喰らう獲物を、今か今かと待ち構えている。

 

 目には、もはや一欠片の理性もない。思考などない、ただ目の前の存在を喰らうだけの、本能というプログラムに従うだけの機械じみたナニカに成り果てている。

 

 

 その姿そのものは、アドリナの者には見慣れたものだ。

 

 ルプセス。

 

 『魔獣』――魔力に満ちた環境に合わせ、淘汰圧によって急速的に進化した生物。

 

 彼らはその一つ。狼より進化した、ルプセスと呼ばれる狼の魔獣。

 彼らはアドリナのさらに奥深くの山に根付く、山脈の畏き先住民。

 アドリナの民にとっては冬の代名詞であり、怒らせてはならぬ隣人。

 

 ()()()()()()()()()()()

 あんな巨大なルプセスがいるわけがない。あんな狂ったルプセスがいるわけもない。

 

 あれはその姿をしただけの、もっと恐ろしい何かだ。

 

 あるいはその巨体に相応しい威厳があれば、音に聞こえた神狼の類であったかとさえ思えただろう。

 だが其から感じるのは、狼の誇り高さでも、強者に対する畏怖でもない。

 

 

 ただただ、異物感。

 

 

 世界に居てはならない、存在してはならないものがそこにあるような異物感。

 冒涜そのものの化身がそこにいるかの如き悍ましさ。

 死体の中で何かが蠢いているかのような生理的嫌悪。

 

 視界に入れるだけで全身が総毛立つほどの、異端への恐怖。

 

 

 それだけで、理解できる。この地に存在する全ての生物の本能が叫ぶ。

 

 あの魔狼は、禁忌そのものだ。

 

 

 ――――ルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル………!!

 

 

 

 ――――グウウウウウウウゥゥゥゥゥゥオオオオオオォォッッ!!!

 

 

 

 魔狼が、吠えた。

 

 天災に等しい、叫喚であった。

 

 計測することも出来ない肺活量から、暴風と共に飛行機のエンジンどころではない超低音が、山々の間にこだまする。

 

 否、それはもはや、横殴りの台風であった。魔狼の殺息は戦略兵器の発破にも等しい衝撃波となって全てを押し流す。

 

 咆哮の余波は、容易く人の営みも、力強く根付いた大樹も、地上にあった全てのものを薙ぎ倒した。

 

 悲鳴は上がらない。慟哭も叫ばれない。

 何もかもを吹き飛ばす暴風の中で、人の声など儚いもの。ただ、与えられる死を甘受するしか、許されてはいなかった。

 

 

 吐息が止めば、そこには何も残ってはいなかった。

 

 人も、牧畜も、草木も、建物も、山肌すらも、全部一緒くたに掻き混ぜられた瓦礫の塊へと成り果てていた。

 瓦礫からは、折れた馬の脚や、人の手が、少しだけ隙間からのぞいている。原型を留めているだけ、少しは幸運だったのだろうか。

 

 

 まだ生き残りはいる。まだ、吹き飛ばされていない区画のものたちはいる。

 科学の粋を窮めた機甲兵器。物理の不可能を乗り越える魔術武装。

 抗うための力は、まだ残っていた。

 

 だが彼らは――――彼らはもう。

 

「もう……だめだ。だめだぁ……!!」

 

「神よ………おお、神よ!私たちが何を、何をしたのでしょうっ!?」

 

「お父さん、お母さん。ごめんなさい。先に逝きます。恨まないでください。親不孝をお許しください……!」

 

 限界だ。

 人の意志は、極限の理不尽を前にいとも容易く膝を屈した。

 

 だってそうだろう?

 見ればわかるのだ。奴は逃がさない、逃がしてくれない。

 きっと全てを己の血肉にするまで、きっと止まらない。

 

 武器?兵士?力?知恵?

 あの魔狼を前にして、一体それが何の役に立つというのだ。

 

 事実、王宮の命を受けて繰り出されたアドリナの軍は、その大半をとうの昔に粉砕されていた。

 戦闘機が放ったミサイル。城壁の砲台に海上の戦艦が放つ艦砲。それが何百と直撃して、奴の歩みを止めることすらできなかったのだ。

 

 反撃すら来なかった。奴は人類文明の決死の抵抗を、認識すらしていなかったのだ。ただ通り道にあった軍の設備だけが、蟻のように踏み潰された。

 

 

 ……どうして判らなかったのだろう?

 

 あんなにデカくて強いやつに、どうして勝てると思ったのだろう?

 

 届かないはずの祈りが、誰かがポツリと零した。

 

「……誰か……助けて………!!」

 

 

 

 進行に邪魔なものを地上から掃除し終えて、血走った眼が視線を地上に走らせる。

 

 次なる獲物を、さらなる糧を。

 其の思考回路は、ただそのためだけの微弱なシナプスを膨大な筋肉に走らせる。

 

 

 其はそれ以外の思考を持たない。その在り方は、既に固定されてしまった。

 『成った』際に、共に育った親兄弟を喰らい、故郷の森を貪った時に。

 

 今、この辺りを吹き飛ばしてやった時にできた瓦礫の団子も、少しは腹の足しにはなろう。

 味は知らぬ。食えればそれで良い。

 

 そう思い、次なる一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 だからこそ、気づけなかった。

 

 空から堕ちて、音の壁を超え、太陽に紛れて飛来する影に。

 その小さな影は、強く強く、拳を握り締めて。

 

 その拳は、赫く、蒼く。

 黄に、翠に。

 虹のように、輝いていた。

 

「――――………ぉぉぉぉおっっりゃああああああっっ!!!!!!」

 

 

 ――――ドッッカアアアアアァァンンン!!!!!

 

 

 一体誰が、その光景を現実と受け止められるのだろう。

 

 国を滅ぼし、山を平らげた、山脈に等しい体躯と質量を持つ、狼の形をした災害を。

 

 ただの人間が、拳の一撃で、地に叩き伏せたなどと。

 

 

 

 

 

 

 少女は、倒れていた。

 否、もはや「斃れていた」と表現する方が良いのかもしれない。

 

 その小さな身体からは、甘い香りがしていた。

 

 菓子とは違う、甘ったるい、嫌な匂い。

 

 戦場に慣れた者なら誰もが知るであろう、しかし幼い少女は知る由もなかった―――死の香り。

 

 力が入らない。

 血が流れていないところを見つける方が難しい。

 身体は捻じ曲がり、瓦礫に半身を潰されている。それでも死ななかったのはひとえに、魔狼の歩みの衝撃波から、軍務についていた父が守ってくれたからか。

 

 …………結果としては、ただ少女の苦痛を無駄に伸ばすだけになってしまったが。

 

 

 意識が、薄れていく。

 

(………パパ、ママ……痛い、よ……たす、けて……)

 

 薄れた意識。眠たい。骨が凍ってしまいそうな冷たさ。

 

 パパ。なんで寝たままなの。眠たいの?

 

 ママ。首が曲がってるよ。大丈夫?

 

 痛い。

 冷たい。

 くさい。

 どろどろ。

 

 冷たい冷たい、そしてすごく嫌な感触が、彼女に触れる。

 黒い手が、星の底から浮かび上がる黒い手が、彼女の背に掌を這わせた。

 

(ああ、でも………)

 

 眠ってしまえば。

 この怖いけど、優しい感触に身を任せてしまえば。

 

 きっと、楽になれる。

 

 

 その甘い誘惑を、美しい声が断ち切った。

 

「まだ息がありますね………こら、まだ死神(あなた)の出番ではないでしょう?疾く立ち去りなさい。」

 

 とん、と。

 

 指が心臓に触れた。

 冷たいのに、硬くて、細い指。

 

「さあ、処置の時間です。ゆっくりと息をなさい……

大丈夫。すぐに終わりますよ。」

 

 なのに泣きたくなるほど、優しくて大きくて、あったかい指だった。

 

 

 ――――この仔を連れて行くことは、私が許しません。

 

 

 次の瞬間。

 少女の傷んだ肉体は、赤ちゃんのように新品のそれへと姿を変えた。

 

 傷はない。修復という次元ではない。

 再生。神の御業に等しき、治癒の力。

 

 黒い手が去っていく。

 湖底に沈むように、安らかに、安らかに。

 

 この子が望まないなら、仕方がない。

 そんなことを、言うように。

 

「だ………れ……」

 

 

 薄れた意識。

 その中で、細く、白魚のような指先が、安らかに頬を撫でてくれた。

 霞んだ瞳に映る漆黒の双角と、氷のように綺麗な銀の青髪。

 

「起きた時には、全て終わっています。だから今は安心して、お眠りなさい。」

 

(お……かあ……)

 

 最後に見えたのは、女神を、そして愛しい母を思わせる、優しい微笑みだった。

 

 

 

 

 

 魔狼は、絶叫を上げた。

 この姿に『成り果てて』から、初めての、明確なる苦痛であった。

 

 魔狼にとって全ては糧であった。

 

 今や自分にとって世界の全ては、喰えるものと喰えないものである。

 そして喰えないものなど存在しない、存在してはいけないはずであった。

 今の自身は、絶対の捕食者(プレデター)であったはずなのに。

 

 だからこそ、あり得ない。あり得てはいけない。

 

 たとえ僅かな痛痒に等しい傷であっても、自分が餌に反撃され、傷を負わされるなど。

 

 決してあり得てはいけないのだ。

 

 

 ほんの少し傾いだその身体を、改めてしっかりと四本の脚で地面に立てる。

 足は折れていない。驚愕こそしたが、ダメージそのものは軽微なものだ。

 

 グルルルっと唸り声が喉から漏れ、目を見開いて油断なく前を見据える。

 視界に捉え、今度こそ喰らわなくてはならない。

 自分に手傷を負わせた、不遜なる餌を。

 

 

 

 

 ――――ギュウウウウウウゥゥゥ………グルゥゥッッオオオオオオオオオオオォォォォ!!!!!!

 

 殺意満点の咆哮が、大気を、山を揺るがせる。

 

 並みの人間なら聞いただけで身体中の神経が麻痺して動かなくなるほどの殺気、憎悪。

 それが耳障り極まりない大音声と共に山間に反響する。

 

 ぎゅる、と巨大な眼球が此方を向いた。

 

 どこか無機質だったはずの眼差しは、毒のような殺意に濡れていた。完全に怒り狂ったのだろう。

 

 瞳の狂気はさらに深く渦巻き、完全に真っ赤に染まった視線は、何が何でも殺すという意思をひしひしと此方に叩きつけている。

 

 

 これまで街へ、人へ振るわれてきた『捕食』とは異なる、明確な『攻撃』の力が振るわれる。

 それまでの緩慢な動作は何だったのか。その恐ろしい巨体にそぐわぬ俊敏さで右前脚が振り上げられ…………

 

 

 ――――ド  オ ォ ン !!!

 

 

 隕石落着に等しい前脚の振り下ろしが、影を殴りつけた。

 

 ぐらぐらと地盤が波打ち、そして揺れる。

 局所的とはいえ、大地震を筋力だけで引き起こすだけのパワー。

 

 その衝撃を受け止めきれなかった地面が凹み、そして耐え切れぬとばかりに蜘蛛の巣のように罅割れた。

 

 

 だが。

 

 影は死んで――――否、居ない。

 

 

 びっ、びびっ、だんっ――――!!

 

 視界の端に映る、黒い影。

 まるで飛蚊のように飛び回る矮小な影。

 

 奴が、そうか。

 

 速い。

 一瞬のうちに崩壊した街の端から端までを駆け抜けるその速度は、もはや忘却の彼方にある故郷の森で、木々の間を飛び回り木の実をちょこまかと集めていた、矮小な栗色の小粒を思わせる。

 

 逃しはしない。

 蟻と象どころかミジンコと恐竜並のサイズ差で、なお自分を殴り飛ばした相手だ。その身に秘めたエネルギーは、想像だにできない。

 

 自分に傷をつけられる、その存在こそ腹立たしいが……それだけに、喰らった時の旨味は、果たして如何ほどか。

 きっと赤子の時分に初めて喰った、二本大角の獣にすら匹敵するであろう。

 

 喰ってやる。

 

 ――――ドン、ドズズウン…………ドオオォンンッッ!!

 

 二度、三度と狼爪を踏み下ろす。

 

 巨木と瓦礫が共に宙を舞い、地層が剥がれ雨と注ぐ。建物を一息で膾に出来るほど巨大な爪先は、地を駆けるための野性の鋭さを失っていない。

 当たれば、死ぬ。

 

 だが、当たらぬ。

 小粒の影は死なぬ。いくら砕いても、いくら切り裂こうとしても、死なぬのだ。

 その絡繰りは分かっている。

 

 速い。あまりにも。

 

 その身のこなしは何たる軽業か。地を一蹴りすれば、焦点を当てていたはずのその姿は既に遥か彼方へと移動している。

 砕け散り宙に舞う瓦礫、それすらも足場として空を舞う、重力すら感じさせぬ舞踊の術。

 

 脚を振るう。咆哮をぶつける。

 

 回避。回避。回避回避回避――――!!

 

 今の魔狼は、人間たちが撃ち込んできたよく判らぬ飛翔体――彼らがミサイルと呼ぶもの――の軌道を見抜き、迎撃の動作が取れるだけの知覚を持つ。

 それすらも容易くに凌駕するほど、複雑で、速い。

 

 

 仕留めきれない。

 喰らえない。

 

 

 なんたる………屈辱。

 

 ならば、山ごと全て喰らい尽くすのみ!!

 

 吸息と共にゴゴゴウ!と世界が揺らぎ出す。周辺一帯が気圧の急変化に耐えきれず、聞いたことのない不吉な音と共に軋みだした。

 

 ギチギチと、腿がバネのようにエネルギーを溜めていく。

 

 大口を開き。

 直後衝撃波を撒き散らし、全開に開かれた大口を向け飛びかかる!!

 

 もはや逃げ場なし。

 これでは影の速度でも回避はできない。

 地形全てを食い尽くす暴虐だ。

 

 それに。

 

「……!!」

 

 気づいたらしい。

 

 ヤツの背後には、まだ幸運にも無事な姿を残している街の一区画が残っている。

 回避すれば今度こそ山ごと全滅だ。

 

「上等だよ……絶対に通すもんか!!」

 

 それでも影は、恐怖を抱かない。

 靡くコートを翻し、拳を握り締めた。

 

 その戦士は、未だあどけない、美しい少女だった。

 

 火焔が、流水が、旋風が、雷光が。

 

 黒衣の少女、支配者と認めた者の意思を受けて荒れ狂う。

 溢れ上がるそれらは無形にして堅固な鎧となって少女の白い皮膚を駆け巡る。

 

 気を抜けば自らの身すらも焼き尽くすであろうそれらを躊躇なく全身に纏い。

 迫り来る魔狼の顎門に、果敢に立ち向かおうとして。

 

 

 灼熱が飛んでくるのを、見て。

 

 

「……もう、肝心なとこばっかり持ってくじゃん。」

 

 少女は少しだけ笑いながら、握りしめた拳をそっと収めた。

 

 

 

「―――堕ちろ……!!」

 

 

 ザンッッ!!

 

 脚が、飛んだ。

 

 ビルほどもありそうな、魔狼の巨大かつ屈強な四肢。

 それが斬られて飛んだ。骨が赤熱し血が煙を上げ、溶断されていた。

 そして。

 

 

 ――――ズドオオオオオオォオオオンンン!!

 

「!!???!!!!?!!!!????」

 

 先ほど己を殴り飛ばした……否、それ以上の威力の衝撃が、魔狼を撃ち貫いた。

 下から上へ。

 大地の噴火が一筋となったような異次元の怪力が、魔狼の山をも噛み砕く大顎を舌ごと強引に閉じさせ、その強靭極まりない頭蓋にヒビを入れた。

 

 魔狼は気づいた。

 新たな影が、そこにいた。

 同じような黒いコートを靡かせた、緋色の眼を持ったヒト。

 

 彼の握る剣と拳が、魔狼を撃ち抜き切り裂いたのだ。

 その斬痕は、赫い線。星の光。炎。

 そしてまたそうではない。

 例えるなら、太陽にも似た輝きだった。

 

 

 ヒトの攻勢は、それだけでは終わらなかった。

 

「―――逃がさねぇぞ止まりやがれッ!!」

 

「―――削いでくれよう……」

 

 どどん、どん!と、古めかしいメタリックな銃弾が横から飛来した。

 おそらく対人用であろうその小さな弾丸からは信じられぬ破壊力で、強かに魔狼の身体を打擲、あるいは貫通する。

 

 さらに、ひゅおん、と。

 

 極限の暴力を思わせるさっきの剣とは違う、いっそ美しさすら感じる真っ直ぐな剣閃が、魔狼の肉をさらに切り裂いた。

 

 ―――ごぽ、ごぽぽ。

 

 そして、何処かから溢れだす闇。

 どろりと、世界が濡れる。星が染まる。

 魔狼でさえ、身の毛がよだつような恐ろしい気配。

 それが一瞬だけ、空間を支配し。昼を夜に書き換えて。

 

 ぐちゃり。

 

 気づけば魔狼の頑強な毛皮がズタズタの血みどろに引き裂かれ。

 そして地面に叩きつけられていた。

 

 ――――ア………オオオォォォォ……!!

 

 音を立てて、今度こそ魔狼が膝を屈する。

 

 何が起きた?

 何をされたのだ?

 全く見えなかった。

 

 すでに崩壊した区画に誘導されていた魔狼が、困惑と驚愕の声と共に崩れ落ちた。

 

 軍ではない。

 市民の僅かな生き残りは、その黒いコートを纏う影が、自分たちの知る誰にも当てはまらないことに気づく。

 

 あまりにも荒唐無稽な力。

 あの魔狼に比べればあまりにも矮小であるはずの影らが持つそれは、あの何をしても止めようがなかった魔狼を容易く喰い止めてみせたのだ。

 

「だ、だれ………?」

 

「なんだ、あいつら……」

 

「あの化け物を、止めた――!?」

 

 その時、影の一人が振り返る。

 

 最初に現れた影。魔狼を殴り飛ばし翻弄したその人は振り返り、困惑する彼らに「もう大丈夫」と言うかのように、その蒼い瞳の片方をパチンと閉じてみせた。

 

 

 ざん、ざん、しゅた、っと。

 軽やかに漆黒のコートを翻したヒトの群れが、魔狼の前に集う。

 

「セッちゃんナイス!これ以上進ませたらヤバかったっ!」

 

「ふう……なんとか間に合ったか。足の腱は切ったから再生するまで動けないはずだよ。アドリナ王国ごと吹っ飛ばすことにならなくてよかった。」

 

「いや怖えなおい……だがま、これで年貢の納め時だぜ。潔く諦めなオオカミ野郎!」

 

 コートを翻した、矮小なはずのヒトは、いつの間にか。

 1、2、3………10に及ぶほどに増えていた。

 

 その全てが、常軌を逸した気配を持っていた。

 

「被災領域内の生存者の救護と処置は済ませました。救護が来るまでは持つでしょう。既に息絶えた者についてはどうにもなりませんが……」

 

「仕方のないことだ、癒師殿よ。間に合わぬばかりには、な。我らの仕事は、もはやこの哀れな大狼を葬ってやるのみだ。」

 

 その中でも、一際凄まじい気配を放つ、小さなヒト。

 彼女は前に踏み出て、淡々と言う。

 

「【捕食】の神秘災害。久しぶりの降臨だね。―――ごめんね。これ以上あなたに暴れさせるわけにはいかないの。あなたにとっては理不尽でしょうけど、ここで何が何でも鎮圧させて

……ううん、滅ぼさせてもらう。」

 

 

 『神秘災害』―――其は人類の……否、世界の敵。

 

 

 世に満ちる、物理法則で説明不可能な、されど確かに実在する不条理―――『神秘』。

 

 遥かな昔より存在する、数々の不可思議な現象。

 解明できない異常な物質。物理学に反した歪んだ時空。系統樹を外れた生命。

 

 説明どころか理屈すらつかない超常現象。この世界には、万物の中に確かにそれが存在している。

 物理と両輪にて世界を支える、もう一つの理。

 

 

 ……その狂える暴走こそが、神秘災害。

 

 安定したこの世界を無限に蝕み続ける、滅びそのもの。

 意思持つ崩壊。宙の癌にして万物と相容れぬ異界の化身。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 

 魔狼はきっと幼き狼であった。

 日々を懸命に生きる、ただの魔獣であったはずだ。

 己のため、そして同族のために獲物を屠り、喰らう野生の本能のままに生きていた。

 

 ―――故に全ての悲劇の始まりは、その『捕食の本能』が、不運にも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことなのだ。

 

 

 きっと放っておけば、彼は【捕食】を果たす。

 肉も樹も、山も川も。世界を構成する全てを喰いつくし。己の血肉とするのだろう。

 そしていずれは、この星すらもその糧とされてしまう。

 

 何処までも、そして何時までも純粋に。

 己の根核たる概念で、世界を覆う。それだけが、神秘災害の本能にして存在意義。

 神秘災害とは、そういうものなのだ。

 

 

 故に、屠らねばならぬ。

 

 星を蝕む怪物は、其すらも上回る圧倒的暴力を以て、中和し、粉砕し、浄化し。

 その因子の一欠片に至るまで殺戮しつくして………この世から消滅させなくてはならないのだ。

 

 じゃか、ががんっ!

 

 湾刀、杖、大剣、拳銃。

 凄まじいオーラを放つ得物の数々が、その矛先を魔狼に向けた。

 

 

 ――――ゴグゥゥアアアアアァァァッッーーーー!!!!

 

 

 魔狼が吠えた。

 怒り狂う。斬られた足をさらに生やす。

 辛うじての生命のふりはとっくにやめた。

 

 【捕食】を果たす、もはや其の全てはそのためだけに!

 

 

「行こうっっ!!」

 

 ――――ド ン ッッ!!!

 

 

 星を護る、殺戮の使徒ら。

 エネルギーと殺意を滾らせた彼等がコートを靡かせて、魔狼に飛び掛かる。

 

 『神秘災害の完全破壊』。それこそが彼らの絶対的使命!

 

 

 暴れ狂う神災の魔狼と、人界の怒りが生み出した怪物が、互いを滅ぼすべく激突し。

 その殺意が、赫怒が、世界が震撼させた。

 

 

 

 

 

 

 ――――これは、彼らの遺した記録。

 

 

 宙の全てを奪い尽くす、異元異常の大災害たち。

 

 かの星の敵を殺すために結成され、世界という揺籃を護り続ける秘密結社。

 

 闇に潜み災禍を祓い、抗い続ける人々の記憶。

 宙に刻まれた、人の魂という星々の瞬き。

 

 その躍動の軌跡である。

 

 

 

 

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