異世界の歌姫(ディーヴァ)    作:弾暴

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序章:喪失と早すぎた目覚め  

意識が、深い闇の中から微かに浮上する。

瞼の裏に感じたのは、鈍い光の揺らめきだった。ゆっくりと目を開くと、視界いっぱいに広がるのは、何の模様もない、ただひたすらに白い天井。埃一つない、完璧なまでに均一なその白は、まるで病院の無菌室のようで、消毒液の匂いさえ漂ってきそうな冷たさだった。それが、主人公の胸に冷たい鉛の塊を押し付けられたかのような息苦しさとなってのしかかる。見慣れたはずの自宅の寝室の天井ではない。そこには、愛する妻が選んだ淡い花柄の壁紙も、娘が背を伸ばして貼り付けた七夕飾りの跡もない。まるで医療機関の個室のような無機質で、どこかぞっとするような「白」がそこにあった。

 

「……は?」

 

喉から漏れ出た声は、ひどく甲高く、震えるようなか細さで、まるで幼い子どものものだった。耳慣れないその声に、ぞっと背筋が冷える。反射的に、その声の出どころを探るように、自身の喉元に手をやる。その指先が触れたのは、驚くほどに細く、華奢な首筋だった。

 

「な、なんだ、これ……?」

 

全身にじわりと違和感が広がる。掛け布団を蹴り飛ばすように身を起こすと、視界に飛び込んできたのは、まるで夢でも見ているかのような、幼く華奢な、少女の腕。薄いピンクのパジャマの袖から覗くその肌は、まるで作り物のように透き通るような白さで、薄い血管が青く浮かび上がっている。自分のものとは思えないほどの、か弱く、細い腕だった。肉付きのいい男性だった頃の自分の腕とは似ても似つかない。筋張った感触も、長年の仕事でついた擦り傷の痕も、日焼けの跡もない。

指先を震わせながら、自身の顔に触れる。頬は滑らかで、まるでシルクのようだ。男として生きてきた三十余年の間に、これほどつるりとした感触は記憶にない。髭のざらつきも、汗ばんだ肌の感触も、一切ない。そして、頭を覆う髪は、肩まで伸びたしなやかな感触で、さらりと指の間を滑り落ちる。その髪色も、まさに自分と同じ、見慣れたはずの漆黒だった。しかし、その髪が男性である自分の短髪ではなく、肩まで伸びた少女の髪としてそこにある事実に、悍ましいほどの違和感が襲ってきた。

 

「うそ……だろ……?」

 

混乱が、脳髄を直接揺さぶる。これは、夢か? それとも、何かの悪質なドッキリだろうか?

その時、頭の中に、鮮烈な映像が走馬灯のように駆け巡った。

愛しい妻の柔らかい笑顔。まだよちよち歩きだった、小さな娘の、鈴を転がすような無邪気な笑い声。三人で手を取り合って歩いた、あの公園の帰り道。夕焼けに染まる空の下、公園のブランコが軋む音が聞こえ、そよ風が頬を撫でた。娘のお気に入りの歌を、妻が優しくハミングしていた。娘がお気に入りのキャラクターの風船が、するりと小さな手から離れて、青い空へと吸い込まれていくのを、三人で見上げていた。他愛もない、けれど、かけがえのない、温かい日常。

次の瞬間、視界を真っ白に染め上げる眩い光と、耳をつんざくような激しいタイヤのスキール音。そして、鉄とガラスがぶつかり合う、胃の腑を掴まれるような悍ましい衝突音。

 

「っ……!」

 

全身を、記憶の中の激痛が貫いた。

刹那、彼は身体を捻り、咄嗟に妻と子の前に飛び出した。背中に叩きつけられる衝撃。視界が歪む中、かすかに妻の悲鳴が聞こえた。しかし、意識が遠のくその直前、彼は見たのだ。横転した車の破片が、妻と子の立つ場所を辛うじて避けていく光景を。そして、呆然と立ち尽くす妻が、彼に駆け寄ろうと手を伸ばす、その必死な姿を。

僕は、死んだはずだ。あの事故で、僕だけが。でも、妻と子は……あの瞬間、僕が庇ったことで、きっと無事だ。大丈夫。そのはず、だ。そう信じたい。

 

「……何が、起きてるんだ?」

 

喉から絞り出す声は、やはり、甲高い女児の声だった。目からあふれ落ちる涙が、幼い頬を熱く濡らす。こんな、自分のものではない体から、温かい雫がとめどなく溢れる。これは、現実なのか? 理解が、追いつかない。

なぜだ? なぜ、僕は生きている? そして、なぜ、こんな姿に……!

ベッドから這い降り、震える足で部屋の中を見渡す。そこにあるのは、可愛らしい花柄の壁紙、クマのぬいぐるみが置かれた小さな棚、そして、幼い子ども用の小さな机と椅子。それら一つ一つが、まるで僕の知らない世界から持ち込まれた異物のように、奇妙に浮いて見えた。僕の私物など一つもない。

小さな机の上に、手鏡が置かれているのが目に入った。震える手でそれを掴み、恐る恐る自身の顔を映す。

鏡の中にいたのは、見知らぬ少女だった。大きな瞳、透き通るような白い肌、そして、長く伸びた黒髪。確かに、僕の知る「僕」とは違う。けれど、どこか見覚えのある、不思議な既視感を感じさせる顔。それは、亡き妻の面影を宿しているような、あるいは幼い娘が成長した姿を見ているような、不思議な既視感だった。鏡の中の少女は、怯えたように大きな瞳を見開き、自分を見つめ返している。その瞳の奥には、恐怖と困惑が渦巻いていた。

 

「……僕は……誰なんだ……?」

 

ほとんど声にならない呟きが、静まり返った部屋に虚しく響いた。

部屋の隅には、小さなクローゼットが見える。おそるおそる扉を開けてみると、中には色とりどりの可愛らしい洋服が並んでいた。フリル付きのワンピース、リボン飾りのブラウス、花柄のスカート……。どれもこれも、僕の知る「服」ではない。愕然として、扉をゆっくりと閉めた。

窓の外からは、子どもたちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。真新しい公園の遊具が見えた。カラフルな滑り台、鉄棒、砂場。そこで遊ぶ子どもたちの姿は、僕がいた世界と寸分違わないように見えた。しかし、その賑やかな光景は、僕の心に深い寂寥感を募らせるだけだった。どれだけ目を凝らしても、僕の愛しい妻と娘の姿は、どこにもない。

静まり返った部屋から、廊下へと足を踏み出す。ひんやりとした床の感触が、足の裏に伝わる。廊下もまた、見覚えのない空間だった。どこか飾り気のない、けれど清潔感のある内装。壁には、見たこともない風景の絵画が飾られ、家族写真らしきものも見える。だが、そこに写っているのは、見知らぬ大人たちと、そして、この「私」の幼い姿だった。そこに「僕」の姿がないことの当然さと、同時に、この体が紛れもなく「僕」であるという、悍ましいほどの違和感が、心臓を鷲掴みにした。心臓が、ざわめく。

恐る恐る進むと、階段が見えた。手すりを握り、一歩一歩、慎重に降りていく。木製の階段は、軋む音一つ立てない。下の階からは、かすかに何かの音が聞こえてくる。人の気配だ。

階段を降り切ると、目の前に広がるのは、広々としたリビングダイニングだった。陽の光が差し込み、明るい雰囲気の空間だ。新しい家具、新しい家電。どれもこれも、僕の記憶にある「家」とは全く異なる。その明るさが、かえって僕の胸に重くのしかかった。

そして、リビングのソファに座る、見慣れない女性の背中が見えた。テレビのリモコンを手に、穏やかな表情で画面を見つめている。彼女の髪は、先ほど鏡で見た「私」の髪色と同じ、漆黒だった。

僕は、意を決して、テレビに目を向けた。画面には、見慣れた日本のニュース番組が映し出されている。東京の天気予報、経済動向、最近の芸能ニュース。全てが僕の知る日本と寸分違わない。ニュースキャスターの顔も、表示される地名も、報道される内容も、違和感が全くない。

 

「……日本……なのか?」

 

安堵にも似た、しかし依然として拭い切れない混乱の中で、小さな声が漏れた。少なくとも、全くの異世界に放り出されたわけではないらしい。

テレビから視線を離し、女性のほうを向いた。彼女は、僕が視線を向けたことに気づいたのか、ゆっくりと振り返った。柔らかな目元、優しい微笑み。その顔は、やはり全く見覚えのないものだった。

 

「……おはよう、未来。よく眠れた?」

 

女性は、どこまでも優しく、自然な声で呼びかけた。その声は、耳慣れない「未来」という名を、ごく当たり前のように発する。僕の、いや、「この体」の母親なのだろう。しかし、その優しさは、僕にとってはあまりに異質で、まるで深い水中から聞こえてくるような、遠い声だった。彼女は、全くの見知らぬ人だ。

 

「……お、おはよう……ございます……」

 

震える声で返すと、女性は少し目を見開いたが、すぐに優しく微笑み直した。

 

「あら、珍しいわね。未来がそんな丁寧な言葉遣いをするなんて。まだ、眠いのかしら?」

 

そう言って、彼女はソファから立ち上がり、僕の方へゆっくりと歩み寄ってきた。その足取りは優しく、母親らしい愛情が滲み出ている。だが、僕は一歩後ずさった。彼女の優しさが、今の僕には、まるで現実ではないかのように感じられたからだ。

 

「……だ、大丈夫。……ちょっと、頭が……ぼんやりしてて……」

 

必死に言葉を紡ぎ出す。嘘をついていることへの罪悪感と、目の前の現実への困惑が、同時に胸を締め付ける。彼女の問いに、どう答えるべきか分からなかった。自分が何者なのか、一体何が起きたのか、何も理解できないまま、ただ目の前の見知らぬ「母親」を見つめ返すことしかできなかった。

僕は、一体どこにいるんだ? そして、この「未来」という少女は、本当に僕なのか?

女性は、困惑した様子の僕に、そっと手を差し伸べた。その手は、温かく、母親としての柔らかな感触があった。しかし、その温かさは、僕が求める、愛する妻や娘の温かさとは全く違う。

 

「未来、昨日、公園のブランコから落ちて頭を打ったのよ。心配したんだからね。だから、まだ少しぼんやりしてるのね」

 

彼女は、僕の頭を優しく撫でながら、言い聞かせるように言葉を続けた。ブランコ? 公園? 昨日? 僕の記憶にあるのは、妻と娘と出かけた商業施設での事故の光景だけだ。この女性が言う「昨日」の出来事は、僕にとって全くの初耳だった。まるで、僕が体験していない「未来」の記憶が、この体に宿っているかのような……いや、それどころか、全く別の人生の記憶が、無理やり自分の中に押し込められたような感覚に襲われた。しかし、それ以上に、僕の胸を占めるのは、見慣れない環境と、この幼い体に対する困惑だった。

 

「そう……ですか……」

 

僕の声は、さらに小さくなった。彼女の言葉は、今の僕にはただの雑音にしか聞こえない。その優しい響きさえ、耳の奥で遠く反響し、偽りのように感じられた。目の前の女性は、間違いなく「未来」の母親なのだろう。だが、僕の知る「母親」ではない。彼女の優しい眼差しの中に、僕の知る母親の面影は一切なかった。

 

「さあ、朝ごはん、食べましょうか。未来の好きなパンケーキよ」

 

女性はにこやかに誘う。しかし、食欲など微塵も湧かなかった。ただ、早くこの状況から逃れたい、一刻も早く元の世界に戻りたいという焦燥感だけが、僕の胸を支配した。

 

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