「ねぇ、未来。今日、うちで映画見ない? ホラー映画、一本借りてきたんだ」
放課後、夕暮れの淡い光が差し込む廊下で、朱莉は僕の手をぎゅっと握りながら言った。ホラー映画。その言葉に、僕の背筋がひんやりとした。僕は、ああいう刺激の強いものが苦手だった。心臓が飛び出しそうになる恐怖、突然現れる化け物。想像しただけで、すでに身体が硬くなる。だけど、僕を見上げる朱莉の瞳は、まるで僕の返事を待つ子犬のように、キラキラと輝いている。その期待に満ちた笑顔を前にして、断るなんて、できるはずがない。
「ホラー…?え、あ、うん。いい、よ…?」
僕がしどろもどろに答えると、朱莉はにこっと笑って、僕の手をさらに強く握った。彼女の手のひらは、僕の冷たくなった指先とは対照的に、温かかった。
朱莉の部屋に着き、ふたりで大きなブランケットにくるまって、いざ映画が始まった。部屋の隅には間接照明がぼんやりと灯るだけで、窓の外はすでに夜の闇に包まれている。僕は、序盤から早くも後悔し始めていた。画面に映る不気味な映像と、耳障りな効果音が、まるで心臓を直接揺さぶるかのように響く。
「……っ!」
震える声と時折出そうになる悲鳴を押し殺し、なんとか平静を保とうと努めた。だけど、ブランケットの下では、指先が氷のように冷たくなっているのが自分でも分かる。心臓がバクバクと大きな音を立てているのが、隣にいる朱莉に聞こえていないか心配になる。
朱莉は、そんな僕の様子を面白そうに見て、くすくすと笑っている。
「大丈夫? 手、繋ごうか?」
わざとらしく僕の顔を覗き込む朱莉に、僕はさらに焦る。
「朱莉が怖いなら、手繋いでもいいよ…」
そう言って、精一杯の強がりを見せたその瞬間、画面の隅から、突如不気味な顔が飛び出し、甲高い絶叫が響き渡った。
「ひっ…!」
反射的に、僕は朱莉の手を掴んだ。顔は、画面とは真逆の方向を向いている。朱莉は、そんな僕の様子を見て、さらに笑い声を上げた。
「ほら、やっぱり怖がってるじゃん。相変わらず可愛いね、未来」
「か、可愛くないし! これは、その、急でびっくりしただけで…」
必死に言い訳をする僕に「そう?」と首を傾げると、「ちょっと飲み物取ってくるね」と立ち上がった。先程まであった隣の温もりが遠のいていき、途端に不安に襲われる。無意識に握っていた手に力が入る。……ふと、違和感に気づく。朱莉は飲み物を取りに席を立ち、部屋には一人しかいない。では、僕の左手は何を握っているのだろうか。ハッとして、ブランケットを恐る恐るめくり左手を見ると、そこには血まみれの右手が落ちていた。
「っっっっっっきゃー!!」
僕の口から今まで出したことのない悲鳴が漏れた。反射的に握っていた左手を振り払い、遠くへ投げる。そしてバクバクと鳴り響く心臓を押さえ、まじまじと飛んでいった右手を見ると、そこにはゴムでできたジョークグッズが落ちていた。
「ごっ、ごめん……ふふっ、そんなに驚くと思わなくてっ」
目尻に涙を浮かべながら笑って部屋に入ってきた朱莉に、僕は本気で怒った。
「朱莉っ!!」
朱莉は、完全にへそを曲げて怒る僕に「ごめんごめん」と謝りながら、ぎゅっと抱き寄せた。怒りが収まらない僕はそっぽを向いて朱莉を無視する。
「未来〜、ごめんてば〜。許してよぉ」
それでもそっぽを向く僕に、朱莉はさらに
「なんでもするから〜」
と懇願する。
僕は朱莉の顔を見ると「じゃあ……」と言って、僕の前に座らせた。僕の足の間に座った朱莉を後ろから抱きしめる。彼女の華奢な肩越しに顔を埋め、思い切り息を吸い込んだ。ふわりと漂う甘い香りに、僕の心は次第に落ち着いてきた。
「ふふっ、もう…未来、くすぐったい」
朱莉が身じろぎするが、僕はそれを許さない。朱莉の両手首を掴み、そのまま首筋に吸い付いた。
「あっ…未来…」
少し振り向いて、切なげに朱莉が言う。その潤んだ瞳に、僕の鼓動はさらに速くなる。しかし、僕は一言「駄目」と言うと、朱莉は「そんなぁ」と弱々しく声を漏らした。そのまま、二人で映画を見続けた。時折、不穏な演出が入るたびに、僕は朱莉の首筋に顔を埋めて精神を安定させた。朱莉はその度に、くすぐったさから身をよじり、息を漏らして僕を振り向こうとするが、僕はそれを無視し続けた。
映画を見終わると、僕は朱莉の拘束を解いた。自由になった朱莉は、くるりと振り返って僕の胸に飛び込み、切なげに僕の顔を見上げた。
「ねぇ、ごめんてばぁ。もうしないから…」
うるうるとした瞳で許しを請う朱莉に、僕は
「しょうがないから許してあげる」
と笑うと、そっと彼女の唇にキスをした。
朱莉は、抵抗することなくキスを受け入れると、僕の胸にすり寄ってきた。
「未来の心臓の音が聞こえる……トクン、トクンって優しい音……すごく落ち着く」
朱莉は、僕の胸の中で囁いた。彼女の甘い香りが、僕を優しく包み込む。見上げてくる朱莉の瞳が、吸い込まれるように僕を見つめた。長いまつげが、部屋の薄暗い光をきらきらと反射している。
「ふたりでいたら……きっと幽霊だって怖くないね」
朱莉がとろけるような笑顔でそう言った。僕はその通りだと思ったが、ただ一つだけ訂正したい。
「私は、別に最初から怖くない」
「ふふっ、じゃあそういうことにしておいてあげる」
ふたりの笑い声が、静かな部屋に響く。たとえ本当に幽霊が出たとしても、この温かい腕の中なら大丈夫だと、そう思えた。