異世界の歌姫(ディーヴァ)    作:弾暴

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1章:成長と性差の自覚

 

「未来、パンケーキ冷めちゃうわよ」

 

母親の声が、遠くから聞こえる。食欲は全く湧かない。温かいはずのパンケーキは、この見慣れない場所の空気のせいか、ひどく冷たく感じられた。まるで、目の前の現実を体が拒否しているかのように。窓の外には、新緑が眩しい大きなケヤキの木がそびえ、その向こうから子どもたちの笑い声だけが、僕の神経を逆撫でする。ここはどこだ? 僕は誰だ? 頭の中で、答えのない問いがぐるぐると回る。

その日から、僕こと「未来」の奇妙な二重生活が始まった。

表向きは、この世界の「未来」として、与えられた生活を送る。母親はとても優しく、時に厳しく、その手は幼い僕の髪を撫で、視線の一つ一つに偽りのない愛情が滲み出ていた。朝には「おはよう、未来」と優しく起こしてくれ、夜は絵本を読んで寝かしつけてくれた。与えられた服はどれも可愛らしいものばかりで、フリルやリボン、花柄のスカートがクローゼットを埋め尽くしていた。その度に、僕の心臓はぞわりと不快な音を立てた。それでも、彼女の期待に応えるように、僕は笑ってそれらを受け入れた。

しかし、内側では、元の世界の「彼」としての意識が常に渦巻いていた。愛する妻と娘。あの事故の光景。僕が身を挺して彼女たちを守った、最後の記憶。彼女たちは無事なはずだ。生きていてくれる。その確信だけが、この狂気の現実の中で、僕を繋ぎ止める唯一の希望だった。あの世界で、きっと僕のいない寂しさや悲しみを抱えながらも、それでも強く生きているはずだ。

 

幼い「未来」の生活は、幼稚園を中心に回っていた。慣れない環境で戸惑う僕にとって、救いとなったのは、二人の幼馴染の存在だった。

一人目は、朱莉(あかり)。真っ直ぐな薄っすら茶色の髪をショートカットにした、活発な女の子だ。大きな瞳はいつも輝いていて、少し引っ込み思案な僕の手を、いつも当たり前のように引いてくれた。彼女は、僕がブランコから落ちて頭を打った日、一番に駆け寄って心配してくれた子だという。

 

「未来、大丈夫? まだ頭痛い?」

 

透き通るような声で、朱莉はいつも僕を気遣った。僕が少し黙り込むと、何も言わずただ傍にいてくれる、そんな優しい子だった。

もう一人、優斗(ゆうと)。陽に焼けた肌に、いつも元気いっぱいの笑顔を浮かべる男の子だ。彼は朱莉とは対照的に、僕が少しでも落ち込んでいると、おもちゃやゲームで気を紛らわせようとした。

 

「未来、元気出せよ! これ、新しいカードゲームだぜ!」

 

目をキラキラさせて、興奮気味にカードを差し出す優斗。その純粋な優しさが、僕の固く閉ざされた心の扉を、少しだけ緩める気がした。

三人はいつも一緒だった。春には桜並木の下で鬼ごっこをしたり、夏には蝉の声が降り注ぐ中、幼稚園の砂場で巨大な山を作ったり、秋には公園の落ち葉を集めて焚き火ごっこをしたり。僕が男として生きてきた頃の幼少期とは全く違う。けれど、確かに温かい日々がそこにはあった。ただ、時折、彼らとの無邪気な笑い声の中に、ガラス一枚隔てたように自分だけが置き去りにされているような微かな孤独を感じることがあった。朱莉と優斗は、僕の「この世界」での最初の、そして唯一の親しい存在だった。

ただ、ふとした瞬間に、違和感が顔を出す。

幼稚園の着替えの時間。女の子たちがきゃいきゃいと楽しそうにフリル付きのブラウスやワンピースに着替える中、僕は与えられた服を、肌に張り付く異物のように感じていた。特にスカートは、僕の性自認に激しく反する。丈の短いスカートが風に煽られるたび、肌を撫でる布の感触がぞわりと不快で、下着が見えてしまうのではと冷や汗をかいた。男だった頃の感覚が、しつこく僕を支配する。

 

「未来ちゃん、このスカート可愛いよ! お花がいっぱい!」

 

朱莉が、僕の着ていた花柄のスカートを指差して笑った。純粋な称賛の言葉だ。だが、僕の胸には、形容しがたい嫌悪感が広がった。

 

「……う、うん」

 

ぎこちなく頷くのが精一杯だった。本当は、こんなスカート、すぐにでも脱ぎ捨てたかった。だが、それを口に出す術を知らない。口に出したところで、きっと誰も理解できないだろう。理解してくれるはずがない。この体の「未来」は、女の子なのだから。

男の子たちが戦隊ヒーローごっこに熱中し、汗だくで走り回る姿を見るたび、僕の心はざわついた。あの屈託のない笑顔の輪に、僕も混じりたかった。彼らと同じように、泥だらけになって遊びたいと強く願う。しかし、この女の体のせいで、その願いは決して叶わなかった。周囲の女の子たちが、おままごとや絵本の読み聞かせに興じている中で、僕はただ、その輪の外から男の子たちを眺めるしかなかった。

 

「未来、何してるの? こっちで一緒に絵本読もうよ」

 

朱莉が、僕の傍に来て優しく声をかける。僕は反射的に頷き、彼女の隣に座った。絵本のページをめくる朱莉の指先は、小さくて可愛らしい。僕自身の細い指先と、朱莉の指先を交互に見比べた。この指で、かつては力強く妻の手を握り、娘を抱きしめたはずなのに。それが今、こんなにも華奢で、意図せぬ形に変わってしまった指になっている。

この世界は、元の世界に酷似していた。日本の街並み、文化、言葉。まるで、元の世界の「模倣品」のようだ。テレビで流れる音楽やアニメ、ゲームにも、どこか違和感を感じ始めたのは、この頃からだった。僕が知っているはずのヒット曲が、歌詞が少し違ったり、メロディが微妙に改変されていたりする。人気アニメのキャラクター名が違ったり、ストーリー設定が少しずれていたりする。それはまるで、完璧に作られた偽物の中に、わずかな欠陥を見つけてしまったような不気味さを感じさせた。

 

「これ、なんか変じゃない?」

 

テレビで流れる人気アニメを見て、思わず隣にいた優斗に尋ねたことがある。

 

「え、何がだよ? いつも通りじゃん」

 

優斗は不思議そうな顔で、僕の問いに首を傾げた。朱莉もまた、何の違和感も感じていないようだった。僕だけが、この世界の「ズレ」を感じ取っていた。まるで、僕だけが、この世界の「偽物」を見抜いているかのように。

 

「……なんでもない」

 

僕はすぐに視線をそらした。誰にも言えない。この違和感を言葉にすれば、きっと変な目で見られるだけだ。

僕が失った妻と娘は、この世界のどこにも存在しない。その喪失感と、この世界の「作り物」のような違和感が、次第に僕の中で「何かおかしい」という感覚を肥大させていった。元の世界での「愛」は、僕にとって揺るぎない、絶対的なものだった。妻と娘を愛する気持ちは、僕の人生そのものだった。しかし、この世界で朱莉や優斗に抱く感情は、それとは少し違う。確かに大切な存在だ。彼らといると心が安らぐ。親愛の情がある。けれど、それは僕がかつて感じた「愛」とは、どこか種類が異なる気がした。

 

「本当の愛って、なんだろう?」

 

幼いながらも、僕の無意識の中で、その問いが芽生え始めていた。この世界で感じる感情は、本当に「愛」なのだろうか? それとも、ただの親愛の情に過ぎないのか? 僕の心の奥底で、その答えを探す旅が、静かに始まっていた。

 

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