異世界の歌姫(ディーヴァ)    作:弾暴

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3章:思春期と性差、関係性の変化、そして周囲の視線

桜並木の続く通学路を、朱莉と優斗と三人で歩く。満開の桜が風に舞い、真新しい制服のスカートが、ふわりと揺れる。中学校に入学し、僕の心は一層複雑な感情に包まれるようになった。小学生の頃とは違う、思春期特有のざわめきが、周囲の生徒たちから伝わってくる。特に、男女間の関係性が明確になることで、僕自身の性自認の葛藤は、より一層深く、僕を苛むようになった。

部活動の勧誘が賑やかな昇降口で、朱莉がはしゃいだ声を上げる。

 

「未来、何部に入る? 私、やっぱりバレー部かな!」

 

彼女の瞳は希望に満ちていた。一方、優斗は運動部の勧誘ブースを興味津々に見て回り、男子たちと楽しそうに談笑している。僕だけが、その輪の中で、どこか浮いているような感覚に陥っていた。運動神経は悪くない。だが、女子の部活動に熱中する自分を想像すると、胸の奥がぞわりと冷えるのを感じた。

結局、僕はどの部活にも入らず、帰宅部を選んだ。放課後の時間を使って、一層、音楽活動に没頭するためだった。誰にも打ち明けられない秘密を抱え、僕の居場所は、現実の世界から、少しずつ音楽の中へと移行していった。

中学生になると、外見の変化はさらに顕著になった。鏡に映る自分は、もはや幼い少女の面影をほとんど残していなかった。しなやかに伸びた手足、緩やかに膨らんだ胸、そして腰のくびれ。女性らしい曲線を描くようになった体は、僕の心を深い絶望に突き落とした。

ある日、体育の授業で水泳があった。更衣室で、クラスメートたちが楽しそうに水着に着替える中、僕は隅でひっそりと着替えた。自分の体の変化を直視するのが怖かった。胸を締め付ける水着の感触が、僕の性自認に逆らうように思え、息苦しさを覚える。

 

「未来ちゃん、スタイルいいよね! 羨ましいなー」

 

クラスメートの一人が、無邪気に声をかけてきた。その言葉は、僕にとって何よりも重い鉛のように感じられた。褒められれば褒められるほど、この体は僕のものではないという感覚が強くなる。プールサイドに立つ僕の足は、まるで他人のものであるかのように震えていた。

朱莉も、僕の体型が変化していることには気づいていたようだ。時々、僕の着替えをじっと見つめる視線を感じた。それは決して悪意のあるものではなく、むしろ心配や、あるいは憧れのような感情が混じっているように思えたが、僕にはそれが居た堪らなかった。

 

「未来、体調悪いの? 顔色悪いよ」

 

プールサイドで、朱莉が僕の隣にやってきて、心配そうに眉を下げた。僕は首を横に振った。

 

「ううん、大丈夫。ちょっと、水が冷たいだけ」

 

僕の嘘は、彼女の優しい眼差しに、ひどく突き刺さった。

優斗もまた、僕たちの間にある変化を敏感に感じ取っていたようだった。中学に入ってからは、僕が朱莉と二人で話している時に、彼がふと視線を向けることが増えた。その視線には、かつての無邪気な好奇心とは違う、どこか戸惑いや、微かな意識が混じっているように感じられた。

ある日、放課後、三人でいつものカフェに立ち寄った。窓の外では、夕焼けが茜色に空を染め上げ、通りを行き交う人々のシルエットを長く伸ばしていた。他愛もない話をしている中で、クラスで流行している恋愛ドラマの話になった。朱莉が目を輝かせながら、登場人物たちの恋の行方について熱く語る。

 

「優斗はさ、どっちのカップルがうまくいくと思う?」

 

朱莉が優斗に尋ねた。優斗は少し照れたように頬を掻き、視線を泳がせた。

 

「え、俺? うーん……そりゃ、まあ、普通は主人公とヒロイン、ってやつじゃないのか?」

 

彼の言葉は、まるで当たり前の「お約束」を口にするかのようで、僕の心に小さなさざ波を立てた。この世界は、やはり何かの法則に則っているのだろうか。そんな漠然とした疑問が、僕の頭の片隅をよぎった。

朱莉は優斗の言葉に、嬉しそうに笑った。その笑顔は、僕の心にチクリと痛みを走らせた。彼らがごく自然に、異性として互いを意識し、「物語」のような定型的な関係性を築きつつあるように見えることが、僕にはどうしようもなく苦しかった。彼らの間に流れる空気は、僕の知る「友情」とは異なり、やがて「恋」へと変化していくことを予感させた。

朱莉と優斗の関係も、中学に入ってから、少しずつ形を変えていった。昔のように無邪気に手を取り合うことは減ったが、代わりに互いを気遣い、意識するような仕草が増えた。優斗が朱莉の荷物を持ってあげたり、朱莉が優斗の悩みにそっと寄り添ったり。僕から見ても、彼らの間には、友人以上の、特別な絆が芽生え始めているように感じた。それは、僕がかつて妻と築いたような、互いを尊重し、深く理解し合う関係性へと発展していく兆しのように思えた。

 

家庭での両親との関係も、僕にとっては常に複雑だった。この世界の母親は、僕の体調や気分にいつも気を配り、温かい愛情を注いでくれた。

 

「未来、最近少し痩せたみたいだけど、何か悩みでもあるの?」

 

夕食の食卓で、母親が僕の顔色を心配そうに覗き込む。その優しい眼差しは、僕の心を揺さぶった。本当のことを話せたら、どれほど楽だろう。だが、僕の心は、決してその扉を開くことはなかった。僕が隠し続けている真実と、この世界の「未来」としての僕の乖離は、彼女の純粋な愛情を受け止めることを、より困難にしていた。

父親は、口数は少ないが、僕を気遣う優しさは常に感じられた。ある休日、リビングで一人、参考書を眺めていた僕に、父親がそっと淹れたての紅茶を差し出してきた。湯気と共にふわりと立ち上る甘い香り。

 

「どうだ、最近は。勉強、大変か?」

 

彼の低い声は、どこか安心感を覚えさせた。元の世界の父親も、多くを語らない人だった。その背中には、どこか共通する無骨ながらも確かな「男」としての温かさを感じた。だが、僕のこの体が、もはや「娘」として彼と向き合うことに、言いようのない居心地の悪さを感じていた。僕は彼にとって「娘」であり、僕はその「娘」を演じなければならない。その事実が、僕の心を静かに蝕んでいく。

 

「うん、まあ、それなりにね」

 

僕は曖昧に答え、カップを受け取った。温かい紅茶が、僕の冷え切った心を少しだけ温める。けれど、僕が本当に求めているのは、男として父と向き合い、対等な立場で語り合うことだった。その願いは、この体でいる限り、決して叶わない。

学校では、僕の存在に対する周囲の関心は高まる一方だった。美しい容姿は、僕の意思とは関係なく注目を集める。特に、男子生徒からの視線は、僕にとって重荷だった。休み時間になると、誰かが僕のクラスの入り口付近でそわそわしていたり、廊下ですれ違う時にひそひそと話す声が聞こえたりした。

 

「おい、あれ、鳴海未来だよな? やっぱり可愛いなー」

 

「話しかけに行ってみろよ」

 

「無理だって、あんな美人、俺たちには高嶺の花だよ」

 

そんな会話が耳に届くたび、僕はぞっとした。僕自身が望んでいないのに、この体が勝手に「女子」として、そして「可愛い女の子」として認識され、評価されている。そのことが、僕をより深く、僕自身の性自認という牢獄へと閉じ込めた。誰にも打ち明けられない苦しみが、僕の心を硬く覆っていった。

僕は意識的に、周囲との距離を置くようになった。休み時間も、あまり席を立たず、本を読んだり、ヘッドホンで音楽を聴いたりして過ごした。笑顔を見せることも、感情を表に出すことも、極力避けた。そうしなければ、この偽りの世界で、僕自身を保つことができなかったのだ。感情の起伏を押し殺し、無表情を装うことで、僕はかろうじて自分自身を守っていた。

そんな中で、僕が唯一、自分自身でいられる場所は、音楽の中だけだった。放課後、人目を忍んで音楽室のピアノを弾いたり、誰もいない部屋でヘッドホンをつけて歌を歌ったりした。それは、誰にも見せることのない、僕自身の魂の叫びだった。そして、元の世界の妻と子が生きている「証」を探し出す、僕自身の存在意義をかけた切実な試みでもあった。

歌うのは、元の世界で「ヒットした」曲ばかりだった。誰もが知っているはずのメロディ。僕の心に深く刻まれた、大切な記憶の断片。しかし、この世界では、その曲は存在しなかったり、あるいは歌詞やアレンジが微妙に異なる「似て非なるもの」としてしか存在していなかった。僕が歌うことで、その「ズレ」を露呈させ、元の世界を知る誰かに気づいてほしい。

最初は、ただ自身の内にある感情を吐き出すためだった。だが、ある日、僕は小さな決意を胸に、顔を隠して動画投稿サイトで歌を発信し始めた。そこには、僕の真意が伝わるように、けれど、この世界の人間には決して理解されないだろう、たった一言のメッセージを添えた。

 

『私の世界を知ってる人へ』

 

このメッセージは、僕がこの世界にいる誰かに見つけ出してほしいという、切実な願いの表れだった。それは、僕が放つ唯一の、しかし命がけの「助けを求める声」だった。僕がまだ「彼」であり、愛する妻と子が元の世界に生きているという、僕自身の存在証明でもあった。誰か、この世界の誰かが、僕の歌を聴いて、この「ズレ」に気づいてほしい。この悲痛なメッセージの真意を理解してくれる、たった一人の「真の理解者」が現れることを、僕はただひたすらに願い続けていた。

ある日の放課後、僕が音楽室でピアノを弾き終えた時だった。廊下から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 

「ねぇ、優斗。この歌、聴いてみてよ! 私、最近見つけたんだけど、すごくいいんだ!」

 

朱莉の声だ。そして、彼女のスマホから流れてきたメロディに、僕は思わず息を呑んだ。それは、僕が先日、動画投稿サイトにアップロードしたばかりの、元の世界のヒット曲だった。

 

「へぇ、これ、未来がいつも聴いてるような、ちょっと切ない感じの曲だな」

 

優斗の声が続く。彼らは、僕の歌を聴いている。僕が、顔を隠して発信している歌を。

 

「でしょ? なんか、この人の声、すごく心に響くんだよね。他にも明るい曲もあるんだけどなんか泣いてるみたいに聞こえるんだよね……って何言ってんだろうね私」

 

朱莉の声が、僕の胸を締め付けた。彼女は、僕の歌声に何かを感じ取っている。けれど、それが僕の歌だとは、夢にも思っていない。僕は、音楽室のドアの隙間から、彼らの背中をじっと見つめた。朱莉が優斗にスマホを差し出し、二人で画面を覗き込んでいる。彼らの楽しそうな笑い声が、僕の耳には、ひどく遠く、そして皮肉に響いた。それはまるで、僕だけが別の次元にいるかのような、絶望的な孤独感を伴っていた。

僕の歌が、彼らの心に届いている。それは、僕が望んだことの一つだった。けれど、その歌の真の「意味」は、彼らには届いていない。僕の孤独な叫びは、彼らにとっては、ただの「良い歌」でしかない。その事実に、僕は深い絶望を感じた。同時に、僕の歌が彼らの日常に、無自覚に溶け込んでいるという事実に、言いようのない複雑な感情が湧き上がった。

中学3年生の夏休みが明けた頃、僕たちの間で、将来の話が現実味を帯びてきた。特に、どこの高校に進むのかは、友人たちの間で大きな話題だった。

 

「ねぇ、未来、優斗! 私、翔洋高校に行きたいんだ! バレーボールが強いんだよ!」

 

朱莉が、目を輝かせながら言った。その高校は、僕たちの住む地域では、学力も部活動も両立できることで知られていた。

優斗は、朱莉の言葉に少し考え込んだ後、ニッと笑った。

 

「お、いいな! 俺も、そこの野球部に入りたいと思ってたんだ!」

 

二人の間には、すでに明確な目標と、それに向かう強い意志が見て取れた。僕は、そんな彼らの姿を、どこか遠い目で見つめていた。僕にとって、どこの高校に進むかは、正直なところ、どうでもよかった。この世界に馴染むこと自体が、僕には苦痛でしかなかったからだ。ただ、彼らと離れるのは嫌だった。この偽りの世界で、唯一僕が「未来」としていられる、数少ない時間を与えてくれる彼らと。

しかし、僕にはこの世界の知識とは別に、元の世界で培った「学力」があった。前世では理系の大学を卒業し、専門職に就いていた僕にとって、中学生レベルの勉強は、正直なところ退屈なほどだった。テストでは常に学年トップ。教師からも「鳴海はいつも完璧だね」と呆れられるほどだった。その知識は、この世界で僕が「未来」として生きていく上で、一つの武器にもなり得た。

 

「未来は、どうするんだ?」

 

優斗が、僕に視線を向けた。朱莉も、期待に満ちた瞳で僕を見つめている。

 

「……私も、同じ高校に、行こうかなって……思ってる」

 

僕の言葉に、朱莉は「やったー!」と飛び跳ね、優斗も嬉しそうに頷いた。

そこから、僕のちょっとした「先生」生活が始まった。優斗は野球漬けで、朱莉はバレーボールに夢中。二人とも真面目だったけれど、僕らが目指す高校はそれなりに学力も必要だった。

 

「未来、この数学の問題、全然わかんねぇ!」

 

夏の暑い日差しが教室に差し込む放課後、優斗が唸りながら数学のワークを僕の机に叩きつけた。朱莉も僕の隣で、英語の教科書と格闘している。

 

「ここ、因数分解でしょ? まず共通因数を括り出して……」

 

僕は淡々と解説し、朱莉の英語の長文読解も、スラッシュリーディングのコツを教えた。

 

「未来って、本当に頭いいよね! 教えるのも上手だし!」

 

朱莉が目を輝かせた。優斗も「おう、未来のおかげで、この前の模試、ちょっと点上がったぜ!」と照れくさそうに笑った。

彼らが僕の教えで理解し、成績が上がっていくのを見るのは、純粋に嬉しいことだった。同時に、僕の持つ「前世の知識」が、この世界で彼らの役に立っているという事実が、ほんの少しだけ僕の存在意義を肯定してくれるような気がした。僕の学力は、彼らとの関係を繋ぎ止める、見えない鎖の一つでもあった。

それでも、僕の心の中には、常に一抹の寂しさがあった。彼らが喜び、未来に希望を抱く姿を見るたび、僕が「偽物の未来」であること、そして、彼らの知る未来が、本当の僕ではないという事実が、胸を締め付けた。

そして、僕たちは、それぞれの努力の末、三人揃って同じ高校の合格通知を手にした。中学の卒業式を終え、慣れ親しんだ校舎を後にした僕たちは、真新しい制服に袖を通し、春の日差しを浴びながら、桜並木の続く通学路を、朱莉と優斗と三人で歩く。道端の花壇にはパンジーが咲き誇り、鳥たちのさえずりが心地よく響いていた。その光景は、まるでずっと昔から決まっていたかのように、自然なものだった。

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