予定していた時刻より少し早く、住居となっている母屋のインターホンが鳴った。
さも当たり前のようにチャランコが対応しようとするもんだがら、空気読めよとそれを押し退けて速足で玄関へ向かう。バットを担いで妹と手を握るシルエットが磨りガラス越しにぼんやりと浮かび上がっていて、それにすらドリキと心臓が高鳴った。「落ち着け!」と言い聞かせてから一呼吸おいて引き戸に手をかける。
ガラガラッと少し立て付けの悪い音をさせて開いたそこから、むせ返るような外気が入り込んでくる。むわりと顔に掛かった熱気に思わず目をしかめようとして……白いTシャツにジーンズ、お馴染みのバットが入ったケースに浴衣が入っているであろう荷物を引っ掛けて担ぐ男が目に入る。黒や赤以外を纏っている事がめずらしく、思わずその姿を凝視した。制服のシャツ姿も新鮮で良かったが、今のラフな格好も悪くない。
そして視線を落とせば、白いワンピースを着た妹が何やら手土産らしい紙袋を片手に笑顔で俺を見上げていた。その笑顔によお、と平静を装って声をかける。
「こんにちは、ガロウさん!」
「おう、よく来たな」
「……邪魔するぜ」
元気に挨拶する妹とは対照的にどこか疲労感漂う顔の金属バットが、ジトリとした視線を寄越した。なんだ?とまじまじ見つめ返せば、いつもはピシリと決まっているはずのリーゼントの前髪が少し崩れていて、その顔にはじんわりと汗が浮かんでいる。そこで、道場まで続く果てしない石段を思い出す。
なるほど?と金属バットを見下ろと「あンだよ」と凄みのある低音が返ってきた。ジトリとした視線が何だか可愛く見えて自然と口角が上がってしまい、吊られるように金属バットの眉間にも深いシワが刻まれていく。
「あの階段、素人にはキツかったか?」
「んなワケあるか! よゆーだったわ!」
「どうだかなぁ?」
「はっ倒すぞテメェ!」
「もう、ふたりともケンカしないの! ガロウさん!お兄ちゃん、わたしを抱っこして、すっごく速かったんだから!」
「ぜ、ゼンコぉ……!」
「へーへー、スゴいスゴい」
「ッ、テメェ後で覚えてろよ!」
胸ぐらでも掴んできそうな勢いにもう一度「へーへー」と返して、さっさと上がれよ、と土間へ招き入れる。
この暑さの中で息を切らす事もなく、少し汗ばむ程度で登ってくるとは。伊達にS級ヒーローを名乗ってはいないらしい。外より幾分か涼しくなったのか、金属バットが小さく息を吐いて俯いた。その顎先を伝った汗が一滴落ちていき、土間のコンクリートにシミを作ってすぐに消えてしまう。また、カラカラと脳裏で音がする。海でのシーンを思い出しそうになって、やっぱり勿体ねーなとその汗の行方に眉を寄せかけた、その時だった。
「来たか、金属バット君。そちらが妹さんかな?」
待ちきれなかったらしい人影が俺の背後からぬっと顔を出し、二人に声を掛けた。驚いたように顔を上げた金属バットと妹に、よう、とジジイが片手を挙げて笑う。つーか、気配消してんなよな。
「よお、じぃさん、こっちは妹のゼンコだ。今日は世話になるぜ」
すぐに笑顔で応えた金属バットが妹の頭を撫でられながら「ほら、ゼンコ」と促す。今まで大切そうに持っていた白い紙袋をジジイの目の前まで掲げ、こんにちは!と元気に答えた妹にジジイも目尻を下げて「はい、こんにちは」と返した。
「ゼンコです、今日はよろしくおねがします! これ、つまらないものですが!」
「おお、これはご丁寧に。ありがとう、よろしくゼンコちゃん」
デレデレと目を細めて紙袋を受け取る様子に内心、うへぇと舌を出す。とびきり可愛く着付けちゃうぜ、なんて笑顔をこぼしたジジイに、目を輝かせた妹がもう一度「よろしくお願いします!」と頭をさげた。礼儀やらを重んじているジジイの好きなタイプだ。案の定、顔を綻ばせて親指を立てて歓迎している。分かりやすいったらねーぜ。
不意に、微笑ましく二人を眺めていた金属バットが、穏やかな瞳はそのまま俺へと目線をくれた。かち合う視線の先の優しい顔にドキリと心臓が鳴る。不意打ちだろ、その顔はよ、と思ったが気を取り直して見つめ返すと、優しい中にもどこか困ったように揺れた瞳が、俺を見つめたまま溜め息をこぼす。そして今まで張り詰めていたらしい肩の力を抜くように、穏やかな声色で口を開いた。
「あれ、中身ゼリーな。冷やして食べるのが美味いんだと」
「あ? ああ、分かった」
「おう、たくさんあっから、道場のみんなで食べてくれ」
「お、おう」
さっきまでとは打って変わった和やかな雰囲気に首を傾げる。何故かコイツは少し前から、俺に対して最初は警戒心みたいなもんを向けてきて、しばらく経つとそれを解く、なんて意味の分からない行動を繰り返している気がする。今日までの関係性を思えば多少の違和感を覚える行動だ。だが、その警戒を解いてしまえば穏やかな顔を見せるようになったな、とも思う。
その行動の意図までは分からなかったが、好意的な態度は甘んじて受け入れるに限る。俺は遠慮なく、その穏やかな顔を目に焼き付けた。
さっさと俺から視線を逸らしてしまう金属バットの、すっかり汗の引いた横顔を眺めていると「あの、皆さんそろそろ中へ……」と声が掛かった。今まで廊下の奥から覗いていたらしいチャランコがおずおずと手を挙げている。
それもそうだな、と先に奥へ案内されていく客人の二人に続こうとした時、ジジイが不思議そうな顔で閉じられた引き戸を見つめて首を傾げるもんだから、どうしたよ、と声をかけた。
「ガロウよ、おまえの想い人はけっきょく連れて来なかったのか」
キョトンとした顔で見つめ返される。対して俺はさも当たり前のように、なに言ってんだ?とそのマヌケ面を見下ろした。
「居ただろ、とびきりかわいいのが」
「……んん?」
わざとらしく口角を上げて顎先で廊下の先をしゃくりながら伝えると、目をぱちくりとさせて金属バットたちが歩いていったその先に視線を向けたジジイが、何かを察したように俺を見上げる。
まさか妹の方ではあるまいな? とでも言いたげな視線に首を振って返せば、驚いた声色で「まじか」と呟いた。普段はなかなか聞けない心底驚いたような声色に気を良くした俺は、鼻を鳴らして「マジだぜ」と、したり顔でジジイを見下ろしてやった。
「ハハァ! こりゃまた、たまげたぜ」
「へへ、ざまあみろ! こないだの仕返しだ!」
「まだ根に持っておったのか……しかしそうか、金属バット君か」
何を思ったのか、どこか納得したような声色がむず痒い。色素の薄い瞳に優しい色が広がって、そして眩いものでも見るかのように目を細めたジジイが、俺をまっすぐと見据えた。
「ガロウよ、おまえさん見る目あるぜ」
パチリと軽快なウィンク付きの、どこか悪戯っ子のような声色とその言葉におもわず面食らってしまう。そして唖然とする俺にジジイが続ける。
「高嶺の花にならんよう、精進せねばのう?」
「はっ……」
言葉の意味を理解する早く、反射的にジジイを睨みつける。
「俺ぁ花より団子派なんでな!」
「ほっ、言いよるわい!」
なんだって、食い応えのあるほうが良いに決まってる。闘いも、恋愛もだ。
意味ありげに口角を上げたジジイが踵を返す。
楽しそうに揺れるムカつく背中を、一呼吸置いてから追いかけた。
「かわいいー!」
目を輝かせた妹が、着付けたばかりの浴衣を翻してくるくると回っている。その度に視界を掠める赤い帯の端っこが、ゆらゆらと水面を揺蕩う金魚のヒレのようだ。ジジイ曰く、そう見せる為の結び方だとか。
そんな妹を見た金属バットは終始「大きくなったな……!」と涙ぐみながら口を手で覆って感極まっていた。大袈裟なやつだと思わなくもないが、まあ、いつもの事かと触れないでおいてやる。
白地に紅藤色のアサガオと黒猫の模様が入った浴衣は二人で買いに行ったものらしく、妹が一目見て気に入り、即決で購入したんだとか。セット売りされていたという帯と髪飾りは落ち着いた濃いめの赤色で、アサガオを形取った髪留めが黒い髪に良く映えているように思う。いつもの気の強いお子様って雰囲気より、幾分か大人びて見えなくもない。
ふふふとニヤける口元を手で隠しながら姿見の前から動かない妹と、それをデレデレと取り囲むジジイに数名の兄弟子たち。そして何処から取り出したのか、いつの間にかデジカメを構えて写真を撮りまくる金属バットに呆れながら、今ごろ冷蔵庫で食べ頃に冷えているはずのゼリーを取りに向かおうとしたところで、ふと、淡い期待を抱いていた疑問を思い出して金属バットに「なあ、おい」と声を掛ける。
「あ? 今忙しいんだから邪魔すンじゃねーよ」
デジカメから顔を逸らす事もなく、シャッターを切りながら吐き捨てられた言葉に呆れながら「おまえは浴衣着ねーの?」と続けると、一呼吸置いて俺の言葉を理解したのか、ギギギと音が鳴りそうなほどゆっくり振り返った金属バットが一言、は? と眉間を寄せた。
「なに言ってんだ……?」
「電話したとき言ってたじゃねーか」
「はあ?」
ポカンと口を開いたまま、そして、先日の妹との一連の会話を思い出したのか、ひどくバカにしたような声で一言。
「……アレはちげぇだろ、俺は着ねーよ」
「あ、そう……」
そうか、着ないのか。ここ最近の俺が浮き足だっていた主な要因だっただけに、ただただその事実を心の中で繰り返す。いや、頭の中では分かっていた事だが、もしかしてを想像するのは惚れたもんの性ってやつだろ。
すると、いつの間にか俺の背後に回っていたジジイが哀れんだような声で「どんまい」と肩を叩くもんだから、途端に気恥ずかしくなった俺はその手を払いのけて、ゼリーの待つ冷蔵庫へとさっさと急いだ。
無事に着付けも終わり、手土産だったはずのゼリーもちゃっかり平らげた妹が満足気に廊下を進んでいく。鼻歌まじりの後ろ姿はスキップでもしそうな勢いで、せっかく着付けた浴衣を崩しちまうんじゃねーのか心配になるくらいだ。
「転ぶなよ、ゼンコ」
笑う金属バットが先に玄関を潜った。「はーい!」と手を挙げて妹が元気に返事をするその後に俺も続いた。なんでも一旦、荷物を置きに帰るのだとか。二人を見送るために俺の後ろをジジイが続く。相変わらずダラシのない顔でニコニコと二人を眺めていて気持ち悪いことこの上無かったが着付けを頼んだ手前強く言えず、無視するしか出来ない事がなんとも腹立たしい。
「ねぇガロウさん」
土間でサンダルを履く妹が見上げてくる。しゃがんで顔を寄せてやると「このあとタレオくん迎えにいくの?」と瞳をキラキラさせて笑った。
「おうよ」
「タレオくん、すっごく楽しみにしてたよ! わたしも楽しみでね、昨日あんまり寝れなかったの」
歯を見せて笑うその顔に公園で見た金属バットの、カラッとした笑顔が重なった。さすが兄妹だなと、つられて笑ってしまう。
「寝てないからって、お楽しみの最中に居眠りこくんじゃねーぞ」
「花火みるまで寝ないもーん! お兄ちゃんだって、お祭り楽しみにしてたんだから!」
「金属バットが……? 嘘だろ? 四人で祭り行くって話になったとき、舌打ちかましてきたんだぜ?」
目を丸くした俺に妹は「ガロウさん分かってないなぁ!」と笑った。そして俺の耳元に顔を寄せて、楽し気に続ける。
「お兄ちゃんはね、キライな人といっしょにあそびになんて、行かないんだよ?」
悪戯っ子のように微笑んだ妹が俺を真っ直ぐと見据えている。その言葉がいまいち理解できない。ただただ驚く俺の顔がおもしろかったのか、フフフと口元を抑えて、だからね、と続ける。
「お兄ちゃん、ガロウさんのことけっこう気にいってると思うの」
「……は?」
ガツン!と何かが頭を直撃したような衝撃が広がる。気に入っている? 金属バットが? 俺を?
あまりにも現実離れした言葉に、おもわず妹を凝視する。ニコニコと弧を描く口元がなんとなく説得力を増しているような気がして、玄関先で俺たちを見ていた金属バットに向けて勢いよく視線を向けた。
「……あ? なんだよ」
ギラリと鋭い眼光が俺を射抜く。とても気に入っている相手に向けるような瞳じゃない。というか、妹と距離の近い俺を殺しそうな勢いじゃねーか?
やっぱり信じられなくて、マジか? と妹を顧みれば、さっさとサンダルを履いて玄関を潜ろうとしていた。言いたいことだけを言って去ろうとするその腕を咄嗟に掴みかけたが、相手が小学生のお子ちゃまだってことを思い出してかろうじて留まり、なるべく優しくその名前を呼んだ。振り向いた妹が「どうしたの?」と首を傾げるが、このもどかしい感情についてどう切り出して良いか分からず言葉に詰まってしまう。
「ッ、」
「ガロウさん……?」
「いや、だから……その……」
「うん?」
「……美味いもん、たくさん食おうな」
「! うん……!」
苦し紛れの言葉に、心の底から嬉しそうに頷いたところで、痺れを切らしたらしい金属バットが「何やってんだ?」と声を上げた。その声に反応した妹がパタパタと走って玄関を潜っていく。
「行くぜ、ゼンコ」
「はーい! それじゃあとでね、ガロウさん!」
パチリと軽やかなウィンクと共に去っていく後ろ姿を見送る。手慣れたように金属バットが妹を抱えて、ひらひらと金魚の尾ヒレような帯を靡かせながら石畳を歩いていく。
此方を振り返る事なくさっさと階段を降りていく金属バットと、姿が見えなくなるまで手を振っていた妹の二人を見送る俺の横に、手を振り返していたジジイが並んだ。チラリと見上げてくる含みのある視線には気づいていたが、今はそんな事どうでも良い。
最近、どこか様子のおかしかった金属バットと、さっきの妹の言葉が頭を過ぎる。ジワジワと汗ばむ身体とは裏腹に、頭の中は妙に冷静に冴え渡っていて、まるで不可解だったいくつものピースがようやく繋ぎ合っていくような、そんな感覚だった。
階段を降りていく二人の姿が見えなくなっても尚、俺はその場から動けずにただ、カラカラと脳内で回り続けるヤツの横顔に想いを馳せるしか出来ない。ジリジリジリジリとうるさいアブラゼミの鳴声がかえって思考を鋭くしてしまっている。
「……脈はありそうか?」
ジジイが呟く。どこか心配そうな声色だったが、対する俺は何かを確信するように、頷いて返していた。
「やれるだけ、やってみるさ」
ガヤガヤと目まぐるしい人混みに、トンチンカンと何処かチープな祭囃子が遠くで鳴っている。ズラリと並んだカラフルな屋台の看板に目を輝かせたタレオとゼンコが、わあ! と声をあげた。
時刻は午後六時過ぎ。一度帰宅した二人とは改めて待ち合わせをして、タレオを迎えに行ってから合流した。昼間と変わらない姿で集合場所に現れた金属バットは、その自慢のリーゼントをピシリとセットし直している。家に帰った理由は荷物を置いてくるだけじゃなかったのか、と呆れなくも無いが……そーいう所も可愛く思ってしまうあたり、俺はコイツに、相当参っているらしかった。
「花火、八時からだってよ。おまえら何食いたい?」
会場になっている神社の、入口からズラリと並ぶ屋台の列を眺める金属バットが呟いた。可愛らしく着付けされた妹と今日はお子様用の甚兵衛を着たタレオが元気よく手を挙げながら「わたあめ!」「焼きそば!」「りんごアメも食べたい!」「や、やっぱりぼくからあげ!」なんて勢いよくリクエストをしていく。
困ったように笑う金属バットの横顔を眺めながら「俺はたこ焼き食いてーな」と挙手して一応リクエストしておく。俺には呆れたような視線を寄越しながら、子供たちのリクエストを次々聞いていく横顔は優しく、相変わらず面倒見の良い男だとその様子を眺めた。
基本的に金属バットは、子供や年寄りには優しい顔を向ける事が多い。優しいと言っても、妹に向けるそれとは比較にならないほどぶっきらぼうな振る舞いではあるが、無愛想な中にも分かりやすい優しさが見え隠れしていると思う。
タレオと初めて顔を合わせた時の、文句を垂れながらもサインをしていた横顔が思い浮かぶ。難儀で、ぶっきらぼうで、そしてそれら全てがヤツなりの優しさであり、金属バットの魅力ってやつなんだろう。
ヒーローが大好きなタレオはサインをもらったあの日から、金属バットの大ファンになっていた。子供ながらその不器用な優しさには気づいているらしく、話す時は心底嬉しそうに、だがどこか緊張した様子でいつもヤツを見上げている。
「ゼンコちゃん、甘いたべものばっかりだね」
タレオが妹に苦笑を零した。対する妹はその大きな黒い瞳を輝かせて「何言ってるのタレオくん!」と声を荒げている。
「だって、お祭りなんだよ? いつもは食べれないもの食べないと! 今日は遅くまで起きてても良いって、お兄ちゃんも言ってるし!」
「あ、そ、そっか……そうだよね! じゃあボク、チョコバナナも食べたいです!」
「はいはい! わたしも食べたーい!」
わかったわかった、とテンションの高い子供たちを宥める金属バットとそれを見上げるタレオの横顔に、頭の中で何かが冴え渡る感覚がした。チラリと妹を盗み見て、閃いたイタズラ心のようなくすぶりに口角を上げる。そんな俺の視線に気づいた妹が首を傾げて見つめ返してきて、それにはパチリと軽快なウィンクで返して、どこから回るか……と思案する金属バットに向き直った。
「だったらよ、手分けするか」
「は?」
「二手に分かれて、買うもん分担すりゃいーだろ」
俺の提案に目を丸くしながらも、提案自体は悪い話じゃなかったようで、しばらく考えた後「わかった」と頷く素直なその言葉にニヤリと笑って、妹に向き直り手を差し出した。
「よし! 行くか、ゼンコ」
「は?」
「え?」
「お、おじさん?」
三人が一斉に驚いた声をあげる。状況が理解出来ないらしい金属バットが「ハァ?!」と一層大きな声で俺に詰め寄った。ぐいっと顔を近づけられて心臓がドキドキと脈打ったが、平静を装って、ガンを垂れてくる顔を見下ろす。
「なんか不服かよ?」
「当たり前だろ! 何でそーなる!」
「ああ? たまにゃいいだろ、なあゼンコ?」
胸ぐらを掴まれながらも妹を見下ろした。目をぱちくりとさせた妹が俺と金属バットを見上げ、そして最後にタレオを振り返って、数秒考え込んだ後。
「……よろしく、ガロウさん!」
にこり、と笑って差し出した俺の手に自分のそれを重ねてくる。その手をしっかりと握り返して、そして勢いそのままに金属バットを振り返った。
「食うもの買ったらココ集合いいか? いいよな?」
「は?! だから待てって! おいガロウ!」
「タレオのこと頼んだぜ!」
「おいテメッ……! ふざけンなコラァッ!」
浴衣が崩れないようにゼンコを優しく抱き上げる。こういうのは勢いが大切だって事を俺はよぉく理解しているんだ。さっさと人混みに紛れた俺たちの背後で、喧騒に紛れた金属バットの叫びがいつまでもこだましていた。
数十分後、二手に分かれた場所に戻ると金属バットとタレオは両手に唐揚げやら焼きそばやらを抱えて、並んで佇んでいた。タレオの視線に合わせてしゃがみ込む金属バットが、すっかり気の抜けた様子で談笑している。現役S級ヒーローと話せた事がよほど嬉しいのか、大きな身振り手振りで興奮したように話すタレオに金属バットが優しい顔で頷いて、その頭をぐしゃぐしゃに撫で回していた。
その様子を見て内心でニヤリと口角を歪める。悪戯が成功したようで非常に気分が良い。
「お兄ちゃん、すごく嬉しそう!」
内心でほくそ笑む俺の隣を歩いていた妹が、少し驚いたような声を上げた。その瞳は、珍しい光景に戸惑いながらも屋台の光を反射してキラキラと輝いている。両手にりんごアメやら綿菓子やらクレープやら、とにかく甘ったるい食い物を持ち、嬉々として見上げてきた大きな瞳に「そうだな」と笑って頷いた。
「タレオくんも、楽しそう!」
「アイツ、金属バットのファンだからな」
「ふふ……お兄ちゃんはかっこいいから、仕方ないよね!」
えっへん! と妹が得意気に笑う。
「フッ……そうだな」
出来るだけ優しく、飾りが取れないようにその頭を撫でてから、和やかな雰囲気の金属バットたちの元へと急いだ。
「あ、テメェ!やっと帰ってきやがったな!」
俺と妹を視界の端で捉えた瞬間、金属バットが勢いよく立ち上がり声を荒げた。隣のタレオも釣られて「おじさん!」と叫んで俺を見上げる。タレオには手を振って返して、目くじら立てるヤツにはとびきりの笑顔で「待ったか?」と口角を歪めてやった。
「待ってねーわ! どういうつもりだテメェ!!」
「だから、たまにゃいいだろって、なあゼンコ?」
「大丈夫だったかゼンコ!?」
「もう、大丈夫だよぉ! それより見て、ガロウさんがね、りんごアメ買ってくれたの。こっちはタレオくんの分!」
「いちごアメとぶどうアメだ! ありがとうおじさん!」
「たからおじさん言うなっての! つーか、人混みすげぇな」
「無視してンなよコラァ!」
「お兄ちゃんうるさい!」
「ッ、ゼンコぉ……!」
メンチを切ってくる金属バットはとりあえず妹に任せて、辺りを見渡してみる。神社の入口付近は、最初と比べても明らかに人が増えてごった返している。それこそ、妹に嗜められて奥歯を噛み締めているコイツの、気合いの入った怒号も掻き消されるような喧騒があちこちから沸いていた。
花火が始まるまでの猶予がそうさせるのか、こぞって屋台に並んでいる家族連れやらカップルやら、はたまたヤンチャそうなガクセーや派手な着物を身に纏ったネェちゃんやら。波のように行き来するそれに関しては同意見だったのか、見事、妹に言いくるめられた金属バットが不機嫌そうに人混みを一瞥していた。どうやらイラついてる原因は、俺だけのせいじゃなさそうだ。
「さっさと食い物買っといて良かったな。どこか落ち着いて食えるところ探すか」
「……ベンチあるところは何処もいっぱいだったぜ」
「あ? なんだよ、わざわざ見てきたのか?」
「本当だよおじさん! ボクと金属バットさんで、休めるところさがしてみたんだ!」
困り顔のタレオが声をあげた。続いて舌打ちした金属バットが「食いもん買うついでに見て回っただけだ」とぶっきらぼうに言い放つ。なんだよ、思ったより仲良くやってんじゃねーか。
「花火の場所取りもどーするよ」
不機嫌そうに見上げてくる瞳に警戒するような視線は感じないが、妹を勝手に引っ張っていった事はまだ根に持っているらしい。足元のタレオがハラハラと見上げているのが分かって、安心させるようにその頭にぽんってと手を置いて、数日前から用意していた言葉を脳裏に思い浮かべた。下調べは完璧だ。
「だったらよ、ジジイおすすめの場所があるぜ」
「シルバーファングの?」
「こっから少し歩いたところに、穴場の高台があるらしい。どうする? このまま神社で立ち見してもいいが……おまえ、人混み嫌いなんだよな?」
見下ろした黒い瞳が小さく見開いて、そのまま困惑したように俺を見上げてくる。そして、無愛想にそっぽを向いて一言「覚えてたのか」と呟いた。
「当たり前だろ、忘れねーよ」
思えば金属バットへの恋心を自覚する前ではあったが、コイツに関する事を知れたって喜びは、今でと鮮明に覚えている。忘れられるワケがないだろうと真っ直ぐに見据えれば、困った表情の中でも分かりやすく頬を染めた金属バットが「あ、そう……」と再びそっぽを向いて続けた。
「……まあ、助かるわ」
「おう。こっちだ、行くぞおまえら」
両手いっぱいに食い物を抱えるタレオからそれをぶん取って、代わりに妹から受け取ったアメを持たせてやる。移動する途中でフランクフルトやらわたあめやら唐揚げやら……どんどん無くなっていくそれらを苦笑しながら眺めつつ、目的の高台に向けてゆっくりと歩みを進めた。
「おじさん、金属バットさん、すごく怒ってたよ? だいじょうぶなの?」
移動中、こそこそと耳打ちするようにタレオが俺を見上げてきた。後ろを歩く二人には聞こえないようにボリュームを下げて「大丈夫だって」とその不安気に揺れる瞳を覗き込む。
「いーんだよたまにゃ! それよか、ヒーロー様とはたくさん話せたかよ?」
「あ、うん! あのね、夏休みがおわってもあそぼうって、やくそくしてくれたよ!」
「夏休み……そうか、そろそろ学校、始まるのか……」
タレオの言葉にふむ、と考え込む。
もちろん、小学生だけじゃない。現役で高校生をやっている金属バットも例外じゃなく、あと半月もすれば新学期が始まってしまう。つまり、今までは何となく街をブラついていれば出会していた時間にヤツはもう居ない、って事だ。
タレオの言葉がぐるぐると頭の中を回りはじめて、そこで初めて俺はハッキリとした『焦り』ってやつを抱いてしまった。今までは夏特有の、夢心地であやふやだった境界線がハッキリと「これは現実だぞ」と訴えてくるようで気に入らない。
なんとく後ろ髪を引かれるような感覚がして、思わず後ろを振り返った。そこには変わらず妹と手を繋いでデレデレ鼻の下を伸ばす金属バットと、そんな兄をニコニコと見つめ返す妹が歩いていて、俺の視線に気づいて二人同時に見上げてくる。
「……あ? なんだ、どうした」
「ガロウさん?」
目力のある瞳に見上げられ、この焦燥感をどう言葉にして良いかも分からず「なんでもねぇ」とだけ返して前に向き直る。どうしようもなく、ただただ心拍数だけが上がっていって、たまらずタレオの肩を抱き寄せて顔を近づけた。
「……おい、アイツ、他には何か言ってたか?」
「え?!」
ヒソヒソと耳打ちする。すると、どこか辿々しく視線を逸らしたタレオが困ったように空を仰いで、そして何かを誤魔化すように、いちごアメを口に放り込んだ。その様子をジトリと眺める。
「……さては俺の悪口でも言ってたな?」
「んぐっ、げほ! そ、そんな事ないよ……!」
極まり悪そうに頭を掻いたタレオが涎を垂らしていちごアメを口いっぱいに頬張るのを黙って見下ろす。そして俺も待っていた唐揚げの刺さる串にかぶりついて、焦ったようにアメを食べるタレオの頭を思い切りぐしゃぐしゃに撫で回したところで、まぁ勘弁してやろうじゃねーの。
目的地の高台は、神社から十五分ほど歩いたところにある森林公園の更に奥、小高い丘へと続く道の先に存在していた。
遠くから笛の音ようなか細い音が響き渡たる。思わず視線を空へ向けると、軽快な音が鼓膜まで届いた頃には、目前の紺色の星空に色とりどりの花火が上がっていった。わっと一際大声を上げた子供たちが階段を駆け上がって行く。
タレオたちに続いて階段を登っていくと、木々に遮られていた視界が開き、登り切った先に展望台のような高台が広がった。タレオと妹が落下防止の柵まで一気に走り寄って、花火へ向かって手を伸ばして騒いでいる。
「すごーい! キレイだね、お兄ちゃん!」
「こんなに近くで花火みたの、ボクはじめてだよおじさん!」
同時に振り返った瞳は花火でも閉じ込めたんじゃねーのかってくらいキラキラと輝いて、その眩さに思わず隣の金属バットを顧みる。同じ事を思ったのかヤツも俺の顔をチラリと盗み見ていたようで、パチリと目が合った。なぜかその事が妙に可笑しくて、互いに顔を見合わせて吹き出してしまう。
「ほら、よそ見してると終わっちまうぜ」
「ちゃーんと花火見とけよ、タレオ!」
はーい! と心底嬉しそうに視線を空へ戻した二人が、柵を握りしめて魅入ったように花火を見上げている。少し離れた場所で二人を見守るように眺める金属バットの横顔が、小さな街灯と色とりどりの花火に照らされている。その表情もいいな、と思った時には無意識に「なぁ」と声をかけていた。
隣に並んだ俺を一呼吸おいて見上げてきた黒い瞳は優しさを残したままで、次々と打ち上げられる花火も相まって、綺麗だと、心から思ってしまう。あきれるほど、自分の心音がうるさい。それこそ花火なんて気にならないほど速く脈を打って、締め付けられるその感覚にはいつまでたっても慣れやしない。
「なんだよ?」
目が離せないでいた俺の視線に、金属バットが困ったように笑う。瞬間、胸をギュウッと掴まれたような切なさが込み上げた。
「いや、何つーか……」
「おう」
「今日、四人でここに来ることが出来て……良かったって、思ってよ」
ポロリと、思わず心の奥底にあった本音がこぼれてしまう。驚いたように、黒い瞳が揺れた。
「は……?」
「だから……タレオと、ゼンコと……おまえと、花火見れて良かったって、言ってんだよ」
自分でも頬が赤くなっている事が分かって、気恥ずかしい思いで胸がいっぱいになる。視線をタレオたちに向けて目を逸らしたが、コイツからの刺さるような視線がひどく痛む気がして、そわそわと肩が揺れてしまう。そんな俺をどう思ったのか、金属バットがぶっきらぼうに、そして面白くなさそうな声色で「……まぁ、俺も」と呟いた。
その言葉にギョッとして、勢いよく金属バットの顔を覗き込む。昼間の妹の言葉が頭を過って、マジか、とその顔を凝視した。タレオと妹に向けられている横顔が決まり悪そうに歪んで、まるで「見るな」と言わんばかりに口がへの字に結ばれている。その顔が、おもわず俺の本心を引き出してしまう。
「……俺はおまえに、嫌われてるもんだとばかり思ってた」
言った瞬間、しまった、と後悔する。今のは少し女々しかったかもしれない。俺の言葉に対してハッと見上げてきた瞳が大袈裟なほど揺れている。これでもかってくらい眉頭が寄って、そして小ぶりな口が何かを言いたげにうっすらと唇が開いた直後、ドーン! と一際大きな音と共に、枝垂桜を思い出させるような色合いの花火が盛大に打ち上がった。わあ! と子供たちが騒ぐ。その声に釣られた金属バットが空を見上げて、そして桜色に照らされた横顔が、絞り出すように口を開いた。
「……そんなんじゃねーよ、別に……嫌ってねぇ」
うっすらと色付く頬が花火のおかげで浮き彫りになる。照れた横顔におもわず釘付けになって、脳内の映写機がカラカラと、その横顔を逃すまいと回り続ける。花火を見て揺れる瞳には普段の鋭さは無く、その輝きを必死に目に焼き付けた。
しばらく無遠慮に見つめていると怒りすら含んだ視線とかち合って、照れ隠しにしては可愛くない睨みと共に俺を見上げてきた。
「おい、見てんじゃねーぞ」
「あ、わり……」
咄嗟に視線を逸らす。咎めるように一瞥してきた黒い瞳に反射で謝っちまったが、今のは俺が悪かったのだろうか。いや、今そんな事はどうでも良くて。
(そうか、嫌われてない……のか)
ドキドキと、さらに心臓が脈を打つ。
金属バットの照れた横顔と絞り出された言葉が脳裏から離れない。嫌いじゃないからと言って、好きだとは限らない。ましてや、俺の感情と同等などとも思わない……思わない、が。
「すごーい!」
「キレイだねー!」
何発目かも分からない花火が上がり、子供たちが「たぁまやー!」と叫んだ。それを眺める金属バットの肩が小さく揺れて、雰囲気は元の穏やかなものに戻っている。おそらく笑って二人を見守っているんだろうが、その顔を直視する事がどうしても出来ない。
その日の祭りの締め括りに一際大きな、赤い牡丹のような花火が上がった。まるで金属バットのようだと、その綺麗な赤が散っていくのをぼんやりと見送った。
高台からの帰り道。
タレオを家まで送り届けた後、分かれるまでの道のりを金属バットと共に歩いていた。疲れ果てたらしい妹がその背中ですやすやと寝息を立てている。楽しみで眠れなかったって言葉は本当らしく、タレオと別れた途端に電池が切れた玩具のように、動かなくなってしまった。そんな妹に仕方ない、と笑って背負う金属バットの事がどうしても放っておけなくて、遠回りをして二人に付き添った。
「花火、キレイだったな」
ぼそりと金属バットが呟いた。思い出すかのように目を細めて、空を見上げている。釣られて見上げた夜空には無数の星が広がって、花火を見ている時は気づかなかった輝きに目を奪われる。
「……来年も行きたいって、騒ぐだろうな」
俺の言葉に、空を見上げたままフッと息を吐く。ゼンコがまた浴衣を着たいと騒ぎ、次はタレオ君も一緒に! と騒ぐ様が容易く想像できてしまう。
「ちげぇねぇ」
金属バットの肩が小さく揺れる。釣られてフッと息を吐くと、ちらりと見上げてきた黒い瞳が悪戯っ子のように細められた。
満点の星空の下、俺たちの間に流れる雰囲気は穏やかなものだった。いつもの喧騒も、金属バットからの疑うような視線も、そして過去や現在のしがらみさえも忘れてしまったように、コイツの隣をただ、歩いている。
しばらくは無言で、時には空を見上げながら歩いた。視線を戻すフリをしてその横顔を盗み見る。背中の妹がもぞりと身じろぎして、それに愛おしそうに微笑んだ顔が好きだな、と思った。
日に日に、金属バットへの想いは大きくなるばかりだ。特に、今日は危うい。金属バットの色々な顔を知りすぎた。高台での一連からずっと、消化しきれない胸のつっかえが取れやしない。
この雰囲気にしたってそうだ。いつもと、あまりにもかけ離れ過ぎている。祭りや花火がそうさせるのか、はたまた金属バットの気紛れなのか。
花火に照らされた横顔が綺麗だった。ぶっきらぼうに言い放つひとつひとつの言葉が、胸を切なく締め付ける要因になっていく。そしてもう一つ、急かされるような焦燥感の原因を思い出してしまう。もうすぐ夏が終わるという、事実を。
「俺たち、こっちだからよ」
「あ?」
一人考え込んでいると、いつの間にか分れ道である路地に着いてしまっていた。金属バットが「じゃーな」と俺を一瞥してから踵を返し、さっさと歩き出してしまう。このままじゃダメだと分かってる。行かせちゃならねぇ。だが、だったらどうすりゃいいんだ? 俺は……俺は!
『答えなんぞとうに決まっておろう』
お節介なジジイの言葉は、俺の本心を表していた。
『お兄ちゃんはね、キライな人といっしょにあそびになんて行かないんだよ?』
にんまりと笑っていた妹のその言葉に淡い期待が膨らんで、縋るように想いを馳せた。
『……そんなんじゃねーよ……別に、嫌ってねぇ』
そして花火に照らされた横顔が、ほんのりと色付いていた頬が、普段は澄んだ黒い瞳の奥に垣間見てしまった、ヤツの様々な感情が。俺の背中を、押してしまったから。
「----ッ、金属バット!」
たまらず、叫んでいた。一瞬で駆け巡った感情が、心臓をこれでもかと締め付ける。初めてヤツへの恋心を自覚したあの時よりも、ずっと苦しいそれを耐えるようにヤツの背中を見つめた。俺の声に歩みを止めた金属バットに多少の安堵を覚えながらも、振り返らずに次の言葉を待つその背中からは何の感情も読み取ることが出来ない。
「……金属バット、」
我慢できずにもう一度、名前を呼ぶ。さっきより声が震えたかもしれない。一呼吸置いて、ジトリとした視線が振り返って、静かに心臓が跳ねる。
「聞こえてるっつーの……何だよ?」
煩わしそうに振り返った、呆れながらも困ったように揺れた瞳を見た途端、もう駄目だった。
ツカツカと大股で近づき、咄嗟に両肩を掴んで引き寄せる。反射で首をのけ反らせた金属バットが「なんだよ!」と妹を気遣った声量で叫んだ。すやすや眠る妹には悪いが、今ばかりは気にしてやれない。肩を掴む腕に力を込めて、困惑する瞳を見つめる。
「このあと、時間つくれるか」
「……は?」
目を丸くする金属バットが俺を見上げる。ゆっくりと背負っている妹を振り返ってから俺に視線を戻して、そして困惑しながらもぶっきらぼうに、呟いた。
「……ゼンコ寝かしつけた後なら」
ザァっと生暖かい風が通り過ぎる。早過ぎる鼓動で心臓が痛い。だが、もう後戻りは出来ない。
俺は覚悟を決めて、わかった、と頷いた。
つづく