そいつはある日、突然、何の前触れもなく。俺の前に現れるようになった。
ふとした瞬間に姿を現しては、何をするでもなく此方をじっと見つめてくる。音もなく、何処から現れるのかも分からねぇ。
「何なんだ、テメェは」
問いかけても首を横に振って、困ったように笑うだけだった。その仕草には見覚えがあるようにも思う。だが、そいつが誰なのかは一向に分からなかった。なんせそいつには、顔が無かったのだ。正確には口と鼻と目のような影は分かるし、髪型や体格もぼんやりとだが認識できた。だが、そいつには色が無かった。ただ黒い人影として毎回、目の前に現れやがるんだ。
「……また、か」
そして今日も、例外はなく。
白い壁に囲まれた部屋で、俺とそいつは向き合いながら立ち尽くしていた。気づけばその部屋にいて、いつの間にかそいつは目の前にいる。いつも通りだ。
「何なんだ、テメェは」
この質問も何度目だろうか。問答を繰り返す度に、俺を真っ直ぐと見つめる目のような影がスッと細められる。
「何モンなんだ」
そいつが笑う。声は聞こえなかったが、口角を上げているように見えて本能的に、笑っているんだと分かった。
「何を笑ってやがる」
首を横に振って、また笑う。目尻が少しだけ下がったのが分かって、どちらかと言えば微笑んでいるって表現のほうがしっくりきた。
まるで埒が明かない。俺は距離を縮めて、そいつの真っ黒い肩を掴んでそこで初めて、俺よりも体格の良い男なんだと気が付く。驚いたように見下ろしてきた顔に思わず、けっと吐き捨ててやった。
「毎回毎回、ムカつく野郎だな……俺よかデケェのも腹立つしよぉ」
掴んでいる肩が小刻みに揺れている。今度は声を押し殺して笑っているようだ。身長の事を揶揄われているようで、やっぱりムカつく。
「俺は成長期なんだよ、今に追い抜いてやるからな」
また、笑いやがる。今度は歯を見せて笑っているように見えて面白くない。そもそもこいつに歯なんてあるのか。
身体同様、黒い影になっている口元を凝視していると、そいつを形作っていた黒いモヤのようなものが徐々に上へと昇っていくのが分かった。次第に、霧が晴れるようにモヤが薄れていって、影のようだった顔のパーツが浮かび上がってくる。ぼんやりだったシルエットがはっきりと分かってきた頃、今までだんまりを貫いていたそいつはようやく、形の良い唇をゆっくりと動かした。
「ああ、そいつは楽しみだな」
ガロウだ。見慣れた銀髪に、金色の瞳が揶揄うように笑っている。
思わず、肩から手を離した。しかし逆に素早い動きで引いた手を掴まれて、手首ごと引き寄せられる。抱き締められたと自覚した瞬間、慣れてしまったガロウの体温が胸いっぱいに拡がって、俺は言葉に詰まってしまう。
「…………好きだ、金属バット」
俺の首筋に顔を埋めたガロウが、切なげに呟いた。
「おまえが欲しくてたまらねぇって、ずっと言いたかった」
「は……?」
覗き込まれ、迫る金色から目が離せない。これ、ヤバくないか。
そしてお互いの息遣いをやけに鮮明に意識してしまったその時、ここでいつも、気が付くんだ。
「……あ、これ、夢か」
ハッとして、勢いよく瞼を持ち上げた。
見慣れた天井に、聞き慣れたアナログ時計の秒針の音。きっと夜更けにすらなっていない静けさが、覚醒したばかりの脳内にじんわりと馴染んでいった。
ゆっくりと瞼を閉じて、深呼吸を繰り返す。自然と浅くなっていたらしい呼吸に、心音も速い気がして苛立ち紛れに舌打ちが漏れた。寝汗をかいた首元に髪が張り付いてるのもキモチ悪い。いま、何時だ。いや、それよりも。
「……また、同じ夢」
最近の俺はどうにも夢見が悪く、寝不足な毎日を送っていた。理由は見ての通りだ。つくづく、苛立ちだけが募っていく。それと同時に、妙な胸騒ぎと共に訪れるぐちゃぐちゃになった己の感情に振り回されてもいた。それと言うのも、そもそもの原因だけはハッキリとしているんだ。
全てはそう、ヤツに、告白されてからだ。
あの日。四人で夏祭りに出向いたあの日から、一週間が経った。
告白された事実と寝覚めの悪さにさえ目を瞑れば、俺たちは至って普段通りの生活を送っている。あと一週間もすりゃ夏休みも終わり、新学期にヒーロー活動にと、慌ただしい日々が戻ってくることだろう。
そんな中でも鮮明にあのふざけた告白劇を思い出しちまうのは、夏で惚けた頭がまだ覚醒しきっていないからなのか。
やけに静まり返った神社の境内で起きた、まるで夢のような出来事。それらをキレイさっぱり忘れる事が出来れば、どれほど清々しい気持ちで残りの夏休みを満喫する事が出来るのか。
「……眠れねぇ」
一人、そう呟いて息を吐いた。時刻は午後十一時時を過ぎたところで、寝入りからそれほど時間は経っていない。
明日はゼンコを連れてデパートまで買い物に行く約束だ。寝不足なんかを理由に醜態を晒すわけにはいかねぇ。しかし意識すればするほど、目が冴えて脳みその中がはっきりと覚醒してしまう。
見事に振り回されているなと、舌打ちが漏れた。確信が持てなかった以上、俺から何かを言うのもバカらしくて放っておいた結果がこれだ。ヤツへの答えなんて考える間もなく決まっているハズなのに何故、その瞬間を先延ばしてしまうのか。
(…………くそったれ)
右手に残る、うるさいくらいに激しかった心臓の鼓動と、抱きしめられたあの感覚を忘れる事が出来ない。ましてや夢にまで出てきやがって、腹立たしくて仕方ねぇ。そんな事ばかりが頭を過ってしまっていた。
(アイツは今のままじゃ、不満だったってのかよ……)
そうだ、俺は今の関係性に、何処かで満足感を抱いていたんだ。ゼンコと喧嘩をしたあの時に抱いた不信感はそのままに、ヤツが根っからの悪人じゃないと、理解していたから。だからこそ現状を壊したヤツに対して、少なからず怒りが込み上げたんだよ。自分がヤツとの関係を心地良いと思っていた事など棚に上げて「ふざけるな」と。何度も、何度も、ヤツへの怒りだけが込み上げた。
夏祭りでのヤツを思い出す。タレオの為に憎まれ役を買ってしまう不器用な優しさと、花火を眺めるふりをしてタレオとゼンコを微笑ましく見つめていた横顔が、脳裏から離れない。そして、あの告白だ。
ヤツがああした冗談を言うわけがないと分かっているからこそ、あの告白を思い出す度にズキズキと心臓が痛んだ。同情にも似た感覚が心に広がっていく。そもそも俺は、何を以ってここまで悩んでいるのか。答えはいつでも明確だったはずだろ。でも、だからこそ分かるんだ。この感情は、危険だと。
「ッ、くそ!」
俺は意を決してベッドから起き上がり、枕元にあるスマートフォンを手に取った。
真夜中を少し過ぎた頃。
家を飛び出した俺は目的の場所へと向かうべく、見慣れた住宅街を歩いていた。寝静まった街並みからずいぶんと離れたところでセミが鳴いてる。その鳴き声が夏の終わりを予感させて、どうにも苛立たしい。自然と舌打ちが漏れたが幸いにもこんな時間だ。人気などありはしない。俺は足早に、住宅街を後にした。
ガロウとの待ち合わせ場所は、いつもの公園だった。いつだったか夏祭り前に偶然ヤツと出会した、あの公園だ。数十分前、深夜にもなろうかって時間に数コールで通話に出たヤツの声色を思い出す。
「話がある」
「なんだよ?」
「今から、会えねーか」
「……わかった、いつもの公園でいいか」
「おう」
寝ていたのだろうか。少し掠れた低音を思い出してドキリと心臓が跳ねた。たったそれだけを交わして終了した俺たちのテンポの良い通話が、これから起こるであろう出来事と対照的に思えて、イヤに落ち着かなかい。深呼吸をする。覚悟は、決まったはずだ。誰に言い訳するでもなく、強いて言えば自分を戒めるように、遊具の隙間を潜り抜けていく。
いつもヤツとタレオがじゃれ合っているベンチの前に、街灯に照らされた人影がぼんやりとしたシルエットで佇んでいた。最近になって短く切り揃えられた銀髪がイヤでも目に入ってしまい、緊張からおもわず立ち止まってしまう。同時にゆっくりと、ヤツが顔をあげる。
「金属バット」
俺に気づいて片手を挙げたガロウに、何とか平静を装って「おう」とぶっきらぼうに返した。ヤツの元へ、ゆっくりと近づく。いよいよだ。
俺はガロウからの告白を断る。その覚悟だけを持って、真っ直ぐとその金色の瞳を見据えた。
「答えは決まったかよ?」
どこか自嘲じみた笑みを浮かべて口元を歪めたガロウが、俺を横目で見下ろした。なんとなくベンチに座る事はせず、お互いに前を見据えて立ち尽くしている。俺は気後れしたようにヤツの顔を直視する事が出来ず、ただ黙って前を見つめた。
言葉が出てこない。いや、口にすべき言葉は決まっているんだ。ただ、喉に引っかかる感覚がどんどん増して、ガロウの問に答える事が出来ない。とめどなく込み上がってくる焦燥感を飲み込むのに、精一杯だった。そんな俺を見透かしたように、ガロウが「なぁ」と口を開いた。
ゆっくりと、見上げる。澄ました横顔はそのまま、こちらを一瞥もせずにガロウは続ける。
「……金属バット、俺はおまえからの言葉なら何だっていいんだ」
「…………」
「おまえの言葉で、答えをくれ」
「ッ……!」
咄嗟に抱いた感情は、怒りよりも切なさだった。コイツは俺からの答えを分かった上で、こんなところにまで出向いたんだ。深夜の着信にだって文句も言わず、俺からの答えを得るためだけに。ただ、それだけの為に。
ヤツに向き直る。同じく向き直った顔は少しとぼけたような表情だったが、その瞳には分かりやすく緊張の色が浮かんでいた。
「……俺は…………俺はテメェと、どうこうなるつもりはねぇ」
ついに、言葉にしてしまった。脳内では何度も繰り返した答えのくせに、心拍数はどこまでも上がり続けているのが分かって落ち着かない。自分の気持ちを言葉にするだけだってのに、胸が張り裂けそうなほど苦しい。
告白してきたあの時のガロウも、同じだったのだろうか。真っ直ぐと俺を見下ろす顔は何処か無表情を取り繕っているようにも見えて、その顔にまた、胸が締め付けられる。
苦しい。なんだ、これ。どうして俺はここまで、こいつが悲しむ事を恐れているんだ?
「……俺が、嫌いになったか?」
不意に、ガロウが呟いた。ハッとしてその視線を受け止める。様々な感情を押し殺したような金色が、困ったように俺を見つめていた。おもわず言葉に詰まりそうになったが、震える喉を押し殺してその瞳を見つめ返した。
「あの時も言ったが、別に嫌ってねぇよ。でもおまえの中のぬるま湯に浸かっていられるほど、大人にもなりきれねぇんだ……だから、俺は……!」
ザァーー、と一際強い風が俺たちの間を通り抜けた。ガロウがゆっくりと此方を見据えて深く、細く、息を吐いていく。この言葉の真意が分からないほどヤツが愚かじゃないって事を俺は理解している。今だって何かを我慢して飲み込むように、喉仏が上下している。
「おまえらしいぜ、金属バット」
「っ……!」
「……ンな顔、してくれるなよ」
困ったように眉を寄せ、それでも口角を上げてみせる。そんなガロウに何かを言いかけて、俺は口を噤んだ。自分が何と声をかけるべきか、分からない。
「おまえの気持ちはわかった」
ガロウが一歩、近づく。次は気後れ等できるはずもなく、その場でヤツの行動を目に焼き付けた。
ゆっくりと、俺の反応を伺うように近づいて、そしてあと一歩で手が届くところまで近づかれてようやく、その顔が満足気に微笑んでいることに気づいてしまう。告白を断ると決意した瞬間から締め付けが酷くなる心臓が一際大きく跳ねてしまい、一気に己の心に確証が持てなくなる。罪悪感なんて、無かったハズなんだ。なのに、さっきから……どうしてこんなに、胸が苦しい。
不安気に見上げてしまった俺を、ガロウがゆっくりと抱きしめた。瞬間、喉の奥がギュウっと締め付けられる。込み上げる己の感情が、一体何を表しているのか分からない。じわじわと恐怖心にも似た感情が一気に心を支配して、この距離は危険だと、本能が叫んでいる。
「っ、ガロウ……!」
「わかってる!」
唸るように叫ばれて、無意識に身体が強張った。
現実では、二度目の抱擁だった。心地の良い体温が俺の身体を優しく包んでいる。夢と同じで、簡単に振り解ける力だ。しかし、どうしても体が動かない。ただされるがまま、その腕の中で固まってしまう。張り裂けそうなほどの大きな心音が耳について離れない。果たしてそれは、どちらのものなのか。
「これで、最後だ……!」
耳元で、何かを耐えるように吐き出された言葉が追い打ちをかける。拳を握り締めるが、しかしどうしてもそれ以上動けず、俺は息を詰めるしか出来なかった。
離れ難いと、本気でそう思ってしまった。だがこのぬるま湯が、どうしても自身を弱い存在にしてしまいそうで、意味の分からない焦燥感から俯いてしまう。
最後になるというこの抱擁を解くのは、きっと俺の役目だ。でも、だったら何で、この男を最後まで拒絶する事ができない。どうしてこの腕を振り解けない。自分の気持ちに、嘘はなかったはずなんだよ。
俺は無意識に、呟いていた。
「俺は、間違ってんのか……?」
ハッとしたガロウが俺の顔を覗き込んだのが分かって、反射のように俯いた。こんな情けないツラ見られてたまるかよ。
そんな俺を見て何を思ったのか、困ったように笑ったガロウがゆっくりと体を離していく。
「わりぃ……困らせたな」
「ッ、そんなんじゃねぇ……!」
「ンな顔、するなって」
「ッ、さっきから……! どんな顔してるってんだよ、クソ……!」
強い言葉とは裏腹に震えたままの声が情けなかった。とにかく顔を見られたく無くて更に俯いた俺を、ガロウはただジッと見つめてくるだけだ。何を考えているのかは分からないが、向けられる視線の鋭さが増していっているのだけは分かって、それから逃げるように唇を噛み締めて耐える。
(こんなの、知らねぇっ……!)
ぐちゃぐちゃに掻き回したくなるほど胸が苦しくて、だが、どうしたって嫌いにはなれない。コイツと出会うまで……あの日、告白されるまでは確かに、不要な感情だったんだ。
「金属バット」
「なんっ……ッ?!」
不意に、勢いよく肩を掴まれる。優しかった抱擁とは違う力強さに思わず眉を顰める。まるで逃がさないとでも言うような、怒りすら感じるその行動にガロウを見上げた瞬間、顎を鷲掴みされ、無理やり金の虹彩に視線を絡め取られる。
「な、にっ、してんだっ……!」
「言っていーんだな?」
「アア?!」
「おまえが今、どんなツラで俺を見てンのか……言っていいんだな、金属バット……!」
「ッ!!」
近づいたガロウの顔に、大袈裟なほど肩が跳ねた。脳内では夢での光景が頭を過って、反射で突き放そうとするもその腕すら捕まってしまう。
「や、めっ!」
逃げる隙なんてない。お互いの息遣いが分かる距離まで追い詰められる。熱を含んだ金色から目が離せず、ただ、スローモーションのようなその動きを目で追うことしか出来なかった。
夢だとここで、いつも目を覚ましていた。俺はこの先を知らない。知りたくなんて、無かったってのに。ばくばくとあり得ないほど心臓が跳ねて、その痛みから息が詰まって苦しい。逃げたい。俺は奥歯を噛み締めた。だが、瞳を逸らすことすら目の前の男は許してくれない。そして、次の瞬間。
「ッ---!!」
ゆっくりと、ガロウの薄い唇が触れた。目を見開き、その事実にただ、呆然と立ち尽くす事しかできない。
触れているだけのそれが何なのか。今、何をされているのか。肩を掴む腕に尚更チカラが籠り、だが一呼吸も置かずに離れていった形の良い唇から目が離せない。まとまらない思考のせいで、身体は強張るばかりだった。
そして、困惑する俺にガロウは真剣な瞳で言い放つ。
「……後悔してるって、顔だよ」
絶望にも似たその言葉は、未だに処理しきれない感情に振り回されていた俺の心にストンと入り込む。そして俺は、今この瞬間まで自身が抱いていた恐怖心にも似た感情の正体を、十分過ぎるほど理解したんだ。
(俺はコイツが、好きなんだ……)
つづく