ある日の夜。
金属バットはかれこれ数十分、携帯電話と紙切れとを交互に見比べて重々しく溜め息を吐く、という行為を幾度となく繰り返していた。
ちゃぶ台代わりのローテーブルに並んで置かれたそれらを、これでもかと睨みつけるようにして眺めている。意を決して、携帯電話のダイヤルを押そうと手を伸ばして……やはり覚悟が揺らいでしまい、それを元の位置に戻してしまう。
延々と繰り返されるその行為を妹であるゼンコはジトリとした視線でもって、見守っていた。最初こそ「がんばってお兄ちゃん!」と両手でガッツポーズを作り金属バットを応援していたが、それから時間が経つにつれ言葉は少なくなり、今ではすっかり呆れを含んだ表情でただ、成り行きを見守っている。
金属バットとゼンコ、そしてガロウとタレオの四人という不思議な組み合わせでプールを堪能したあの日から、一週間が経とうとしていた。早々に日付の目処はついていたが……連絡しろ、と言われたは良いものの、どうにも電話をかける踏ん切りがつかず、今日に至っている。
しかし、時刻は既に夕暮れ時である。今日はゼンコ特製のカレーライスを作る日だ。兄である金属バットが見守りながら、という条件付きで持つ事を許された、包丁を扱える貴重な日なのである。
壁に掛けられた時計の音が部屋に響き、それがいっそう事を急かされているようで、金属バットは冷汗を浮かべてテーブルを睨み付けている。待つ事、更に五分。じれったい!と遂にゼンコは動いた。
「お兄ちゃん!!」
思った以上に咎めるような声色になってしまい、呼ばれた本人はビクリッと大袈裟に肩を揺らした。ギギギと壊れたブリキのような動きで、目の前に仁王立ちするゼンコを見上げる。
「お兄ちゃん」
「……ハイ」
「このままだと、わたし……」
細められた黒目がギラリと光る。
「お兄ちゃんの見てないところで、お野菜切っちゃうかも……」
「……は?!」
「火だって使っちゃうし」
「!?」
「味見もしないでカレーのルウ、ぜんぶ入れちゃうかも」
「ゼ、ゼンコさん、ちょっと待って」
「まったよ!一時間も!まった!!」
「ッ……!!」
「海に行く日つたえるだけだよ?!はやくカレー作らなきゃ夜ごはんぬきになっちゃう!」
時計を指差しながら、ゼンコは続ける。
「……うじうじしてるお兄ちゃん、カッコ悪いよ!!!」
「ゼンコ?!」
「もう、いい!!」
そのまま家出でもしそうな勢いで、ゼンコはテーブルの携帯電話と紙切れを掴み、駆け出した。
言葉のナイフによるダメージを受ける金属バットは、ゼンコォ!!と胸を押さえつけながら手を伸ばし、その場に崩れていく。
キッチンへ移動して、ピコピコと番号を押していくその手をどうにか止めようと、足をもつれさせた金属バットも何とかその後へ続いた。
「わたしが電話するから!」
「待て待て待てっ!」
「だってこのままじゃタレオくんにウソついちゃうことになるよ!海にいくの、たのしみにしてたのに!」
「わかったっ分かったから!」
「何がわかったの?!」
「で、電話します!今すぐ!ここで!」
しばしの沈黙。ゼンコは涙を浮かべた瞳で兄を睨み付けている。そして、ぽち、と発信のボタンを押して、それを金属バットへと差し出した。その足元へ縋るようにしてゼンコを見上げていた金属バットが目を見開き固まってしまう。
「発信ボタン押したのか?!」
「はい、どーぞ」
「っ!!」
差し出されたそれをぎこちなく受け取り、その場で正座して見つめる。
腰に手を当てて見張る妹からの視線を受けて、意を決して耳に当てる。しばらくして、電子音特有のくぐもったコール音が鳴った。
「……もしもし、」
聞き慣れない機械越しの低音に、ほんとに出やがった!と金属バットは焦ったようにゼンコを見上げた。ジトリとした視線で以て、お兄ちゃん、と促され、渋々、本当に渋々「お、俺だ」とだけ返す。
「金属バットか?やっと掛けてきやがったかテメェ!」
「るせぇ!あ、いや、そうじゃなくて……う、海の事だけどよ……」
いつもの調子で言い返そうとして、目の前からの鋭い視線についつい語尾が萎んでいく。
「おう、予定は」
「…来週の火曜はどうだ」
「火曜……ああ、大丈夫だ。タレオには俺から伝えとく」
「ああ、分かった……」
「そういやおまえらって、毎年どこの海いってんだ?」
「あ?別に……テキトーだよ」
「なんだそりゃ。どこでもいいのかよ?」
「……人混みは好かねぇ。あとゼンコが貝殻拾うから、砂浜がいいってくらい」
「へえ? だったら場所は俺に任せろよ。アテがある」
「アテ?」
「おう」
「……まぁ、わかった」
それから何度か言葉のラリーを交わし、通話は終了した。耳元で鳴るツーツーという音を確認して、金属バットはハァー!と大きく息を吐いた。
そんな彼に駆け寄り、どうだった?!と先ほどまでの態度とは打って変わって、ゼンコは目を輝かせている。
「……行き先は任せろだってよ」
「なにそれ!すっごくたのしみ!」
「ああ、まぁ、よかったな」
「お兄ちゃん、ちゃんとガロウさんと話せてたじゃない!えらーい!」
「えっ、ああ……」
「お兄ちゃんガロウさんのことべつにキライじゃないんだから、もっと素直になればいいのに!」
「ああ、うん……は?」
「やっとカレーつくれる!お兄ちゃん、はやく手あらってきてね!」
「ゼ、ゼンコさん?いま何て?」
知らなーい!と可愛らしく笑って、ゼンコは自分のエプロンを取りに部屋へと戻ってしまう。そんな愛しの妹に、金属バットは唖然として叫んだ。
「別にそんなんじゃねーからな?!」
今からカレー作る気になんてなれるかよ、と。金属バットは項垂れながらも、キッチンへ向かうしか出来ないのだった。
おわり