ザザーン、ザザーンと、穏やかなうねりが足元まで迫る。
白い砂浜に、これでもかと晴れ渡った青空。その眩さにおもわず目元を顰める。隣に立つ男へ視線を向ければ、既に自前らしきサングラスを装着済みで、腕組みして砂浜を見渡していた。
用意周到かよ、と呆れてみるが毎年来ていると言っていただけはあるのか。隣の妹までも『お子様用のサングラスに浮き輪』なんてシュールな姿で、兄妹揃って同じ格好で海を見据えている。ギンギラ照りつける太陽をチラリ見て、俺もサングラス持ってくりゃ良かったぜと少し後悔した。
だが目の前に広がる、キラキラと輝く水面を初めて目の当たりにした子供にはそんなこと関係なかったようで。
「う、うみだー!」
そう叫んだタレオは太陽を反射した水面と同じくらいに瞳を輝かせて、俺と金属バットを振り返る。そして心底、嬉しそうに「連れてきてくれてありがとう!」と笑った。ここまで喜ばれちゃあこっちとしても、この日の選択を後悔する事は無いはずだ。たぶんな。
早朝から電車に揺られること小一時間。ジジイに聞いた穴場だという海水浴場には、地元民らしき人影がちらほらと見えるだけだった。こりゃ確かに穴場だわ、と降り立った砂浜を見渡せば少し離れた場所に売店のようなものも見える。風になびくノボリには『海の家』という文字が見えて、店の軒先には氷菓子って文字も確認できる。とりあえず、駅から歩いて来る途中にあったコンビニまで、カキ氷を買いに走る心配は無さそうで一安心だ。
「まずは準備体操だよ、タレオくん!」
「あ、そ、そっか!」
いっちにぃ!と元気に腕を振って体操する二人の後ろで、金属バットは手際よくシートを拡げていく。四隅に重しとして置かれていく荷物が何ともコイツらしいなと思った。
しつこいくらいに照りつける太陽に目を萎めて、手で影を作り子供たちを確認すると次は腰を捻って熱心に体操中だ。思わず「楽しそうで何よりだ」と呟く。すると、ガチャガチャとレンタルしたパラソルをいじっていた金属バットがふと此方を見上げてきて、サングラス越しに目が合う。そして数秒の間が空いたと思えば、何が気に食わなかったのか小さく舌打ちを零しながら「おうコラ手伝え」と吐き捨てやがった。何だその態度はコラ。
「素直に手伝ってくださいガロウさんって言えねーのか、テメェは」
「うるせぇ!さっさとそれ持て!」
「へーへー」
言われ、足元に転がるパラソルの傘の部分を持ち上げる。それを開こうとすると「ちげぇ」と下から制止の声が上がった。
「あン?」
「先に開くと、設置してる途中で風に煽られたりすンだよ。閉じながら付けるんだ」
「ああ、なるほど」
「俺がポール支えてっから」
言われた通りに差し込んでいくと、カチャリ、金具同士の合わさる音が鳴った。接続部分が固定されている事を確認した金属バットがよし、と立ち上がる。そして少し掠れた低い声でひどく不機嫌そうに「……助かったわ」と呟く。遅れて脳内に届いた感謝の言葉にギョッとした俺も立ち上がり、おもわずその横顔を見下ろした。
「オイおまえ今っ」
「お兄ちゃん!もう海はいっていーい?」
「体操おわりましたー!」
俺に感謝したかっ?と続けようとしたところで、波打ち際で手を振るタレオたちが声をあげた。浮き輪片手に、目を輝かせている。
まるで俺の言わんとしていた事を察したように顔を顰めた金属バットは、またも舌打ち混じりに俺を睨み上げてきた。照れ隠しにしては気合いが入りすぎていて、自然と乾いた笑いが漏れる。
「お兄ちゃーん!」
「おじさんも!はやくー!」
キラキラと反射する海面に目が眩みそうになる。今行く!とサングラスを取った金属バットは、それをそのまま、俺に投げて寄越した。あン?とヤツを見据える。
「使えよ、眩しーんだろ」
「お、おお……」
慣れない事をしているという自覚はあるようで、相変わらず睨みつけるような視線だったが。
「……ハハ、らしくねぇなぁ」
「うるせぇ!ほら、いくぞ!」
サングラスを取った事により晒された目元が若干色づいていた事を、俺は見逃さないぜ、金属バット。
それからは、四人で余す事なく海を堪能した。
足元を泳ぐ魚がくっきりと見えるほど澄んだ海水に、タレオは終始、大きなリアクションで喜んでいた。おそるおそる舐めてみた海水のしょっぱさに感動したり、小さなカニを見つけて興奮した様子で俺に報告してきたり。浮き輪の紐をしっかり手首に巻きつけて深いところまで泳いでやると、足つかないよおじさん!としがみ付いてくる。怯えた顔に、男だろ根性みせろ!あとおじさんはやめろ!なんて返して、いつもの調子で揶揄ってやった。
一方、妹の方はと言うと、浅瀬のほうで浮き輪に寝そべるような形で波に揺られ、ちゃぷちゃぷと海面を漂っている。それの側で日傘片手に佇む金属バットはさながら、どこぞのお嬢様に仕えるガラの悪いボディーガードのようで思わずブハッと吹き出してしまった。太陽に反射する妹の顔に掛けられたお子様用のサングラスがキラリと光って、何ともシュールな光景を作り出している。あれはアレで、楽しんでいるようだ。
「ゼンコちゃん!おっきい魚いたよ!おじさんが捕まえてくれた!」
「ガロウさんすっごーい!お兄ちゃんもできる?!」
「え? あ、当たり前だろ……」
「無理すンなよ、お兄ちゃん」
「言ったなテメェ!勝負すっかコラァ!」
人気の少ないビーチでは気兼ねなく騒げる。ギャイギャイわーわーと金属バットとじゃれ合いながら、この時ばかりばかりは穴場の海水浴場を紹介してくれたジジイに感謝した。さすが、年の功だ。
次は砂場で遊びたいと言うタレオたちに付き合って、パラソルの近くで一休みする。城を作ると息巻く二人を眺めながら、隣に座った金属バットと共に瓶のラムネを煽った。
水分補給にと覗いた海の家には、定番のジュースやお茶の他に瓶入りのサイダーとコーラが並んでいた。そしてカキ氷のラインナップはイチゴ、レモン、ブルーハワイと、カラフルな紙に書かれたメニュー表が置かれている。心底嬉しそうに、店主からピンク色のカキ氷を受け取っていたタレオの笑顔を思い出して、自然と口元は綻んでいった。
それと同時に隣から、おお、と感心したような声があがる。視線の先では、妹が絶妙なバランスで高層ビルのような砂の城を建てようとしている。どんどん砂を積み重ねていく横で、タレオは必死に土台を大きくしようとあたふたしていた。大丈夫なのかあれは。
「ハハ、すげぇ大作」
金属バットが笑顔で呟いた。カランッと瓶に入っているビー玉を小気味よく鳴らして、飲み終わったらしいソレを側に置く一連の動作を盗み見る。「お兄ちゃん、みてー!」と騒ぐ妹に手を振り返す横顔は、随分と穏やかなもんだ。
休憩がてらに着込んでいた赤いアロハシャツが風に煽られて、襟元がパタパタとはためいている。そこから覗く普段は隠された部分の肌色が妙に目に付いて、そんな自分に何故か居た堪れなくなる。どうやら俺は、穏やかな雰囲気を纏うコイツを見ていると無性に、心が浮き足だってしまうらしい。
俺は多分、時折り垣間見えるコイツの『隙』のようなものに弱い。
ふとした時の笑顔や穏やかな声色だけじゃなく、ヒーロースーツとして愛用しているお馴染みの学ランを脱いだ時の金属バットに、めっぽう弱いんだ。スーパーでの制服然り、今日のアロハシャツ然り。俺の脳内では古びた映写機がカラカラと音を立てるみたいに、それらの光景が延々と繰り返されていた。
今だってそうだ。少し崩れた前髪も相まって、優しい色に染まる横顔が目に付いて離れない。俺には絶対に向けられない表情と仕草に、胸がいっぱいになる。
ジっと見つめる先、金属バットのこめかみから伝った汗が案外、綺麗な顎のラインを滑るようにして落ちていく。ぽたり、と赤いアロハシャツにシミを作って蒸発するように消えていったと同時に、心臓を侵食するようなざわめきが押し寄せた。この胸の苦しさは、きっとラムネの炭酸のせいだけじゃない。俺はそれを心の何処かで、理解していたんだ。
ふいに金属バットの纏う穏やかな空気が動いて、ジトリとした視線を俺に寄越した。どこか咎めるような瞳に肩が跳ねてしまう。
「……なにガンくれてンだよ」
まるでイタズラっ子を嗜めるような口調と、今までは決して俺に向けられる事の無かった穏やかな笑顔で笑いかけられる。大きく跳ねた己の心音が大きくなるにつれ、俺は唖然として、サングラス越しに金属バットを見つめ返すしか出来ない。それと同時に、俺の中で何処までも不確かだった感情がどんどん溢れ返る感覚がした。
(なんだ、今の……)
コレはきっと間違いだと大声で否定したい気持ちがある反面、認めざるを得ない『答え』が明確になっていく。思い返せば最初から、俺は金属バットに対して心のどこかで「こっちを見ろよ」と求めていたような気もする。顰めっ面と煽り言葉でしか対面出来なかった俺たちの間にはこの時、初めて顔見知り程度だった関係性を超えた気がしたんだ。
その事が嬉しいような、寂しいような。求めていたはずなのに、心の片隅では焦燥感が募っていく。己の抱く感情が、一体なにを示しているのか。
(なんだコレ……心臓が、いてぇ)
そうしてあまり良くはない頭の中がごちゃごちゃと空回り始めた次の瞬間、青空にこだました「ああー!」というタレオの叫び声にハッとして、砂場に視線を向ける。
「だ、ダメだよゼンコちゃん!それじゃくずれちゃう!」
「やってみなきゃ分かんないよ!あっ」
目線の先ではさっきまで順調だった高層ビルのような城が半壊しようとしていて、隣からもあーあーと残念そうな声が漏れていた。カラッとした青空にタレオの慌てた声はよく響いて、そんな中でも、俺の脳内の片隅ではさっきの金属バットの笑顔がカラカラと回り続けている。自分でも理解が追いつかない感情だったが、まあ、今はいいか。悔しがる二人に向けて苦笑を浮かべながら立ち上がる気配に、俺も慌てて続いた。
「あと少しだったのにー!」
「ゼンコちゃん、もっかいやろ!もっかい!」
「オメェら、そろそろ昼メシの時間だぜ」
「はぁーい」
「ぼく、ラーメン食べたい!」
はいはい!と挙手したタレオに、金属バットは「おうよ」と快く頷いた。
昼メシに食べたラーメン屋は地元の人ぞ知る名店ってやつで、海鮮系で取ったダシがどうたら、とうんちくを披露するジジイに紹介された店だった。ラーメンと餃子を綺麗に平らげた後、まだまだ遊び足りないと言う二人に付き合った砂浜での高層ビル建築は、俺と金属バットも巻き込んで圧巻の出来栄えだった。意外と凝り性なのか、几帳面に砂を整えていく金属バットの姿はなんとなく年相応に見えて、そんなヤツに対して「可愛いところもあるじゃねーの」なんて感情が湧き上がった事はここだけの秘密だ。
そして後ろ髪を引かれるお子様たちと帰り支度もそこそこに、今は人気のない車内で、四人並んで電車に揺られている。最初こそ「楽しかった!」と興奮冷めない様子で騒いでいたタレオと土産だという貝殻を満足気に眺めていた妹だったが、今では無意識に訪れる眠気と格闘中だ。俺たちの間に座る二人は自然と降りてくる瞼を擦りながら「また行こうね」「絶対だよ」と微睡んでいる。
しばらくして限界が来たのかカクン、と落ちた妹の頭を咄嗟に金属バットが支えた。そのまま自分の膝元へ倒し、ポンポンと優しく黒髪を撫でている。その横顔を眺めていると、不意に上げられた瞳と視線がかち合った。海での笑顔が脳裏を過り一瞬ドキリと心臓が跳ねたが、今回は呆れたような真っ黒い瞳に見つめられてワケが分からずに首を傾げる。
「タレオ、ズリ落ちそうだぜ」
言われ、ハッとして視線を下げる。そこではゼンコと同じく舟を漕いでいたタレオが、今にも座席からズリ落ちそうになりながら眠っていた。慌ててその体を支えて、自分に寄り掛かるように頭を誘導してやる。
「相当、楽しかったんだろうな」
子供たちに向けられた優しい声に再び顔を上げる。オレンジ色に染まる車内と、夕日に照らされたその横顔に、おもわず目を奪われた。
すっかり崩れてしまった前髪が電車に合わせて揺れている。伏せられた睫毛の影、通った鼻筋、小ぶりな口元と、少し荒れている唇まで。何ひとつ逃すことなく、隅々まで目に焼きつける。
それと同時に、ダメだと。もう誤魔化せないと、本能が警告していた。回り続ける映写機、やっと手に入れた距離感、そして網膜の裏っ側を焼かれたようにこびりついて離れやしない横顔。直に、夕暮れと夜との境界線が曖昧になるにつれ、黒い影が金属バットの首から上を覆い隠していった。
(もったいねぇ)
無意識にそう、心の中で呟いていた。それと同時に迫り上がった感情を自覚した瞬間、ツキン、と心臓が悲鳴を上げる。
「あン? なに見てんだ」
「……ッ、」
「……なんだよ?」
不思議そうに見つめてくる瞳に見上げられてズキンッ、ズキンッと心臓の痛みは更に激しくなる。途端、喉が閉まったように声が出せなくなった。鼻の奥から喉にかけて、ギュウギュウと縛られるような違和感が広がっていく。固まる俺に眉を寄せた金属バットがもう一度「なんだよ?」と続けるが、言い訳なんて思いつくわけもない。
「っ、いや、だから……」
「おう」
「おまえって…………ッ、な、何でも、ねぇ!」
「ハァ?」
絞り出した情けない声は本当に自分のモノなのか疑いたくなるほど上擦っていて、訝しげな目を残しつつ「ワケ分かんねぇ」と呟いて視線を妹に戻した金属バットに、ホッと胸を撫で下ろした。それと同時に。今までの自分の行動が走馬灯みたいに流れ込んでくる。あの時も、どれも、これも、全てはこの感情へと繋がっていたんだ。未だ、心臓の締め付けは強まっていく。俺は、この感情を知っているのだ。
(ちくしょう……)
もう、誤魔化す事はできなかった。
タレオを送り届けたあと、一人公園のベンチの背にもたれ星空を仰いでいた。かれこれ数時間、俺はそこで、認めてしまった現実に打ちひしがれている。
俺は今日、自覚してしまった。最近感じていた金属バットへのもどかしい不安感と焦燥感の答えを。考えてみればそれはひどく簡単で、そして必然的な答えだったんだ。
思い浮かぶのは夕日に照らされた横顔で、おそらく以前からその事実に気づいてはいた。認めたくないと本能で蓋をした感情が、自覚してしまった今ではドロドロと溢れてくる。
(……あの顔は、反則だ……綺麗だった)
喉につっかえて言えなかった、続きの言葉が溢れて止まない。あの瞬間は喉が張り裂ける勢いだったくせに、我ながら面倒な性格だと自覚する。
「……やっかいだ」
ため息まじりに呟き、舌打ちを漏らした。満点の星に、今ばかりは思いを馳せる事も煩わしくなりゆっくりと瞳を閉じて、そして深呼吸を繰り返す。
土と、まだ青い木々の匂いと、少しばかりの磯の香り。夏の匂いだ。本格的な、うんざりするような夏が、やってくる。
自覚したところでゴールの見えないこの感情の行方は、果たして何処へ辿り付くと言うのか。
(……好きだ、金属バット)
漠然とした未来を想像して、ツン、と。鼻の奥が、痺れた気がした。
つづく