洗い物が終わると、トムはそっと私の杖を返してきた。指先で名残惜しそうに撫でてから、少し寂しそうな目で。
あの黒に近いグレーの店に……あんなところにトムを連れて行くのは嫌なんだけど仕方がないか。また近々モーフィンに付き添ってもらおう。
ふと、トムがちらりと居間を見回し、所在なさげに私を見た。その小さな目は、どこか不安そうでもあり、何かを聞きたげでもあった。そうだ、家の案内もしなきゃね。
「じゃあ、家を案内しようか」
「……うん」
こくりと小さく頷く声が、少しずつ大きはっきりしている事に、気付いた。
この家にも慣れて、早く安心できるようになってほしい。
トムの背中に手を添え促し、居間が見渡せる場所へ向かう。暖炉の薪はまだ低く燃え続け、ぱちぱちと乾いた音を立てていた。
古い木枠の窓からはわずかな隙間風が入り込み、暖炉の灰がふわりと舞い上がる。外の空はまだ薄曇りで、空気は湿って冷たい。
「まずここが、居間と台所。玄関を入ってすぐ、こうして全部見渡せるの」
私は振り返りながら声をかけた。壁には古びた写真と薄汚れたカーテン。暖炉の脇には年代物の棚。それと蛇の籠がたくさん。家のすべてが古く、少しばかり湿気た土のような匂いがする。
トムは私の言葉に黙って頷いた。小さな手が私の服の端をそっと掴んでいる。……かわいい。
「ここでご飯を食べるし、紅茶も飲む。暖炉は冬には便利よ。……それと、叔父様がいつも座ってるあの肘掛け椅子は、触らない方がいいわ」
「なんで?」
「……臭いから」
「……」
モーフィンに聞こえないように囁けば、トムは瞼を震わせ、少しだけ笑った顔を見せてくれた。
廊下に並ぶ四つの扉の前で足を止める。背後ではトムの小さな足音が私を追ってきているのがわかった。
「ここが、お祖父様の部屋。あんまり綺麗じゃないから近寄らない方がいいわね」
扉の取っ手もくすんで、木目はところどころ剥げている。私はさらりと流し、次の扉へ歩く。
「ここは叔父様の部屋。こっちも似たようなものよ」
ちらりとトムを見ると、小さな眉がぴくりと動いたが何も言わずについてくる。その無言が妙に可愛い。
三つ目の扉の前で、私は取っ手に手をかけた。
「ここが私とトムの部屋」
軽く扉を押し開け、中へ一歩入る。すぐにほこりっぽい木の匂いが鼻先をくすぐったが、窓際の薄青いカーテンが外の光を受けて柔らかく揺れていた。
「昨日は一緒に寝たけれど、こっちがトムのベッド。棚と机もひとつ空けてあるから、好きに使ってね」
扉から入って左側が私のベッドと棚と机、右側がトムのために空けたスペースだ。トムはそっと部屋に足を踏み入れ、机の角を撫でたり棚の扉を開けたり、少しだけ目を輝かせている。
「ごめんね、昨日トムの荷物を取ってくるのを忘れちゃって……取りに行く?」
問いかけると、トムは一瞬考え込み、首を振った。
「ううん。いらないものばかりだったから、いい」
「そう。じゃあ、また服も買いに行きましょうね。──ほら、あの薄青いカーテン、ここから畑がよく見えるのよ」
トムは小さな手でカーテンを少しだけ持ち上げ、外を覗いた。畑の黒い土と緑の芽が風に揺れているのをじっと見つめ、目をきらきらとさせる。
私はくすりと笑って、そっとトムの肩を撫でた。肩が少し跳ねたが、トムはちらりと私を見上げ、口元を緩めて小さく頷く。
「ふふ、家の案内が終わったら外も見に行きましょうね」
トムの返事はなかったが、揺れるカーテンの向こうの畑を見つめるその横顔が、何よりの返事だった。
部屋を出てトムと並んで廊下を進む。私たちの部屋を出てすぐ、最後の扉の前で足を止めた。
「ここが、お風呂とトイレと洗面所よ」
取っ手をひねって扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。中は灰色の石がむき出しの壁と、くすんだ白のユニットバス。洗面台も古くて、鏡はところどころ曇っている。冬場はきっと震えるほど寒いだろうな、と改めて思う。
トムはじっと部屋の中を見つめたあと、私の袖をきゅっと掴んだ。細い指が布地を少しだけ引き寄せて、心細さを物語っている。
私はつい、悪戯心が湧いて、笑いながらからかう。
「ふふ、怖いなら一緒に入る?」
途端にトムはぴくんと肩を揺らし、ぱたぱたと首を振った。恥ずかしさが耳の先まで昇ったのか、頬がぱっと赤くなる。
「──冗談よ」
くすくす笑って、扉をそっと閉めた。
「さあ、次は外を見に行きましょう」
トムは顔を真っ赤にしたままもじもじと足を動かし、でもしっかりと私の袖は掴んだまま。私はそのぬくもりがくすぐったくて、自然と口元が緩んだまま玄関へ向かった。
日本だったら一緒に入れたかもしれないけど、ここはイギリスだもの。流石に一緒に入れないわよね。
廊下の端を曲がり、裏口を開けると、ひやりとした風が髪を撫でた。
痩せた黒土には雑草がちらほら混じり、小さな玉ねぎの芽がようやく土から顔を出していた。冬の冷たい空気の中でも、かすかにローズマリーの清々しい香りが風に運ばれてくる。
「ここは畑。私が育ててるの。玉ねぎ、じゃがいも、人参、ハーブも少し。……役立つのよ」
そう言って振り返ると、トムはその小さな畑を真剣な目で見ていた。
「……これ、たべれるの?」
「食べられるわよ。美味しいの」
「……」
家の裏手には、小さな鶏小屋がぽつんと立っている。今は鶏もいないけれど、錆びた金網と風に軋む扉が、昔ここにも命があったことを教えてくれる。使い古した木の桶が軒下に転がり、その隣にはモーフィンが投げ出した壊れかけの鋤が無造作に置かれていた。けれど、冬枯れた庭の隅には、小さなスノードロップの白い花が顔をのぞかせ、寒い季節のなかにも、ひっそりとした温もりが潜んでいた。
トムはじっとその景色を眺め、袖を掴む指先がわずかに力をこめた。
空は鉛色の雲に覆われていたが、ところどころ雲が裂け、青い空が覗いている。遠くの森には朝霧がたなびいて、静かな朝の輪郭をぼやかしていた。
小さな家、小さな畑、小さな魔法使いたち。
これが、ゴーント家の、私とトムの毎日になる。
「これが、私たちの家よ」
「……うん」
頷く声は小さいけれど、確かにその瞳に帰る場所が映った気がした。
その小さな横顔を見て、私は笑った。
トムの肩を優しく撫で、そっと家の中へ戻る。裏口の扉が軋んで閉まり、冷えた空気から薪のぬくもりの空間へ切り替わった。
居間に戻れば、マールヴォロはもう自室に引きこもっていた。古ぼけた扉の奥からは、酒のにおいが微かに流れてくる。
暖炉の薪は時折パチンと火花を飛ばし、煤けた壁に揺れる影を落としていた。冬の朝らしく、隙間風が足元を撫でていく。
「──じゃあ、これから一緒に魔法の練習しようか」
トムがぱっと顔を上げる。黒髪の隙間から覗く灰色の瞳が、嬉しそうにきらりと光った。
「叔父様、魔導書借りるわね」
「勝手にしろ」
モーフィンは新聞を揺らしながら、鼻を鳴らして視線だけ送ってくる。
私はくすっと笑い、居間の隅にある古びた本棚に向かう。
背表紙は擦り切れ、文字は掠れ、時折ページの間から乾いた葉っぱや小さな虫の死骸が顔を覗かせていた。
最近私が使ったから埃はかぶってないけど、本の状態はいつ見ても最低だ。
適当な初歩魔法の本を選び、背伸びして引っ張り出す。振り返ると、トムがすぐそこに立っていて、目を丸くして私の手元を覗き込んでいる。
「見たい?」
そう聞くと、トムはこくりと首を縦に振った。私の袖の端をそっと掴むその手の小ささが、なんだかいじらしい。
二人並んでソファに腰掛け、本をぱらりと開く。ソファは綿の偏ったクッションで少し沈み、私たちの重さでぎしりと軋んだ。
トムは私の膝に肘を乗せるみたいにして覗き込み、黒髪が私の腕に触れた。
「……そういえば、トム。もう文字、読めるの?」
「うん」
その即答に思わず目を見開いてしまう。
思わず声が弾む。
「まぁ!すごいわ!トムはうんと賢いのね」
声に出した瞬間、心からの驚きと嬉しさが自分でもわかるほど声に乗った。
三歳で文字なんて普通読めないわよね?……え?読めるのかしら?リリスは四歳になっても難しい単語は全く読めなかったけど。私だから読めるのであって。
トムは褒められ慣れていないのか、一瞬きょとんとして私の顔を見上げ、それから目を伏せた。
長い睫毛の影に隠れた小さな瞳がわずかに揺れている。
何か思い出しているのだろうか。小さく唇がきゅっと結ばれ、喉が僅かに動いた。
その揺れる表情を見て、ピンとくるものがあった。もしかしたら、孤児院で何か言われたのかもしれない。
あまりに知能が高すぎて、「不気味だ」とか「変な子」とか?多分、その辺だろう。
過去のトムを救うことはできない。
それでも、もしトムの胸の中に棘のようなものが刺さっているのなら、一つずつ丁寧に抜いてあげたかった。
だから、私は何も聞かない。
代わりに、本を開いたまま、そっとトムの背を撫でた。
俯いていたトムが顔を上げる。
その目は薄らと涙の膜が張られ、救いを喜ぶかのように細められていた。
「あなたはとっても素敵だわ。私の自慢の弟ね、……じゃあ、たくさん読もうね」
「……うんっ」
震えた小さな声で返ってくるその一言が、私には何よりも嬉しかった。