ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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11 初めての魔法

 

 

 洗い物が終わると、トムはそっと私の杖を返してきた。指先で名残惜しそうに撫でてから、少し寂しそうな目で。

 あの黒に近いグレーの店に……あんなところにトムを連れて行くのは嫌なんだけど仕方がないか。また近々モーフィンに付き添ってもらおう。

 

 

 ふと、トムがちらりと居間を見回し、所在なさげに私を見た。その小さな目は、どこか不安そうでもあり、何かを聞きたげでもあった。そうだ、家の案内もしなきゃね。

 

 

「じゃあ、家を案内しようか」

「……うん」

 

 

 こくりと小さく頷く声が、少しずつ大きはっきりしている事に、気付いた。

 この家にも慣れて、早く安心できるようになってほしい。

 

 

 トムの背中に手を添え促し、居間が見渡せる場所へ向かう。暖炉の薪はまだ低く燃え続け、ぱちぱちと乾いた音を立てていた。

 古い木枠の窓からはわずかな隙間風が入り込み、暖炉の灰がふわりと舞い上がる。外の空はまだ薄曇りで、空気は湿って冷たい。

 

 

「まずここが、居間と台所。玄関を入ってすぐ、こうして全部見渡せるの」

 

 

 私は振り返りながら声をかけた。壁には古びた写真と薄汚れたカーテン。暖炉の脇には年代物の棚。それと蛇の籠がたくさん。家のすべてが古く、少しばかり湿気た土のような匂いがする。

 

 トムは私の言葉に黙って頷いた。小さな手が私の服の端をそっと掴んでいる。……かわいい。

 

 

「ここでご飯を食べるし、紅茶も飲む。暖炉は冬には便利よ。……それと、叔父様がいつも座ってるあの肘掛け椅子は、触らない方がいいわ」

「なんで?」

「……臭いから」

「……」

 

 

 モーフィンに聞こえないように囁けば、トムは瞼を震わせ、少しだけ笑った顔を見せてくれた。

 

 

 

 廊下に並ぶ四つの扉の前で足を止める。背後ではトムの小さな足音が私を追ってきているのがわかった。

 

 

「ここが、お祖父様の部屋。あんまり綺麗じゃないから近寄らない方がいいわね」

 

 

 扉の取っ手もくすんで、木目はところどころ剥げている。私はさらりと流し、次の扉へ歩く。

 

 

「ここは叔父様の部屋。こっちも似たようなものよ」

 

 

 ちらりとトムを見ると、小さな眉がぴくりと動いたが何も言わずについてくる。その無言が妙に可愛い。

 

 三つ目の扉の前で、私は取っ手に手をかけた。

 

 

「ここが私とトムの部屋」

 

 

 軽く扉を押し開け、中へ一歩入る。すぐにほこりっぽい木の匂いが鼻先をくすぐったが、窓際の薄青いカーテンが外の光を受けて柔らかく揺れていた。

 

 

「昨日は一緒に寝たけれど、こっちがトムのベッド。棚と机もひとつ空けてあるから、好きに使ってね」

 

 

 扉から入って左側が私のベッドと棚と机、右側がトムのために空けたスペースだ。トムはそっと部屋に足を踏み入れ、机の角を撫でたり棚の扉を開けたり、少しだけ目を輝かせている。

 

 

「ごめんね、昨日トムの荷物を取ってくるのを忘れちゃって……取りに行く?」

 

 

 問いかけると、トムは一瞬考え込み、首を振った。

 

 

「ううん。いらないものばかりだったから、いい」

「そう。じゃあ、また服も買いに行きましょうね。──ほら、あの薄青いカーテン、ここから畑がよく見えるのよ」

 

 

 トムは小さな手でカーテンを少しだけ持ち上げ、外を覗いた。畑の黒い土と緑の芽が風に揺れているのをじっと見つめ、目をきらきらとさせる。

 

 私はくすりと笑って、そっとトムの肩を撫でた。肩が少し跳ねたが、トムはちらりと私を見上げ、口元を緩めて小さく頷く。

 

 

「ふふ、家の案内が終わったら外も見に行きましょうね」

 

 

 トムの返事はなかったが、揺れるカーテンの向こうの畑を見つめるその横顔が、何よりの返事だった。

 

 

 部屋を出てトムと並んで廊下を進む。私たちの部屋を出てすぐ、最後の扉の前で足を止めた。

 

 

「ここが、お風呂とトイレと洗面所よ」

 

 

 取っ手をひねって扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。中は灰色の石がむき出しの壁と、くすんだ白のユニットバス。洗面台も古くて、鏡はところどころ曇っている。冬場はきっと震えるほど寒いだろうな、と改めて思う。

 

 トムはじっと部屋の中を見つめたあと、私の袖をきゅっと掴んだ。細い指が布地を少しだけ引き寄せて、心細さを物語っている。

 

 私はつい、悪戯心が湧いて、笑いながらからかう。

 

 

「ふふ、怖いなら一緒に入る?」

 

 

 途端にトムはぴくんと肩を揺らし、ぱたぱたと首を振った。恥ずかしさが耳の先まで昇ったのか、頬がぱっと赤くなる。

 

 

「──冗談よ」

 

 

 くすくす笑って、扉をそっと閉めた。

 

 

「さあ、次は外を見に行きましょう」

 

 

 トムは顔を真っ赤にしたままもじもじと足を動かし、でもしっかりと私の袖は掴んだまま。私はそのぬくもりがくすぐったくて、自然と口元が緩んだまま玄関へ向かった。

 日本だったら一緒に入れたかもしれないけど、ここはイギリスだもの。流石に一緒に入れないわよね。

 

 

 

 

 

 廊下の端を曲がり、裏口を開けると、ひやりとした風が髪を撫でた。

 痩せた黒土には雑草がちらほら混じり、小さな玉ねぎの芽がようやく土から顔を出していた。冬の冷たい空気の中でも、かすかにローズマリーの清々しい香りが風に運ばれてくる。

 

 

「ここは畑。私が育ててるの。玉ねぎ、じゃがいも、人参、ハーブも少し。……役立つのよ」

 

 

 そう言って振り返ると、トムはその小さな畑を真剣な目で見ていた。

 

 

「……これ、たべれるの?」

「食べられるわよ。美味しいの」

「……」

 

 

 家の裏手には、小さな鶏小屋がぽつんと立っている。今は鶏もいないけれど、錆びた金網と風に軋む扉が、昔ここにも命があったことを教えてくれる。使い古した木の桶が軒下に転がり、その隣にはモーフィンが投げ出した壊れかけの鋤が無造作に置かれていた。けれど、冬枯れた庭の隅には、小さなスノードロップの白い花が顔をのぞかせ、寒い季節のなかにも、ひっそりとした温もりが潜んでいた。

 

 トムはじっとその景色を眺め、袖を掴む指先がわずかに力をこめた。

 

 

 空は鉛色の雲に覆われていたが、ところどころ雲が裂け、青い空が覗いている。遠くの森には朝霧がたなびいて、静かな朝の輪郭をぼやかしていた。

 

 小さな家、小さな畑、小さな魔法使いたち。

 これが、ゴーント家の、私とトムの毎日になる。

 

 

「これが、私たちの家よ」

「……うん」

 

 

 頷く声は小さいけれど、確かにその瞳に帰る場所が映った気がした。

 

 その小さな横顔を見て、私は笑った。

 

 

 

 トムの肩を優しく撫で、そっと家の中へ戻る。裏口の扉が軋んで閉まり、冷えた空気から薪のぬくもりの空間へ切り替わった。

 

 居間に戻れば、マールヴォロはもう自室に引きこもっていた。古ぼけた扉の奥からは、酒のにおいが微かに流れてくる。

 暖炉の薪は時折パチンと火花を飛ばし、煤けた壁に揺れる影を落としていた。冬の朝らしく、隙間風が足元を撫でていく。

 

 

「──じゃあ、これから一緒に魔法の練習しようか」

 

 

 トムがぱっと顔を上げる。黒髪の隙間から覗く灰色の瞳が、嬉しそうにきらりと光った。

 

 

「叔父様、魔導書借りるわね」

「勝手にしろ」

 

 

 モーフィンは新聞を揺らしながら、鼻を鳴らして視線だけ送ってくる。

 私はくすっと笑い、居間の隅にある古びた本棚に向かう。

 背表紙は擦り切れ、文字は掠れ、時折ページの間から乾いた葉っぱや小さな虫の死骸が顔を覗かせていた。

 最近私が使ったから埃はかぶってないけど、本の状態はいつ見ても最低だ。

 

 適当な初歩魔法の本を選び、背伸びして引っ張り出す。振り返ると、トムがすぐそこに立っていて、目を丸くして私の手元を覗き込んでいる。

 

 

「見たい?」

 

 

 そう聞くと、トムはこくりと首を縦に振った。私の袖の端をそっと掴むその手の小ささが、なんだかいじらしい。

 

 二人並んでソファに腰掛け、本をぱらりと開く。ソファは綿の偏ったクッションで少し沈み、私たちの重さでぎしりと軋んだ。

 トムは私の膝に肘を乗せるみたいにして覗き込み、黒髪が私の腕に触れた。

 

 

「……そういえば、トム。もう文字、読めるの?」

「うん」

 

 

 その即答に思わず目を見開いてしまう。

 思わず声が弾む。

 

 

「まぁ!すごいわ!トムはうんと賢いのね」

 

 

 

 声に出した瞬間、心からの驚きと嬉しさが自分でもわかるほど声に乗った。

 三歳で文字なんて普通読めないわよね?……え?読めるのかしら?リリスは四歳になっても難しい単語は全く読めなかったけど。私だから読めるのであって。

 

 

 トムは褒められ慣れていないのか、一瞬きょとんとして私の顔を見上げ、それから目を伏せた。

 長い睫毛の影に隠れた小さな瞳がわずかに揺れている。

 

 何か思い出しているのだろうか。小さく唇がきゅっと結ばれ、喉が僅かに動いた。

 

 

 その揺れる表情を見て、ピンとくるものがあった。もしかしたら、孤児院で何か言われたのかもしれない。

 

 あまりに知能が高すぎて、「不気味だ」とか「変な子」とか?多分、その辺だろう。

 

 

 過去のトムを救うことはできない。

 それでも、もしトムの胸の中に棘のようなものが刺さっているのなら、一つずつ丁寧に抜いてあげたかった。

 

 

 だから、私は何も聞かない。

 代わりに、本を開いたまま、そっとトムの背を撫でた。

 俯いていたトムが顔を上げる。

 その目は薄らと涙の膜が張られ、救いを喜ぶかのように細められていた。

 

 

「あなたはとっても素敵だわ。私の自慢の弟ね、……じゃあ、たくさん読もうね」

「……うんっ」

 

  

 震えた小さな声で返ってくるその一言が、私には何よりも嬉しかった。

 

 

 

 

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