ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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12 静かな夜に

 

 夕食を終えた居間は静かだった。

 暖炉の火がまだ赤々と燃え、乾いた薪が時折ぱちりと小さく爆ぜる。その音だけが、古い家の静寂に緩やかな輪を描いていた。

 ランプの淡い灯りが、すすけた壁と埃の積もった本棚をかすかに照らし出す。ガラス窓の外では冬の風が軋む音を立て、曇った硝子越しに灰色の空が覗いていた。

 

 マールヴォロは「下らん」と吐き捨てるように言って自室へ引きこもり、重く鈍い足音を残して扉を閉めた。トムがそれを視線で追って少し表情を暗くしていたけれど、マールヴォロは居るだけで雰囲気が悪くなるから引き込んでくれる方がありがたい。

 

 

 私はソファに座り、膝の上で古びた魔導書を開いていた。古い魔法が並ぶそのページはかび臭く、ページの端が少し欠けている。指先でなぞると、細い光の筋が文字の上を滑った。

 

 モーフィンは居間の隅で蛇たちの世話をしていた。桶の水を取り替え、小さなネズミの死骸を与える。蛇たちは無言でそれを飲み込み、満足げにうねる。その様子をトムがちらちらと見ていた。

 

 

 ページをめくる私の横で、柔らかな気配が動いた。

 

 袖口がくい、と小さく引っ張られる。

 

 視線を落とすと、トムがいた。

 黒髪が頬にかかり、大きな灰色の目がじっと私を見つめている。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 声を落として尋ねると、トムは一瞬目を伏せて躊躇い、それから不安げに口を開いた。

 

 

「……なんで、僕だけリドルなの?みんなゴーントなのに」

 

 

 来たか──胸の奥で小さく息がこぼれた。

 

 この家で紅茶を飲んで、畑を見て、少しずつ笑顔が増えたトム。でも、いずれはこう聞かれるとわかっていた。

 

 私は魔導書を閉じ、膝の上で抱え直す。

 

 この幼くて、自分の居場所を作ろうと必死な子どもがリドルを背負わなければならない理由はない。

 世界が本当はそれを望んでいたとしても、今、トムは私の──リリスの弟なんだから。

 

 

「トムも、ゴーントがいい?」

 

 

 問いかけると、トムはぱちぱちと瞬きをして、一度俯き、それからゆっくりと顎を縦に動かした。

 

 深い意味なんてないのかもしれない。

 ただ、『家族と同じがいい』その小さな願いが、自ら歩み寄ってくれている気がして愛おしかった。

 

 

「ふん」

 

 

 蛇に餌を与えていたモーフィンが鼻を鳴らし、視線をよこす。苛立ちでも嘲笑でもない、興味が混ざった声音だった。

 

 私は笑ってその視線を受け流した。

 

 

「私はね、途中で変更したのよ。魔法省ってところに届けて……」

 

 

 そう言ってから、顔だけ向けてモーフィンに声をかける。

 

 

「伯父様、手続きってどうやるの?」

「あぁ?……おめぇ、ゴーントを名乗るつもりなのか?」

 

 

 モーフィンは蛇籠から手を離し、じっとトムを見た。

 トムは黙って、小さく頷く。その目には迷いも恐れもなく、ただ静かで力強い意思だけが宿っていた。

 

 モーフィンはあごを掻きながらぼそりと呟く。

 

 

「保護者が一緒に魔法省へ行かなきゃならねぇな」

「じゃあ、伯父様。明日一緒に行きましょう」

「あぁ?なんで俺が──」

「いいじゃない。どうせ暇でしょ?」

 

 

 意地悪く笑えば、モーフィンは口を引きつらせたまま何も言わなかった。

 

 

「決まり!」

 

 

 ぱん、と手を叩く。

 トムの表情はほっと和らぎ、モーフィンは面倒くさそうに眉をひそめたものの否定はしなかった。

 

 

「──そうそう、トムがこの家に来たお祝いの料理も作らなきゃ!叔父様の大好きなヨークシャープディングも作ってあげるから、ね?」

 

 

 モーフィンは「けっ」と笑いながらも、その目は完全に了承の色に変わっていた。

 笑顔をトムに向けて、身を屈める。

 

 

「トムは何が食べたい?」

 

 

 トムは少しだけ口を開き、戸惑った顔をした後──おずおずと小さな声で言った。

 

 

「……シェパーズパイ。特別な日だけ、食べられるの」

 

 

 ああ、孤児院での『特別』

 普通の家では当たり前の料理でも、トムにとっては一番のご馳走だったのだろう。

 

 

「そうね、何でも作ってあげる」

 

 

 その言葉と共に、そっとトムの頭を撫でた。

 

 私の手がトムの頭に触れる一瞬、トムは身を固くしていた。それでもすぐに力を抜いて身を委ね、何も言わずに撫でられたままでいる。

 きっと、普段なら誰かに触れられる事を拒絶していたのだろう。それでも今は、目を細めて、黙ったまま私の手を受け入れてくれた。

 

 その小さな背が、ほんの少し震えていた。

 

 

 暖炉の火がパチパチと音を立て、蛇たちが部屋の隅で丸くなっていた。

 

 ランプの灯りがトムの頬を照らし、そこに柔らかな赤みを映していた。

 

 

(この子の人生が、これから暖かいものになりますように)

 

 

 私は心の中でそう祈りながら、そっと笑った。

 

 

 

 

 

 夜が深まるにつれ、家の中はしんと静まり返り、じわじわと冷気が染み込んでくる。

 暖炉の火は赤々と燃えているのに、古びた煉瓦の壁は容赦なく外の冷たさを引き入れ、じんわりと床板から足先が冷たくなっていく。

 

 ランプの灯りを消し、私はトムとそれぞれのベッドへ潜り込んだ。

 

 部屋には二つの小さな木製ベッド。どちらも古く、私が寝返りを打つとすぐ、ぎしぎしと湿った音が鳴る。湿気を帯びた毛布のざらりとした肌触りが首元をくすぐった。

 

 

 目を閉じたものの、すぐに視線を感じてまぶたを開けた。薄暗い部屋の中、向かいのベッドからじっとこちらを見つめる小さな影。

 

 月明かりが、隙間風の吹く窓から細く差し込み、トムの大きな灰色の瞳をぼんやりと照らしている。口元まできっちりと毛布を引き上げ、まるで怯えた小動物のように目だけを光らせていた。

 

私は微笑み、冷たい枕に頬を押し付けたまま、横向きになって声をかけた。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 問いかけると、トムはきゅっと布団を握りしめた。

 声を出す前に、一瞬だけ瞳が泳ぎ、次の瞬間、小さな声で問う。

 

 

「……僕が来て嬉しい?」

 

 

 想像もしなかった言葉に、心臓が跳ね「え?」と間抜けな声が出てしまった。途端にトムの目が不安そうに揺れてしまって、慌てて口を開く。

 

 

「ええ、とっても嬉しいわ」

 

 

 少し笑って伝えると、トムは瞳を瞬かせ、布団が動いた。

 

 

「……どうして?」

「……おじさんと、おじいさんは、嫌がってた」

 

 

 ああ、聞こえてたのね。

 マールヴォロが吐き捨てるような声で呟いたあの言葉も。モーフィンが不機嫌そうに鼻を鳴らしたあの音も。

 

 

「──ああ……」

 

 

 私は一度視線を伏せ、息を吐く。

 それから、笑って伝えた。

 

 

「お祖父様は、私のこともちゃんと受け入れてないの。でも、本当は認めてるのよ。ただ、素直じゃないだけ。だから気にしないの」

 

 

 トムはじっと私を見つめていた。布団の下で、指先がぎゅっと毛布を握る音が耳に届く。

 

 

「伯父様は……昔と比べると、マシになったの。明日、話しかけてみたら?きっと、答えてくれるわ」

「……」

 

 

 トムは無言で頷いた。

 かすかな布の擦れる音がして、小さな体が布団の中でもぞもぞと動く。

 

 

「眠れないの?」

 

 

 寒い夜の静けさを破るように囁けば、トムがわずかに眉を寄せた。

 

 

「よく眠れるおまじない、してあげようか?」

 

 

 

 その言葉に、トムの瞳が一瞬大きく見開かれ、ためらいがちに頷く。

 

 

 私は毛布をめくり、冷気が肩先を撫でるのを堪えながら起き上がった。床板のきしむ音とともにトムのベッドへ近寄り、沈むスプリングの音が静けさの中に響く。

 

 ベッドに腰掛けると、トムが目を見開き緊張した小さな体がこわばったのが分かった。

 

 

 

 私は笑って、そっと手を伸ばした。細い指で、トムの頬にかかる黒髪を払ってやり、そのまま瞼を優しく覆う。手のひらに、微かな震えが伝わってきていた。

 

 不安に揺れる瞼を隠した自分の甲に唇を近づけ、ちゅ、と小さなリップ音を響かせる。

 

 

「おやすみ、トム。いい夢を見てね」

 

 

 掠れるような甘い声で囁いた。

 

 トムの体がびくん、と小さく震える。

 でも、逃げようとはしなかった。

 ただ、目を覆う私の手の下で、長い睫毛が震えている。

 

 その震えが止まった時──小さな寝息が指先に当たった。

 

 

 私はそっと手を離し、暗がりの中で穏やかな寝顔を見つめた。頬はほんのり紅潮し、唇は静かに閉じられ、安らかな眠りに落ちていた。

 

 静寂と、微かな暖炉の燃える音。凍てつく空気の中、心だけがぽうっと暖かく満たされていた。

 

 

(おやすみ、トム)

 

 

 

 私は心の中で優しく告げ、そっとベッドへ戻った。その夜、家は寒かったけれど、私の胸の中はどこまでもあたたかかった。

 

 

 

 

 

 

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