長い一日だった。
買い物も、養子縁組も、全部済んだ。
空は深い藍色に変わり遠くの方で星が瞬いている。トムは一日中動き回ったし、新しい刺激ばかりで疲れたのか少し眠そうだった。
私も眠い。
知能は大人だとしても、まだこの体は四歳だし……私じゃなくて、リリスは、やることがなくて毎日昼寝していたから、夕方になるとどうしても体が重くなる。
それでも、私にはまだ大切な役目が残っている。
今日は、トムがこの家に来たお祝いのご飯を用意すると決めたんだ!
キッチンに立ち、冷たい水で手を洗う。材料の確認をして、杖を振ってコンロに火を入れて。
えーっと、リクエストのシェパーズパイと、伯父様が好きなヨークシャープディング。それとローストビーフと、彩にグリーンピースのバターソテー、後はいつもの野菜スープのちょっと豪華にしたものと、ライ麦パン。デザートは糖蜜パイ。──それだけあれば十分ね。
背後では、モーフィンがもう酒盛りを始めていた。テーブルの隅に腰を下ろし、皿に盛った自家製の燻製肉とピクルスをつまみに、茶色い瓶を傾けている。今朝買ったばかりのものを、もったいぶることもなく開けるのは、いつものことだった。──まあ、あの人がご機嫌ならそれでいい。今日は散々付き合ってもらったし。
台所に材料を並べていると、背中に視線を感じた。トムがソファの背から顔を覗かせ、じっとこちらを見ているのだろう。振り返ればやっぱりトムと目があって、ソファの背を持つ手が少し動き──覗いていた目がぱちり、と瞬きをした。
「手伝ってみる?」
問いかけると、トムは少しだけ驚いたような顔をしたあと、ゆっくりと首を横に振った。だが視線はそのままに立ち上がり、私の隣に並ぶ。まだ料理の手伝いは早いか。それでも、興味はあるんだろう。……トムの料理、いつか食べてみたいけれど、今は私の料理で満たしたいかな。
「火は触っちゃダメだよ」
「うん」
素直に頷き、一歩だけ離れながらトムは私が料理を作るのを見学していた。
私は笑って、グリンピースをバターで炒めながら、野菜スープも並行して作っていく。まあ、フライパンは勝手に焦げないように動いてくれるからそれほど難しくはない。
スープには庭で採れたじゃがいもや玉ねぎ、にんじんと今日はベーコンも入れちゃおう。味付けはいつも通りだけど、ベーコンの脂が溶けてより美味しくなるはず。
鍋をもう二つ出して、一つはじゃがいもを湯がいてシェパーズパイ用のマッシュポテトも作らなきゃ。もう一つは表面をしっかり焼いた牛肉の塊を袋に包んで湯煎すれば、ローストビーフの出来上がり。
並行して料理を作ることなんて、もう慣れたものだったけれど流石に何品も同時となると忙しくなっていく。本当はトムに料理も教えてあげたいけれど、今日はそんな余裕はなさそう。
トムに構ってあげられなくて暇しているかな、と思ったけれど、トムは次々と料理ができていくのを興味深そうに見ていた。
「トム、ほら、あーんしてみる?」
シェパーズパイのお肉の部分が完成し、スプーンで掬ってトムの前に出してみた。
トムはきょとん、としていたがすぐに口をぱかりと開ける。
「あー……ん」
「どう?美味しい?」
「ん、おいしい」
口をもぐもぐと動かしながらトムは目を細めて笑った。よし、トムが美味しいって言ってるし味付けはこのくらいで大丈夫かな。
あとは魔法オーブンで焼けば、肉の旨味とマッシュポテトの香ばしさが混じって、より美味しくなるはず。
ヨークシャープディングの生地を用意した型に流し入れて、魔法オーブンで焼けば完成。
「シェパーズパイはあと十分くらいかな……トム、パンをテーブルに並べてくれる?ライ麦の方ね」
「うん」
返事とともに、トムはそっと立ち上がった。パンを扱う手つきがどこか慎重で、それでいて、どこか嬉しそうだ。
食器や紅茶も用意して、最後にデザートを完成させないと。デザートの糖蜜パイは昨日の夜から下準備は済ませていたし、あとは焼き上げるだけ。
完成したシェパーズパイとヨークシャープディングを鍋つかみを使って火傷しないように気をつけながらダイニングテーブルに運ぶ。
ふわり、と蒸気と共に食欲をそそる香ばしい匂いが広がり、トムは鼻をくんくんとひくつかせ「美味しそう」と呟く。上機嫌なモーフィンも酒を飲みながら「こりゃうまそうだ」と舌なめずりをしていた。
「伯父様、お祖父様を呼んできて?後糖蜜パイを焼くだけなの」
「仕方ねぇな……」
モーフィンは早く食べたいのか、酒に酔いふらふらとした足取りでマールヴォロを呼びに行った。その間に糖蜜パイをオーブンに入れて、食卓を整える。
「……ちょっとつくりすぎたかな」
ヨークシャープディングに、ローストビーフ。シェパーズパイに、バターで炒めたグリーンピース。野菜たっぷりのスープと、ライ麦パン。取皿を置けば、テーブルの上はぎゅうぎゅうだった。
居間も、焼きたての香りと、スープと、バターと、甘い糖蜜の匂いに満たされていた。この家に、こんなに豊かな香りが満ちたのは初めてで──胸に手を当て、目を閉じる。
リリスは、それがなぜかとても嬉しかった。
こんな家庭的で幸せな香りがこの家に満ちる日が来るなんて、想像もしていなかったから。
(本当に良かったわね、リリス)
ふっと目を開く。胸がトクトクと喜びで高鳴ってくすぐったいけれど、嫌な気はしなかった。
料理をすべて並べた頃には、オーブンの中で糖蜜パイがじゅわっと音を立て始めていて、甘く焦げる匂いが部屋いっぱいに広がっていた。ふと顔を上げると、ちょうどモーフィンがマールヴォロと居間へ戻ってくるところだった。
「ほら、さっさと座ろうぜ。今日はごちそうだぞ」
モーフィンはすっかり上機嫌で、ふらりとした足取りで席に着くなり、手近なヨークシャープディングを一つぱくりと頬張る。
「うめぇな……こりゃあ、うめぇ」
酒で赤くなった顔が、幸せそうにゆるんでいた。そんな様子を見るのは初めてだったから、私はこっそりほっと息をついた。美味しい料理は、やっぱり人を丸くするのかもしれない。
マールヴォロはといえば、座るなりしかめっ面でローストビーフを睨んでいたけど、どうせ食べるのはわかってた。フォークを手に取るまでがちょっと長かったけど、一口食べたら止まらなくなったみたいで、結局無言のままもう一枚。──あの人なりに喜んでる証拠だろう。
トムはといえば──それはもう、目をきらきらさせていた。
「これ、あつ……でも、おいしい……!」
手のひらにスプーンを握りしめて、シェパーズパイを頬張ったトムの顔が、ぱっと花が咲いたみたいに綻んだ。マッシュポテトがまだ湯気を立てているのに、待ちきれないって様子で、次の一口をすぐに口に運んでいた。はふはふと熱そうにしながらも、嬉しそうに頬を染める。
「今まで食べたシェパーズパイの中で、一番温かくて、美味しい……」
ぽつりとそう呟いた声が、小さくてもはっきり耳に届いた。大げさじゃなく、本当に初めてなんだろう。トムは嬉しそうに私を見て笑う、素直で無垢な微笑みに、私まで嬉しくなった。
私もローストビーフとヨークシャープディングを取り、一口食べる。──うん、美味しい。
家族の中の会話は無かった。けれど昨日まであった緊張感や、互いに探るような雰囲気はない。ただ、みんなが夢中になって私が作った料理を食べ、満足そうな顔をしている。
それが、何よりも嬉しかった。
食後、オーブンから出した糖蜜パイは、ほんのりと黄金色に焼き上がっていた。バターの香りと糖蜜の甘さが混じった匂いに、トムが「わぁ……」と小さく息を呑んだのがわかる。たくさん料理を食べたはずなのに、待ちきれないというように目を輝かせていた。
一切れ、皿に乗せて差し出すと、トムは嬉しそうに少しだけフォークで崩して口に運んだ。
「こんなに甘いの、初めて食べた……」
そう呟く声に、どこか驚きと嬉しさが混ざっていた。口の端にはパイの欠片がついていて、私は思わず指でそっと拭ってあげた。
もう一切れ食べる?と訊く前に、トムは空っぽになった皿をそっとこちらに差し出してきた。私は笑って、もう一切れ、少し大きめに切って乗せてあげた。
その途端目を輝かせる。それが年相応で可愛らしくて、小さく笑う。モーフィンもトムの様子を見て酒で火照った顔を歪ませて笑い、「甘ったれが」と呟いたが、その声音にはどこか今まで無かった緩みがあった。
やがて食事が終わると、マールヴォロはそっと椅子を引いて立ち上がり、自室へと引っ込んでいった。モーフィンはまだ酒瓶を抱え、机につまみを並べて一人ご機嫌で飲み続けていた。
私は食器を下げ、手早く片付けを終えてから、魔法で湯を沸かし、トムのために紅茶を一杯淹れた。ソファに腰を下ろしたトムは満足そうに腹を押さえていて、眠そうに瞼が半分ほど落ちていた。くすり、と笑えばトムの眠たげな目がこちらを見上げた。
「どうぞ、火傷しないようにね」
「うん。……ありがとう」
紅茶の入ったゴブレットを両手で渡せば、トムはその縁を両手でしっかりと受け取り、「ふう、ふう」と息を吹きかけてから、小さな口でちびちびと味わい始めた。
──静かだった。ストーブの音と、酒に酔ったモーフィンのぼやきだけが遠くにあった。
私もその隣に座り、ただ隣にいる時間を感じる。
数口飲んだところで、トムがそっと体を寄せてきた。小さな肩が触れたと思った次の瞬間、彼の頭が私の肩にちょこんと乗っかる。トムのさらりとした髪が首元をくすぐった。
「……トム?」
驚いて見下ろせば、トムの伏せている瞼が震えていた。 小さな口が何かを言いかけるように、何度もそっと開いては閉じる。それが、ためらいにも迷いにも見えて──ゴブレットを持つ手に力がこもり、私を見上げた。
「……僕を見つけてくれて、ありがとう──」
それは、震えた声を抑えようとしてかすれた声だった。潤んだ目元、懸命にこらえたような吐息。涙の膜が炎の光を受けて輝いていた。
「──リリス姉さん……」
それは、初めてトムが私のことを『姉さん』と口にした瞬間だった。
私は息が詰まり、胸がきゅんと締めつけられるような思いで、そっと腕を伸ばし、トムの肩を抱く。そして、柔らかな髪を優しく撫でた。すん、と鼻を啜る音が小さく聞こえる。
「こちらこそ。──私の弟として生まれてくれてありがとう」
トムはほっとしたように小さく息を漏らし、そのまま私の肩に身を預ける。その温もりが、胸にじんわりと沁みていった。