ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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17 はじめてのおつかい

 

 

 午後の光が差し込む居間で、私はひとり、読みかけの本を膝に乗せていた。ページをめくる手はときおり止まり、視線は自然と部屋の奥へ向かってしまう。

 

 そこでは、モーフィンがいつものように蛇の世話をしていた。木の枠にガラス戸を組み合わせた大型のケージが並び、その中では数匹の蛇がとぐろを巻いて眠っていたり、ぬるりと動いていたりする。それぞれの隅には水皿と枯葉、登り木が置かれ、モーフィンはそれらを器用に取り換えながら、独り言を呟いていた。ぶつぶつと、誰にも聞かせるつもりのない低い声で。

 

 いつもと同じ光景。けれど今日は──その様子を、トムがじっと見つめていた。

 

 少し離れた後ろに立ち、声もなく動きもせず。ただじっと。まるで風景の一部のように、目だけが興味深そうに蛇たちの動きを追っている。

 

 この家に来てからというもの、トムはずっと蛇に関心を示していた。でも、それを口に出すことはなかった。世話をしているのがモーフィンだからだ。彼の癖の強い雰囲気に気圧されてか、いつもソファの背に隠れて、そっと観察することしかできなかったのだろう。

 

 

 けれど、今は違う。少しずつモーフィンに慣れ、こうして姿を隠すことなくじっと見れるようになったのね。──棒立ちだけど。

 

 

 モーフィンがようやく気づいたのは、水皿を変えようと腰をかがめた時だった。ちらりと視線を向け、怪訝そうに眉をひそめる。

 

 

「……なんだ、お前」

 

 

 トムは黙ったまま、一歩だけ前に出る。目線の先はモーフィンではなく、ケージの中の蛇たちだ。

 モーフィンがぼそりと言った。

 

 

「蛇、好きなのか?」

 

 

 その問いに、トムは静かに──けれど、はっきりと頷いた。

 

 

「……ふん」

 

 

 鼻を鳴らしたモーフィンは立ち上がり、手をぱんぱんと払い、顎をしゃくってケージの方を示した。

 

 

「じゃあ、こっち来いや。掃除くらいしてみろ。話はそれからだ」

 

 

 トムはためらわなかった。黙ったまま数歩近づき、指示を待つように背筋を伸ばす。モーフィンは頭を掻きながら雑な口調で説明を始めた。

 

 

「皿汚れてンだろ。水の入れ替えと、糞尿の始末。ほら、ここにあるだろ?こうやって──ンで、こうだ」

 

 

 蛇の水皿に向かって杖をひと振りすると、濁った水が音もなく消えた。もう一度杖を振ると、今度は澄んだ水が満ちる。続けて床材の木片や砂の汚れに向けて杖を動かし、そこに染みた糞尿も跡形もなく消し飛ばした。

 

 

「──簡単だろ?」

「……」

 

 

 トムは無言のまま、真剣な顔でモーフィンを見上げた。

 

「あぁ?」と首を傾げるモーフィン。

 

 

 そのやりとりが何とも可笑しくて、私はつい吹き出してしまった。

 

 

「ぷっ──あははっ!」

 

 

 二人は一斉にこちらを振り返る。トムはただじっと。モーフィンはムッとした顔で、なぜ笑われたのか分からないといった表情だった。

 

 私は笑いながらソファに本を置き、二人のもとへと歩いていく。

 

 

「伯父様、トムは素晴らしい魔法使いだけれど、流石に杖もなしでアグアメンディとエバネスコとスコージファイは使えないわ!」

「あぁ……そうだったな」

 

 

 モーフィンは不機嫌そうに舌打ちし、首のあたりをぼりぼりと掻いた。

 

 トムはただじっと何か言いたげな目でモーフィンを見るだけで、硬く閉じた口は開かれない。……私はトムが何を言いたいのか、何を求めているのかわかるけど、モーフィンに汲み取って欲しいと思うのはちょっと酷よね。

 

 

「トム。教えて欲しいなら、ちゃんと思いを伝えなきゃ」

「……うん」

 

 

 トムは小さく頷くと、私のそばに寄り、服の袖をきゅっと掴んだ。多分、癖になってるんだと思うけど可愛いから指摘しないし、無くす必要はないと思う。うん。かわいい。

 

 

「伯父さん……僕ができる、掃除の仕方……教えて……」

 

 

 その声はかなり小さく、尻窄みに消えていった。

 モーフィンは面倒くさそうに、再び舌打ちし、トムを見下ろす。けれど、トムは怖がることもなく、その灰色の目でまっすぐにモーフィンを見返していた。

 

 

「仕方ねぇな……一回しか言わねぇぞ。それで覚えろや……」

「! うん!」

 

 

 トムは嬉しそうにぱっと表情を明るくする。笑うわけではなかったけど、その目は間違いなく輝き、やる気に満ちていた。

 

 大型ケージは積み重ねられていて、トムの身長では上のケージには手が届かない。モーフィンは杖を振りトムが乗れるような無骨な台と、雑巾と小さなバケツを作り出し、それをトムの小さな手に押し付けた。

 

 

「水、汲んでこい」

「うん!」

 

 

 トムは早足で台所に向かって、シンクにバケツを置き、蛇口を捻る。バケツいっぱいに、並々と注がれた水を見てモーフィンが「重いぞー」と後ろから声をかけた。

 バケツを持とうとしたトムは、その重さに目を見開きぐっと眉を寄せて奮闘していたが、流石に持ち上がることはなく──結局半分ほど水を流し、持てる重さに調節し、ゆっくりと運んだ。

 

 

「魔法、早く使えるようになれよ。じゃねぇと……面倒臭ぇぞ」

「うん。頑張る。……汚い水は、どうする?」

「あー……外に捨ててこい」

「うん」

 

 

 トムは台に乗り──それはぐらつくこともなくトムの体重を支えた──ケージから水皿取り出し集めると、汚水を溢さないように重ね、戸口まで走った。

 

 

「……あいつの杖も買いに行かなきゃなァ」

 

 

 モーフィンはトムの小さな後ろ姿を見てぽつり、と呟いた。

 

 

「そうね。──ふふっ、あとは頑張ってね」

「チッ……なんで俺がガキの世話なんざ……」

「今日は伯父様の好きな仔羊のステーキにするわ」

「……しゃあねぇなあ……」

 

 

 ぶつぶつと文句を言っていたモーフィンだったが、今日の晩御飯がステーキだと分かると直ぐに機嫌を戻してくれた。

 

 蛇の小屋を掃除し終わったら少し休憩したいだろうし、紅茶の準備でもしようかな。

 

 台所に立ってヤカンに水を入れる。杖でトン、と叩けばすぐにお湯が沸いた。ポットに茶葉を入れて、カップの用意もして。

 新しく買い直したティーセットは白磁の陶器。くすみ一つなく輝き、カップの縁には金の装飾が繊細に施されている。シンプルでありながら、どこか気品が漂う。

 

 

 リドル家との交渉で得た資金で、私たちゴーント家はようやく貧しさから抜け出した。

 

もう、怪しげな干し肉や萎びた野菜でしのぐ日々ではない。ふかふかの白いパンが毎日食卓に並び、食器も衣服も、少しずつ整えられてきている。家の中にも、ようやく暮らしの温もりが現れ始めた。

 

 本当はこの家も、いっそ建て直したいと思っているけれど──それだけはマールヴォロが首を縦に振らない。……この石と木の、ひび割れた屋敷にも、彼なりの思いがあるのだろう。

 もちろん、綺麗なランプや肘掛け椅子を買ったり、扉や窓を入れ替えたりはしているけれど。

 

 

 殆ど空っぽだったグリンゴッツの金庫にも、毎月少なくない量の金が溜まっている。……ただ、土地代を払ってくるのはマグルだから、毎月魔法通貨に両替するのがちょっと手間なのよね。まあ、贅沢な悩みね、こればっかりは仕方がない。

 

 

 紅茶をテーブルに置いて、綿がしっかりと詰まったソファに座る。モーフィンは腰を屈めてトムに掃除の方法を教え、トムは真剣な顔でその話を聞いていた。

 

 

 思わず、私は笑みをこぼした。トムの瞳が生き生きとしている。こうして好きな事をしているあの子は、孤児院で見せていた仮面のような静けさとは違って、何かを感じているように思える。

 

 ふと、トムが木の奥に身を潜める蛇を見下ろして言った。

 

 

 

「この蛇の名前は?」

「は? 名前なんてねぇよ」

 

 

 モーフィンはあっさりと返したが、トムはしばらく沈黙したまま、モーフィンをじっと見上げていた。その視線に気圧されたように、モーフィンは頭をがしがしと掻く。

 

 

「……名付けたいなら、好きにしろ。俺は呼ばねえけどな」

 

 

 それを聞いたトムは、小さく、けれどはっきりと微笑んだ。

 それはモーフィンに向けられた微笑みであり、モーフィンは驚いた顔で目を見開き、少し居心地悪そうに視線を逸らしていた。

 

 私だけでなく、モーフィンにも笑顔が見せられるようになったのはとても良い傾向だと思う。トムの中で、モーフィンは他人ではなくなってきているのかもしれない。

 

 そう考えると、胸がとくんと暖かくなる。

 

──少しずつでいい。少しずつ、あの子の心に居場所が増えていくなら、それでいい。

 

 本を開き、私は湯気の立つカップに手を伸ばした。トムの未来には、まだ多くのことがある。けれど今この瞬間、あの子が笑ったこと。それが何より大切だった。

 

 

 

 トムは、ケージの端に手を伸ばした。藁の下にひそんでいた蛇がのそりと動くと、その動きに合わせて手を止め、慎重に息をつめる。

 

 まだ幼い手つきだったが、妙に無駄がなかった。指先だけで蛇の動きを感じ取るような、その手際に、モーフィンが目を細める。

 

 

「おい、そっちはまだ掃除してねぇぞ」

「わかってる。こっちを片づけたらすぐやる」

 

 

 口数は少ない。けれど、返事ははっきりしている。命令に従っているというより、やると決めたからやっている──そんな意志が、あの子の背中にあった。

 

 モーフィンは腕を組んでその様子を眺めながら、ぼそりと呟いた。

 

 

「蛇に噛まれて泣くなよ」

「……泣かない」

「けっ」

 

 

 二人の間に流れる時間は、ぎこちなくも不思議と和やかだった。その光景を、私は居間の奥、ソファの上から静かに眺めていた。

 

 

 トムが蛇の背に優しく手を添え、モーフィンが時折口を出しながらも、それ以上は何も言わない。言葉は少なくとも、作業の合間に交わされる視線や仕草が、少しずつ距離を縮めているのがわかる。

 

 

「その蛇、名前つけたのか?」

 

 

 モーフィンがぽつりと聞いた。トムは手を止めてから、掃除中の蛇を見下ろして呟いた。

 

 

「うん。この子は白いからミルク。煙みたいな色なのはスモーク。黄色いのはバター。濃い緑色のはオリーブ。この子はしましま模様だからマーブル。この子は綺麗な黄緑色だからピクルス」

 

 

 そのひとつひとつに、本人なりの意味と観察があり、トムは一匹一匹指を指して説明した。

 

 

(か──かわいいっ……!)

 

 

 そのネーミングセンスが、あまりにも可愛くて私はぐっと頬の内側を噛んで笑うのを堪えた。

 

 外見に似合わず静かで、どこか大人びた雰囲気をまとっていたトム。けれどそんな彼の名づけは、驚くほど素直で子どもらしくて──それが、たまらなく可愛い。

 

 モーフィンもてっきり凝った名前や、暗い名前ばかりだと考えていたのか、意外そうにトムの満足げな顔を見下ろしていた。

 

 

「……まあ、好きにしな。名付けなんざ、俺はやったことねぇ」

 

 

 その言葉に、トムは小さく笑ったように見えた。

 

 

 掃除を終えるころには、ケージの中はすっかり綺麗になり、空気もどこか落ち着いていた。名付けられた蛇達も嬉しそうに『ありがとう』『いい感じだよ』とトムに声をかけている。トムは嬉しそうに目を細め、くねくねと動いたりとぐろを巻く蛇を見ていた。

 

 

「また、掃除してあげるね」

 

 

 トムがケージに手を入れ、蛇達の中でも一番大きな黒の赤の縞模様の『マーブル』の体を撫でた。マーブルは一瞬だけ舌を伸ばし、彼の言葉に応えるかのように微かに体を揺らした。

 

 

「お前、ほんとに蛇と仲良くなれるんだな」

 

 

 モーフィンが感心したようにぼそっと呟く。腕を組んで立っていた彼の顔に、僅かに笑みが浮かんでいるのを私は見逃さなかった。……滅多に見ない顔。

 

 

「マーブル、可愛い」

「可愛い、ねぇ……まあ、俺にはよくわからねぇが。お前がそう言うならそうなんだろ」

 

 

 モーフィンは肩をすくめながらも、否定しなかった。

 

 私はそのやり取りをソファから見ていたけれど、思わず小さく笑みがこぼれた。ほんの数日前まで、お互いの存在を探るように遠巻きにしていた二人が、こうして蛇を介して話しているなんて。

 

 

「伯父様、トムが上手に掃除してくれて良かったじゃない」

 

 

 からかうように言うと、モーフィンは鼻を鳴らした。

 

 

「まあな。思ったより使えるガキだ」

 

 

 その言葉に、トムがこちらを向いて、ちょっと得意げな顔をする。ほんの一瞬、子どもらしい笑顔が浮かぶ。それだけで、私の胸の奥がじんわりと満たされた。

 

 

「ありがとう、伯父様」

 

 

 小さな声でそう言うと、モーフィンは不器用に目を逸らし、「ああ」とだけ返した。

 

 

 その後も、トムは名づけた蛇たちを何度も見つめ、優しく声をかけ、嬉しそうにしていた。

 

 その目は、まるで初めて友達を見つけたように和らいでいた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 夕食の支度に追われながら、私は鍋をかき混ぜたり、材料を刻んだりと台所を行き来していた。ふと食器を片づけていた手が止まり、籠に目をやった瞬間、「あっ」と小さく声が漏れた。

 

 

「伯父様、今日のパンがないわ!」

「……はあ?」

 

 

 居間の椅子にぐでんと腰かけていたモーフィンが、だるそうにこちらを向いた。

 

 

「ほら、昨日の分で最後だったじゃない。私、すっかり買い忘れてたの。今日の夕飯の、あのいつもの白パン。四つお願いできる?」

「なんで俺が……めんどくせぇ」

 

 

 モーフィンは手を振って、「いやだ」と示し、起き上がる気配もなく、また瓶をラッパ飲みしている。

 私が行ってもいいけど、料理が全て終わった後じゃ遅いし、途中で置いておくことも難しい。肘掛け椅子で座って暇してるならモーフィンに行って欲しいのに。

 

 

「お願いよ、ミルデン横丁のボグの店でしょ? すぐじゃない」

「……俺ァもうこの椅子と一体化しちまったンだよ」

 

 

 ひっく、と酒の匂いを漂わせ、少なくなった瓶を振りながら言うモーフィン。最近お金に余裕ができたからって、毎日のように酒浸り。そろそろチクリと言わなきゃならないかしら。

 

 私は口を開きかけたが──それより早く、服の裾が引かれる感触に気づいた。

 言いたかった言葉を飲み込み、隣を見る。

 

 

「……姉さん」

 

 

 トムだった。いつの間にか近くに立っていて、小さな手で私の袖をきゅっと掴んでいる。

 

 

「なあに?」

「僕、買いに行ってくる」

「え……?」

 

 

 思わず目を見開いた。椅子の向こうでモーフィンも「お?」と眉を上げている。

 

 確かに、トムはミルデン横丁に何度も一緒に行ったことがある。道順は覚えているはず。落ち着きのある子だから、迷ったりふざけたりはしないだろう。でも──でも、これは『初めてのおつかい』なのだ。

 ……まだ三歳なのに、いいのかしら。少し早すぎない?

 

 確かにトムは他の三歳児と比べて賢い。多分知能的には五、六歳くらい、だとは思う。身長も高いし、年齢を言わなければ三歳児には見えないかもしれない。

 

 

「……ひとりで?」

 

 

 トムはこくりと頷いた。表情は変わらないけれど、頬がほんのり赤くなっていて、目がしっかりと私を見ていた。その瞳には、幼いながらも信頼されたいという真っ直ぐな意思が宿っていた。

 

──これは、本気だ。

 

 

 このあたりは田舎で人攫いとかは滅多に聞かない。マグルの子どもたちが広い草原で子どもたちだけで遊んでいるのはよく見るし、ある程度安全ではあるのだろう。

 

 私は一拍だけ考えてから、小さく微笑んだ。

 

 

「……分かったわ。じゃあお願いしてもいい? ボグの店で、白パンを四つ。いつものやつよ」

「うん」

 

 

 私は戸棚から麻袋を取り出し、中に銀貨を数枚入れて巾着を閉じ、肩がけの鞄を出してトムに渡した。トムは鞄をきゅっと握って、肩からしっかりと掛け直した。

 緊張しているのか、顔つきがやけに真剣だ。

 

 

「気をつけてね。何かあったらすぐ帰ってきていいから。──念のため、蛇を一匹連れて行きなさい」

「うん」

 

 

 トムは蛇のケージに向かうと、ガラスの引き戸を静かに滑らせる。一番先に近づいてきた鮮やかな黄緑色の蛇に向かって手を差し伸べた。

 

 

『ピクルス、行こう』

『仕方ないなー』

 

 

 やれやれ、と言わんばかりだがピクルスと呼ばれた蛇は嬉しそうに体をくねらせてトムの手に這い上る。トムはポケットの中に蛇を突っ込み、上からぽんぽんと優しく撫でた。

 

 トムは間違いなく、世界で一番可愛くてかっこいい子どもだ。もし、万が一人攫いに遭ったとしても、あの蛇が噛み付いてくれる。……あの蛇、確か毒蛇だし。

 

 

「行ってきます」

 

 

 トムは、玄関へ向かうと振り返って、片手を小さく挙げた。めったに見せない仕草に、私は思わず「行ってらっしゃい」と笑って手を振った。

 

 扉が閉まり、カチリと音を立てて鍵がかかる。

 

 

──その瞬間。

 

 

「伯父様!」

「……ぉおっ?」

 

 

 私はモーフィンの元に駆け寄った。モーフィンは肘掛け椅子の背に体を預けたまま身を引く。

 

 

「私に目眩まし魔法をかけて! ほら、早くトムを見失っちゃうわ!」

「……ついていく気か?」

「当たり前よ! 初めてのおつかいよ? 見に行くに決まってるじゃない!」

 

 

 トムの、初めてのお使い!

 頭の中には前世でよく聞いた曲が流れている。見逃すわけにはいかないわ。ああっ! 映像が残せたらいいのにっ!

 魔法界は最高だけど、映像を残す技術が進歩してないのよね。写真止まりで……魔法で少しは表現できるけど、私は全てずっと記憶しておきたいのに!

 

 

 私が興奮して声を張り上げると、モーフィンは頭を押さえて「やれやれ……」と呟きながら、ポケットから出した杖を振って私に魔法をかけた。とろり、と冷たい物が頭のてっぺんから足先まで流れるような感覚──目眩まし魔法が発動した。自分の手を見てみれば、床の色や質感と同じになっている。

 

 

「じゃあ、行ってくるわ!」

「……おう」

 

 

 モーフィンは酒の瓶を傾けながら、あまり興味なさそうに頷いた。

 

 

 

 そっと扉を開けて外を見る。トムは家の前の小道を一歩ずつ歩いていた。背筋を伸ばしてまっすぐ歩く姿は、いつもより少しだけ背が高く見えた。

 

 私は少し離れた位置からこっそりついていく。花の香りがする道を進む途中で、トムが足を止めた。野草の間に咲いた小さな花を見下ろし、しゃがんで眺めている。

 

(……寄り道? あぁ、大丈夫かしら)

 

 と思ったが、すぐに立ち上がり、何事もなかったように歩き出した。今度は蝶々が目の前を横切る。トムは目で追いかけるけれど、すぐに意識を戻してまた歩く。

 

(……ふふ。偉いわ、かわいい……)

 

 距離があって何を言っているのか聞こえなかったけれど、トムがポケットの中にいるピクルスに何かを話しかけていた。

 その目は穏やかで、初めてのお使いだというのに全く緊張していない。

 

 

 ふと、トムは足を止めた。

 そのまま静かに後ろを振り返る。

 

 私はぴたりと動きを止めた。隠れる場所なんてないけど、モーフィンが目眩まし魔法をかけているし見えない、はず。

 

 

 トムは私がいるあたりをじっと見ていたけれど、気のせいだと思ったのか肩からずれかけていた肩紐を上げ直して前を向いた。

 

 ほっと胸を撫で下ろす。

 見すぎて視線を感じたのかな?それとも、勘が鋭い子なのかしら。

 

 

 トムは少し早歩きで道を進む。私はなるべく足音を立てないようにしてその後ろをついていった。

 マグルの商店街の通りを、トムは見ないようにして進む、そのまま人気のない路地に向かい、汚れた気木製の扉──魔法界へと扉を開けた。

 

 

 すぐについて行こうとして、手を止める。

 うん、もうちょっと待たないとトムに怪しまれるわ。ああ、でもトム、大丈夫かしら?

 

 

 扉の前でうずうずとしながら待つこと二分。よし、十分だろうと判断し、入店を告げるベルの音が鳴らないようにそっと扉を開け、そっと閉める。どれだけ気をつけても小さく音がなってしまったが、パブの中は夕方前ということもありガヤガヤしていて不審には思われなかった。

 そのままパブの店内を通過し、裏手へ向かう。

 ミルデン横丁の通りにでれば、ちょうどトムがボグ店に入るところだった。

 

 

 トムはボグ店の前で少し足を止め、じっと看板を見上げた。そのまま大きく息を吸い、ぐっと表情を引き締めて店内に入る。

 

 燻製肉や干し魚、乾燥ハーブに缶詰。色々なものが並んでいる中、カウンター近くの木製の棚には数種類のパンが置かれていた。安くて硬いパンは雑多に積まれ、白くてふわふわとした高級なパンはきちんと整列している。

 

 トムはまっすぐカウンターへ向かい、向こう側で新聞を読んでいる店主に向かって「あの、」と声をかけた。老女は新聞を下げキョロキョロと辺りを見回し、誰もいないと思ったのか眉を寄せて首を傾げる。トムは少し後ろに下がり、自分の姿が見えるようにした。

 老女はトムの姿を見て──硬い表情なのに頬は赤く、カバンの紐をしっかりと握っている──すぐに一人でおつかいに来ているのだと察したのか、目元の皺を深くした。

 

 

「おやまぁ。いらっしゃい」

「白パン、四つ……ください」

 

 

 静かでけれどはっきりした声だった。老女はもごもごと口を動かした後、ゆっくりと頷き杖を振る。白パンが棚から四つ浮かび、紙袋の中に飛び込んだ

 

 トムは紙袋を受け取ると、手のひらで銀貨を数え、正確に差し出した。

 

 老女はしっかりと銀貨を数え、お釣りの銅貨を細く皺だらけの指で摘み返す。トムは麻袋におつりを入れると、きゅっと口を結んでカバンの中に入れた。

 

 一人で買い物ができた、その充実感と誇りに、つい表情が緩んでしまったのだろう。でも、それを他人に見せたくないのか必死に堪えている。そんな健気な様子が可愛くて、帰ったらもう、褒めちぎらないといけないわ……!

 

 

「ほれ、手を出しな」

 

 

 帰ろうとしていたトムに老女が声をかける。

 トムはきょとん、としたままカウンターに近づき、小さく首を傾げた。

 老女は「よっこいせ」と漏らしながら椅子から腰を浮かし、何かを差し出す。不思議そうに受け取ったトムに、老女は優しく微笑んだ。

 

 

「ハチミツ漬けラスクさ。サービスさね」

「……あり、がと」

 

 

 甘い香りに、トムはぎこちなくもお礼を言い、それを蛇が入っていない方のポケットに入れた。老女は「またおいで」と優しい目で見送る。

 

 トムは、なんとも誇らしげな表情で店を出た。──ああ! 本当に良かった!

 

 私は感動で震えながらトムの後を追う。

 

 

 

 ミルデン横丁の枯れた噴水前に差しかかったとき、トムはふいに足を止めた。

 

 水の代わりに枯れ葉が敷き詰められた噴水の中に、一匹の黒猫がいた。艶のある毛並みに、琥珀色の瞳。じっとこちらを見つめている。

 

 

「……猫?」

 

 

 トムがそう呟いた途端、猫はすっと跳び下り、彼の足元に擦り寄ってきた。鞄の匂いを嗅ぎ、前足でちょいちょいと袋をつつく。

 

 

「これはだめ。僕のパンだから」

 

 

 冷静な口ぶりだったけれど、猫のしつこさはなかなかのもので、トムが立ち止まるとすかさず膝に飛び乗ろうとする始末。

 

 

 私は思わず笑いをこらえた。猫に翻弄されるトムなんて、初めて見た。

 

 

「……ハチミツの匂い、した?」

 

 

 紙包みを取り出して確認しようとした瞬間、猫がぴょいと鼻先で突いてくる。

 

 

「やっぱり。……あげないよ」

 

 

 トムは猫の頭をぽんと軽く押して後ずさりし、袋をしっかり抱え直して早足になった。

 

 それでも猫は諦めず鳴き声を上げて鞄に猫パンチを繰り出す。トムはひょいと鞄を掲げてかわした。そのパンチはトムのポケットにあたり──中から『いたっ!』と呻き声が聞こえる。

 

 ぬるりと顔をもたげた蛇は大きく口を開けて猫を威嚇し、猫は毛を逆立てて飛び上がると、尻尾を巻いて慌てて逃げ出した。

 

 トムは鞄を持ち上げたまま目をぱちくりとさせて蛇を見下ろす。蛇は舌をチロチロとさせながら猫が消えた方を見ていて、どこか堂々としていた。

 

 

『……ありがとう、ピクルス』

『猫なんかに負けねぇよ』

 

 

 ピクルスはそう言うと、またトムのポケットの中に引き込んだ。

 トムはポケットの膨らみを一度撫で、鞄を抱え直して帰り道を急ぐ。その後ろ姿は──少しだけ大人びて見えた。

 

 

 

 先回りして帰宅し、姿を消していた魔法をモーフィンに解いてもらう。

 

 ほんの数分後、玄関のドアが開いた。

 

 

「ただいま」

「おかえり、トム!」

 

 

 トムは頬を少し赤らめ、鞄を抱えたままこちらを見上げた。表情は控えめだけれど、どこか自信に満ちていて、背筋が一層しゃんとしていた。

 

 

「姉さん、僕、一人でおつかいできたよ」

「まあ!」

 

 

 私は鞄を受け取り、中を確認する。いつもの白パンが、ちゃんと四つ。紙包みの中には、ふんわりと甘いバターの香りもした。

 

 

「ありがとう、トム。とってもすごいわ!」

 

 

 思わず、彼をぎゅっと抱きしめた。

 トムは少し驚いたように固まったが、すぐに力を抜いて、小さく、けれど確かに笑った。

 

 

「……いつでもおつかい、行くからね」

「すっごく助かるわ」

 

 

 その言葉に、トムはさらに嬉しそうにはにかんだ。

 

 

 

 

 夕食の時間になると、食卓にはスープとロースト肉、温野菜、それに──トムが買ってきてくれたパンが並んだ。

 

 いつも通り、テーブルの奥にはマールヴォロが座っていた。背筋を曲げ、偏屈な表情で無言のまま、ナイフとフォークを使って食事を進めている。誰にも話しかけようとしないし、こちらの会話に反応する様子もない。

 

 そんな中で、トムが唐突に口を開いた。

 

 

「それ、僕が買ってきたんだ」

 

 

 モーフィンが手を伸ばしかけていたパンに対しての一言だった。

 モーフィンが知っているとトムはわかっているが、それでも言わずにいられなかったのだろう。落ち着いているけれど、どこか誇らしげで、私は思わず、にこりと微笑む。モーフィンはいつものように鼻をフンと鳴らし「そうかい」と言った。

 

 トムは自分の皿のパンを手に取り、こっそりとこちらを見た。その頬はうっすら赤く染まっていて、目はわずかに緩んでいた。その、何でもない顔で誇らしげにしているあの子の仕草が、どうしようもなく可愛くて、私は「本当に偉いわ」と言って何度も褒める。

 

 

 ふと、マールヴォロがパンの籠に手を伸ばした。

 ひとつを取り、軽く切れ目を入れて、半分に割り口へ運ぶ。

 

 そして──何も言わなかった。

 

 誉めもしないし、驚きもしない。ただ、何かを一瞬だけ測るような目で、ちらりとトムの方を見た。それだけだった。

 

 それだけ。けれど食卓の空気は沈まず、今はそれで十分だと思えた。

 

 

 

 食後、テーブルの片づけをしながら、私はついマールヴォロの方へ話しかけた。

 

 

「ねえ、お祖父様。今日のパン、トムが一人で買いに行ったのよ。ミルデン横丁まで、ひとりで」

 

 

 マールヴォロは肘掛け椅子に座り、暖炉の火をじっと見つめていた。視線はこちらに向くこともなく、いつものようで私は残念に思いながら肩をすくめる。トムは蛇のケージの前で、ちらり、とこちらを見ていた。

 

 

「……初めてのおつかい。すごいと思わない?」

 

 

 すると、マールヴォロはほんの僅かに口角を引いたようにも見えたが──それは気のせいだったかもしれない。

 

 次の瞬間には、低く、乾いた声で言った。

 

 

「買い物ぐらいで騒ぐな」

 

 

 それだけだった。あまりにも予想通りの反応に、私は肩をすくめて笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 食器を洗い終えて、湯気の残る手をタオルで拭いながらソファに腰を下ろした。背中が沈み、ほっと息をつく。

 そのとき、蛇を眺めていたトムが、音もなく近づいてきた。

 ふわりとソファがもう一度沈み、小さな重みが隣に加わる。私の服の裾を、細い指がそっとつまんだ。

 

「どうしたの?」と声をかけると、トムは一度瞬きをして、少しだけ口を開いた。

 

 

「……これ、もらった」

 

 

 差し出された紙包みを受け取ると、ふわりと甘い香り。中にはハチミツ漬けのラスクが二枚入っていた。

 

 

「一緒に食べよ」

 

 

 そう言った瞬間、トムはわずかに顔を逸らした、けれど袖口をそっと摘んだままだ。頬がうっすら赤く、目だけがこちらを真っすぐに見ている。

 胸がきゅうと温かくなる。──私と分けたいと思ってくれたんだ。

 

 

「……ありがとう、トム」

 

 

 胸がきゅうと温かくなる。抱きしめたい衝動を、なんとか撫でる仕草に変える。

 指先が柔らかな髪を梳くと、トムはほんの一瞬だけ目を細めて、撫でる手に額をすり寄せてきた。

 

 その仕草があまりにも愛しくて──。

 

 

「なんていい子なの!」

 

 

 結局、私はトムを強く抱きしめた。

 

 

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