白い光が差し込み、瞼を照らす。トムはきゅっと眉を寄せるとごろんと寝返りを打った。そのまま布団を握りしめ体を丸めていたが、一度浮上した意識を誤魔化すのは難しい。
目を擦りながら体を起こし、ベッドのすぐそばのカーテンを開けた。太陽の光が透けて見える木の葉をぼんやりと眺める。
(……あれ)
ふと、鼻をひくりと動かした。
いつもならパンと紅茶のいい匂いがしているはずが、今日は何の匂いもしない。早く起きすぎたかと思ったが、太陽の位置は何時もよりも高い。
不思議に思いながら何気なくリリスのベッドを見ると、いつもはない膨らみがあった。トムはベッドからそっと抜け出すと、静かにリリスのベッドへと近づく。いつも自分より遅く寝て、早く起きているリリス。寝顔を見た事なんて数える程しかなく、珍しさから覗き込む。
リリスは眠っていた。
規則正しく肩が上下している。トムはリリスの長いまつ毛をじっと見ていたが、ふと額に汗が滲み、前髪が張り付いてる事に気づいた。
(今日、そんなに暑いかな?……ほっぺたも、赤い……)
「姉さん……朝だよ、起きないの?」
トムは遠慮がちにリリスに声をかける。しかし瞼は震える事はなく、すうすうと寝息が聞こえ続けた。
「姉さん?」
肩を揺らす。トムは触れたリリスの体の熱さに目を開き、そっと頬に触れた。
「あつい……」
いつもは白い頬が、赤い。
額も、熱くて汗ばんでいて。
いつもは起きている時間に起きない。
「姉さん……?」
「……ん……ぁ、トム、おはよ……」
ふっとリリスは目を開けた。その目は寝起きにしては潤んでいたし、その声はいつもより掠れ元気がない。見るからに体調不良だったが、トムは熱を出した事が無く、それに気付かなかった。トムはリリスが起きた事に、ほっと表情を緩める。
リリスは微かに笑い、体を起こす。喉に手を当て「んんっ」と詰まったような咳をこぼすと、そのまま額に手を当てた。
ああ、ちょっと最近夜更かししすぎたかもしれない、体が重いし喉は焼けているみたいに痛い。体も、熱いのに震えるし──。
「姉さん?」
「……大丈夫よ」
それでもリリスはトムを心配させまいと微笑んだ。
とりあえず、朝食を作って、食欲はないけど食べて、モーフィンに薬を作ってもらって──。そう考えながらリリスが立ち上がろうとしたのは、無意識の習慣のようなものだった。
しかし布団から抜け出し、足を床に降ろした瞬間、体は言うことをきかなかった。ぐらりと視界が傾き、脚に力が入らずその場に崩れ落ちるように座り込む。
トムは呆然とその様子を見おろした。
いつもと違う。絶対に違う。
姉さんはいつも朝にはちゃんと起きて、紅茶を淹れて、パンを焼いて、笑っていた。なのに今、まるで壊れた人形のように項垂れて、身体が小刻みに揺れている。
「姉さん……!」
トムはリリスの隣に膝をついた。揺さぶることすら怖くて、ただその横顔を必死に覗き込む。
顔が赤い。汗が額を濡らしている。吐息が熱い。眉は寄せられて、遠い目をしている。
(こわれちゃったみたい)
「姉さん……やだ、っ……!」
声が震えた。喉の奥から絞り出すような声だった。
トムはようやく──姉さんは熱が出ているんだ──と気づいた。発熱や病気の概念は知っていたが、それでも今目の前で起きていることが、ただの風邪なのか、それとももっと恐ろしいものなのか──区別がつかなかった。
トムはリリスの頭を胸に抱きしめ、小さな腕で必死にその身体を引き寄せた。
その熱は、まるで燃えているかのようだった。
(姉さんが……姉さんが、死んじゃう……!)
頭の中で警鐘のように鳴り響く恐怖。背中から這い寄る悪寒。今いる場所が呆気なく崩れてしまうのではという妄想──それらが、トムの中に眠っていた力を呼び覚ました。
──空気が、ざわりと揺れた。
部屋の空間そのものがきしみ始めた。
何かが、目には見えない力で揺れ動いていた。次の瞬間──
窓が一気に開き、カーテンが嵐に巻き込まれたようにバサバサと窓を打つ。
机の上に置かれていたランプや本が宙に浮かび、椅子が横転し、タンスの引き出しが勝手に飛び出し衣服が舞った。
床板が震え、壁がミシミシと軋みをあげ、窓がガタガタと揺れる。
まるで、部屋そのものが生き物のようなうめき声を上げていた。
扉が勝手に開き、廊下の空気を巻き込んでさらに風が渦巻く。居間に置かれた蛇のケージでは、蛇たちがトムの異常な魔力を感じ騒ぎ始めた。とぐろを巻いていた蛇たちが警戒の音を立て、ガラスの引き戸に頭を打ちつけるようにして暴れる。
ゴーント家全体が、まるで嵐の真ん中に落とされたかのようだった。
部屋で寝ていたモーフィンも流石に目を覚ました。まだ半分寝ぼけつつも重い足を引き摺り、欠伸をしながらガタガタとうるさく吹き荒れる部屋を覗き込む。
「……なンだぁ? 朝っぱらから……ガタガタうるせぇな……」
寝癖だらけの頭をかきながら、モーフィンがよろよろと姿を現す。だが目の前の光景に、彼はさすがに足を止めた。
家具が吹き飛び、窓が勝手に開き、カーテンがちぎれそうなほど暴れている。魔力が風となって渦を巻き、まるで家の中だけ嵐が通っているようだった。
「……こりゃまた……見事な暴走だな」
呆れたように呟き顔をしかめた。トムやリリスを心配する声音ではなく、むしろまるで自分の朝が台無しになったことの方が問題だとでも言いたげな顔だ。
その嵐の中心には、ぐったりとしたリリスを抱えるトムの姿があった。幼い腕で、必死にリリスを守るように抱きしめている。
「おじさん……っ! 姉さんが、姉さんが……死んじゃう……!」
涙声で叫ぶトムに、モーフィンは「……はあ」とわざとらしく深いため息をついた。
「……ったく。風邪だろ。魔女がそのくらいで死ぬかよ。大袈裟なガキだ」
そう言って、嵐の中心にずかずかと足を踏み入れる。髪もローブも風でめくれ上がるのを手で払いながら、トムの傍まで近づいた。
そしてしゃがみ込み、ぶすっとした顔でリリスを見下ろす。
変な痣や鱗ができているわけでもない。顔色が悪くそれでいて頬は赤い──どう見てもただの風邪だろう。
「見りゃわかるだろ、熱でふらついただけだ。薬飲んで寝かせときゃ治る」
「……し、死なないの?」
トムの声は、震えていた。
モーフィンは大げさに肩をすくめる。
「死ぬわけねぇだろ。どっかの弱っちいマグルと一緒にすンなっての」
トムは強張っていた肩の力をふっと抜いた。
その言葉が引き金になったかのように、風が弱まり、部屋を吹き荒れていた魔力が、しゅるしゅると渦を巻いて消えていく。家具が床に落ち、ガラスの音が鳴り止み──ようやく家の中に静寂が戻った。
トムはその場にへたりこみ、リリスを抱きしめたまま息を詰めて安堵したように囁いた。
「……よかった……」
モーフィンが杖を取り出して一振りすれば、家具は元の場所に戻り、床もきれいになり、元の生活が戻った──かのように見えた。
──ただ、いつもの朝のはずが、今朝は誰も朝食を用意していない。
モーフィンはちらりとリリスを見て、喉の奥で苛立ちを含みながら呟く。
「んで……朝メシの支度もまだだよな……面倒くせぇ」
モーフィンはため息をつくとイラついたように天井を見上げ、また頭をボリボリとかく。
だがその目は、一瞬だけ、不安そうなトムと、抱きかかえられたまま眠るリリスの方へ向けられていた。
リリスが“変わってしまって”から数ヶ月。そろそろ反動で疲れが一気に来てもおかしくはない。むしろ、今までよく持った方かもしれない。
「……おら、寝かしとけ」
「う、うん」
頷き、トムは懸命にリリスの体を支えてベッドに上げようとしたが、まだ三歳のトムにそれは無理な話だった。モーフィンは舌打ちを一つすると、ひょい、とリリスの首根っこを掴み──リリスが苦しげに「う」と呻き、トムが表情をこわばらせた──ぽい、と乱雑にベッドに放り投げた。
その衝撃で目を覚ましたリリスは、何度か咳き込みながらトムとモーフィンを見る。
「トム……伯父様……私、朝ごはん……ごめん、なさい」
「……何か食えるもん、残ってるか?」
「……」
モーフィンの問いにリリスはかすかに首を振る。ということは、全部準備しなければいけないのか──面倒だ、とモーフィンは何度目かの舌打ちをこぼし、リリスは申し訳なさそうに眉を下げた。
不安気にリリスとモーフィンを見ていたトムは、リリスの白い手をきゅっと両手で包み込むようにして掴んだ。
リリスは目元を緩めながら、視線だけで「どうしたの?」と問う。──話すのも、喉が痛くて億劫だった。
「姉さん、ゆっくりしてて」
「……ありがとう、トム──」
「僕が作るから!」
トムは宣言すると、やる気と使命感に満ちた目でリリスを見つめ、強く手を握る。リリスは「え?」とこぼし、モーフィンは面倒ごとが増えそうな予感に、背中を丸め首元を掻いた。
「トムが? ……でも、料理は、まだしたことないでしょ?」
「僕、できるよ」
「……」
確かにトムは賢い子だ。とはいえ三歳であり、その自信はどこからくるのか──。リリスはちらりとモーフィンを見た。モーフィンはその視線を嫌そうに見返していたが、まあ、トムが簡単な料理を作れるようになれば、また同じようにリリスが寝込んだ時に自分の手間がなくなるか、と考え直した。
「……行くぞ」
「うん! 姉さん、ゆっくり寝ててね」
「ええ……」
トムはずれかけている布団をリリスにかけてやり、とんとんと優しく叩く。リリスは重い腕を上げてトムのやる気に満ちた頬をするりと撫でた。その途端、トムは嬉しそうに表情を綻ばせた。
本心を言えば、初めての料理だなんて近くで見たかったし、本当なら一から教えてあげたかった。慣れてきているとはいえ不器用なモーフィンが、どのようにトムに料理を教えるのだろうか。リリスは不安とモーフィンへの嫉妬で少し複雑そうにしながら、かけられた布団の優しさを無碍にすることはなく大人しく寝転んだままでいた。
扉が閉まる音を聞きながら、リリスはふぅと息をついた。温かい毛布の中で目を閉じ、心のどこかでふたりの足音を聞きながら想像する。
──きっと今頃、モーフィンが文句を言いつつ台所に立っているはず。そして、トムは真剣な顔でその隣にいるだろう。
(ああ、やっぱり見れないのが残念だわ……)
モーフィンはぼやきながら杖をひと振りし、棚の奥からオートミールの袋やミルク瓶を浮かせて取り出す。台の上に次々と降ろされた材料を、トムは興味津々に眺めていた。
「手ェ洗っとけ」
「うん」
トムは真剣な面持ちで水場に向かい、小さな手を泡立ててごしごしと洗う。その様子を横目で見ながら、モーフィンは魔法でコンロに火を灯した。
「トム。鍋にミルクを適当に入れて、そっちのオートミール、ふた掴み分くらい放り込め。そしたら、焦がさねぇように混ぜとけ」
「……うん」
背丈ほどの窓から差し込むやわらかな陽光の中、いつもリリスが使っている台に乗ったトムは真剣な表情でミルク瓶を両手で抱え、ゆっくりと鍋に注ぐ。
小さな掌で丁寧にオートミールをすくい、さらさらと鍋の中へ落とす。白いミルクに茶色い粒が沈んでいく様子を、じっと見つめながら木べらを両手で握り、ふつふつと泡が上がってきたあたりでゆっくりと混ぜた。トムはまだ魔法が使えない──だから、できることは丁寧に、真剣に行った。
その間、モーフィンは薬棚をがさごそとあさっていた。
「風邪には元気爆発薬、だったよな……ちっ、切らしてやがる」
瓶の底を確認しながらぼやき、仕方なく棚を閉じた。作り直すのも正直面倒だなと内心で舌打ちする。体調を崩した姪っ子のため、という気遣いよりも──空腹の方が優先されていた。
ぐぅ、と腹の虫が情け容赦なく鳴き、モーフィンはしかめっ面で鍋を睨む。
「……ったく、朝っぱらから……」
その横で、トムがくるくると木べらを回している。真剣そのものの目つきで、鍋の中を丁寧に混ぜている姿に、モーフィンは一瞬だけ視線を止めた。
「……焦がすなよ」
「うん。焦げたら、姉さんが食べられなくなるから」
トムは振り返らずに答える。その小さな背中から、まっすぐな優しさが滲んでいた。
白いミルクにオートミールが溶け、ふつふつとした優しい音を立てる。トロリとした粥状になってきたところで、トムは火を止めた。鍋の中から漂うやわらかな甘い香りに、トムはそっと鼻を近づけて目を細めた。
(できた。でも、まだ熱いな、すぐに姉さんのところへ持っていくのは無理かな)
少し冷ます間、手持ち無沙汰にしているトムを見て、モーフィンがごそごそと野菜の入った籠を引き寄せ、ぶっきらぼうに声をかけた。
「おい、こっち来い。野菜、適当に切れ」
「うん」
トムはぱたぱたと水場に向かい、泡立てた石鹸で丁寧に手を洗うと、台に乗り背伸びしてまな板の前に立った。ごろりと転がされたにんじんを見つめ、トムはふと口を開いた。
「……にんじん、半分にしてから切る? いつも姉さんはそうしてた」
「あァ? ……好きにしろ」
モーフィンは素っ気なく言いながらも、心のどこかで「そう言えば、そうだったかもしれねぇな」と思い当たる。いつもなら野菜の形なんて気にしなかったが、言われてみればリリスの作るスープにはいつも整った形のにんじんが入っていた。
トムは小さな手でにんじんを押さえ、初めて持った包丁の刃を、じっと見つめた。
少し緊張しながら、ゆっくりと包丁を動かす。まず半分にして、それから厚みをそろえて輪切りにしていく。じゃがいもも同じように、丁寧に洗って四等分。玉ねぎは目に沁みて目を瞬かせながらも、最後まで切りきった。
「おい、手ェ切るなよ」
「切ってないよ。だいじょうぶ」
その様子を見ながら、モーフィンはいつになく無言で頷いた。
魔法で切るよりも何倍も時間と手間はかかるが、切り終わった野菜の形は魔法で切ったものと遜色は無かった。
切り終わった野菜をトムが鍋に入れ、モーフィンは手早く塩と胡椒だけで味を整える。ハーブもバターもない、ただそれだけの簡素なスープ。それでも、トムは料理らしい料理を初めて自分で作り、満足そうに鍋の中のスープと、少し冷ましたミルク粥を交互に見つめていた。
***
まだ薄暗い寝室に、廊下からそっと扉が開く音がした。
カタン、と小さな音を立てて入ってきたのは、両手でトレイを持ったトムだった。慣れない手つきで慎重に足を運び、トレイの上のミルク粥をこぼさないように、真剣な表情で歩いている。
ミルクの湯気と甘い香りが、ひっそりとした部屋にふわりと広がった。
気配に気づいたのか、リリスが薄く目を開ける。トムに気づくとややぼんやりとした表情のまま体を起こした。
「姉さん、大丈夫……?」
トムの声は、不安と優しさが入り混じっていた。
「……ええ、大丈夫よ」
けれど、その笑顔は明らかに虚勢だった。顔にはまだ赤みが残り、目元には熱と疲れの影が浮かんでいる。それでも、トムの手に乗っているミルク粥を見た瞬間、リリスの目が少し驚きに見開かれ──次の瞬間、柔らかな笑みに変わった。
「まぁ……作ってくれたの? ありがとう、トム」
トムはこくんと小さく頷き、そっとベッドの脇にトレイを置いた。
「ミルク粥。姉さん、食べられる……?」
「ええ、もちろん。とっても嬉しいわ」
リリスはスプーンを取ろうとしたが、指先がかすかに震え、スプーンはカチャリとトレイの上に落ちてしまった。
その音に、トムがすぐに反応した。
「……僕が食べさせてあげる!」
その申し出に、リリスは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが──すぐにふっと微笑み、優しく頷いた。
「お願いしようかしら」
トムは椅子を引き寄せると、慎重にスプーンをすくい、ふうふうと小さな口で一生懸命に冷ました。熱くないか、匂いはおかしくないか、心配そうに何度も確認する。
そしてスプーンをリリスの口元へそっと差し出した。
「姉さん……あーんして」
「ふふ……あーん」
リリスはトムの可愛い仕草に抱きしめたいのをぐっと堪えて口を開けた。
トムはこぼさないように、慎重にミルク粥を口に運ぶ。
それは、まだほんの少し固まりが残っていたけれど──温かくて、やさしい味がした。甘みはごくわずかで、ミルクの香りがほんのりと舌に残る。きっと、トムが一生懸命作ってくれたからだろう。
「ん……美味しいわ」
リリスが微笑むと、トムの顔がぱっと明るくなった。頬を染め、胸を張るように「よかった」と呟く。
小さな背中に、満足そうな温もりが灯っていた。
リリスの寝室に、ほんのり甘いミルク粥の香りが残る頃。
居間には、また別の香りが立ちのぼっていた。
ぐつぐつと煮える鍋から立つ湯気。トムが切ったにんじん、ジャガイモ、玉ねぎ──シンプルな野菜と、塩と胡椒だけの味つけ。魔法の火加減で煮込まれたそれは、見た目に温かいはずだが、不思議と、どこか寂しかった。
パンは籠ごと置かれ、焼き直しすらされていない。
「ほれ、冷めねぇうちに食えよ」
モーフィンが不機嫌そうに皿を並べる。スプーンが卓上に落ち、カツンと音を立てた。
トムは静かに「いただきます」とだけ呟き、ふと自分の指先に残るミルクの匂いに気づいて目を伏せた。
ほどなくして、マールヴォロも現れる。呼ばれて来たことは明白で、無言のまま席につき、「……食うぞ」とだけ低く告げた。
卓上には、スープとパンだけが置かれていた。温め直されてもいないパン。バターも添えられず、ハーブも、付け合わせも、なにもない。
ただ、腹を満たすだけの膳。
その光景に、マールヴォロはすぐに気づいた。
──あのガキがいない。
彼女の手が加わった料理には、いつも小さな気配りがあった。焼き色、香り、盛りつけ……どれも過剰ではないけれど、そこには明らかな“手間”があった。
今日はそれがない。
だが、彼は何も言わなかった。スプーンを持った手を止めることもなく、鼻をふんとひとつ鳴らしただけだった。
それを見たトムの眉がほんの少し、曇った。
言いたいことはあった。でも、言っても無駄だと分かっていた。
斜め向かいでスープをずるずるとすすっているモーフィンの様子を見て、彼は口を閉ざした。
(……姉さんの味、じゃない)
スプーンを口に運ぶと、温かいはずのスープがどこか水っぽく、味気なく感じた。
一方でモーフィンも、口には出さないまでも同じ違和感を噛み締めていた。
野菜にしっかりと火は通っている、味もごく普通。
それでも──まるで、舌の奥に“満たされない空白”が残るようだった。
(……ちっとも旨くねぇ)
無意識に舌打ちしたくなった。
だがそれを咎めるような気配がする気がして、モーフィンは仕方なくスープをもう一口すすった。
いつものようにリリスが仕込んだ香草の香りもない。パンは、固い。
本人が寝込んでいると分かっていても、「これじゃない」と舌が文句を言ってくる。これなら、先に薬を作って無理やりにでも朝食を作らせたら良かった。
「……クソが……」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
食卓に並んだのは、ただのスープとパン。だがその違和感に、三人とも気づいていた。
──それでも、誰も、リリスの名前を口に出さなかった。
その朝は、いつもよりずっと静かだった。
スプーンの音、パンをかじる音、椅子の軋む音。
食事の場にあったはずの会話も、ぬくもりも、そこにはなかった。
そして皆、理解していた。
この家の朝に、確かな「味」と「あたたかさ」を灯していたのは、あの幼い──リリスだったのだ、と。
***
リリスが静かに寝息を立てていると、軋む床の音が聞こえ、リリスはふっと目を覚ました。
扉が半分開き、そこからモーフィンが入ってくる。片手には、金属のゴブレット。その中でとろりとした黒褐色の液体が、鈍く光っていた。
その後ろから、ひょこりと小さな頭が覗く。トムだった。心配そうな目をして、そろりとベッドのそばへ近づいてくる。
「……飲め」
モーフィンがぶっきらぼうに言いながら、ゴブレットを突き出した。声色も顔つきも、いつもと変わらないが、リリスは彼の不器用な優しさを知っていた。
「ありがとう、伯父様」
リリスは体を起こし薄く笑いながら、両手でゴブレットを受け取る。その指先にはまだ微かな震えが残っていたが、トムが作ったミルク粥を食べた彼女の瞳にはわずかに力が戻ってきていた。
一口、喉へと流し込んだその瞬間、薬の濃密な苦味が舌に広がり、喉を焼くような刺激が駆け抜けた。体の内側から一気に熱が走るようで、リリスは思わずぶるりと体を震わせる。
そして──
ぷしゅうっ、と音を立てて、両耳から薄く白い煙が噴き出した。
「……っ!? な、なに!?」
トムが目を見開いて立ちすくむ。リリスは咳き込みながらも、それがあまりに彼らしい反応だったので、つい吹き出してしまいそうになる。
「ふふっ……この薬、ちょっと煙が出ちゃうの。でも、効くのよ」
煙を手でぱたぱたと払いながら、リリスは肩をすくめるようにして言った。その頬には、ようやくほんのりと血色が戻っている。
トムはゴブレットの底をちらりと見て、あんなに熱そうで苦そうなものを飲んだ姉を尊敬の眼差しで見つめた。
「もう……大丈夫?」
そっと問いかけるトムに、リリスは優しく微笑むと、手を伸ばして彼の頭を撫でた。
「ええ。薬も飲んだし……トムが作ってくれた、ご飯も食べたしね」
その言葉に、トムはふわりと目を細め、リリスの手に頬を擦り寄せた。その仕草が、なんとも愛おしくて、リリスは心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その光景を見ながら、モーフィンは鼻を鳴らすように小さく息を吐き、踵を返した。
「……ったく。昼メシはお前が作れよ」
背を向けたままそう言い捨てる。その声に、リリスは目を細めて頷いた。
「ええ。わかってるわ。……朝ごはんと薬、ありがとう、伯父様」
その一言に、モーフィンはわずかに肩をすくめただけで返事をしなかったが、その足取りはどこか、ほんの少しだけ軽かった。
昼を過ぎ、リリスはようやく身体のだるさが抜けてきた。熱はすっかり下がり、頭のぼんやりとした感覚も消えつつある。
彼女は台所に立ち、手慣れた動きで少し遅くなった昼食の支度を始めていた。
朝のスープは半分以上鍋に入ったまま残されていて、味見をして──リリスは片眉をあげ、分厚く切ったベーコンといくつかの調味料やハーブを加え味を整えた。
パンはこんがり焼いて、スモークチーズとトマト、薄切りハムを挟んだサンドイッチを作る。紅茶も淹れ、ミルクとハチミツを匙に入れ用意すれば、ほのかに甘い香りが食卓に広がった。
食事ができあがる頃には、居間には自然といつもの三人──モーフィン、マールヴォロ、トム──が集まっていた。いつもなら声をかけなければ現れないマールヴォロが、今日は言われずとものっそりと姿を見せている。
リリスが「できたわよ」と声をかけると、誰からともなく椅子を引く音がして、それぞれが席につく。
黙ってスープをひとくち啜ったマールヴォロの眉が、ほんの少し動いた。サンドイッチにかぶりついたモーフィンは、一度咀嚼してから何も言わずにおかわり用の皿に手を伸ばした。トムはサンドイッチを一口かじった瞬間に顔を輝かせ、「おいしい!」と小さく叫んだ。
──その後は、もう止まらなかった。
マールヴォロは普段よりも口数少なく──いや、いつも通りかもしれない──だが珍しくスープを二度もおかわりし、モーフィンは満足そうにサンドイッチを自分の皿に積み上げていた。
そしてトムは、リリスが作ったサンドイッチをひとつひとつ大切そうに味わいながら、幸せそうに笑っていた。
「……みんな、どうしたの? そんなにお腹、空いてたのかしら」
リリスが驚きつつ笑うと、誰も正面から答えなかった。けれどその沈黙は、否定ではなかった。
満たされる胃袋と、心の奥にじんわりと広がる温もり。
それは、リリスの料理にしか宿らない、特別な魔法だった。
誰も何も言わなかったが──その食卓には、ちゃんと“家”の味が戻っていた。