ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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26 最後の夜

 

 

 夕方の光がゆっくりと薄れ、イギリスの夏特有の長い黄昏が家を包み込んでいた。

 日中に吸い込まれた熱が石造りの壁にほんのりと残り、屋内には微かな温もりが漂っている。窓の外では、日暮れ前の柔らかな風が、庭先に伸びた雑草をそよ、と揺らしていた。

 

 明日はついに九月一日──ホグワーツへの入学日であり、この家を離れる日だ。

 

 私は古びた木のテーブルに、保存用の瓶詰めをずらりと並べ、一つひとつ指先で確かめていく。

 燻製肉、いく種類ものジャム、小瓶に詰めた香辛料、ピクルス、乾燥ハーブ……。

 

 べつに、ここまで保存食を作るほど生活が困窮しているわけじゃない。食材が尽きたら買えばいい。それだけの余裕は、もうこの家にもある。

──それでも、手が勝手に動いてしまう。習慣になってしまったのと同時に、私がいなくなっても、この家のどこかに“私の味”が残っていてほしいからだ。

 

 瓶を棚へ戻す前にしばし眺める。

 よし、これだけあれば……クリスマス休暇までは十分持つでしょう。

 

 

 色とりどりの食材が詰まった瓶をひとつずつ目で追っていく。

──ひと瓶だけ、ぽつんと余ってしまった。

 

 他に何か入れるものはないかと棚を開け──紅茶の大きな缶に目を止める。市販のセイロンと、庭で採れたハーブがいくつか入っているそれは、目分量で私が作った、いわばゴーント家の味、でもある。

 モーフィンやマールヴォロもイギリス人だから紅茶にそこそここだわりはあるようだけど、このブレンドだけは文句言わなかったのよね。好きな味じゃなかったら問答無用でただのセイロンに戻されたっけ……。

 

 そう、昔のことを思い出してくすりと笑う。

 

 ホグワーツでは飲み慣れたこの味を再現することは難しいだろう。少しだけ、持っていこうかな。

 

 

 紅茶を瓶の中に詰めたあと、保存用の瓶を棚の中に片付けていく。

 よく使いそうなものは上段へ、逆にモーフィンに見つけられたらすぐ空にされそうな燻製肉やピクルスは、そっと足元の棚の奥に押し込んだ──あとでトムにだけ場所を伝えておけばいい。

 

 しゃがんだまま奥へ手を伸ばしていると、しばらく見ていなかった古いレシピ帳がひょっこり姿を見せた。

 柔らかな紙はすっかりくたびれ、油染みや手垢の色が歴史のように刻まれている。

 

 めくると、ところどころの挿絵が色褪せていた。記憶よりも少しだけ小さく見えるのは、私が大きくなったせいだろうか。

 そのページを親指で撫でていると、不意に声が降ってきた。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 顔を上げると、いつの間にかトムが目の前に立っていた。

 しゃがみ込んだまま動かない私を心配したのだろう、眉をわずかに下げ、息をひそめるようにして覗き込んでくる。

 

 

「なんでもないの。懐かしいレシピを見つけて、ちょっとね……」

「ああ……昔、姉さんはよく見てたよね」

「まあ、覚えてるの?」

 

 

 このレシピを開いて料理をしていたのは本当に昔──まだトムが四歳になるかならないかの頃だ。忘れていてもおかしくないはずなのに。

 私が素直に驚くと、トムはふわりと目元を緩め、秘密めいた声で「うん」と囁き、耳元へ顔を寄せた。

 

 

「僕、姉さんと会った時からの事、全部覚えてるよ」

「すごいわね。普通は忘れちゃうのに……」

 

 

 物心つく前の記憶──私は“中身が大人だから”覚えていられたのだ。それでも抜け落ちた部分はいくつもある。

 けれどトムは、膝を抱えた腕の上に顎をのせながら、息をふっとこぼした。

 

 

「どの記憶も、大切なものだから」

「……ふふ、そうね。私も同じよ」

 

 

 トムのように全部覚えてはいないけれど、大切な記憶だけはきちんと残っている。

 リリスとして目覚めたときの衝撃、初めてトムを抱きしめたときの軽さと温もり、四人で囲んだ食卓の夜の匂い──ああいうものは忘れようとしても忘れられない。

 

 

「トム、もし料理に困ったら、このレシピから作るといいわ。好きにアレンジしても大丈夫よ?」

「……うん、頑張るね」

「頑張らなくていいのよ。叔父様たちなんて、パンとスープがあれば生きていけるんだから」

「それと、お酒だね」

 

 

 くす、とトムがいたずらっ子のように笑う。その笑顔に、胸がほっと軽くなるのをかんじる。ああよかった、トムは私に──少し、執着してるかなって思ってたけど、意外と大丈夫そう。私がいなくなることを、本当はどう思っているのか心配していたけれどちゃんと、受け止めようとしているんだわ。

 

 安心しながらトムにレシピ帳を渡す。トムはそれをしっかりと受け取ると、指先で表紙をそっと撫でた。

 

 

「さて──叔父様。お酒はほどほどにしてね、見張りの目が減るからってたくさん飲んだら体に悪いわ」

 

 

 立ち上がって棚の扉を閉めながら言うと、モーフィンは酒瓶を直飲みしたままこちらを横目で睨んだ。

 頬は酒気でほんのりと赤く、机の下で揺れるつま先は、どこかそわそわと落ち着きなく動いている。

 

 

「……わかってらぁ。──チッ、うるせえな」

 

 

 けっ、と嫌そうに吐き捨てられた言葉。さらに煽った口の端から酒が溢れていて、この人は本当……最近は普通にしていればそこそこまともに見れるようになったのに、酒を飲んだらおしまいね。

 

 ただ、それでも昔と比べればまだマシだ。

 あの頃のモーフィンが飲んでいた粗悪な安酒は、酒というより毒と呼ぶべき代物で、酔い方も酷かった。

 今の酒は多少は質がいいからか、さほど荒れはしない──いや、しないように“見える”、だけかもしれないけれど。

 

 

 酒瓶がまたひと口ずつ空になっていくのを眺めていると、胸の奥が少しだけざわついて臍の奥辺りがずしんと重くなる。

 これは、たぶん“私”ではなく、リリスの感情だ。

 

 リリスの記憶の中で、モーフィンは加害者だ。

 幼いころの虐待は過去のものにはなりきれず、許すことなんて簡単にできるわけがない。

 私が大人だから、ただ「許している振り」をしているだけ。リリス自身が許していないのは、当然だ。

 

 

 どんどん空になっていく酒をじっと見ていると、モーフィンが少し気まずそうな表情で視線を逸らし喉の奥で何か悪態をついた。距離があるから何を言ったのかはわからないけど、近くにいる蛇がぎょっと驚いて私とモーフィンを見比べているから、蛇語で何か愚痴ったのだろう。

 

 モーフィンも、昔の行いを許されたとは思っていない。多分、モーフィンが私に──許しを乞うことはないけれど。

 彼は、私の服の下に消えない傷があることや、身長や体格が年齢と比べて小さく薄い事を、少しは“気まずく“思っている。

 

 ま、私も許すつもりはない。

  

 

 そう心の底でひっそりと呟きながら、モーフィンの呟きを聞いていると、隣でトムが少しだけ姿勢を正した気配がした。

 

 

「姉さん」

「なあに?」

 

 

 呼ばれて振り返ると、トムは棚の上の大きな紅茶缶──例のゴーント家ブレンドの紅茶缶──へそっと視線を向けていた。

 

 

「……紅茶、淹れるよ。姉さん、少し休んで」

 

 

 その声は、さっきレシピ帳を撫でていた時の、あの優しくて静かな声音のままだった。

 

 

「ありがとう。お願いするわ」

 

 

 そう言うと、トムはほんのり嬉しそうに頷き、さっと立ち上がりポケットから杖を取り出す。空のヤカンをとんと叩けば、一気に水が沸騰した。それは私の杖だったけれど、もうすっかりトムの手に馴染んだようだ。

 

 湯気がふわりと立つのを横目に、私はソファに身を沈めた。深く腰掛けて、部屋全体をゆっくりと見渡す。

 私がリリスになって八年あまり。

 その間に、ホグワーツに行く前にやってしまいたいことは大体できたし、生活の基盤も整った。

 

 かつて家中に染みついていた黴の匂いは、今ではすっかり消えていた。

 外観こそ相変わらずの古びた石造りだが、室内はあの頃とは見違えるほど広く、明るく、きれいになった。廊下を歩くたび、足音が乾いた木の床に軽やかに響くのが、どこか不思議だった。

 

 退廃と貧困の淵で、崩れ落ちるのを待つだけの屋敷だったゴーント家は、ゆっくりと、しかし確かに“生活の匂い”を取り戻しつつある。

 もう、かつてのように出口のない閉塞感に満ちてはいない。諦めが家全体を覆っていた、あの重い空気も──気づけばいつの間にか散っていた。

 

 書斎には専門書や魔導書が並び、知識というものに飢え続けていたこの家に、ようやく「学ぶ」という営みが根づきはじめている。──モーフィンも、時々書斎に出入りしているところを見ると、本当は学校に通いたかったのかもしれない。

 学のない一族だと嘲られることも、もうない。

 

 

 やれることは、もうすべてやった。

 あとは──夢にまで見たあの場所、輝かしいホグワーツへ向かうだけだ。

 

 本当なら、胸が高鳴って眠れなくなるほどの興奮があってもいいはずだった。

 憧れてやまなかった魔法学校。ずっと遠いものだと思っていた世界。

 

 けれど、思ったよりも心は静かだった。

 不思議なほどに波が立たない。胸の奥に、ワクワクとも緊張ともつかない、あの熱が湧き上がってこない。

 ……どうしてだろう。

 

 

 考えていると紅茶を淹れ終えたトムが、皿に盛ったクッキーを添えて静かに運んできた。

 

 

「姉さん、ミルクと砂糖は?」

「そうね……ミルクを少しだけ」

 

 

 そう答えると、トムは丁寧な手つきでミルクを一筋、琥珀色の紅茶へ垂らす。白がゆっくりと溶け、優しい色に変わったマグを「どうぞ」と差し出された瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

 

 

「ありがとう」

 

 

 一口すすると、舌に広がるのは、何度も味わってきた“家の味”。ほんのり甘く、ほのかに花の香りのする落ち着いたブレンドだ。

 

 トムは私の隣に腰を下ろし、クッキーを一つ囓ってから、最近新しく買った呪文学の本を開いた。

 

 リビングには、甘くて暖かな空気がゆっくりと流れている。

 いつもと変わらない、寝る前のひと時。

 それぞれが好きなことをするその時間。

 いつもは部屋に引き込んでいるマールヴォロが、今日は珍しく肘掛け椅子に座りパイプを燻らしている。モーフィンは、いつも通り酒を飲み赤ら顔で何度も見た新聞にまた目を通している。

 紅茶の匂いと、甘いクッキーの匂い。その中にアルコールと葉巻の甘苦い匂いが混じる。

 

 壁掛け時計が、一定のリズムで時を刻む。

 その影で、蛇たちがケージの中を這うかすかなざらついた音が聞こえ、それをかき消すように、トムがページを一枚めくった。

 

 

──ゴーント家は、歪んでいる。

 

 

 家族でありながら、私たちはどこか不完全で、穴だらけで、少し冷たい。

 

 

 けれど、この空気と音がこんなにも落ち着く。

  

 

 私は紅茶をそっと置き、口先だけで微笑む。

 静かに目を閉じ、胸いっぱいに、この家の匂いを吸い込んだ。

 

 

 

 

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