いつものように「おやすみなさい」と声をかけ、自室に戻る。モーフィンとマールヴォロの返事はなく、トムだけが優しい声で返事をしたのも、いつもと同じ。
自室に戻ると、薄青の夕暮れが窓の外にまだわずかだけ残っていた。
イギリスの夏の夜は長い。日は沈んでも、闇が本当に落ちるまでには少し時間がかかる。
わずかに開けた窓から、庭のハーブと遠くの森の匂いが混ざり合った風がそっと吹き込んだ。
私は机の上に置いていたトランクを開け、ひとつひとつ指で触れながら確認していく。
ローブ。シャツ。靴下。インク。羽ペン。教科書。
寮でも落ち着けるように、お気に入りのマグと小ぶりのティーポットも布で包んで入れる。もちろん、茶葉も忘れずに。
最後に、小さな箱をそっと持ち上げた。蓋を開くと、トムが昔くれたものが丁寧に詰め込まれている。宝石や高価なものは一つもない、けれど、私にとってはどれもそれ以上のかけがえのない価値のあるものだ。
私はベッドの端に腰を下ろし、箱を膝の上に置いたまま、ぼんやりとそれを見つめる。指で箱を撫でれば、ひんやりとした冷たさが伝わった。
外では風が葉を揺らし、森の匂いを含んだ夏の夜がうすく流れ込んでくる。
明日はあの、ホグワーツに行く。
明日の朝になれば、私はロンドンへ向かい、紅色のホグワーツ特急に乗って、夢にまで見た輝かしい世界へ踏み出す。
期待。緊張。喜び。──そういう明るい感情が湧くはずだと思っていた。けれど心は妙に静かだった。
水面に落ちた重い石のように、言葉にならない重さだけが沈んでいく。
(どうして、ワクワクしないのかしら)
夢見ていたホグワーツ。
私にとっても、リリスにとっても、憧れの世界。それなのに、胸の奥には淡い影だけがある。期待がないのではない、ただ──小さな痛みがそれを覆っていた。
──トン、トン
控えめなノック音が空気を揺らし、私は思い出したように息を吸い、扉の方を見る。「どうぞ」と声をかければ扉が少しだけ開いた。
廊下から漏れた光に照らされながら、トムが顔を覗かせた。
髪はいつもよりしっとりとしていて、昼間よりどこか幼く見える。目だけが、光を吸ったように暗い色をしていた。
「……まだ起きてたんだね」
「ええ、ちょっと──眠れなくて」
自分でも驚くくらい柔らかい声だった。トムは表情を少し緩めて部屋に入ってきて、迷いのない足取りで私の隣に腰掛けた。
トムの視線が、私の膝の上の箱に降りる。
「懐かしいね、それ」
懐かしい──そのひと言に、胸が静かに震えた。
そうか、トムはこの箱の中にある全てを覚えているんだ。
星だと言って見せてくれた白くて淡く発光する石。
森で咲いていた可憐な花の栞。
丁寧に磨かれた木彫りの猫。
祈りを込めて作られたブレスレット。
目を細めてそれを見つめるトムの瞳は、昔と変わらずどこまでも甘くて優しい。
隣に並ぶと、もう身長はトムの方が高くて、目線を合わせようとすると顔を上げなければならない。昔は私よりも小さくて、細くて、守ってあげなきゃって思ったっけ。
初めて会った時は、その目に警戒と期待が滲み出ていた。
──ああ、そうだ。私たちの父親の家に行ったこともあったわね。モーフィンと。あの時、初めてモーフィンは私を“姪”で“魔女”だと認めた。マールヴォロは最後まで私を孫だとは言ってくれなかったけど、私の作った料理は必ず食べるのよね。
いくつかの記憶が鮮やかに甦る。
トムの柔らかく笑った顔。
蛇たちのするりとした舌の動き。
酒瓶を煽るモーフィンの背中。
肘掛け椅子で黙り込んでいたマールヴォロの、濁っていながらも鋭さを失っていない瞳。
ゴーント家は、決して“まっとうな家族”じゃない。直らない歪みと、見えない痣がいくつもある。
それでも──台所の匂いも、酒と葉巻の煙も、蛇の音も、全部まとめて“家族”だった。
──ああ、私、離れるんだ。この家から、家族から。
ホグワーツへの期待感よりも先に、この胸を占めていたのは──寂しさだ。
このぬくもりから離れるのが、こんなにも心細いなんて……。
そうか。
──私は、この家が好きなんだ。
貧しく、歪み、痛かった場所。
けれど、私がリリスになったこの八年は、確かにここで生きていた。私たちは、家族だった。
明日になれば、私はこの家から出ていかなければならない。
胸の奥で熱が、ひどくゆっくりと広がっていく。寂しさは初めて形を持ち、心がそれを受け止めてしまう。
──寂しいのは、トムだけじゃない。私の方がこんなにも寂しいのね。
視界がわずかに滲む。気づけば、私は箱に触れたまま、目を伏せていた。
「姉さん……?」
トムが息を飲み、少し焦ったような声で私の名を呼ぶ。いつもならすぐに笑って、「なあに?」と顔を上げるけど、今は、今だけはそうすることができない。
だって、顔を上げたら、瞼を震わせてしまったら。耐えている寂しさが溢れてしまう。
トムが狼狽しているのが空気で伝わる。
そうよね、私はトムの前で一度だって泣いたことはなかった。いつでも、トムの“お姉さん”であり続けた。
「……」
トムの呼びかけに答えられないのは初めてだった。喉の奥が締まって、言葉が出ない。
トムは何も言わずに、私の手にそっと触れる。あまりの優しい触れ方に──留めていたものが溢れ、視界が、ぐにゃり、と歪む、歪んでしまう。
「姉さん、今は……僕しかいないよ」
そっと、秘密を打ち明けるようにトムが囁く。
ああ、この子はなんて優しくて、聡い子なんだろう。
「……私──」
「うん」
「──さみ、しい」
気づいたときには、その言葉が口の外に落ちていた。
この家から出ることが、あなたから離れることが、こんなにも胸を締め付けて心細い。
きっとそれは、リリスと“私”の、二人分の感情なのだろう。
「……うん、そうだね」
トムの声が低くて、私の寂しさや苦しみに触れたかのようだった。優しく触れていた手が、熱を持って強く握られる。
トムの言葉には励ましはない。ただ、共鳴して震える音だけがあった。
視界の端でトムの指が微かに震え、その震えが、私の手へ伝わってくる。
「姉さん……」
息を呑む音がかすかに漏れた。
声の奥にあるものは、優しさでも冷静さでもない──長く押し込めてきた感情が、ひとつひとつ形を持つ音だった。
「僕も……同じだよ。姉さんがいなくなるのが、寂しい」
その言葉は、私の胸の真ん中をまっすぐ突いた。静かだった心が、一度に波立つ。
トムがゆっくり、私の肩に額を寄せる。
熱い息が、首筋に微かに触れ、昼間まで必死に抑えていた距離感が、あっけなく溶けていく。──そうさせたのは、私。
「……僕を……置いていかないで」
溶けるような小さな声だった。
耳ではなく、胸の内側に直接触れるみたいな声。
昼間は隠していたものが、私の寂しさに触れて溢れてしまったのだろう。──きっと、トムも本当なら隠していたかったはずだ。
トムの指先が、私の指を絡め取り、ぎゅっと握る。痛いほどに、迷いがなく。
私も寂しいし、置いて行きたくない。離れたくない。
私より広いその胸に頬を寄せて、子どものように感情を溢れさせ泣くことができたらどんなにいいだろう。
──だけど、私は“お姉さん”だから。
弱音を吐くのは、ここまで。
じゃないと、トムが安心して私を見送れない。私が揺れれば、トムの足元まで一緒に揺れてしまう。
私は息を吸い、ぐっと目を閉じる。
そのまま、細く長い深呼吸を一つして、体の中に蔓延っている悲しい叫びを押し留めた。
「……弱い姉さんでごめんね、びっくりしたよね」
顔を上げる、上げることができた。
トムは眉を寄せていて、悲しそうな目で私をじっと見つめていた。私は少しだけ笑ってそう言ったが、トムはすぐにふるふると首を振った。
「そんな──」
「大丈夫よ。私はただ──行ってくるだけ、ちゃんとトムの元に帰ってくるわ」
トムは何か言いたそうに少し口を開いたけれど、すぐにぎゅっと閉じると、「うん」と一呼吸分置いて頷いた。
その仕草は、昔と変わらない。──甘えたいのに、甘え方がわからないような、そんないじらしい姿だった。
そうだ。私はトムのお姉さんなんだから、トムに慰められてどうするの?
「ちゃんと、帰ってきてくれる? 僕の元に──」
「ええ、もちろんよ。姉さんが嘘ついたこと、ある?」
トムは悲しそうな目で微笑み、小さく首を振った。
「ちゃんと、帰ってくるわ」
その言葉に、トムは何も言わずにじっと、何かを訴えかける目で私を見つめる。その目が微かに揺れていることに、気づいた。
きっと、“嫌だ”“行かないで”と、言いたいのだろう。
けれど、幼いわがままを飲み込むみたいに、その小さな肩がふるふると震えながら、私の首元に顔を埋めてきた。
いつの間にか、夜は完全に落ちていて、外では夏の虫が細い声で鳴いている。
寂しさは、胸の奥で静かに燻っている。けれど、トムが悲しむから──行かないでと全身で叫ぶから、私は“大丈夫”なふりをしなくちゃ、大人に、ならなくちゃ。
私は、トムの小さな背を抱きしめ、その震えがおさまるまで、ずっと静かに撫で続けた。
しばらくそうしていたあと、トムが小さく吐息混じりにつぶやいた。
「……一つだけ、お願いを聞いてほしい」
顔を上げたトムの目は、悲しさと迷いと、どうしようもない甘えが混ざった色をしていた。
その目は、「もし許されるなら、もう少しだけ子どもでいさせてほしい」と訴えている。
私は気づいているのに気づかないふりをして、その頬をそっと撫でる。
「いいわよ。何でも」
トムのまつげがわずかに伏せられる。
形のいい唇がきゅっと閉じ、ほんの少しのあいだ、悩むように震え──やがて、覚悟を決めるように開かれた。
「……今日は、一緒に寝て、いい?」
寂しさの底に、甘えをとろりと溶かしたような声。その声音のまま、トムは何よりも可愛い上目遣いを向けてくる。
一緒に、寝る。
すぐに返事ができずにいると、トムの瞼が震える。
そうね、最後の日だし──一日くらい、いいでしょう。
「ええ。もちろん」
そう言うと、トムはパッと目を上げ、嬉しそうに目元を緩め、頬を撫でる私の手にすりよりながら「ん」と鼻にかかる声で頷いた。
小さなシングルベッドは、二人では少し狭い。
布団をめくって横になったトムの体温が、近い。
ランプの灯りを消す。
布団の下で、トムの手がするりと私の手を取る。幼い子どもが祈るように、私たちは向き合い手を重ねる。
目が慣れてきて、トムの輪郭が星あかりの下で薄ぼんやりと見えてきた。灰色の暗い目が、じっと私を見ている。
みじろぎをすれば、足がトムに触れた。そっと離したけれど、逃がさないというように、トムの足が私の足の間に通る。
少年特有の、少しだけ汗の混じる匂いがふわりと鼻をくすぐり──胸の奥で、とくり、と心臓が跳ねた。
(だめよ、落ち着いて。弟なんだから)
自分にそう言い聞かせて、長く息を吐く。
「おやすみ、トム」
声が自然と柔らかくなった。
「……おやすみ、姉さん」
その顔に、そっと唇を寄せ、額に軽くキスを落とす。
トムは目を細め、ほっと息を吐いた。
「……大好きだよ。僕の姉さん」
「ええ……私もよ」
その言葉に、トムの目が甘く綻び、そのままふっと閉じる。
手の中のぬくもりと、布団越しに伝わる鼓動と、窓の外で鳴き続ける夏の虫の声。
それらをひとつひとつ確かめるように感じながら、私もそっと目を閉じた。
この夜の匂いと、腕の中のトムの体温を、できるだけ深く胸に刻み込もうとして──意識が、静かに眠りへと沈んでいった。
***
遠くの森で、梟が一声だけ鳴いた。
トムは静かに目を覚ます。すぐ目の前には、寝息が触れる距離で眠るリリスの横顔があった。
月灯りがカーテン越しに落ちて、リリスの頬の輪郭を銀色に縁取っている。
名前を喉に出すことはしない。ただ、心の奥でそっと囁く。
──姉さん。僕の、姉さん。
トムはゆっくりと身を起こし、ほんの指先ほどの距離で、リリスの寝顔を見つめた。
柔らかな頬へそっと指を伸ばし、撫でる。微かな熱が指に伝わってくるが、リリスは目を覚まさない。子どもが心から安心して眠るときだけ見せる、静かな寝息だった。
冷たい夜風がカーテンの隙間から入り込み、二人の間に細く流れる。
リリスは、夢と現実の境目にいるような声で「ん……」と甘く鼻を鳴らし、無意識に温もりを求めるように、トムへ身を寄せた。
その仕草に、トムの唇につい笑みが浮かぶ。胸の奥がふっと熱くなり、彼は身をかがめる。
リリスの頬に、そっと唇を触れさせた。
一度。二度。小鳥が木の実を啄むように、軽く、静かに。
頬に、額に、鼻先に、目元に──月明かりが触れる場所すべてに、小さな音を立てずキスを落としていく。
触れているのに、起こさない。
リリスが眠っているこの時間だけは、何も奪われない。
トムは、胸の奥にある本音をリリスにも見せたことがなかった。
本当は、姉さんと離れたくなかった。
許されるなら、この部屋ごと世界から切り離してしまいたいとさえ思う。彼女に触れる手が、自分だけであればいいと、子どものわがままみたいな願いを、心の奥でひそかに抱えている。
その感情はあまりにも幼い、だから秘めていた方がいい。そう思っているが、一方でそれが“愛”だと信じている。──愛を、知っている。
けれど、それを口にしたらきっとリリスを困らせる。
だから、聞き分けのいい弟でいた。
聡くて、理解が早くて、すこし甘える──普通の弟。
リリスがそう思ってくれる限り、トムはその役を演じ続けられた。
彼女の耳たぶに揺れる赤い石へ、そっと唇を寄せる。
あの耳飾りは、自分の手で作った“お守り”だった。
胸の中から溢れてやまない、ひどく強く祈りと願いが込められている。
──姉さんが幸せでありますように。
──姉さんの幸せが、僕でありますように。
リリスは、贈り物を簡単に付け替えるような人じゃない。
新しい耳飾りを贈らない限り、この赤い石はきっと耳元にあり続けるだろう。
それは驕りではなく、信頼だった。リリスを知り尽くしているからこその確信。
祈りと願いが指先から漏れ出し、熱とも光とも言えない魔力が薄い膜のようにリリスを包む。
それでもリリスは目を開けることなく、穏やかな寝息を立てている。
その安らぎを確かめるように、トムはゆっくりと横になり、リリスの髪を指先で整えてやる。
わずかに緩んだ表情を見て、胸の奥が温かく満たされる。
──これでいい。
トムは、自分がおかしいとは少しも思っていない。
これは当然のことで、“姉”への愛であり、兄弟の絆で、世界のどこを探してもこれ以上自然な形はない──彼の中では、それが揺るぎない前提だった。
比較対象はない。
この家には、リリス以外に愛の基準を教えてくれる人がいなかった。
そしてリリスは、トムのすべてを受け入れてくれた。
だから、これは正しい。
彼の中では、それ以上の説明はいらない。
明日になれば、リリスはこの家を出ていく。
列車が彼女を遠くへ連れ去ってしまう。
それを思うと、胸の奥で静かなざわめきが広がる。どうしようもなく、子どものように。
けれど、トムはただ息を潜める。
この夜を壊さないように、儚い夢を抱き締めるように。
最後の夜、トムはただ、暗闇の中でじっとリリスの横顔を見つめ続けた。
朝が来なければいいと、子どもじみた願いを胸に抱いたまま。