ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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28 出発の日

 

 

 カーテンの隙間からこぼれる細い光が、私の頬と瞼をそっと撫でた。

 まぶしさに引き上げられるように意識が浮かび、寝返りを打とうとして、ふと肌寒さに気づく。

 

 無意識のまま、近くにある温もりを探し、引き寄せた。

 

 柔らかくて、確かな熱を持っていて、逃げ場のないほど近い──私を包み込むような、その存在。

 

 

「……ん」

 

 

 小さく息をもらすと、頭を抱え込んでいた腕がわずかに動き、耳から首筋へと、指先がゆっくり撫で下ろされた。

 眠りの名残を含んだその仕草がくすぐったくて、吐息が漏れる。

 

 その音に気づいたのだろう。

 すぐ近くで、小さな笑い声が落ちてきた。

 

 目を開く。

 霞んでいた視界が少しずつ輪郭を取り戻し、目の前にあるのは──トムの胸元だった。

 

 ……そうだ。

 昨日、一緒に眠ったんだ。

 

 息を吸い込んだ瞬間、私の呼吸の変化を察したのか、トムの腕に力がこもる。鼻先が胸に軽く押し当てられ、耳元で、とくん、とくん、と静かな鼓動が響いた。

 

 少年特有の、わずかに甘さを含んだ体温。

 雨上がりの森を思わせる、湿り気を帯びた澄んだトムの匂い。

 

 それを胸いっぱいに吸い込みながら、私もそっとトムの背に腕を回す。

 抱き返した、その瞬間──トムの呼吸が、ほんのわずかに止まった。

 

 

「……おはよう、トム」

「おはよう、姉さん」

 

 

 顔を上げると、トムは眠たげに目を細め、私の額にかかる髪を指先で払った。その仕草のまま、額に軽く、静かなキスが落ちる。

 

 返すように、私も彼の頬にそっと触れる。それだけで、トムの表情がふっと柔らいだ。

 

 

 軽く背中を叩くと、抱きしめていた腕が名残惜しそうに緩み、最後に一度だけ、背を撫でて離れていく。

 私が体を起こすと、トムもすぐに身を起こした。

 

 

「……朝ごはんにしましょ」

「うん」

 

 

 小さなシングルベッドは、やはり二人では少し窮屈で、身体には微かな怠さが残っている。

 それでも、不思議とよく眠れた。

 

 

 今日は、私がこの家を離れる日。

 その事実は、私もトムもちゃんとわかっている。

 けれど、それには触れず──触れないまま、いつも通りの朝の支度を始める。

 

 この“いつも通り”が、どれほど大切なものなのかを、噛みしめながら。

 

 

 

 

 朝食を終え、身支度を整える。

 ホグワーツ特急に乗るには、まずマグルの駅へ向かわなければならない。魔法使いや魔女のローブは、やはりマグルの世界では目立ちすぎるから、私はただの黒い、装飾のないワンピースを選んだ。布地は少し硬く、動くたびに控えめな音を立てる。

 

 壁に掛けられた時計の針は、私の気持ちなど意に介さず、淡々と進み続けている。

 もう、家を出る時間だ。

 

 この家は煙突飛行ネットワークに繋がっていない。ミルデン横丁のパブを経由してロンドンの漏れ鍋へ向かわなければならないから、どうしても早めに出発する必要がある。

 

 ──もちろん、モーフィンとマールヴォロの見送りはない。

 「マグルがうじゃうじゃいる場所になんか行くかよ」という理由らしい。期待していたわけでもないし、いかにもあの二人らしい、とも思う。

 

 リビングをぐるりと見渡す。

 私の好みで揃えた家具が並び、この家の生活の中心だった場所。磨かれた床に朝の光が斜めに差し込み、長い影を落としている。

 

 ふと気づくと、ケージの中の蛇たちがそわそわと身を寄せ合い、名残惜しそうにこちらを見ていた。

 

 

『姫様ー』

『風邪、ひかないでね』

『お勉強、がんばってくださいー』

 

 

 ぞろぞろと入口に集まってきた色とりどりの蛇たちが、口々にエールを送ってくる。

 私はしゃがみ込み、人差し指で一匹ずつ、順番に撫でていった。ひんやりとした鱗の感触が、やけに心に残る。

 

 顔を上げると、肘掛け椅子に座り、いつものように酒瓶を傍らに置いたモーフィンの姿があった。

 新聞から視線を上げることはなく、私の方を見ようともしない。

 ……本当に、今日が出発の日だってわかっているのかしら。

 

 わざと少し大きめに足音を立てて近づくと、ようやくモーフィンの目がちらりとこちらを向いた。

 

 

「伯父様。トムの言うこと、ちゃんと聞いてね」

「けっ。ンで、あいつの言うことなんか……」

「じゃないと体を悪くするし、家がまた昔みたいに荒れ放題になるでしょ?」

「……チッ」

 

 

 嫌そうに舌打ちをし、面倒くさそうに頭をかく。それ以上の悪態は吐かず、「さっさと行け」と言わんばかりに手を払った。

 

 トムがいるから、家が荒れ放題になることはない──そう思ってはいる。

 けれど、トムとモーフィンとマールヴォロ、三人だけの生活を想像すると、どうしても現実感がない。

 

 胸の奥に、静かに波立つものがある。

 けれど、それに名前をつける前に、私は息を吐いた。

……大丈夫。トムには、ちゃんと伝えてきた。モーフィンだって、昔に比べれば少しはまともになった。

 

 そう、自分に言い聞かせるように、私はそっと息を吐き、私は階段へと視線を向けた。

 

 マールヴォロは、きっと今も部屋に籠もっている。

 いつも通り、カーテンを閉め切り、パイプの煙に包まれて──私が家を出る日だということさえ、意に介さない顔で。

 

 ……らしい、と言えば、あまりにも彼らしい。

 けれど、今日ばかりは、それを「仕方ない」で済ませてしまうのが、少しだけ惜しく思えた。

 

 この家を離れる前に、言葉を交わす必要があるのかどうか。それすら、分からない相手だ。

 それでも──声をかけずに出ていくほど、私はもう子どもではない。

 

 私は背筋を正し、階段へと足を向けた。

 

 

 階段を上り、マールヴォロの部屋の前で足を止める。

 トントン、と控えめに扉を叩き、「お祖父様」と声をかけた。しばしの沈黙のあと、扉の向こうから掠れた声が落ちてくる。

 

 

「……はいれ」

 

 

 その短い返事に、思わず瞬きをする。

 マールヴォロが、部屋の中へ入る許可を出すなど──これまで一度もなかった。

 

 静かに息を整え、ドアノブに手をかける。きい、と微かな音を立てて扉を開けると、室内には彼が長年吸い続けてきたパイプタバコの、苦く乾いた匂いが満ちていた。煙は薄く漂い、部屋全体に淡いヴェールをかけている。

 

 朝だというのにカーテンは閉じられたままで、差し込むはずの光は遮られている。その代わり、卓上のランプの炎だけが揺れ、古びた壁や家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

 マールヴォロは肘掛け椅子に深く身を沈め、こちらを見ていた。

 いつもの、他者を拒むような濁った眼差しではなく、森の奥の湖水のように、底知れず、しかし奇妙な静けさを湛えた目だった。

 

 私は一歩前に出て、スカートの端をつまみ、静かに頭を下げる。

 

 

「お祖父様。私は、ホグワーツへ参ります」

「……」

「留守の間、家のことを──どうか、お願いいたします。お体、ご自愛ください」

 

 

 しばしの沈黙ののち、低く、擦れた声が返ってきた。

 

 

「……お前がいようといまいと、この家は変わらん」

「ええ、承知しております」

「身の案じる必要もない。儂はまだ死なん」

 

 

 いつもと雰囲気が違うかな、と思ったけど。やっぱりいつも通りね。

 そう思って顔を上げようとした時──。

 

 

「……リリス」

 

 

 名前を呼ばれた。

 その瞬間胸が小さく跳ね、一瞬、息を吸うのを忘れる。

 “お前”ではなく、名前で呼ばれるのなんて……いつぶりだろう? 

 

 思わず顔を上げてしまい、視線がぶつかる。

 マールヴォロは、まるで何事もなかったかのように続けた。

 

 

「お前の血の半分は、穢れている」

「……」

「だが、残る半分は──誰よりも古く、誰よりも高貴だ。それを、決して忘れるな。

 敗れるくらいなら、死ね。生き残るなら、常に最上であれ。二番手に価値はない」

 

 

 言葉は祝福ではない。これは、呪いに近い──命令だった。

 

 一瞬の静寂が落ちる。

 私は驚きと戸惑いを飲み込み、ふっと息を吐いた。

 

 それから、ゆっくりと背筋を伸ばす。髪を肩の後ろへ払って、胸を張り手を当てる。

 

 

「ええ。心得ております。

 リリス・メローピー・ゴーント。この名を、魔法界に──確かに刻んでみせます」

 

 

 マールヴォロは満足気に目を細める。その後はいつものように鼻で短く笑った。

 

 

「……ふん。……行け。さっさと失せろ」

「はい」

 

 

 私はもう一度、きちんと頭を下げる。

 

 

「行ってまいります、お祖父様」

 

 

 返事はない。

 けれど、背を向ける直前、肘掛け椅子に置かれた指が、ほんのわずかに動いたのを──私は、見逃さなかった。

 

 マールヴォロの部屋から出て、扉をそっと閉めたときだった。

 今までずっと肩にのしかかっていた重さが、静かにほどけていることに気づく。

 それはまるで、私の中のリリスが、ほっと胸を撫で下ろしたかのようだった。

 

──あれは、あの人なりの餞別だったのだろう。

 温かくも、優しくもない。けれど、確かに「行ってこい」と告げられた気がして、リリスもそう受け取って──嬉しくなってしまった。

 どれだけ酷い事をされても、リリスにとってあの人は無視できない存在なのね。

 

 廊下の冷たい空気の中で、ほんの少しだけ笑った。

 

 

 

***

 

 キングズ・クロス駅、九と四分の三番線。

 赤い蒸気機関車が堂々とプラットホームに横たわり、吐き出される白煙が、天井の鉄骨に絡みつきながらゆっくりと流れていく。

 

 ホームは、まるで小さな世界が丸ごと動き出したみたいだった。

 あちこちから重なる笑い声と別れの言葉。トランクを引きずる音、籠の中で羽をばたつかせるフクロウの不満げな鳴き声。

 足元では、縞模様の猫や真っ黒な猫が人混みを縫うように歩き、時折、誰かのローブの裾にじゃれついては叱られている。

 

 一年生たちは、皆少し浮き足立っていて、親の手を離す不安と、未知の世界への期待を、どちらも同時に抱えている顔をしていた。

 

 先頭の車両はすでに生徒でいっぱいで、空いている場所はほとんど見当たらない。窓から身を乗り出して手を振る子、必死に何かを言い残そうとしている親──出発の時刻が近づくにつれて、別れの空気は次第に濃くなっていった。

 

 私は、そっと隣に立つトムを見る。

 

 真っ赤な機関車。

 同年代の魔法使いたちの波。

 魔法の匂いと、ざわめき。

 

 トムはそれらすべてに少し圧倒されているようだった。

 怖がっているわけではないけれど、驚きと興味を隠そうともせず、きょろきょろと辺りを見回し、その白い頬がほんのりと高揚している。

 

──ああ、この子も、ちゃんと魔法界の子なんだ。

 

 そう思って、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 

「トム、見送りありがとう」

 

 

 そう声をかけると、トムははっとしたように私を見て、すぐに首を振った。

 そして迷いなく、私の手をそっと取る。

 

 

「当然だよ。……本当は、このまま着いていきたいくらいだけど」

 

 

 その言葉は冗談めいているのに、声音は妙に本気だった。

 

 

「まあ、それは……」

 

 

 私は小さく笑いながら続ける。

 

 

「トムは大人っぽいから、ホグワーツに着くまでなら、きっとバレないでしょうね」

 

 

 くすり、と冗談めかして言えば、トムはわずかに眉を寄せて、「……本気だよ?」と、低く、静かな声でそう言った。

 

 親指が、私の手の甲をなぞる。

 その撫で方には、昨日の夜に押し込めたはずの寂しさと、別れを惜しむ気持ちが、ありありと滲んでいた。

 

 胸の奥で、きゅ、と何かが縮む。

 

 

 汽笛が遠くで鳴り、白煙がまたひときわ大きく立ち上る。

 蒸気の向こうで、誰かが名前を呼び、誰かが泣き、誰かが笑っている。

 この場所では、誰もが別れを抱えているはずなのに──それでも今、この世界で一番静かな場所は、きっと、トムと私の間だった。

 

 

「姉さん……手紙、ちゃんと書いてね?」

「ええ、もちろん。毎週よ──毎日でもいいわ」

「忙しくても?」

「忙しいほど書くわ。トムに話したいこと、たくさん増えるもの」

 

 

 トムは、胸の奥に溜めていた息を、ようやく吐き出すように小さく頷いた。

 

 

「……返事、すぐ来なくても待つから」

「待たせないわ。あなたを待たせるの、得意じゃないもの」

「……姉さん」

「なあに?」

 

 

 真剣な目が、まっすぐ私を射抜く。

 その視線に、言葉にならない不安と願いが混じっているのが、痛いほどわかる。

 

 そのとき、特急が出発を告げる汽笛を鳴らした。

 反射的に柱時計を見上げれば、針はもう、五分前を指している。

 

 次の瞬間、腕を強く引かれ──気づけば、トムの腕の中だった。

 

 ぎゅっと、逃がさないとでも言うような力で抱きしめられる。

 首筋をトムの鼻先がなぞり、さらりと髪が落ちる。

 それは、寂しさと──痛いほどの愛を、何も言わずに伝えてきた。

 

 息を呑み、すぐにその背に手を回す。

 

 そうだ。

 どれだけ大人びて見えても、この子は私より幼い。

 誰よりも不安で、誰よりも、この別れを恐れている。

 

 

「……っ……姉さん……」

 

 

 掠れた声が、胸の奥に落ちる。

 私は頬を擦り寄せ、ただ願った。

 この温もりが、少しでも彼の支えになりますように、と。

 

 

「愛してるわ、トム……」

 

 

 囁いた瞬間、腕の力がさらに強まった。

 トムの頭をそっと撫でると、彼は鼻先を私の首元に押し当てながら、「僕も、」と熱を帯びた声で応えた。

 

 

 白煙が濛々と立ち上がる。

 あちこちから、別れを告げる声が重なり合う。

 

 

 汽笛に急かされ、私たちはゆっくりと身体を離した。

 けれど、両手だけは──名残惜しさを縫い留めるように──まだ固く繋がれたままだった。

 

 

「……忘れないでね。ここに、僕がいるって」

「忘れるわけないでしょう」

 

 

 何度も確かめるようなその言葉。

 私は、一度だってそれを軽んじるつもりはない。

 

 

「あなたは、私の帰る場所よ」

 

 

 その言葉に、トムの目が甘い熱を帯びて、ゆるやかに揺らぐ。

 繋がれたままの手に、ぎゅっと力がこもり──やがて、トムはそっと私の指先を持ち上げた。

 

 祈るみたいに、静かに。

 握ったままのその指先へ、ひとつ、キスが落とされる。

 

 それから、名残を断ち切るように一歩だけ近づいて、今度は頬に──柔らかく、別れのキスが触れる。

 温度の残るその感触が、胸の奥にじん、と沁みた。

 

 

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

 

 私もトムの頬にキスを返し、静かに身を引く。

 トランクを持って特急に乗り込み、空いているコンパートメントへ滑り込むと、すぐに窓へ駆け寄った。

 

 白煙の中に、ひとり佇むトムの姿が見える。

 優しい目で笑い、右手を振っている。

 けれど、左手は強く握り締められたままだった。その拳に、抑えきれない不安と悲しみが滲んでいる。

 

 窓を開け、身を乗り出す。

 

 

「トム──」

「姉さん……」

 

 

 それ以上、言葉は交わされなかった。

 トムはただ、「大丈夫だよ」と言うように、最後まで手を振り続ける。

 

 汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き出す。

 ホームが、白煙に溶けるように遠ざかっていく。

 

 それでも、最後まで──トムの姿だけは、はっきりと見えていた。

 

 

 カーブを曲がり、ホームが完全に視界から消えるまで、私は窓辺で手を振り続ける。

 やがて白煙がすべてを覆い隠し──私はようやく、席に腰を下ろした。

 

 

 膝の上で、そっと手を組む。

 さっきまで握られていた指先が、まだ微かに熱を覚えている。

 その熱は、離れたはずなのに、なぜか消えてくれなかった。

 

 トムの声と、名前を呼ばれる気配。

 そして──別れ際に触れた唇の温度だけが、胸の奥に、確かに残り続けた。

 

 

 

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