ゴーント家の長女、弟を溺愛する。   作:八重歯

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31 彼の祈り

 

 

 九月のホグワーツは、まだ夏の名残をわずかに残していた。

 湖面は太陽の光を浴びて輝き、城壁を這う蔦も、森まで続く芝生も青々として美しい。

 

 授業が始まると、リリス・ゴーントという名は、ゆっくりと教師と生徒の間で広がっていった。

 

 彼女は率先して手を挙げることはない。

 前に出て目立とうとすることもなく、教師の言葉を遮ることもない。

 視線は常に少し低く、背筋は自然で、どこか余裕を残した姿勢を保っている。

 

 けれど──名を呼ばれれば、必ず応える。

 

 その答えは正確で、簡潔で、無駄がない。

 教師が意図していた以上のところまで踏み込んでいながら、決して出しゃばらない。

 「そこまで説明するつもりではなかった」と、内心で驚く教師もいたが、彼女の言葉はいつも核心を外さず、授業の流れを壊すことがなかった。

 

 呪文も薬も失敗せず、手順は正確で、動作に迷いがない。

 

 それは天賦の才能というよりも、深い理解と、積み重ねられた努力の結果だった。

 彼女はいつも涼しい顔で答えているが、実際には誰よりも遅くまで起き、予習も復習も怠らない。分からないことがあれば、そのままにせず、すぐに教師のもとへ足を運ぶ。それはリリスにとって、特別な向上心の表れではなく、ただ当然の行動に過ぎなかった。

 

 ゴーント家の者として、一番でなければならない。

 

 その意識がまったくないわけではない。

 けれどそれ以上に、来年ホグワーツを訪れるトムのため──そして、彼の姉であり、年齢だけでなく精神の面でも先を歩く者としての、静かな矜持があった。

 少なくとも、同学年に遅れを取るつもりはなかった。

 

 

 教師たちは誰もが彼女を気に入った。

 

 問いを投げれば、教室の空気を乱さない答えが返ってくる。

 作業を任せれば、周囲を見渡し、自然に補佐へと回る。

 そんな優秀で模範的な生徒が一人いる事が、どれほど授業の進行に役立つか。

 

 それに、彼女は“ゴーント家”であるが、純血のみと交流するわけではなく、どの生徒にも優しかった。困っている生徒がいれば手を差し伸べ、支え、悩みを解決する。それでいて驕ることはなく、褒美を強請ることもない。

 同級生からは、「なんてできた人なんだろう」と尊敬の眼差しで見られるようになるまで、時間はかからなかった。

 

 

 上級生たちも、いつの間にか彼女を認識するようになっていた。廊下ですれ違えば自然に挨拶を交わし、談話室では「そこ、座る?」と声がかかる。

 それはリリス本人の力と、アニエス・ロジエールとマリア・プリンスの名の力、もあるだろう。

 スリザリン生は血統を重んじる。だが──リリスはこれを知り驚いたのだが──半純血の者や、無名の者にも比較的寛容だった。

 純血の者は、彼らを表立って差別はしない。ただ、懐には入れない。おそらく、これは悪意のない“区別”なのだ。

 悪意がないからこそ、自然で、悪意がないからこそ、両者は完全には交わらない。

 それでも寮内の雰囲気は悪くはない。クィディッチがあれば、血族に関係なく応援するし、もし何かに挫け困っている者がいればそれが半純血であろうと声をかける。同じ寮生として、その優しさは皆が持っていた。

 もちろん。マグル生まれに関してはその限りではない。彼らは、悪意なく、マグル生まれとは関わらない。

 リリスはマグル生まれに対してなんの感情も抱いていない。ただ、率先して彼らと友好関係を築こうとするほど愚かではない。スリザリン生であり、周りが“関わらない”中で、その輪を乱すつもりはなかった。なにもメリットがないのだから。

 

 

 リリスは、その見た目もまた、人の視線を惹きつけた。

 

 冬の夜のような美しい漆黒の髪。

 整った輪郭に陶器のような滑らかな頬。

 笑えば柔らかく、伏せたまつ毛の影はどこか儚い。

 

 ただ美しいだけではない、と周囲は思う。

 内面から滲み出てくる品と、その穏やかな性格──それに、皆が惹かれた。

 

 誰もが、リリスと話してみたいと思った。

 授業の合間に。

 食事の後に。

 談話室で、ほんの一言でも。

 

──けれど。

 

 なぜか、いつもタイミングが合わない。

 

 声をかけようとした瞬間、別の生徒に呼び止められる。

 立ち上がろうとすると、急に頭が重くなる。

 歩き出した途端、書類を落とした誰かに足を止められる。

 

 最初は偶然だと笑って済ませられた。二度目も、まあ仕方ない。三度目になると、眉をひそめる者も出る。だが──当人の体感は、もっと露骨だった。

 

 話しかけようと決めた瞬間、舌の根が乾く。

 胸の奥がざわつき、心臓が一拍遅れて鳴る。

 目の前の距離が、急に伸びたように感じる。

 

 足を踏み出せばいいだけなのに、足が重い。

 理屈ではない。身体が「今はやめろ」と言っている。

 その違和感に耐えられず、結局、手元の皿を持ち直したり、ネクタイを直したり、どうでもいいことに逃げ込んでしまう。

 

 とりわけそれは──下心を含んだ視線に対して顕著だった。

 

 「かわいいな」「仲良くなりたいな」といった、そんな軽い興味ではなく、「手に入れたい」「特別になりたい」そう願った者ほど、彼女に近づくことができなかった。

 

 リリスがそれを拒んだのではない。リリスは、何も知らない。拒む必要すらないのだ。

 何かが、先に牽制し、彼女の周囲で、偶然が“都合よく”噛み合っていく。

 

 廊下では、曲がり角で別の上級生にぶつかって謝罪の応酬が始まる。

 談話室では、ちょうどそのタイミングで寮監が新しい掲示を貼り出し、人の流れが変わる。

 食堂では、隣の席の誰かが水差しを倒して小さな騒ぎになり、視線がそちらへ持っていかれる。

 

 「運が悪い」と言えばそれまでだ。だが、運の悪さがいつも同じ方向に向かうのなら──それは運ではない。

 

 リリス自身は、それに気づかない。

 彼女は相変わらず、誰に対しても同じ距離で接し、同じ声音で話し続けていた。

 

 

 

 

 そんな日々の中で、リリスのもとには定期的に手紙が届く。

 

 差出人は、もちろんトムだ。

 リリスに手紙を送るのは彼だけであり、モーフィンとマールヴォロは一通だって送らなかった。

 

 フクロウが窓辺に降りる瞬間、彼女の視線がほんのわずかに柔らぐ。

 封を切る指先は楽しそうで、爪の先が羊皮紙を傷つけないように丁寧に滑る。

 その所作を、誰かが見てしまうと、なぜか息を潜めたくなる。そこにあるのは「秘密」ではなく、「大切にされている時間」そのものだからだ。

 

 手紙の内容は、取り立てて特別ではない。

 家のこと。

 モーフィンの愚痴。

 マールヴォロの小言。

 そして、リリスがいない家の静けさ。

 

 リリスはそれらを、一字一句を丁寧に読む。

 読みながら、声に出さない返事を何度も心の中で繰り返す。笑ってしまうところは、口元をわずかに緩め、心配になるところでは、眉がほんの少し寄る。

 

 読み終えるころには、胸の奥に溜まっていたものが、静かに整えられていった。

 

 

 そして、城の外──ホグワーツから遠く離れた、石造りの古い家の一室で。

 トム・リドルは、一人きりで机に向かっていた。

 

 夜は深く、家は静まり返っている。

 酒を浴びるように飲んだモーフィンはすでに寝室に引きこもり、マールヴォロは夕食後すぐに自室に帰った。家全体が、息を潜めているような沈黙も、慣れ始めていた。

 

 ランプの灯りの下、トムは小さな箱を膝の上に載せている。

 古いが、手入れの行き届いた箱だ。蝶番も、留め具も、指でなぞるたびに微かな音を立てる。

 

 中には、几帳面に揃えられた手紙が入っている。──全て、リリスからのものだった。

 

 一通一通、折り目を揃え、紙の端が擦れないように大切に仕舞われている。

 宝物、と呼ぶに相応しい扱いだった。

 

 トムはその中から、最新の一枚を取り出す。

 指先が、無意識に慎重になる。

 

 封を切る前から、内容はほとんど覚えている。どんな字で、どんな言葉で、どんな順番で書かれているのか。

 それでも、読む。何度も、何度も読む。

 

 文字を追いながら、トムの表情はほとんど変わらない。けれど、胸の奥に溜まっていた冷たいものが、少しずつほどけていく。

 

 リリスは、ホグワーツにいる。

 授業を受け、友人を得て、湖の底の談話室で夜を過ごしている。

 

 その事実が、トムにとっては痛みであり──同時に救いだった。

 

 自分の知らない場所で、知らない誰かと笑っているかもしれない。それを思うと、胸の奥がざらりとする。

 

 それでも、彼女は、手紙を書いてくれる。

 自分のために、時間を割き、言葉を選び、封を閉じてくれる。

 

 トムは手紙を持ったまま、そっと鼻先を近づけた。

 

 紙から、ほのかに漂う匂い。

 インクと、羊皮紙と、そして微かに残るリリスの気配。

 

 それが錯覚だとわかっていても、彼は目を閉じる。胸いっぱいに吸い込むように。

 

 

──姉さんは、僕のことを思っている。

 

 

 孤独な夜に、その確信だけが、彼を保たせていた。

 

 

 トムは手紙を丁寧に折り直し、元の場所に戻す。箱を閉じる音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。

 冷たい箱を指先で丁寧に撫で、トムはそっと目を閉じる。

 ランプの灯りが、少年の横顔を淡く照らした。

 その目には、年齢にそぐわない執着と、ひどく純粋な祈りが宿っていた。

 

 

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