十月のホグワーツは九月の名残をわずかに引きずりながらも、確実に秋へと傾き始めていた。
朝の回廊には冷えが宿り、窓際の石はひんやりとした感触を返すようになった。
一年生たちも、ようやくこの城で生きる術を身につけ始めている。
宿題の分量と締切の感覚。迷いやすい階段の癖。どの時間帯なら談話室が空いているか。
要領のいい生徒たちは、どうすれば無理なく、波風を立てずに過ごせるのかを掴み始める頃だった。
変身術の授業が終わった教室には、まだインクと羽ペンの匂いが残っていた。
羊皮紙をまとめる音、椅子を引く音、次の授業へと急ぐ足音が重なり合い、空間はゆっくりと日常へ戻っていく。
リリスはマリアとアニエスと並び、その流れに交じって扉へ向かっていた。
──その時。
黒板の前で羊皮紙を整えていたダンブルドアが、ふと手を止め、顔を上げた。
「……ミス・ゴーント。少し時間はあるかな?」
声は穏やかで、呼び止めるというより、静かに名を呼んだだけに近い。
リリスは即座に足を止め、振り返った。
アニエスとマリアに小さく「先に行っていて」と囁くと、二人は一瞬ためらいながらも、ちらりとダンブルドアを見てから扉をくぐる。
教室に残ったのは、二人だけだった。
「先生。ご用件でしょうか」
礼儀正しく、過不足のない声。
十一歳の少女としては、整いすぎているほどの落ち着き。
ダンブルドアはそれを咎めるでもなく、ただ静かに受け止めた。
「今日の課題についてだよ。君の変身は、とても正確だった」
褒め言葉には余計な含みがなく、教師として事実を述べる声音だった。
リリスは少し驚いたように目を見開き、それからすぐに姿勢を正す。
「ありがとうございます。──ですが、まだ安定していません。速度を優先すると、本質がわずかに揺れてしまいます」
「ほう……」
ダンブルドアの眉が、ほんのわずかに動いた。
一年生がマッチを針に変えられるだけでも十分だというのに、彼女は針“らしさ”に納得していない。鋭さ、冷たさ、重心の位置──そうした細部まで、既に意識している。
「素晴らしい。一年生で、そこまで自分の癖を把握している生徒は多くないよ」
「ありがとうございます。家で、本を読む時間がありましたので」
嘘ではない。──だが、すべてでもない。
リリスは視線を上げすぎず、ダンブルドアを真っ直ぐ見つめる。ただ、挑戦的にはならない角度を心がけた、優等生に見えるように、“好ましい生徒”として最適な距離を測る。
ダンブルドアは椅子に腰を下ろし、指を組んだ。
「君は、授業中にあまり手を挙げないね。どうしてかな? 加点のチャンスでもあるのに」
「……必要があれば、答えます。でも、前に出る必要はないと思っています」
「なぜ?」
「目立ちすぎると、時に──嫉妬を生みます」
リリスは、ほんの少しだけ肩をすくめてみせた。
子どもらしい仕草を、あえて添える。
ダンブルドアは、面白そうにくすりと笑った。
「賢明だ。だが……」
言葉を切り、リリスをじっと見る。
その視線は鋭いが──疑念ではなく、観察だった。
「君は“安全な振る舞い”を知りすぎているね」
リリスの睫毛が、ほんのわずかに揺れた。
それは一瞬で消えたが、ダンブルドアは見逃さなかった。青い瞳が、すっと測るように細まる。
「褒め言葉として受け取りますね。先生」
柔らかな微笑みと、模範解答のような返し。
「もちろんいいとも。ただね……」
ダンブルドアは、少しだけ声を落とした。
「子どもというのは、もっと失敗したがるものだ。褒められたい、勝ちたい、驚かせたい。そういう衝動が、先に立つ」
沈黙が落ちる。
リリスは一拍置き、考えるふりをして視線を伏せた。
「……私には、必要ではないかもしれません」
正直な言葉だが、理由は悟らせない。
リリスが視線を上げ、灰色の瞳と、澄んだ青の瞳が、互いの内側を測るように向かい合った。
「……なるほど」
少しの沈黙後、ダンブルドアはゆっくりと頷いた。
「君はとても優秀だ。礼儀正しく、思慮深く、教師としては申し分ない生徒だよ」
その言葉に、リリスは胸の奥で小さく息をついた。──ダンブルドアは、最も優れた魔法使いの一人である。……彼に、目をつけられたくはなかった。
今、ダンブルドアにとって、自分はただの優秀で控えめなスリザリン生でしかないはずだ。
ゴーント家の過去をダンブルドアが知っていたとしても、知られて本当に困ることはない。
ただ、今話しかけてきた──警戒はしつつも、まだ敵視はされていないはず。
彼が、リリスの思う“ダンブルドア”ならば、自分の事を観察する事はあれ、直接手を下す事はないだろう。
ダンブルドアは、生徒──人の可能性を信じる。才能や異質をすぐさま危険だと判断する事はなく、行動を起こすまで本人の意思に委ねる。そういう人だと、リリスは考えていた。
だからこそ、リリスはまだ、ダンブルドアに対して大きく警戒はしていない。リリスは優秀すぎるが、何も行動に起こしていないからだ。
ダンブルドアは悪い人ではない。
むしろ、リリスは──ダンブルドアのことを好ましく思っていた。
それでも、もし、ダンブルドアがリリスの──そして、トムの──障害となるのならば、その感情に蓋をし、すぐさま対処しなければならないとも、感じている。何よりも優先すべきは、トムなのだから。
今はまだ彼から疑いの気配はない。
気配がないことがいい事なのか、それとも悟らせないようにしているのか──今、その判断はできない。
リリスでも、やはり、ダンブルドアを測ることはできなかった。
「ありがとうございます。先生」
今はまだ何もしていない。
良き生徒として振る舞っていれば問題はないはず。
そう判断したリリスは、嬉しそうに微笑んでみた。
「──ただ、一つだけ、覚えておいてほしい」
ダンブルドアは立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めると、リリスの目線まで身をかがめた。
「計算で作った静けさは、いつか疲れる。……君がもし、取り繕わなくていい場所を見つけたら……そこでは、少し不格好でも構わないんだよ」
それは忠告ではなく、助言だった。
リリスの姿は──どこか、過去の自分を見ているようだった。
全てに気を張り、整えようと必死で、完璧を求め、周りを警戒していたころの自分。
本音を吐ける場所が無く、内に籠り続け、卒業後に溢れ出してしまった──溢れさせられた、というべきかもしれないが──そんな、自分。
リリスは一瞬、言葉を失い──それから、静かに微笑んだ。
「……心に留めておきます」
「うん。……引き止めて悪かったね」
「いえ。失礼します」
リリスは礼儀正しく頭を下げ、教室を後にした。
扉が閉まったあとも、ダンブルドアはしばらくその場所を見つめていた。
「……さて」
誰にともなく、穏やかな声で呟く。
「彼女の心を、先に覗くのは誰だろうね」
その声には、警戒よりも、わずかな興味と──期待が混じっていた。