ホグワーツ特急を降りる。
長い間汽車に乗っていたからか、地面が揺れていないことの違和感に少しだけふらついてしまったけれど、ホームの石畳を二度、三度と踏みしめるうちに、感覚は戻った。
ホームは人で溢れている。
子どもたちの名前を呼ぶ声、笑い声、泣き声。カートの車輪が石を削る音。汽車の白い煙が視界を柔らかく曇らせる。そのざわめきの中で、私は無意識に周囲を見渡していた。
「姉さんっ!」
その声は、雑多な喧騒の中に埋もれることなく私の耳に届いた。
振り向いた瞬間、視界が急に近づく。
次いで、ぎゅっと息が詰まった。
抱きしめられた。
勢い任せではないけれど、我慢できなかったのだと一目でわかる抱擁。腕に込められた力が、いつもより少し強い。
ふわり、と雨上がりの森みたいな匂いが鼻をくすぐる。
「トム……」
声を出すより先に、トムの額が私の肩口にすり、と当たる。
首筋を、さらさらとした髪がかすめていってくすぐったくて小さく笑えば、トムはさらに強く私を抱きしめ、肩口に鼻先を押しつけたまますうっと息を吸い込んだ。
ゆっくりと、まるで何かを確かめるように。
腕に力が入り、ぐっと体が持ち上げられて踵が少し浮いた。
半分、持ち上げられている状態なのに、トムは気づいていない……いや、気づいていないふりをしているのかもしれない。
そんなトムも可愛いし、気にせずトムの背中に手を回して優しく撫でた。
しばらくして、ようやくトムは満足したのだろう。
強く抱いていた力を緩め、私の踵が久しぶりに地面を踏み締める。トムは私を解放したけれど、少し冷たい手は私の手を握ったままだった。
トムは、頬を赤くして本当に嬉しそうににっこりと笑う。
「おかえり、姉さん」
「ただいま、トム」
今日はクリスマス休暇一日目。
私はもちろん家に──トムの元に帰ってきた。
トムは床に置いて──落ちて、とも言う──いた鞄を手に取ると、ニコニコと上機嫌に笑い、私の手を繋いだまま歩き始める。
上機嫌さが隠しきれず、表情は緩んでいる。スキップでも始めそうなほどだけど、ここは家の中ではなく外だと思い出したのかすぐにぐっと奥歯を噛んで表情を引き締めた。……頬の内側を噛んで、つい笑ってしまうのを耐えているようで……可愛い!
「荷物、僕が持つからね。長く汽車に乗って疲れたでしょう? 足、痛くない? 寒くない? ……いや、寒いよね、こんなに手が冷たい」
そう言いながら、足を止め、私の手を自分の両手で包む。
人の流れを止めてしまったことに珍しく気づかなかったのだろう。周りからの「止まってどうしたんだろう」という視線にすぐに我に返ったように咳払いをひとつして、真面目な顔を作る。
作る。……いや、作りきれないままだ。
そのまま、少し早足で歩きだす。もちろん私の手を繋いで。
「夕食の仕込み、してあるんだ。姉さんの料理には負けるけど……結構、上手くなったと思う。たぶん。……うん、たぶん」
「楽しみだわ」
自分で言って、自分で頷く。そういう所が、今日はやけに多い。
今までは、私の会話に耳を傾けていたトムが、こんなにも次々と話すなんて。見ていて微笑ましいから、つい私は聞く方に回ってしまう。
「あ、それと、ミルクがね。冬眠に入りかけて大変だったんだ。モーフィンがケージに温熱魔法かけ忘れて。ミルクは冬眠しなくてもいい種類だし、弱ったらどうしようって、僕、焦って……ああいう時、姉さんがいないと本当に──」
言いかけて、口を閉じる。
その一瞬の沈黙を無かったことにするために、トムは私の手を握り直して「でも、大丈夫だったよ。なんとか起きてくれた」と言いながら、さっきより少しだけ歩く速度を上げる。
私がいないと、困った?
不安だった? 寂しかった?
ぽろりと漏れた本音を、歩く速さで誤魔化すところまで、今日のトムは分かりやすい。
誤魔化しだと気づいていたけど、トムがここでは本音を出せないのなら、私も今はまだ気づかなかったふりをしてあげよう。
それからもトムの口から、話が溢れて止まらない。
手紙は頻繁にやりとりしていたけれど、それでも足りなかったのだろう。私と直接会って、声を重ねて、同じ景色の中で話したくてたまらなかったのだと思うと、胸の奥がきゅっとなるほど愛おしくて、私は繋いでいる手にそっと力を込めた。
「姉さん? どうしたの。疲れた? ……あ、家に帰る前に休憩する? そうだよね、疲れてるよね」
結論が早い。私はただニコニコして頷いているだけなのに、話はどんどん進む。
「僕、いいカフェを見つけたんだ。こっち。姉さん、好きだと思う。──そうだ、明日の朝のパンも買って帰ろう」
家の方向とは別の方へ、私の手を導く。
家で甘えたい気持ちと、私がいない間に見つけた店を紹介したい気持ちがあるんだろう。
それとも、まだ手を繋いで、二人で歩きたいのかな?
「ふふ……ありがとう」
「うん」
トムは短く頷く。その声も、どこか弾んでいた。
歩き出してからも、何度も私の顔を見ては、何も言わずに口元を緩める。まるで「本当に姉さんがいるんだ」と、確かめるみたい。
溢れそうな嬉しさを抑え込むように、けれど抑えきれずに、口角がわずかに上がっていた。
はしゃいでいる。
あの、外では表情を崩さず、大人であろうとしていつも冷静で静かなトムが。
そのことが、胸の奥を小さく締めつけるほど愛おしい。
私もきっと、トムの笑顔に釣られて、ずっと笑ってしまっていた。
***
朝の台所は冷たく、まだ夜の名残を抱いて薄暗い。床は、靴を履いていても冷えがじんわりと伝わり、息を吐けば白くほどけた。
私は杖をひと振りして暖炉に火を入れた。脇に積まれている薪をいくつか放り込むと、炎はチロチロと燃え始める。杖で軽く風を送れば、火はすぐに大きくなり、ぱちぱちと明るい音を立てた。
擦り合わせていた手をかざす。じり、と熱が移り、指先がようやく自分のものに戻ってくる。
この家で起きているのは私だけだ。
少なくとも、今のところは。
部屋が温まるのを待つより先に、ヤカンに水を入れて火にかける。
温かい紅茶を淹れておかないと、きっとすぐ起きてくるだろう。
朝のスープも作ってしまおう。
野菜を刻み、鍋の中に落とす。ほどなくして、居間の空気がゆっくりと温度を持ち、紅茶とスープの匂いが家の隅々まで行き渡っていった。
昨日カフェで買ったパンを添えたら、もう十分だろう。
そう思った、その瞬間だった。
二階のほうで、バタン! と扉の鳴る音がした。
続いて、ばたばたと初めて聞くほど落ち着きのない足音。階段が軋み、段を踏む間隔が妙に短い。……これ、二段飛ばしで降りてるわね。
なんだかおかしくて、思わず笑いをこぼしながら振り返った。
居間に続く扉が勢いよく開き、飛び込んできたのはトムだった。
寝癖ひとつないのに、息だけが早い。肩が硬く、目がいつもより少し大きい。まるで何かを探していたように。
──そして、私を見つけた瞬間。
扉の取っ手を掴んだまま、トムの足が、ほんのわずかに止まった。
目を丸くして息を呑む。そこにあるのは喜びより先に、私の存在を確かめるようで、胸の奥がきゅっと締まる。
──夢の中で会えても、起きたらいないんだ。
そんな夜を、何度も越えてきた目だ。
「おはよう、トム」
そう声をかけると、彼の肩にこもっていた力が目に見えるほどすっと抜けた。
頬の緊張がほどけ、瞼がわずかに揺れて──やっと息を思い出したように、表情がゆるむ。
さっきまでの勢いが嘘のように、トムはゆっくりと扉を閉めた。
音を立てないように。冷静さを必死にかき集めるように。
「おはよう、姉さん」
声は落ち着いている。けれど、目だけが落ち着いていない。何度も私の輪郭をなぞって、確かめて、やっと納得している。
昨夜、抱きついて、手を繋いで帰ってきたのに……眠っている間に全部が夢に戻ってしまうかもしれない、と疑ってしまったのだろう。
だから今、こうして私がここにいるだけで。
トムの中の張り詰めていた糸が音もなく解け、安堵に変わっていくのがわかる。
私は鍋のそばの小皿を手に取り、湯気の立つスープをよそった。それをそっと差し出す。
「味見、してくれる? 久しぶりに作ったから、少し心配で」
「うん」
トムは頷き、受け取るとすぐに口をつけた。
一口。それだけで顔がわずかに柔らかくなる。ほんの一瞬、子どもの顔に戻る。
「……ん。美味しい」
トムはスプーンを握ったまま、私を見上げて、静かに続けた。
「……姉さんの味だ」
その声があまりにも大切な喜びを噛み締めるようで。
私は返事の代わりにもう一度だけ笑って、トムの肩に触れた。
その体はまだ少し冷たかったけれど、トムの頬は薄らと赤く色づいていた。
「まだ伯父様たちは起きてこないから……紅茶でも飲みましょう?」
「うん。──あ、昨日、クッキー作ったんだ」
トムは戸棚へ手を伸ばす。白い平皿に入れられた形の揃ったバタークッキーを取り出すと、「姉さんと食べようと思って」と声を跳ねさせた。
……だめだ。昨日からずっと、可愛すぎる。
可愛いのに、本人は可愛いを必死に隠そうとしているのが、さらに可愛い。
「ええ。……手紙でも、たくさん書いたけれど──それでも、トムに話したいことがまだ、たくさんあるの」
「なんでも聞くよ。……教えて?」
トムは頷きながら、火にかけていたヤカンの口をそっと押さえ、沸騰しかけた湯を落ち着かせるように火を止めた。
それから、少しも音を立てないまま、慣れた手つきで、ティーポットの蓋を開ける。
茶葉を摘まむ指先がやけに丁寧だ。『姉さんがいる朝』を大切にしてくれているのがわかって、なんだかくすぐったい。
さらさら、と乾いた葉が落ちる。
トムは一度だけ私のほうを見た。確認するように、目尻を少し柔らかくして。
それから、そっと湯を注ぐ。
白い蒸気が立ちのぼり、紅茶の香りが部屋の空気にほどけていく。
トムはポットを軽く揺らし、抽出の時間を待つ。砂時計でも持ち出しそうな顔で、きちんと、ちゃんと。
その横顔がどうしようもなく可愛い。可愛いのに──少しだけ大人びて見えて、胸の奥がまた疼く。
「……本当に、いろいろあったの。授業のことも、友達のことも……」
言葉を探す私の声に、トムは返事の代わりに小さく頷いた。
カップを温めるために湯を回し、捨てる。ソーサーを揃え、砂糖壺の位置まで整える。
やがて、トムは二つのカップに紅茶を注いだ。琥珀色が揺れ、表面に小さな光が遊ぶ。
それを運ぶ手が、ほんの少しだけ弾んでいる。
「……ダイニングで飲もう。姉さんの話、ちゃんと聞きたい」
言い方だけはどこかまじめで、でも目だけが楽しそうだった。
私は笑って頷き、クッキーの入った皿を持つ。
トムはカップを両手で慎重に支えて、先に歩いて椅子を引いた。──昔、私がトムにしてやった仕草を、きれいに真似して。
ダイニングテーブルに向かい合って座ると、いつもより距離が近いように感じた。
紅茶の湯気が二人の間に薄い膜を作り、外の寒さを忘れさせる。
トムはカップに口をつける前に、もう一度だけ私を見た。その目は、ただ、嬉しそうで、それを隠しきれていない。
私も、同じ気持ちで微笑み返す。
言葉がなくても、朝の光の中で──それだけで十分だと思えた。