十二月三十一日。
クリスマスは過ぎたけれど、街はまだその名残の光を抱いたままで、時間そのものが少し緩んでいた。飾りの残る窓辺、雪が積もる縁、遠くで鳴る鈴の音。年の終わりへ向かう空気はどこか穏やかで、世界全体が深呼吸をしているみたいだった。
学生だけでなく、大人たちも仕事の手を止め、暖かい部屋で甘いワインを傾けながら家族と過ごす。そんな、誰にとっても「ただの休日」のような一日。
けれど私にとっては、クリスマスよりもずっと大切な日だ。
朝、まだ薄暗いうちに目が覚める。
雪に覆われた外は音という音を飲み込んで、鳥の声も、風のざわめきもない。ただ、しん、とした静寂だけが部屋を満たしている。
いつもなら、布団のぬくもりに負けてしまうところだけれど──今日は違う。
枕元の杖を取って小さく振ると、机に置いてあるランプに灯りが入り、椅子にかけていた分厚いショールが静かに手元へ飛んできた。ひんやりとした布地を肩にかけ、布団の中で温められていた空気を逃さないようにそっと立ち上がる。もこもこの室内靴に足を通しても、床の冷たさは容赦なく伝わってきた。
廊下はまだ暗い。壁のランプに順に光を灯しながら、足音を殺して歩く。
隣の部屋の前で、一度だけ呼吸を整えた。
冷たいドアノブに触れ、ゆっくりと回して押し開ける。廊下から漏れた細い光が、暗い室内をすっと横切った。
音を立てないよう扉を閉めて、ベッドへ近づく。
ランプをそっとかざすと、暖色の光が寝床を包み込む。
トムは横向きになり、身体を小さく丸めて眠っていた。白い頬には薄く赤みが差し、寝息に合わせて胸が静かに上下している。
背はすっかり伸びて、大人びた輪郭になったのに、こうして眠っているとまだ子どもの名残が残っていて──寝顔は天使のようで、すっごく可愛い。
私はサイドテーブルにランプを置き、ベッドの縁に腰掛けた。
きし、と小さく音が鳴りマットが沈んだけれど、トムは少し身じろぎをしただけで目を覚ますことはない。
揺れる炎が長い睫毛に影を落とし、トムの表情をやさしく照らしている。夢の続きを辿っているみたいに、口元は穏やかにほどけていた。
……本当に、大きくなった。
三歳のあの時。トムを窮屈な世界から連れ出した時──紅葉のような小さな手で、必死に私に手を伸ばしたことが、昨日のことのように思い出せる。
あの細くて頼りなかった背中は、いつの間にか私を追い越して、こんなにも優しい少年になってしまった。
私は静かに手を伸ばし、トムの頬に指先を触れさせる。
そっと撫でると、瞼がわずかに震えて、「ん」と鼻にかかった甘い息が零れた。閉じていた口元がふにゃりと緩み、無意識に私の方へ顔を寄せる。
その仕草に、胸の奥がきゅっと締まる。
ああ──今日は、あなたの誕生日よ。
「トム」
囁くと、瞼がゆっくり持ち上がった。最初は焦点が合わない。夢の底から浮かび上がってくるように視線が漂い、やがて私を捉えた瞬間──表情がふっとほどけた。
「……姉さん」
寝起きの掠れた声で、私を呼ぶ。
その声は驚きと喜びがじわりと滲んでいて柔らかい。
私は微笑んで、トムの頬を撫でいた指を額まで滑らせて前髪をそっと払う。
「おはよう。……誕生日、おめでとう、トム」
そのまま身を屈めて、額におはようのキスを送る。
一瞬、トムは固まった。
それから、息を吸うのも忘れたような顔になって、瞬きを二回。三回。
これは、嬉しいのに──どう反応していいかわからない時の顔だ。
「ふふっ……どうしたの?」
「……誰が言ったの」
「内緒」
「……蛇は口が軽いんだね」
トムは少し恥ずかしさを誤魔化すような、拗ねた声で呟く。
トムのさらさらとした黒髪──まだ子ども特有の柔らかさと細さを保つ髪を撫で、微笑みながら頷いた。
昨夜、今日のためのディナーを仕込んでいる時、トムがゲージの前で蛇達の世話をしていた。その時、丸々としたラットをあげながら、何かを囁いていた。話しかけながら世話をするのはいつも通りだったから、気にしていなかったけど──。
モーフィンもマールヴォロも自室に引き込んで、最後にトムが階段を上がった後。私は家中の灯りを消して最後に蛇達におやすみの挨拶をしに行った。
その時に、ミルクが教えてくれた、トムの願い。
『明日の朝起きて、まず初めに見るのが姉さんだったらなぁ』
そんな独り言に似た願い。
あまりに可愛くて、控えめで。
誕生日の前だから溢してしまったささやかなもの。──これは、叶えるしかないだろう。
直接言って甘えるのは、もう十一歳を迎えるトムには、たぶん難しかったのだろう。それでも、願いは蛇の舌を借りて、私のところへ滑り落ちてきた。
だから今日、こっそりとここに来た。
「……もう……おはよう」
恥ずかしがりながらも、そう小さく呟く声が、布団の中に溶ける。
私は返事の代わりに、トムの髪に指を通した。少し伸びた前髪。昔よりずっと大人びているのに、こうして触れると、やっぱりあの頃と変わらない。
「いい夢を見ていたの? 優しい顔をしていたわ」
少し背が伸びて、肩幅も出てきているのに。
昔みたいに頭を撫でられて、ほんの一瞬戸惑ってから──観念したように、目を伏せた。
耳が、赤い。
「……姉さんが出てきた気がする」
「まあ、本当に? 私も、あなたの夢をよく見るわよ」
「え?」
トムが目を丸くして私を見上げる。
私は小さく笑いながら、頷いた。
「一緒にホグワーツに通う夢よ。ホグワーツは広いから、トムと私は迷子になるの、でも隠し通路を発見して美味しいスイーツ屋さんに行くの。あなたはすごくはしゃいで、喜んでた──そんな夢よ」
「……子ども扱いだ。……僕、もう十一歳になったんだよ?」
「ふふ、そうね」
トムは小さく抗議するけれど、声は全然強くない。
私は思わず笑ってしまう。
トムは唇を柔く噛んで、上がりそうになる口角を抑えながら視線を逸らした。でもすぐ、また私を見上げる。
「でも、姉さんの夢に出られるのは嬉しい。ずっと考えてくれてるって事でしょう?」
「ええ、もちろん、いつでも思ってるわ」
そう伝えれば、トムの目に隠しきれない安堵と、喜び、私にしか見せない甘さを必死で抑えているような光が灯っていた。
もう十一歳。まだ、十一歳。
成長しても、トムの中で甘えたい気持ちはいつまでも消えることはないのだろう。
それは、乳児期にたっぷり甘えられなかったせいかもしれない。
「起きる?」
そう聞いたら、頷く代わりに、私の手首をそっと掴んだ。
力は弱い。ただ、離れてほしくないだけかな。
「……もう少しだけ」
甘えた声。
……目を細めて擦り寄るそれが、あまりにも猫のようで可愛くて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「仕方ないわね」
そう言いながら、もう一度だけ髪を撫でる。
トムは目を閉じて、そのまま小さく息を吐いた。