トムがようやく布団から抜け出したのは、それから少し経ってからだった。
名残惜しそうに私の手を離し、「着替えるね」と身体を起こす。さすがに着替えを覗く趣味はないし、私も寝巻きのまま起こしに行ってしまったから、「温かい紅茶を用意しておくわね」と声をかけ、いったん自室へ戻った。
身支度を整えて階下へ降りると、まず暖炉に火をくべて部屋の温度を整える。冬の空気は家の隅々にまで染み込んでいて、火が入るだけで、空間そのものがほっと息を吐くように緩む。
蛇たちのケージには保温魔法がかかっているから、真冬でも冬眠はしない。私の足音で目を覚ました蛇たちが、ゆっくりととぐろを解く。
『おはよう』
『姫様おはようー』
『おはよー』
舌をちろちろ震わせる、眠そうな挨拶。夜行性だから、あと少ししたら彼らはまた眠りに落ちるのだろう。
さて。今日はトムの誕生日。
朝ごはんも、あの子の好きなものを並べて、たくさん祝わなきゃ!
誕生日ケーキは、昼のアフタヌーンティーの時間に合わせればいい。……けれど、それまで家の空気を少しだけ甘くしておくのも、悪くないわね。
トムのリクエストはチョコレートケーキ。
焼き上がるまでのあいだ、チョコレートとバター、それに砂糖の香りを家の隅々に漂わせて、今日だけの特別感を先に作ってしまおうかな。
意外とトムは甘いものも好きだし、モーフィンとマールヴォロだって、紅茶に合うのなら嫌いじゃない。──まあ、あの二人が本当に一番好きなのは、酒に合うものだろうけれど。
その前に、すぐ降りてくるだろうトムのために、目覚めの紅茶の準備を忘れない。
湯を沸かし、茶葉を量り、カップを温めておく。
朝食は具沢山のスープ。野菜をたっぷり入れて、とろりと甘い匂いが立つまで煮込む。
サラダはできるだけ新鮮なものを山ほど。ベーコンはこんがりと香ばしく、ソーセージにはしっかり焼き目をつける。卵はオムレツにして、仕上げにバターを混ぜ、ふわりと柔らかく。トーストは軽く焦げ目をつけて、バターとジャムは小皿に分ける。
豪華と言っても、外のレストランみたいな派手さはない。けれど今日は、いつもより品数が多い。
それだけで十分だ。
だって並ぶのは、トムの好きなものばかりなのだから。
誕生日らしい朝の支度に夢中になっていると、階段を降りてくる軽い足音が聞こえた。少し振り返ると、トムがリビングに入ってきたところで、私を見てほんの少しだけ笑う。
その笑い方は、どこか寝起きの柔らかさとふんわりとした甘さを残していた。
トムはすぐに蛇たちのケージへ向かった。しゃがみ込み、膝を抱え、ぶつぶつ何かを呟いている。内容は聞き取れないけれど──たぶん、昨日の「うっかり」を漏らしたミルクへの苦言と、……どこか嬉しそうだから、感謝、かな。
私は紅茶を淹れ、カップをそっとテーブルに置いた。
ふわり、と香りが立ちのぼる。その匂いに誘われたのだろう、トムはすぐこちらへ近づいてきて、「ありがとう」と言いながら、椅子にすとんと腰を下ろした。
トムはいつもミルクもシュガーも入れないのに、目覚めの一杯だけは、少しだけ砂糖を落とす。その少し甘い紅茶を両手で包むように持ち、湯気をいったん吸い込む。それから、ゆっくり身体中に沁み渡らせるように丁寧に飲んだ。
トムは紅茶を飲み干すと、今度はケージの掃除を始めた。十分に温まった部屋で、蛇たちは好きな場所へと移動していく。しゅるしゅる、と鱗が床を滑る音がそこかしこから聞こえるのは、この家特有かもしれない。
他の家では、家の中で蛇が散歩しているなんて、まずないだろう。けれど私にとっては日常の一コマで──そして、今日はその日常が少しだけ特別な色を帯びている。蛇達もトムの誕生日を把握しているのか、なんだか嬉しそうだ。
部屋にスープの甘い香りが立ち込めるころ、今度は別の足音が階段を踏みしめてきた。トムの足音とは違う。重くて、億劫そうで、歩くだけで床が文句を言いそうな音。
扉が開くのが先か、大欠伸が溢れるのが先か──モーフィンは腹を掻きながら現れた。
「ふあぁ──」
「おはよう、伯父様」
「おはよう」
私もトムも挨拶をする。
モーフィンは頭を掻き、寝癖のついた髪をさらに乱しながら「おう」とだけ返した。
冬眠明けの熊みたいにのっそり肘掛け椅子へ沈み込み、私は紅茶ポットとカップをふわりと浮かせて、近くのテーブルに置く。モーフィンは「んん」と喉の奥で詰まったような声を出してカップに紅茶を注いだ。
たぶん、あれが「ありがとう」なんだろう。
「リリス、新聞は届いてねぇのか?」
いつも机の上にある新聞が見当たらず、モーフィンは音を立てて紅茶をすすりながら振り返る。
「もう、マナーが悪いわ。……新聞はそっちの肘掛け椅子の上よ」
私が言うと、モーフィンは鼻を鳴らして、緩慢な動きで杖を振り新聞を引き寄せた。
スープがぐつぐつと鳴る音。
朝食の支度で歩き回る私の靴音。
蛇の世話をするトムの掠れたパーセルタング。
そこにモーフィンが新聞をめくる音が混じる。──家が、少しずつ目覚めていく音だ。
私は小さく笑いながら、テーブルに料理を並べていった。
湯気の立つスープ。焼けたベーコンとソーセージ。ふわふわの卵。トーストとバター、ジャム。紅茶の香りがそれらをまとめて、部屋を優しく包み込む。
トムが、作業の手を止めて振り返った。
目が、料理に吸い寄せられている。
「……美味しそう」
モーフィンも新聞の陰からちらりと見て呟く。
「なんだ、今日は豪華だな?」
私は皿を置きながら、わざと明るく言った。
「そうよ。今日はトムの誕生日だもの」
トムの肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
それから、こらえるみたいに口元を引き締めて──でも、目だけが笑っている。隠しきれない喜びが、そこに灯っていた。
「……ねえ、モーフィン」
「ん?」
「……誕生日プレゼントは?」
「……けっ! ンなもんあるかよ」
トムの悪戯っぽいニヤニヤとした笑いを一蹴するようにモーフィンが鼻を鳴らす。トムは肩を震わせて楽し気に笑いながら「知ってた」とだけ気軽に返してゲージの扉を閉めて立ち上がる。
まあ、モーフィンが誕生日プレゼントを用意することなんて絶対にないでしょう。マールヴォロも、もちろんそうだけど。今まで一度だって貰ったことはないし。
それでもトムと私に悲壮感はない。
だって、トムは私に、私はトムに毎年プレゼントを用意しているし、心から祝っているから。
カトラリーを机に並べ終え、私は彼らの方を向いた。
「お祖父様を呼んでくるわ。朝食にしましょう」
呼びかけると、二人とも素直にテーブルへ向かった。
朝食が終わると、マールヴォロはいつものように暖炉脇の椅子へ沈み込み、パイプに火を点けた。乾いた煙草の匂いが、炎の甘い熱と混じって部屋に漂う。
モーフィンは向かいの肘掛け椅子で新聞の続きをめくりながら、ウイスキーの瓶を無遠慮に傾けていた。グラスは棚にある。けれど、使う理由が彼には最初から存在しないらしい。
その横で、トムが家の中を散歩している蛇たちに『そろそろケージに戻ろう』と穏やかに言った。
返ってきたのは、シュー、シュー、と不満げな抗議の声。蛇たちはまだ散歩を終えたくないのだろう。
暖かい季節には、彼らは外へ出て、好き勝手に街を這い回り、噂話を拾ってきていた。冬の間、家の中だけでは短すぎるのだろう。
反抗する蛇たちに、トムはむっとした顔をして、光を拾う鱗の背をつん、と指で突く。叱っているのに、どこかじゃれ合いみたいで──それがまた、可愛い。
蛇たちはわざとらしく距離を取って、暖炉の陰や椅子の脚の向こうへ逃げる。勝ち誇ったみたいに尾をくねらせて、ちらちらと顔を出して様子を伺っている。
トムは困ったように眉を寄せたけれど、怒鳴りも叱り飛ばしもしない。ただ、もう一度だけ『戻ろう』と、低くやわらかい声で繰り返した。
それでも蛇たちはシュー、と不満を鳴らし、まだ粘る。
トムは仕方がない、とでも言うように膝を折り、きらきら光る鱗の背を指先で軽く撫でた。叱っているはずなのに、撫で方だけは妙に丁寧で優しい。
『……あとで、また出してあげるよ』
そう囁くと、さっきまで反抗していた蛇たちは、『仕方がないなぁ』というように態度を変えた。
するり、と戻ってくる。トムの足元へ。膝のそばへ。──まるで最初からそこが定位置だったように。
トムは手を差し出し、その手にするりと這い登る蛇たちは、誰がトムの肩に──彼らにとって一番良い場所に──巻きつくか競い合っていた。
身体を滑る鱗の冷たさに、トムはくすぐったそうに肩をすくめたが、蛇たちの好きなようにさせていた。
この辺りには同年代の魔法使いはいないし、トムにとっての友人は蛇たちなんだろう。……蛇たちも、トムのことを特別好いているようだし。主人として、あるいは、友として。
トムが最後の一匹をケージに戻し、扉の留め具を確かめた、その時だった。
コンコン、と。
窓を叩く軽い音がした。
その瞬間、トムがすっと背筋を伸ばして振り返る。
マールヴォロはパイプを口元に運ぶ手を止めはしないけれど、灰色の目だけを窓へ流した。
モーフィンも新聞の向こうから、ちらり、と同じ方向を見る。──興味がないふりの、いつもの癖だ。
窓の外には茶フクロウが一羽、雪の気配を纏って止まっていた。
足には、分厚い羊皮紙の封筒。エメラルド色のインクと、紋章入りの紫色の封蝋が、白い空の中でやけに鮮やかだ。
──ああ。ようやく、届いたのね。
手紙を受け取る役目は、いつも私だ。
けれど今日は。──今日は、違う。
これは、私の手を通さずに、トムの手の中へ落ちるべきものだろう。
トムが、私を見る。
緊張しているのに、目だけが明るい。期待が滲んで、喜びがこらえきれずに浮いている。
「大丈夫」と言おうと思ったけど──言葉は余計だと思った。私はただ微笑んで、無言で頷く。
トムも小さく頷き返し、窓へ向かった。
足取りは静かなのに、どこか急いでいる。急いでいることを悟られたくない、そんな歩き方だ。
そっと窓を押し開けると、冷たく澄んだ空気が一気に部屋へ流れ込んだ。
暖炉の熱と混ざり合う前の、その尖った冷たさが、頬を撫でる。トムの黒髪がふわりと浮いた。
茶フクロウは「ほう」と小さく鳴き、差し出されたトムの手へ封筒を落とす。
フクロウはすぐさま羽ばたき、冬空へと溶けるように飛び上がっていった。
トムは封筒を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
指先で封蝋の縁をなぞっている。確かめるように、傷つけないように。
「……ホグワーツからの、手紙だ……」
呟きが零れる。声が、少しだけ震えていた。
届くと信じていたはずだ。届くべきものだと知っていたはずだ。
それでも、実際に手の中に落ちてくるまで──どこかで不安だったのだろう。
封筒を抱え込むように胸へ寄せて、トムがやっと私を見る。
その表情は、ひどく真面目で、ひどく柔らかい。私にしか見せない顔だ。
「来年から、姉さんと一緒に通えるんだね」
「ええ、そうよ」
言った途端、胸の奥がふっと温かくなる。
「……そうだ、休暇中に必要な物を一緒に買いに行きましょう? 制服も、本も──あなただけの杖も」
最後を付け足すと、トムの口元がほんの少し緩んだ。
嬉しさが溢れそうで、でも溢れさせたくなくて、ぎりぎりのところで押さえている笑い方。
「うん」
短い返事なのに、そこに全部が詰まっていた。安堵も、期待も──これからの一年の眩しさも。
トムは封筒をもう一度見下ろし、今度は確かに、嬉しそうに笑った。