二月十四日。
雪の名残をかすかに残した朝の冷気が、石造りの廊下を静かに満たしていた。吐く息はまだ白く、けれど窓の外にはわずかに春の気配が混じりはじめている、そんな日。
イギリスにおいて、バレンタインという習慣は決して騒がしいものではない。
恋人や家族のあいだで、ひっそりとカードを送り合い、ときに花や小さな贈り物を添える。それは愛を囁く日であり、同時に、秘めた想いを言葉にする日でもある。差出人の名を記さないことさえ、ひとつの礼儀として受け入れられている、そんなささやかなイベントだ。
魔法界もまた、似た習慣を持っていた。ホグワーツにおいても、誰かが誰かへカードを贈ることはあるが、それは恋人同士の中でのスパイスや普遍的な日々の彩りとしての意味が大半を占めていた。
リリスは目立つつもりなどなくても、どうしても人の視線を集めてしまう少女だった。
成績は優秀で、物腰は柔らかく上品で、言葉には静かな知性がある。異性からの好意が多いのはもちろん、同性でも彼女にあこがれのようなものを抱く者は少なくなかった。
しかし、リリスにとってその日が『バレンタインである』という認識は薄かった。知識としては知っているが、彼女が『リリスとなってから』の人生で触れてきた習慣ではない。
前世でのバレンタインは、もっと甘く、もっと騒がしかった。友人同士でチョコレートを交換し、照れ隠しのように笑う──そんな遠い学生時代の記憶が、ぼんやりと浮かぶ程度だ。
だがそれも前世の話。マールヴォロやモーフィンが、日頃の感謝と愛を込めて何かを贈る──そんな光景は、あまりに現実離れしていて、もし本当に起こったなら、まずリリスは「戯言薬でも飲んだの?」と彼らの正気を疑うだろう。
だからその朝も、リリスにとってはただの一日として始まった。
いつも通りに目を覚まし、身支度を整え、アニエスとマリアと共に大広間へ向かう。長いテーブルに並ぶ朝食、立ちのぼる湯気、ざわめきの中に混じる眠たげな声。すべてが変わらないはずだった。
その『いつも通り』が、ほんの少し揺らいだのは、フクロウ便の時間になってからだった。
その時間、リリスの元に届くのは毎朝の日刊予言者新聞と、トムからの手紙だ。
いつも通りそれらが届き、トムの手紙は後でゆっくりと読もうと鞄の中にそっと入れた。
紅茶を飲みながら新聞に目を通していたときフクロウの羽音と共に、ひらり、と目の前に落ちてきたのは、見慣れない赤いカードだった。
ぱちり、と瞬きをする。
手のひらほどのそれを持ち上げると、紙はわずかに厚く、指先にかすかな重みを残した。
縁には細い金の装飾が施されていてただのカードにしてはやけに上品だ。
「……From your secret admirer?」
金の文字をなぞるように読み上げる。差出人は、『密かにあなたを想う者』とだけ書かれていて、誰が送った者なのか判断できない。
裏を返せば、簡潔な一文だけが記されていた。
『I hope you know how much you mean to me.──あなたが私にとってどれほど大切か、どうか知っていてほしい』
意味を反芻するように小さく首を傾げる。その仕草に「どうしたのかしら」と隣から覗き込んだアニエスは、口に含んでいたかぼちゃジュースを危うく吹き出しかけた。
「げほっ……リ、リリス、それ……!」
「大丈夫? これがどうしたの?」
アニエスはハンカチで口元を押さえながら、頬を紅潮させて目を輝かせる。向かいの席のマリアも身を乗り出し、カードを見た瞬間、はっと息を呑んで頬を染めた。
「バレンタインのカードですわ!」
「……バレンタイン?」
一拍遅れて、ようやく思い至る。ああ、そういえば。今日がその日だった。
「つまり……?」
「つまり、誰かがリリスのことを好きってことですわ!」
きらきらとした声に、リリスはもう一度カードを見下ろす。
考えてみてもこんなカードを贈る相手は浮かんでこない。──そういえば差出人は明かさないのが秘めたルールだと聞いたことがある。
自分の事のように頬を赤く染めているアニエスの隣で、リリスだけがまだその好意を現実のものとして受け取り切れずにいた。
リリスはふと、カードを鼻先に近づけた。
ほのかに、薔薇に似た甘い香りが漂う。目立たない程度に香水を忍ばせる、その控えめな洒落に、思わずくすりと笑みがこぼれる。
「誰かは分からないけれど……こういうの、初めてもらったわ。嬉しいものね」
そう言って微笑む。その柔らかな笑みに、アニエスとマリアが揃って息をのんだ。
「初めて、ですの? リリスが? とても綺麗ですし、優しいし……もっと、たくさんもらっているのかと……」
「リ、リリスを好きな人、きっといっぱいいるよ……」
二人の真剣な声音に、リリスはきょとんと目を瞬かせ、それから小さく首を傾げた。
「ふふ、そうかしら?」
「そうですわ!」
「そ、そうよ……!」
力強く頷く二人の声に、どこかくすぐったいような気持ちになる。
その時、再び羽音が降りてきた。
今度は、淡い色の花が描かれたカードが目の前にふわりと落ちる。手に取ったリリスが花をそっと指でなぞると、絵の中の花がふわりと揺れ、花弁が一枚、二枚と散る。そのあとに浮かび上がったのは、やはり簡潔な一文。──『あなたは、私にとって唯一の人です』
「……また来ましたわ!」
「え……?」
驚きの声が重なる間にも、フクロウは次々と舞い降りてくる。カードだけでなく、小さな花束や、一輪の薔薇がリボンで結ばれたものまで交じっていた。机の上に、色とりどりの想いが積み重なっていく。
リリスはしばらく、その光景をただ見つめていた。
自分に向けられる視線の存在は、薄々感じていた。リリスは外見こそ十二歳だが中身は成人済みであり、少年達のあけすけな好意や視線など、すぐに読み取っていた。ただ彼らが直接声をかけてくることは不思議となく、視線はくすぐったくとも煩わしさはない。だから、あこがれるだけならば、と放っておいた。
それでも、こうして好意が形になると──やはり、心が弾む。
カードはどれもリリス好みの品の良さがあり、綴られた言葉も熱に酔いすぎていない。押しつけがましさのない愛情は、静かに胸は沁み、くすぐったいような、照れくさいような、そんなじわりとした温かさがゆっくりと内側に広がっていった。
カードに書かれた恋文を一枚一枚丁寧に読んでいると、ふと周囲の生徒達が、ちらちらとこちらを見て、小声で囁き合っているのが聞こえた。「すごい……」「やっぱり可愛いもんね」──そんな羨望と尊敬の囁きを無視することもできた。だがリリスはふっと振り返ると、噂話をしていた生徒達に向かって照れたようにはにかんで笑い、肩をすくめて見せた。
そんな控えめで愛らしい仕草を見た数人は小さく感嘆の声をもらす。その反応すら、完璧に見えた。
「本当に……すごいですわ。こんなにたくさん……」
「す、すごいね……」
感心する二人に、リリスはそっとカードの一枚を撫でた。
「ふふ……ありがとう」
その一言は、差出人の分からない誰かへ向けられていた。
その夜。
寮の静かな部屋で、リリスは机に向かい、いつものように手紙を書く。
インクの匂いと紙を擦る羽ペンの音が、夜の静けさに溶けていく。
いつものように、今日の出来事を綴る。
授業の事、アニエスとマリアの事、そして──少しだけ迷ってからくすりと笑みをこぼしバレンタインの事にも触れた。
『──トム、今日が何の日か知ってる? バレンタイン、というの。
家ではしたことがないし、なじみのないイベントよね。
秘めた愛をカードに込めて、相手に伝える日、なんですって。
それで、カードがいくつかと、花が届いたの。すっごく驚いたわ!
どれも差出人の名前はなくって、誰から届いたのかわからないの。
だから、ちょっとドキドキする──なんて。
きっと、来年トムが入学したら、たくさんカードをもらうでしょうね。
何枚になるのか、楽しみね──』
手紙を折り、封をする。
手紙を読んだトムは、どう思うだろうか? そう考えると、自然と悪戯っぽい笑みがリリスの口からこぼれた。
翌日、遠く離れたゴーント家で、その手紙を受け取ったトムはすぐに自室に戻った。
リリスからの手紙は一人でゆっくりと、丁寧に読む。それがトムのルーティンである。
封を切り、静かに読み進める。整った文字を追いながら、その内容を一つ一つ確かめるように。
「……、……」
やがて、トムの形のいい眉がきゅっと寄り、指先に力が入った。
くしゃり、と。
紙がわずかに歪むほどに、無意識に握りしめてしまい、はっとして、すぐに手を緩める。指先でそっと撫で、皺をなぞるように整える。
「……カード……」
低く、押し殺したような声が漏れた。
バレンタイン、というものをトムは知らなかった。
リリスに不要な存在が近づかないように、リリスに向かう赤い糸が結ばないようにとまじないをかけていたが──。
「贈り物までは……止められないか」
誰に向けたわけでもない呟きは、部屋の中で静かに消える。
その目は、手紙の上に落ちたまま、わずかに苛立ちと焦燥を帯びていた。
どうすれば贈り物を止められるか、リリスに向かう無駄で下賤な好意を消すことが出来るか。
真剣に考えていたトムは、しばらく経ってからトントンと窓をノックする音に気づき、顔を上げた。窓の外にはフクロウが止まり、早く開けろというように嘴で窓を突いている。
トムは何か渡しそびれた手紙でもあったのだろうか、と怪訝に思いながら窓に手を伸ばす。
フクロウの羽ばたきと共に、一枚のカードが部屋の中に舞い落ち、トムは反射的にそのカードを受け取った。
『あなたは、私の人生をとても特別なものにしてくれました。 あなたを想う人より』
銀色のカードに輝く緑の文字で書かれた言葉。美しい装飾が施されたそのカードをトムは息をつめてじっと見た。
そして──ふっと表情を緩める。
先ほどまでの焦燥感に満ち、思い詰めていた眉は優しく下がり、嬉しそうな笑みで口先が上がる。
トムは、そのカードをそっと胸に抱いた。大きく深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
胸を占めていたどろどろとした感情は、さっぱりと消えていた。
「……姉さん……」
差出人の名はない。
けれど、書かれた文字の癖も、言葉の選び方も、柔らかな愛も──トムには見間違えようがなかった。