「トム、あなたのお姉さんって人が会いにきたわ!」
その興奮が滲む言葉に、遊戯室で積み木を積んでは壊していたトム・マールヴォロ・リドルは、顔を上げた。
さらりと落ちる黒髪、雪のような肌、灰色の瞳に赤い唇──孤児院にいる子どもたちの中で、彼ほど整った容姿を持つ子はいない。
母はこの孤児院でトムを産み、トムに名前をつけて亡くなった。父も同じくトム・リドルという名前だった。父に関してはその情報しかなく、生死もわからない。
必死に自分に手招きする職員を見て、トムは手に持っていた積み木を強く掴んだ。
(僕の、お姉さん?)
トムは三歳の幼児だったが、同年代の子どもと比べ圧倒的に知能が高かった。
美しい外見に優れた知能。なぜこんな素晴らしい子どもが養子に引き取られずに残っているのかというと──彼は、奇妙な子どもだったのだ。
喧嘩をし癇癪を起こせば何かが壊れ、不機嫌になれば針で突かれたように周りの子が悲鳴を上げ泣き出してしまう。
トム自身は不気味なほどに泣く事はなく、かと言って声を上げて笑う事もない。不機嫌そうにするか、無表情か。大抵どちらかで、職員や子どもたちはトムはどこかおかしいのだと、本能的に理解していた。
トムは職員に急かされ、立ち上がる。家族が面会に来たにも関わらずその表情に笑みや喜びはない。
会いに来た相手は自分の『お姉さん』。
その事が、トムの胸にちくりと棘を刺していたのだ。その『お姉さん』は自分と違い、今まで父と幸せに暮らしていたのだろうか。自分は、ここで嫌で窮屈な日々を過ごしたのに。
(どうせ、僕だけ捨てて、お姉さんだけ幸せに育ったんだろう。)
そう思うと、胸の奥が重くなった。
トムはぎゅっと口を結び、「絶対、喜んだりしない」と冷たく考えた。
それでも、面会室の扉の前に立ったときは、小さな胸がドキドキと高鳴った。ぎゅっと服の上から押さえ「違う、こんなの、違う」と戸惑い、緊張と興奮で胸が苦しい理由をつけようとしていた。
職員が扉を開ける。
薄暗い廊下に、一筋の光が差す。
トムは目を細めながら、面会室に入り──そして、はっ、と息を呑み込んだ。
ソファに座っている少女がいた。
同じ黒髪、同じ白い肌、同じ灰色の目。
一目見て、本当に『お姉さん』なのだとわかった。
少女──リリスがトムを見て優しく微笑んだ。「会えて嬉しい」「やっと会えた」と言うように、眉を下げて、泣きそうな笑顔で。
それを見た途端、胸が切なく締め付けられた気がして、トムは奥歯をぐっと噛み、表情に出さないように気をつけた。
(やめてよ、そんな顔。知らないくせに。僕のこと、なにも知らないくせに。)
(僕は、ここでひとりで──ずっと、ずっと、ずっと、ここで……)
職員に促されるまま、机を挟んだ対面側に座る。リリスのキラキラとした瞳から逃れるように、トムは目を伏せた。
視界に自分の手が入る。その指差しが微かに震えていて、トムは咄嗟に白い手を強く握った。──指先の震えを知られないように。
「トム、あなたのお姉さんらしいの。ええと、リリスちゃん、何か証明できるものとか……あなたのお父さんは?」
(リリス……僕のお姉さん。)
トムは何度か視線を上げてリリスを見たが、目が合うたびにパッと逸らした。リリスの目が、自分の中の誰にも見せたことのない所を暴いてしまう。──なぜかそう思い、胸がざわついたのだ。
「今は何も持ってきてません。でも……私と似ている。そうでしょう?」
「まあ……そうね」
(優しい声……)
こんな優しい声が出せるんだ。
きっと、幸せに生きてきたんだ。
──僕のことなんか知らないで、暖かい家で。
そう思うと、トムは言いようのできないほどの苦しみが胸の奥から湧き上がってきた。
(どうせ、姉さ──この人もそうだ。僕を嫌がる。怖い子だ、って言うんだ。みんなそうだった。シスターも、子どもも、みんな。)
これ以上ここにいたくない。ただ苦しくなるだけだ。
トムは目をぎゅっと閉じた。生まれも育ちも劣っていることに対する劣等感と屈辱感を、たった三歳だとしてもトムはひしひしと感じていた。
「それに、父は、わかりません。私は……生まれてすぐに。祖父の家に捨てられたようです」
リリスがそう静かに告げたとき、トムは目を見開き、ぱっと顔を上げた。
唇が僅かに震える。胸が詰まり、言いようのない安堵が浮かんでくる。
(捨てられた?……僕と同じ。この人も、姉さんも、捨てられてたんだ。)
小さな胸に溢れてきたのは、暗い喜びだった。
(同じだ。この人も、捨てられた。
僕だけじゃない。僕と、同じなんだ。)
「まあ……それは──」
「噂で、私に似ている子がいて、名前はトム・マールヴォロ・リドルだと知りました。マールヴォロは、私の祖父です。私は生まれてすぐに捨てられましたが……もしあれから弟が生まれ。本当に私の弟なら、一度会いたいと思ったんです」
「そ、そうなの……」
リリスが少し、眉を動かし表情を引き締めたのをトムは見逃さなかった。
一度、沈黙して目を伏せたリリスは、言葉を選びながら口を開いた。
「今日は、その噂を確かめにきました。祖父には……伝えていません。また、改めて訪問します」
「ええ、そうね。それがいいと思うわ」
職員は、流石に未成年──それもこれほど幼い子どもでは話が進まないと思っていたのだろう。祖父が来るとわかるとほっと息を吐き、体の力を抜いた。
数秒、気まずい沈黙が流れる。
それに耐えきれなかった職員は、「じゃあ、少し遊んでいってね」とリリスに声をかけるとそそくさと部屋から出て行った。
リリスは嬉しそうに笑顔で頷き、職員を見送る。
ぱたん、と扉が閉まった後、リリスの視線は再びトムを捉え、トムはその瞳の暖かさに胸がそわそわと落ち着かなくなった。
(こんな目で、僕を見る人、初めてだ……)
その目はとても、優しかった。
目だけではない、表情全てが柔らかく、トムを包み込み受け入れるような慈愛に満ちていた。
トムは、「僕の、お姉さん……?」と上目遣いにリリスを見ながら、小さな声で問いかける。リリスは嬉しそうに「ええ、そうよ」と優しく答えた。
「……本当に?」
「証拠はあるわ」
顔は似ているけれど、信じられない。
信じて、他人の空似で、違ったらもっと苦しくなるから。──トムは、リリスの言う『証拠』が何だろうかと緊張した。
「蛇、見たことある?」
リリスのポケットから出されたのは、小さな細い蛇だった。初めて蛇を間近で見たトムは驚きに目を見開く。「見たことない」と口を閉じたまま首を振り、息を呑んでリリスの手に絡まる蛇をじっと見た。
それでも、不思議と恐怖は感じず──それに、リリスに蛇はとても似合っていた。
「じゃあ、不思議な事が起こった事は?」
「……なんで、きくんだ?」
「いいから」
「……、……何回か」
「この蛇がなんて言ってるか、わかる?」
リリスは囁くように、トムに問いかけた。
蛇は、話すことができるのだろうか?と不思議に思いながら、白く細い指に身を絡めている蛇を見つめる。赤い舌をチロチロと見せる蛇は、「こんにちは」と話した。
間違いなく、喋った。
そのことにトムは大きな目をさらに大きく見張り、指をおずおずと差し出し蛇に近づける。蛇は、興味津々な顔でトムを見ていた。
「蛇って喋るの?」
「私の家系はね、蛇の言葉がわかるんだ。こんにちはって言ってたね。私も、わかるんだよ。……だから、私たちは家族なんだ」
「かぞく……」
「そう、不思議な力は……魔法よ」
「ま、ほう?」
(魔法──。僕は魔法使いなんだ。
この人も、魔法使いなんだ。
僕と同じなんだ。)
蛇がトムの小さな指を舐める。トムは蛇に怯える事なくくすぐったそうに目を細めていた。
その目元は緩み、先ほどあった緊張感がほんの微かに和らいでいた。
「トム、何歳?私は四歳だよ」
「三歳」
「そっか……ねぇ、トム。少し難しい話してもいい?……私が今住んでいるところはね。あんまりいいところじゃない。叔父様とお祖父様がいるけど、二人とも碌な大人じゃないしね。まともな教育が受けられるかどうかわからないし、ここよりも酷い環境なのは間違いないの」
息を詰める。
真剣な目で見つめるリリスの声は暗い。
(僕、ずっとここにいなきゃいけない?)
(この人と、離れ離れになる?)
「今、私たちはまだ幼い。……どうする?ここでもう少し大きくなるまで──」
「嫌だ」
思考を占めていた言葉が溢れた。
感情を滅多に表に出さないトムは、必死な顔で、目を震わせ、リリスの指をきゅっと握る。
まるで、離れたくないと言うように。
「僕、行く。ずっと、考えてた。家族が、僕を迎えにきてくれたら、って。だから、だから──」
「……わかった」
リリスは強く、トムの手を握って立ち上がる。
引かれるように腰を浮かせたトムは、リリスの太陽のような笑顔があまりに眩しくて、可愛くて──頬を赤く染めた。
「お姉ちゃんに任せて!」
「──っ!」
(姉さんなんだ。僕の、姉さん──)
小さな胸が満たされる。世界で一番欲しかったものを手に入れたような幸福な気持ちに、トムは誰にも見せたことのない、花が綻ぶようにはにかんだ。
***
何かが頬に触れる感覚に、トムは身じろぎをし寝返りを打った。黒髪が風に吹かれ、目元を隠す。耐えず頬に何かが当たる感覚に重たい瞼を何度か震わせ、目を開いた。
(なんだろう、寒い……)
何かの音と気配に、ゆっくりと体を起こす。俯く丸い頬を黒髪が撫でた。身体の熱を奪う風と、雨の匂いにトムは顔を上げた。
窓に人影があった。
星と月がリリスを照らしていた。
黒髪が靡く、白い光に照らされ、幻想的な輪郭を生み出していた。
なぜか、トムには、リリスの目が赤く輝いたように見えた。
「おはよう、トム」
声がした瞬間、胸の中でぎゅっと縮こまっていた何かが、ぱっとほどける気がした。
(ああ、優しい声だ。ずっと待ってた、いつ来てくれるのかって)
(姉さん、僕の姉さんだ──!)
「あ……」と、口からは情けないほど弱々しい声が出た。いつもならこんな弱い姿を見せるのは恥だと思っていた。それなのに、胸を込み上げるのは泣きそうなほどの喜びで。
(置いて行かないで。行かないで。今度こそ、僕を連れて行って……!)
伸ばした手が、小さく震えた。怖かったのかもしれない。もしかしたら夢かもしれない、目が覚めたらまた、暗い部屋でひとりぼっちかもしれない。早く掴んで、現実だと教えて欲しかった。
(姉さん、僕をここから連れ出して!)
手を伸ばした。小さな手を、縋り付くように。
リリスは目を細めて笑うと、すぐに手を取り指を絡めた。初めて差し伸ばされた優しく温かい手に、トムは眉を寄せ唇を噛み、涙がこぼれないように耐えた。
「迎えにきたよ。──帰ろう、私たちの家に」
「うん──!」
リリスはトムを軽く抱き上げる。
思わず、その胸に縋り付いてしまった。
(夜の匂いがする……安心する匂い……)
(あったかい……)
腕を絡ませ、首筋に鼻を寄せる。
リリスの微かに笑う声が降ってきて、トムは身を委ね、息を吐き、目を閉じた。
(もう大丈夫だ、僕には、姉さんがいるから)