夜明けの冷気が壁をひやりと冷やし、灰色の部屋に白い朝日が差し込む。
カーテンの隙間からこぼれる細い光が顔を撫で、その眩しさに意識を少しずつ引き上げられた。
まだ明け方は寒くて、無意識に近くの温かいものを引き寄せる。
それは柔らかくて、小さくて、あたたかくて──ほんの少しだけ身体をこわばらせていたが、ふっと力を抜いた。
「ん……」
小さな吐息が首筋に当たる。
くすぐったくて、私の口元から「ふ」と笑い声が漏れると、あたたかいものはまたびくりと動いた。
目を開ける。霞んだ視界が少しずつクリアになっていき、視界に広がるのは白いシーツと、布団と、さらさらとした黒髪。──ああ、そうだ。
「おはよ、トム」
「……ぅん……」
トムは眩しそうに目を細め、小さな鼻から息が抜けるような声で頷いた。
頬がうっすらと桃色に染まっているのは、私に抱き締められていたのが恥ずかしいのか、寝起きで暑いのか。
昨夜、遅くに連れ去られたトムは興奮したようにボロ家を見ていた。
外は寒かったし、紅茶でも淹れようかと少し目を離した間に、突然電池が切れたようにソファで小さく丸まって寝てしまった。
抱き抱えて運んだ時、その小さな手は私の服をしっかりと掴んでいて──なんとなく、離すのも。と思った。
トムのベッドもあるけど初日くらいはいいだろう、と私のベッドに一緒になって寝たのだ。
私の胸元の服を掴んでいる事に気づいたトムは、恥ずかしそうに目を伏せるとすぐに手を離した。私は小さく笑いながら体を起こし、ぐっと伸びをする。
「んーっ!……朝ごはんにしよっか。嫌いなものはない?」
トムも同じように体を起こし、こくりと頷いた。好奇心と少しの不安が滲む目で、私の部屋を見渡しここが安全かどうか判断している。
「ここは、トムと私の部屋だよ。ごめんね、本当は別の部屋の方がいいと思うけど……」
「……」
イギリスでは、子どもでも基本的に一人で寝る。男女の兄弟ならば別部屋にするのが基本だ。だけどこの家には部屋が三つしかないから仕方がない。
トムが大きくなって思春期を迎える前には、家を改造しないとなぁ……まあ、その前にマールヴォロが死ねば部屋が空くわね。
トムは何も言わずにベッドからそろりと降りた。側においてある靴を履いて、立ち尽くす。
まだここが安全かどうか、恐る恐る空気を探っているのだろう。身を固くしてわずかな警戒を露わにするのは、住んでいたところを考えると仕方がないのかな。
そんな、世界で独りぼっち。みたいな顔をしているトムに、私は手を差し出した。
「おいで」
「……」
私の小さな手より、さらに小さくて柔らかい手が、おずおずと手を重ねられた。
暖かい手を繋ぐ。私より少し背の低くて、可愛い弟。この子は、私が守ると決めた存在。
上目遣いに見ては、目を逸らす、そんな彼のいじらしさがとても可愛くて、私は表情を緩めた。
居間はしん、としていた。
すぐに杖を振ってランプと暖炉に火を灯す。「ここで待ってて、すぐに暖かい紅茶を淹れるからね」とトムをソファに座らせて、早速私はヤカンに水をたっぷり入れて、杖で叩く。
一気に沸き、ピーッと高い音を出すヤカンに、トムが少しだけビクついたのが視界の端で見えた。
お湯をティーポットに注ぐ。茶葉じゃなくてティーバッグしかないけど、まあいいか。
冷蔵棚に入れてあったミルク瓶を取り出して、少しだけ温める。欠けていないゴブレットに紅茶を注ぎ、ミルクをたっぷり。あ、そうだ。ハチミツも少し入れておこう。きっとこの甘さが、この子の心をほどくはず。
「どうぞ」
「……」
机の前に置いて、私も隣に座る。トムが、少し身じろぎをして離れたが──一日目だもんね、仕方がない。
ふわりと甘い湯気が立ち上り、トムは不思議そうにじっと見つめる。
そっとゴブレットに手を伸ばし、触れた瞬間「あつ」と手を引き、また手を伸ばす。
慎重に両手で持ち上げ、そっと唇を寄せ、こく、こく。と飲む音を聞きながら、ソファの肘置きに頬杖をついてそれを見る。
トムは微かに瞼を震わせた。
張り詰めていた肩が、ストンと落ちる。
頬がふわりと赤く染まり、「はぁ」と胸の奥に溜まっていた重たい空気を吐き出した。
(ああ、少しだけ安心できたのかな)
トムは私の視線に気づいたのか、横目で私を見ると、ふっと目を伏せてしまった。そんな仕草すら、なんだか愛おしい。
「私、朝ごはん作るから、ゆっくりしててね」
紅茶を一気に飲んで立ち上がる。
うーん、スコーンはあるし、昨日の野菜スープがあるからそれでいいかな。モーフィンとマールヴォロの分の紅茶も淹れないと。
鍋をコンロに置いて、杖を振り火をつける。匙に勝手に混ぜるように魔法をかけたら、匙はスープが焦げ付かないようにゆっくりと回り始める。
そのとき、背後で扉が軋む音がした。
モーフィンが大あくびをして腹を掻きながらのっそりと現れる。「おはよう」と声をかければ、唸りながら「ああ」と「おう」の間の声が返ってくる。
モーフィンはソファに座るトムを一瞥したが、何も言わずに自分の定位置である肘掛け椅子に座る。
トムは大人の男の存在に警戒しているのか、小さく肩を竦め、ゴブレットを抱え込むようにして膝を抱えた。
杖を振り、モーフィンの前にティーポットとゴブレットを移動させれば、モーフィンは眠そうなゆっくりとした動作で紅茶を注ぎ、音を立てて飲んだ。
まあ、マナーも何もない飲み方!トムが真似したら大変。「叔父様」と片眉を上げ厳しい声で言えば、モーフィンは舌打ちを溢しぶつぶつと喉の奥で悪態を吐く。──それでも、啜って飲むことはやめた。
暖炉の薪が爆ぜる音。
鍋に匙がぶつかる音。
部屋が温まってきたから、コンロの上の小さな窓をほんの少しだけ窓を開ければ、朝の清々しい風が私の頬の熱を冷ましてくれた。
その時、トントントン、と小さな音がしてそっちに視線を向ける。
窓枠に梟が止まっているのが見えた。ああ、新聞の配達の時間ね。
チラリとこちらを見て私の手が離せないと知ったモーフィンは、のっそりと緩慢な動きで立ち上がり、机の上の小銭置きから新聞代を掴み窓を開けた。
新聞を受け取ったモーフィンは一つ大きな欠伸をして、ダイニングチェアに座り新聞を開いた。ぺら、ぺらと紙を捲る音が朝の音に追加された。
トムはゴブレットを両手に持ったまま、モーフィンが読んでいる新聞の写真が動いているのを興味深そうに見ていて、モーフィンは新聞の上からトムをチラリと見て、鼻を鳴らした。
暖かいスープの香りが立ち上り、紅茶の甘い匂いが部屋を満たす。
外の空は白み始め、世界が目覚めを待つような時間が、静かに流れている。
この家で、トムと生きる最初の朝が、ゆっくりと始まろうとしている。
そのことが、何よりも嬉しくて口先が自然と上がっていった。
「──さあ、できたわ!トム、叔父様。食べましょう。私、お祖父様に声をかけてくるわね」
料理を机に運び、マールヴォロの自室へ向かう。
狭く軋む廊下の先、古い扉の隙間から酒と酸化した脂の匂いが滲み出していた。
私は拳を作り、扉をトントンと軽く叩く。
「お祖父様、朝ごはんができたわ。食べましょう」
返事はない。息を吐き、もう一度。
今度はもう少し声を大きく、ついでにちょっと魔力を込めて。
「お祖父様」
扉がみしりと悲鳴を上げ、蝶番が「早く開かなければ」と言うように軋む。
扉の訴えに、中からのそのそと足を引きずる音が聞こえた。
扉が軋む音を立てて開き、マールヴォロ・ゴーントが姿を現した。
ぼさぼさの白髪、まだらに欠けた歯を隠さない口元、黄ばんだシャツの胸元にこびりついた酒の染み。その顔には寝起きの苛立ちと、年老いた者特有の頑なさが張り付いていた。
「朝から騒ぎやがって……クソガキが……」
喉奥でくぐもった声が唸る。
それでもこうして出てきてくれるのは、私の作った朝ごはんを食べ逃したくないからだ。
それをわかっているから私は怒ったり悲しむことはない、この「クソガキ」も、マールヴォロにとっては軽快な朝の挨拶のようなものだ。
私は笑顔のままくるりと踵を返す。
背中に浴びるマールヴォロの視線は、決して優しいものではなかったが、それを気にする気もなかった。いつものことだし。
先に居間に入れば、暖炉の火がぱちりと爆ぜ、スープの香りがふわりと鼻を撫でた。
トムがソファの隅で膝を抱えたままこちらを見ていた。大きな灰色の瞳が揺れている。
マールヴォロの重い足音が響き、そのたびにトムの小さな体がぴくりと揺れる。その恐怖は無理もない。初めて会う家族、初めて向き合う大人の男の気配。
醜くて、汚くて、威圧的で──そんな祖父の姿は、この家の陰気さそのものだった。
マールヴォロが居間に入るや否や、トムを見た。
その瞬間、空気が一瞬止まった。
「……お前が」
その声には、軽蔑と怒気が混じっていた。
トムは、私以上にマグルのトム・リドルに似ている。生き写しと言ってもいいだろう。──違いは、その小さな身体に巡る底知れぬ魔力。
それを感じ取ったのか、口を開きかけたマールヴォロの唇が、ゆっくりと閉じた。
濁った瞳が値踏みするように細くなり、爛々と光る灰色の瞳とぶつかる。
強いトムの眼差しに、マールヴォロの目が、わずかに揺れ、喉が、ごくりと鳴った。
口を開き、罵声を吐き捨てようとした言葉は、出てこなかった。代わりに、歪んだ顔のまま、マールヴォロは渋々と目を逸らした。
「……チッ」
沈黙が落ちる。
モーフィンが口先を歪ませ音もなく、くつりと笑った。新聞をめくる手を止めず、目だけで父の表情を盗み見ている。マールヴォロが何を思い言い淀んだのかわかったのだろう。
私も、マールヴォロの気持ちを察することはできた。それでも言葉に出せば汚い罵りが飛んでくるとわかっているから、素知らぬ顔で紅茶を入れる。
トムは祖父の姿を睨むように見つめていた。
醜い男の、嫌な匂いに、汚いものを見るように、ほんの少しだけ、鼻がひくつかせた。
小さな指先が、ゴブレットを握りしめる。
でも、トムは視線を逸らさなかった。
「さあ、座って。食べましょう。お祖父様、早くしないとスープが無くなっちゃうわよ」
私の言葉に、マールヴォロは苦虫を噛み潰したような顔のまま、肩を揺らしてダイニングの椅子を引いた。トムはさっと立ち上がると、早足で私の隣に着てパッと椅子を掴む。「僕は絶対ここ」と言うように。
モーフィンがまた鼻で笑い、新聞を机に置く。
スープの香りが立ち上る。
紅茶の甘い香りが漂う。
火の粉が弾け、窓の外では朝が白くにじんでいた。
ゴーント家の歪んだ家族が、初めて同じ食卓につく朝だった。
暖かいスープを一口を飲む。体の中が暖かく解けていく。
(ああ、私の中のリリスも喜んでいるんだわ)
ドキドキと鼓動が速くなっていく。きっと、弟の存在が嬉しいんだろうな。
トムは立ち上る湯気越しに私をじっと見ていた。ふ、と安心させるために微笑む。
新しい朝が始まった。
今日、この日から──。