トレーナー俺氏、気がついたらコスモ幻獣拳の継承者になってるし、ウマ娘はコスモビーストになってるんだが 作:幽明卿
「――――……」
ふと、彼は強烈な違和感に襲われた。
視線をゆっくりと動かす。半透明のレースカーテンが昼の光を透かし、室内を明るく染めている。
彼が住むマンション、その2LDKの部屋だ。ダイニングの食卓につき、ぼんやりとしているようだった。
「俺、今まで何を……?」
彼は混乱していた。
ここは彼の家だ。だが、違和感が拭えない。それに加え、彼は『今日、これまで』の記憶がなかった。
つまり『朝どう起きて、今までどう過ごしてきたのか』という記憶が欠落しているのだ。
彼は腰をあげてダイニングから出る。廊下から寝室に入ると、そこには見覚えのあるベッドがあった。ダイニングテーブルもそうだったが、家具は彼が使っていたものに相違ない。
『この違和感の正体は、同じマンションの別の部屋に入ってしまったからでは』という疑念があった。だが、家具まで同じならそれも違いそうだ。そう思ったところ――
「え……?」
彼の寝室には、ベッドと反対側の壁に沿って本棚が置かれていたはずだ。それがなくなっている。
記憶違いということはありえない。あの本棚に収められていた本の数々は、彼の職業と密接な関わりがあるものだったからだ。確かにそこにあるはずなのに、現実はきれいさっぱりなくなっている。
そういえば、と思い返す。ダイニングにいたときに感じた違和感。
確か、記憶の中のダイニングテーブルには読みかけの本やノート、その他の資料などがあったはずだ。
一度ダイニングに戻って確認してみる。やはりテーブルの上には何もない。あるべきはずのものがなくなっている。
軽い眩暈を感じる。
覚束ない足取りで廊下を歩きながら、彼は自分自身のことを口に出して確かめなおす。
「俺はトレセン学園のトレーナーで――」
そのときだった。鋭い痛みがズキリと頭の中を刺した。
彼はよろめき、廊下の壁に身をもたせかける。
「……何だ……?」
――何かが『思い出せない』。
彼はトレセン学園のトレーナー。学園に所属するウマ娘と契約し、アスリートである彼女たちをサポートする仕事についている。
しかし、これ以上の情報を引き出そうとすると頭が痛む。『覚えている』はずなのに『思い出せない』。そのもどかしさが身を苛む。彼は居ても立っても居られず、外に出ようとし――
そのときだった。目の前で玄関のドアが開き、何者かが家に入ってきたのだ。
「あら。顔色が悪くてよ。どうかなさって?」
トレーナーは絶句した。
入ってきたのは――ジェンティルドンナ。『剛毅なる貴婦人』の異名を持ち、ティアラ三冠を成し遂げた偉大なウマ娘だ。そんな彼女が、さも当然のように自分の家に来ているのだ。
しかも、現れたのは彼女一人だけではなかった。
「確かに。トレーナさん、体調でも崩しましたか?」
続いて入ってきた長髪のウマ娘は、ヴィルシーナ。史上初のヴィクトリアマイル連覇を達成した実力者であり、二人の妹を持つ心優しい姉でもある。ジェンティルドンナとは幾度もレースで鎬を削り合ったライバル関係だ。
さらにその後ろからは、艶めいた黒髪をボブカットにしたウマ娘が。
「最近、気を張り続けていましたからね。体調管理はしっかりしないと」
彼女はエイシンフラッシュ。ドイツからの留学生で、極端なまでに几帳面な性格をしているウマ娘だ。その端整な外見が人々の目を惹くが、日本ダービーを制したように実力も十二分に備えている。
三人のウマ娘は玄関に並んでトレーナーの顔を見上げている。
その視線を浴びる彼は――ただただ唖然とし、しばらくのあいだ立ち尽くすばかりだった。
☆
「それ、で」
当たり前のように家にあがってきた三人をダイニングテーブルにつかせ、トレーナーは彼女たちの顔を見渡した。
「どうしてみんなは俺の家に?」
家に来た三人がトレーナーの存在を不思議に思わなかったため、ここが彼の家であることはほぼ確実だろう。
しかしそうなると、また新たな疑問が生まれてくる。
『なぜこの家にはあるべきはずのものがなくなっているのか』。
そして『三人はなぜ彼の家に来たのか』。
前者は後回しにするとして、後者について合理的に考えれば答えはひとつだ。
つまり『彼が三人の担当トレーナーであったから』。そう考えさえすれば、ある程度の説明はつく。
しかしながら、その答えには無理があった。
なぜなら、トレーナー自身が彼女たちの担当ではないと確信していたからだ。
担当ウマ娘について考えると頭が痛み、思い出せない。それでもこの三人ではないと確信していた。
特にジェンティルドンナとヴィルシーナ。ライバル関係にあるこの二人を同時に担当することなど、どんな名伯楽でも不可能だろう。
感覚でいっても客観的事実でいっても、この三人ではないはずだった。
そうして最初の疑問に回帰する。
『なぜ三人は俺の家に?』と。
彼からすると至極当然の問いだったのだが――彼女たちの反応は全く予想外のものだった。
ヴィルシーナとエイシンフラッシュは目を見張って驚いている。『急に何を言い出すのか』とでもいうように。
そしてジェンティルドンナのほうはもっと露骨だった。表情には不快感が滲み出ており、それを威圧感に変えてトレーナーに直接飛ばしていた。
「――センスのないご冗談だこと」
「冗談のつもりはなくて……」
「あら。ではトレーナ。貴方は急に記憶喪失にでもなってしまったと?」
「……」
実際のところ、似たような状態ではあるのだが。
それでも、彼女の眼光に射抜かれると委縮して何も答えられなくなってしまう。相対しているだけで背筋が凍ってしまっている。
ジェンティルドンナは大きく溜め息をついて、やれやれと首を横に振った。
「全く、呆れてものも言えませんわね」
「待ってください、ジェンティルさん」
と、助け舟を出してくれたのはエイシンフラッシュだった。
「最近、トレーナさんは思い詰めているようでした。例の『破局』のことで……」
「ええ、そうでしたわね。しかも
「もしかすると、その影響で何かしらの異変をきたしているのかもしれません」
その会話を聞きながら、トレーナーは疑問符を浮かべていた。
『破局』とは何なのだろうか。レース関係の比喩にしては表現が物々しすぎる。かといって言葉通りに捉えたとしても、身に覚えがない。
その他にも疑問点はあった。
彼女たちは彼のことを「トレーナ」と呼んでいるようだった。
最初は聞き間違いかと思ったが、こう何度も繰り返されるあたりそうではないらしい。そして、言い間違いにしては三人とも同じ間違いをしているのも変だ。
(俺、担当外のウマ娘からはそんなニックネームで呼ばれてたのか……?)
そんな記憶はないのだが。
さらにもうひとつの疑問。それは彼女たちの服装についてだった。
彼女たちの服装は制服ではなく、明らかに私服でもなかった。
ジェンティルドンナは真紅、ヴィルシーナは群青を纏ったようなドレスだ。そしてエイシンフラッシュはドイツの民族衣装『ディアンドル』を思わせるゴシック感のある衣装を着ている。
それらは『勝負服』といわれる、彼女たちのレース用衣装だった。こうしてトレーナーの家で着るものでは断じてない。しかも彼女たちはさっきまで外にいたのだ。まさか、この服装で出歩いていたのだろうか……?
「とにかく、意思疎通を。もし本当に記憶喪失になっていたら大変ですし」
エイシンフラッシュの説得を受けて、ジェンティルドンナは不承不承といったふうな視線をトレーナーに投げかけた。
「どうして私たちが来たか、ですか。貴方が最近しきりに口にする『破局』――それを調べるために街の様子を見て回って『戻ってきた』。ただそれだけですけれど」
「つまり……俺が君たちをここに呼んだのか?」
「『呼んだ』というか。そもそもここは貴方と私たちの住まいでしょう?」
トレーナーはさらに困惑した。
説明を受けているのに何も理解できない。謎がどんどん深まっていく。
「ウマ娘とトレーナーが合同で使っている事務所みたいな感じ……?」
「――ウマ娘?」
するとジェンティルドンナは、鋭い視線はそのままに片眉をひょこっと吊り上げた。
「何をおっしゃっていらして?」
「え?」
「トレーナさん……?」と横からヴィルシーナが口を挟む。
その表情は本心から心配しているように見えた。
「トレーナさん、『ウマ娘』とは一体……?」
「……? 君たちはウマ娘じゃないのか? ジェンティルドンナ、ヴィルシーナ、エイシンフラッシュ……だろう?」
「ええ、名前は合っていますが……」
ヴィルシーナは怪訝そうに、こう続けた。
「私たちはコスモビースト。トレーナさん、コスモ幻獣拳継承者である貴方と契約した、