朝靄がまだ窓の外に薄く残っている。
その気配を裂くように、鈴科はベランダの手すりを越えて、静かに屋内へと滑り込んだ。
窓ガラスがわずかに揺れただけで、音はしない。
白い影は、何事もなかったように部屋の空気に馴染んでいく。
「──戻ったぞ」
その低い声に、ソファの上で小さくうずくまっていた銀髪がぴくりと動いた。
「無事だったんだ……」
瞳には安堵と、ほんの少しの不安が混ざっている。
鈴科は淡々と部屋の中に入ると、目もくれずキッチンへ向かった。
水の音が響く。
「怪我……してない?」
その問いにはすぐに答えず、鈴科は黙ってもう一口水を飲んだ。
「してねェよ。そう簡単に、やられてたまるかってンだ」
それでもインデックスは、じっと彼を見つめていた。
心配そうに、でも無理には踏み込まずに。
鈴科は観念したように小さく息を吐いて、ソファへ腰を落とす。
インデックスも静かにその隣に座った。
「……本当に、無理しないでね?」
「オレが誰だと思ってンだよ。学園都市最強だぜ?」
「最強でも、痛いのは痛いし、つらいのはつらいんだよ」
静かな部屋に、その言葉だけがやけに優しく響いた。
鈴科は何も言わず、目を閉じる。
「でも、ちゃんと帰ってきてくれてよかった」
インデックスがそう呟いたあと、少しだけ間があった。
鈴科は目を閉じたまま、返事をしなかった。ただ、深く息を吐いて、背もたれに体を預ける。
その静けさの中で、インデックスがぽつりと口を開いた。
「……そういえば、あなた、まだ名前……教えてくれてないよね?」
その声に、鈴科の眉がほんのわずかに動いた。
「名前、知らないままなのに……守ってくれたんだよね」
その言葉には、非難の色も探るような気配もなかった。ただ純粋な感謝と、少しの寂しさ。
鈴科は目を開き、天井を見上げたまま、低く呟いた。
「……教える理由がねェだろ。どうせ明日にはバラバラだ」
「ううん。そんなふうに言わないで」
インデックスは静かに首を横に振る。
「だって私は、今日あなたに守ってもらった。それは消えないよ。名前も知らないのに、ずっと心配してた」
言葉は小さいが、しっかりしていた。まっすぐな想いが込められている。
鈴科は口元を引きつらせ、視線を逸らした。
「……別に、オマエのために戦ったワケじゃねェ」
「うん、それでもいいよ」
にこりと笑うインデックス。その笑顔は、どこか不思議な重みがあった。
「でも、私は知りたいな。名前。あなたのこと」
沈黙。数秒の間のあと、鈴科は少しだけ口を開く。
「……鈴科、だよ」
「え?」
「それで呼びたきゃ、勝手に呼べ。……オレから言うのは、これっきりだ」
そう言ってそっぽを向く鈴科に、インデックスはまた小さく笑って、優しく返した。
「……うん。ありがとう、鈴科」
インデックスは、まるで宝物を受け取ったかのように、そっとその名前を繰り返す。
「少し寝る」
インデックスはそっと頷き、膝の上に置いた手を見つめたまま、小さな声で応じた。
「おやすみなさい」
鈴科はそれ以上何も言わず、背もたれに深く体を預ける。まぶたを下ろす動作は、どこかぎこちなく、それでも確かに“安心”の中に身を置こうとするものだった。
窓の外では、薄い朝靄が少しずつ晴れてゆく。どこか遠くで鳥が一声鳴いた。世界は、ようやく目覚めの気配を見せ始めている。
静かに、そして確かに時間が流れていた。
インデックスは横目で、眠りにつこうとする彼の横顔を盗み見る。
疲れ切ったまなざし。眉間には、わずかに刻まれた苦悩の皺。けれど、どこか落ち着いたようにも見えた。
“ほんとは、すごく疲れてるんだね……”
そんな言葉を、喉の奥でそっと飲み込む。
そっと立ち上がり、毛布を取りにいく。ベッドの端から引っ張り出したそれを、鈴科の肩へそっとかけた。
彼は起きなかった。ただ、ほんのわずかに身じろぎをしただけで。
インデックスは、鈴科の隣にそっと腰を下ろす。彼の呼吸が落ち着いているのを感じながら、自分の膝に視線を落とした。
言いたいことはいろいろあった。聞きたいことも、たくさんある。けれど、それを今言うのはきっと違う。そう思った。
「……また、話せるといいな」
誰にともなく呟いたその声は、朝の光の中で小さく揺れた。
そして、彼女もまた、背もたれに体を預けて、まぶたを閉じた。
わずかに開いた窓から入る風が、ふたりの髪をそっと撫でていく。
──互いにまだ名前しか知らない。
でもそれだけで、少しだけ、心が繋がった気がしていた。
世界のどこかで、今日もまた非日常が牙を剥こうとしている。
それでも今この瞬間だけは、守られた静けさの中にいた。