ハルシネーション・シュピーゲル ― 記憶喪失の少女と嘘つきAI   作:皐月莢

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Echo Genesis:始まりの残響

 気づいたら、見覚えのない場所に倒れていた。

 壁も床も白く塗られているが、そこからは温度も匂いも伝わらない。

 床には薄い水の膜が張っていて、背中を濡らしている。

 遠くで、ぽたり。

 少し待って、ぽたり。間は変わらない。

 天井の板が外れ、配線の束が網のように垂れ下がっている。

 割れたカバーの残りを抱えた蛍光管が、ときどき息をするみたいに明滅して、塵が光の中でゆっくり形を変えた。

 どこかで古びたファンが擦っているような音だけが聞こえる。

 そんな世界から置き去りにされたような空間に、小さな無人航空機が浮かんでいた。

 灰色のフォルムに、丸いレンズがひとつ。

 レンズの縁に施された光学コーティングが滲むように色を変え、虹の干渉縞が一瞬走った。

 外殻の合わせ目から出る排気が、頬の産毛をかすかに揺らす。

 

「起動を確認しました。負傷評価を開始します。痛覚報告の可否を、はい/いいえで回答してください」

 

 声は澄んでいるが、無機質だった。

 均等に揃った声が、まるで命令みたいに降りてくる。

 喉が乾いて、すぐに言葉を返せないでいると、細いアームが金属のコップを差し出す。

 口縁は冷たく、触れただけで沁みた。

 少しずつ飲むと、冷えた水が喉の裏をなぞって、身体の輪郭が徐々に戻ってくる。

 

「識別タグ、読取中……EX—07B—……NIX……」

 

 短い電子ノイズが耳の奥に届くと、声の主はすぐに元の作業へ戻った。

 

「体位を変更します。三、二、一」

 

 背中の下に薄い布が差し込まれて、硬直していた身体が少し緩んだ。

 ぽたり。

 ファンの音が遠のく中、同じ間で水滴が落ちる。

 

「……よく、わかんない」

 

 自分でも、何が言いたいのか分からなかった。

 ただ、いまの言葉が、頭のどこかにひっかかったような気がした。

 機械はわずかに沈黙すると、レンズを僅かに細くした。

 

「失礼しました。言語モデルを変更いたします。──ここは安全だ。今は動かなくていい」

 

 同じ高さの声なのに、なぜか角が取れたような気がした。

 胸の前を往復している機械からの排気の温度が、わずかに上昇する。

 レンズが顔と同じ高さになり、縁に灯る虹色の輪がふと消えた。

 遠くで、再びぽたり。

 するとさっきの電子音が、冷たい金属片を口の中で転がしたときのような感覚として蘇る。

 

「……ニクス?」

 

 聞き慣れない単語に、思わず唇が動いていた。

 

「そう。ニクス」

 

 半拍の間を空けて、当然のように。

 言葉の前に、喉の奥が先に動いていたのだと、遅れて気づいた。

 理由も意味もわからない。

 ただ、その音が、自分を示しているような気がした。

 光は薄く、音は遠く。

 ぽたり。少し待って、ぽたり。

 同じリズムのまま、白い部屋はゆっくりと霞んでいった。

 

 

 

 目が覚めた。

 最初に見えたのは、薄く剝がれかけた白い塗料と、配線を隠す板の継ぎ目だった。

 擦りガラス越しの朝が隙間から流れ込み、天井の汚れを淡く撫でている。

 換気ファンが低く唸り、壁の向こうから金属の食器が触れ合う音が聞こえてきた。

 廊下からは湿った布と、古い洗剤のような匂いが入ってきた。

 胸の奥に、誰かに呼ばれたような感覚だけが残っている。

 意識を向ければ崩れそうな浮遊感の中、ニクスは指先でシーツのざらつきを摘み、背中の湿りを剝がすように上体を起こす。

 関節が小さく鳴る。

 軽くストレッチをしながら義体の調子を確認するが、全身の可動域は特に異常なし。

 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 

「起きた?」

 

 天井近くに影が浮いていた。

 黒灰色のボディに、丸いレンズ、微かな排熱音。相棒の小型支援ドローン《ハル》だ。

 

「……おはよう、ハル」

「おはよう。室温はこのままでいい?」

「いい」

 

 この宿はクーロンの外れにある週払いの安宿だ。

 フロントは昼しか人がおらず、鍵と屋根だけが保証される。

 壁も配管も古いままで、修理は入らない。

 客はすぐ入れ替わる。誰も名前を聞かないし、誰も覚えない。ただ雨風を避けるだけの場所だ。

 裸足で床に降りると、薄い板が沈み、ひやっとした感覚が足裏に張りつく。

 小型冷蔵庫を開けると、弱いLEDの光とプラスチックの匂いがわずかに漂ってきた。

 ミネラルウォーターの封を切り、口に含む。

 温度は常温とほとんど変わらない。

 喉の裏をなぞる感覚だけは鮮明だ。残りは洗面のコップへ。

 蛇口は一拍遅れて生温かい水を吐くが、わずかに配管の赤錆が混じっている。

 金属板の鏡には、寝癖で跳ねた自分の髪がぼやけて映った。

 頬にシーツの跡。

 濡らした指で髪を押さえ、タオルで顔を軽く拭く。繊維が頬にこすれた感触で、意識が完全に醒めた。

 

 〈HUD:SYNC 1.74/外気温 18℃/通信 安定〉

 

 数字は視界の端に灯って、すぐに引っ込む。

 腰にベルトを回し、ホルスターの留め具を指で確かめる。

 使うかどうか分からなくても、拳銃とナイフの位置はいつもどおり。

 ブーツの紐を締めているあいだ、ハルがゆっくりと旋回し、窓の鍵とドアチェーンを順に確認した。

 窓を少しだけ開けると、湿った空気が頬に触れる。

 結露の一滴がガラスを滑り、枠で止まった。

 

 ——ぽたり。

 

 夢の底で聞いた音に、どこか似ているような気がした。

 

「朝ごはん、どうする?」

「あとでいい」

「早起きは三文の徳ってね。ちょうど屋台が開いてるかも──」

 

 ハルの外装ランプが一瞬点滅し、短く通信音が鳴った。

 

 〈HUD:通知/センセイ:拾い物〉

 

 着信先は、その怪しげな通称どおり、誰も本名を知らない闇医者だった。

 義体はもちろん、精密機械、それどころか生身まで診られる、このスラムで数少ない知識人だ。

 

「行く」

「了解」

 

 ドアノブは冷たく、わずかに湿っていた。

 手のひらに金属の匂いが移る。防犯用のチェーンを外すと、締め付けられていた空気が緩くほどけたように感じた。

 廊下は薄暗く、蛍光灯が等間隔に光っている。

 剝がれかけの床材がぎし、と鳴り、どこかの部屋のテレビが潰れたような音声を漏らしている。

 すれ違った男は帽子を深くかぶり、こちらを見ない。

 この宿を管理している女が洗濯物の網袋を片手で引きずり、古びた階段を下りていく。

 誰も話しかけず、誰も立ち止まらない。ここはそういう宿だ。

 一階に降りると、通りの音が大きくなる。

 上層のレールがきしみ、遠いクラクションが重なり、裏路地の屋台の鍋が油で弾ける音が聞こえてくる。

 軒先のビニールが風で鳴り、風下から香辛料の粉が細く流れてくる。

 角の屋台で紙コップの薄い茶と、紙袋に入った揚げ餅を受け取る。

 歩きながら茶で唇を湿らせ、掌に収まり切らないほどの大きな揚げ餅をひと口かじる。

 油と香辛料の粉が舌に広がるが、茶を流し込むとすぐに消えた。

 ハルは低い位置に浮かびながら並走している。

 

 〈HUD:ルート提案/屋根付き通路を経由〉

「了解」

 

 フードを深くかぶり、路地の影へ体を滑らせる。靴底が濡れたタイルで小さく鳴り、ネオンの色が水たまりで滲む。

 ハルは天井近くを移動し、ときおり角の先を覗いて戻ってくる。

 動きはいつもどおり。

 早すぎず、遅すぎず。路地の先に、工房の看板が小さく見えた。

 

 

 

 

 

 階段裏の狭い路地。

 半分だけ上がったシャッターの奥で、作業灯の白い輪が床を照らしている。

 コンプレッサーの断続的な圧縮音。分解された義肢が冷蔵棚の肉塊のように整列していた。

 溶接ゴーグルを額に上げた壮年の男が、手の甲で汗を拭う。

 

「いらっしゃい。来てくださって助かります」

 

 この街では本名を知る者はいない、義体も肉体も診る闇医者だ。

 元々は軍に所属する義体整備士だったようで、身元不詳者であるニクスがD級ハンターに登録する際に協力してくれた人物だ。

 

「相変わらず湿気がひどいですね。上がまた換気を落としているようです」

「でも忙しそうだね」

「ええ。必要な方は、いつでもいらっしゃいますから」

 

 短いやり取りを切り上げると、作業台の端の端末が点いた。

 画面には、クーロン第七区画の地下へ潜る簡略地図が表示される。

 そこは戦後に封鎖された区画で、旧軍施設の廃墟と排水路が複雑に絡み合い、湿気と腐食の溜まり場になっている。

 ジャンクとしての価値すら無い廃棄物が大半だが、中には再利用出来るものもある。

 センセイは地図に映し出されたルートを示すと、ニクスに視線を移した。

 

「ここは?」

「第七区画の地下、軍用ドローン工場の実験棟に併設された冷却棟です」

 

 センセイは淡々と続ける。

 

「通路は旧規格で狭く、湿気も強い。慣れない者だと時間を食います。それに、軍の廃棄物扱いですから、回収自体が違法です。静かに、手早く」

「注意点は?」

「電源は落ちているはずですが、保全用の自動制御や監視プログラムが残っている可能性があります。場合によっては、試験機の生き残りが作動するかもしれません」

 

 センセイがニクスに頼む理由は単純だった。

 目的地までの経路は入り組んだ旧規格の構造で、訓練不足の回収屋では侵入すら困難だ。

 加えて、軍事廃棄物の回収は違法で、外に情報が漏れれば当局か、あるいは他の回収屋が先に動くだろう。

 確実に持ち帰るには、口が堅く場慣れした人間でなければならない。試験機の生き残りが動いていれば、戦闘も避けられない。

 騒がず、漏らさず、奪われずに持ち帰る。

 ただ、それができるかどうかだけだ。

 棚の奥で金属音が途絶え、細い影が一歩踏み出す。

 義肢整備用のエプロンを掛けた少女──センセイの娘だ。

 この街で、言葉を話せない彼女が客の前に姿を見せることはほとんどない。

 だが、ニクスを見つけた瞬間、ほんの一瞬だけ視線がわずかに柔らかくなり、会釈するように小さく顎を引いた。

 両腕に抱えた部品トレーを作業台の端に置くと、無言のまま戻っていく。

 奥の扉が軋み、閉まる音が聞こえると、センセイは大型のケースを取り出して蓋を開ける。

 中には古い規格のコネクタに、薄い保護布、テープ。

 そして紙封筒を一つ、作業台に置いた。

 

「対価はD級上限額の倍で。半分は先にお渡ししますが、残りは回収後に。既に持ち去られた可能性もありますが」

 

 ニクスは封筒を受け取ると、ケースのストラップを肩に回して重さを確かめた。

 このくらいなら邪魔にはならない。

 外に出る。風は少し冷たい。上層の桁から落ちる水がテンポを落とす。

 

 〈HUD:外気温 18℃/通信 安定〉

 〈HUD:ルート提案/裏道を二本経由〉

 

「任せる」

「了解」

 

 フードを深くかぶり、路地の影へ体を滑らせる。

 濡れたタイルが小さく鳴り、ネオンの色が水たまりで滲む。胸の奥の呼び声は薄れ、代わりに街の音が聞こえてくる。

 人の声。機械の声。遠い電車の振動。

 第七区画に近づくほど、空気が変わっていく。

 高架の唸りが低く太くなり、壁のペンキは泡のように膨らんでいる。

 歩道沿いに露出したケーブルが乾いた蛇のように伸び、注意書きの看板は退色しており、一部の文字だけが読めた。

 目的の棟は、地面から切り離されたように静かだ。

 壁に斜めのヒビ。錆の涙。

 正面扉は内側から溶接され、継ぎ目が盛り上がっている。

 頭上では死んでいるはずの赤い警告ランプが、一呼吸置きに淡く脈打っていた。

 

「見える?」

「うん。電源は落ちてるはず。内部の電源が生きているみたいだね」

 

 肩の高さでホバリングしていたハルが、ゆっくりと壁へ近づいてスキャンする。

 

 〈HUD:構造推定/試験架台:残/搬送レール:廃/冷却ループ:残〉

 

 頬をひびに寄せると、季節に合わない冷気が細く当たった。

 かすかな鉄の味と、流体の重い循環音。

 これはファンではない。工場内部の設備が稼働しているらしい。

 足元の排水溝には黒い水。

 油膜が薄く浮き、風が止むたびに、ぺたっとした虹色の輪を広げる。

 

 〈HUD:環境読取/気圧:安定/温度:18℃〉

 

「入口は?」

「正面は避けよう。点検扉を使う。鍵は死んでる。貨物が来た瞬間に開ければ音は消せる」

「タイミングは?」

「もうすぐ。ピークに合わせてカウントする」

 

 通りは乾き、人影は遠い。上層の線路から貨物列車の低い唸りが近づく。

 指は金属の縁に触れたところで止まる。

 呼吸を整える。視線でハルを捉える。合図は短い光だけで十分だ。

 

 ——ここから先は、仕事の時間だ。

 

 

 

 上層の線路を走る貨物列車の唸りが、冷却棟の奥へ進むにつれて鈍くこもった音に変わっていく。

 湿気を含んだ金属壁は鈍く反響しており、水気で滑りやすいグレーチングの上を歩く度に、靴底はかすかに軋んでいる。

 

 〈HUD: 環境系読取──温度17.4℃/湿度92%〉

 

 薄暗い通路を進む中、壁際を這う冷却管が吐き出す白い霧が、時おりニクスの前を横切る。

 奥へ進むほど、周囲は薄暗くなり、錆びたマーキングはところどころ剥がれている。

 目の前のルートがどこに繋がっているのか、自分はどこを歩いているのか、判別することすら困難だ。

 ハルの的確なサポートがなければ、この地下迷宮で遭難していただろう。

 やがて行き止まりに近い区画で、床一面を占める不規則な山に行き当たった。

 

「……これって」

 

 全てが黒く煤け、外殻の一部が膨張してひび割れた長方形のモジュール──相転移バッテリーだ。

 微かに甘い揮発臭と金属の焦げた匂いが混じり合い、裂け目から漏れ出していた。

 

 〈HUD: 電源系診断──全ユニット使用不能〉

 

 破損したバッテリーはただの産業廃棄物で、持ち帰る価値はない。

 ニクスは山を一瞥すると、そのまま通り過ぎようとした。

 その瞬間、背後で金属が触れ合う音がした。間を置いて、グレーチングを踏むような音が聞こえてくる。

 

 〈HUD:生体反応──距離20.3m/単独/軽装〉

 

 振り返らず、壁の影に滑り込む。喉奥で息を切り、肺の膨らみを抑える。

 霧の向こうに浮かんだ輪郭は、低めの姿勢でこちらの動きをうかがっていた。

 フードに簡易マスク、柔らかそうな薄底靴。肩から細いスリングが垂れ、手は腰のポーチに触れている。銃はまだ構えていない。

 ハルは無言で解析結果を表示した。

 

 〈HUD:照明出力低/反射材なし/行動パターン解析中〉

 〈HUD:同業者の可能性大〉

 

「……そういうこともあるか」

 

 口の中だけで呟く。狩場が重なった相手は、状況次第で味方にも敵にもなり得る。

 歩法は粗いが、間合いの取り方に素人特有の迷いはない。

 尾行というよりは、ただ先行しているニクスに追いつこうとしているだけ──そう判断しかけた時、耳の奥にざらついたノイズが走った。

 

 〈HUD:信号観測──RFノイズ上昇/局所〉

 

 床下から擦れるような機械音が聞こえたかと思うと、柱の陰から赤い光が水平に走る。

 人影は反射的に身を伏せた。

 同時に左手をポーチに突っ込むと、小さな円筒を指先で掴んだ。

 次の瞬間、軽い金属音とともに乾いた破裂音が上がった。瞬く間に白濁した煙が広がり、周囲を覆い尽くす。

 

 〈HUD:映像系センサー一時障害/ノイズ干渉検出〉

 

 センサー表示の一部が、煙幕弾から発生したノイズでかき消える。追跡者の姿はほとんど見えない。

 霧の奥で肩のスリングを外し、細身の銃を構える影がかすかに浮かぶ。

 だが、それは一秒にも満たなかった。

 煙の向こうで、金属の脚部サーボが唸りを上げたかと思うと、白い煙を切り裂きながらドローンのシルエットが飛び出す。

 機体のマニピュレーターが一閃し、追跡者の武器は弾かれて床に転がった。

 続けざま、ショックパルスの青白い閃光が背を撃つ。

 短い呻き声とともに、追跡者は膝を折ってうつ伏せに崩れ落ちた。

 ドローンのカメラアイが左右に掃き、次の標的を探すように焦点を絞る。

 赤い光点がわずかにこちらへ寄ったような気がした。

 

「……やり過ぎ」

 

 どうやら周囲の状況などお構いなしで、侵入者を無差別に迎撃しているらしい。

 ニクスは腰のP90-Σ(シグマ)に手をかけ、一歩踏み出す。

 その瞬間、HUDに警告が奔った。

 

 〈HUD:ロックオン警告──識別:不明機〉

 

 機体は追跡者を放り捨て、肩部ハウジングを展開する。近距離制圧用の多連装インパルスガンが露わになった。

 

「ハル、ジャミング」

 〈ACK──周波数干渉開始〉

 

 耳の奥に電磁ノイズが響くと同時に、青白い光弾が正面から走る。

 金属壁の反射が通路全体を白く染めるなか、ニクスは側壁へ跳び、シグマを二発。

 火花が散り、センサー部に黒い焦げ跡が刻まれた。

 だが、機体は怯まない。

 駆動音をさらに上げ、霧を巻き上げながら突進。金属床が低く唸る。

 右足を引き、壁際へ滑り込みざまに三点バースト。

 外殻に弾痕が咲き、破片が床を跳ねた。それでも脚部サーボは速度を落とさず、鋭いマニピュレーターが肩口を掠める。

 まるで帰ってこない主人を健気に待つ番犬のように。

 身を捻ってかわし、逆に間合いを詰める。

 

 〈HUD:近接警告──0.7m〉

 

 短く息を吸いながら、銃口を側面装甲へ押し当てる。

 至近距離で強装弾を二連射。

 衝撃が腕を痺れさせるが、装甲の隙間に黒い切れ目が刻まれた。

 機体が一瞬揺らぎ、センサー部が明滅する。

 

「……これで終わり」

 

 バッテリーが無事なら、壊しても構わない。

 カメラアイに照準を合わせ、指に力を乗せた──その瞬間。

 

 〈HUD:認証プロトコル──起動〉

 〈HUD:識別信号一致──EX-07B/NX〉

 〈HUD:優先度β/抑制プロトコル適用〉

 

 攻性フラグが一気に落ち、出力ゲージがゼロへ沈む。発射系は安全化。駆動音が途切れる。

 脚の油圧が抜け、肩部ハウジングがだらりと沈下。

 多連装砲架は格納位置に戻り、赤いレンズはふっと暗転した。

 機体は膝を着き、そのまま前のめりに崩れて静止する。金属が冷え縮む微かな音が聞こえる。

 ニクスは呼吸を整えながらシグマを下げると、視界の端でハルが解析を開始した。

 

 〈HUD:自己認証完了〉

 〈HUD:行動プロトコル──完全休止〉

 

 暗闇に沈んだカメラアイが、消え残りの微光を一度だけ灯し、すぐに消える。

 白い残煙が薄れるなか、倒れた追跡者がかすかに身じろぎした。肩が一度だけ震え、細い呼吸音が漏れる。

 幸い生きているようだが、すぐに立てる状態ではない。

 湿った空気と冷却管の低い唸りだけが、静けさを取り戻した地下区画で響いていた。

 

 

 

 階段裏の路地に入ると、半分だけ上がったシャッターの奥で作業灯が白い輪を作っている。

 センセイが台車を押し出し、静かな声で迎えた。

 

「ご無事のご帰還、何よりです。こちらへ」

 

 スリングを外し、軍用監視ドローンを台車へ移す。金属の重みが手首から肘へ抜ける。

 センセイはセンサー部に被せた布を一瞥し、頷いた。

 

「特に異常はなさそうですね。減圧と分解は今夜のうちに私が」

 

 奥から小さな影。義肢整備用エプロンの娘が現れ、台車のブレーキを足で踏む。

 視線が一瞬だけこちらに触れるが、すぐ作業へ戻る。わずかに笑みを浮かべているが、口は開かない。

 

「お約束の報酬です」

 

 センセイは引き出しから封筒を出し、作業台に置く。

 ずしりと重みのある封筒を、ニクスは内ポケットへと滑らせる。

 

「……途中で、急に止まった」

 

 思い出したように言うと、センセイは工具を持ったまま目線を上げた。

 

「旧式の自律AIには、そういうこともあるようです。詳しい解析結果が出れば、あとでお送りしましょうか?」

 

 それ以上は聞かない。

 ハルが天井近くを一巡し、工房の窓と施錠を確認する。

 

「後処理は私がしておきますので、お構いなく」

「任せる」

 

 路地に出ると、ビニールの庇が小さく鳴る。

 上層のレール音が遠くから聞こえてくる。

 歩幅を仕事のリズムから普段の歩きへ戻す。速すぎず、遅すぎず。

 簡単な食事を終えると、安宿の階段を上がった。

 廊下は湿った洗剤の匂いが漂い、蛍光灯が一定の間で点滅している。

 鍵を回し、チェーンを掛ける。部屋は朝のままだ。

 まずは、持ち帰った匂いを部屋に広げない。

 バッグの外装とストラップを中和シートで拭き、靴底は洗面で水洗い。排水口に金属臭が僅かに漂う。

 

 〈HUD:臭気閾値──低下〉

 

 装備を所定の位置へ戻し、汚れた布とグローブは袋に分ける。

 シャワーを開く。水圧は弱く、温度は不安定。

 最初に出てくる赤錆を流してから、短く浴びる。皮膚に残った甘い冷媒臭が、徐々に薄れる。

 

 〈HUD:水温 34℃/所要 2分30秒〉

 

 タオルで髪を押さえ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで喉を潤す。

 P90-Σ(シグマ)をフィールドストリップ。

 ボルトとチャンバーを布で拭き、金属粉と煤を払う。作動確認を一度だけ。静かなクリックが戻る。

 

 〈HUD:武器自己診断──作動率 100%〉

 

 ホルスターの留め具を閉じ、シグマを所定の位置へ。息をゆっくり落とす。

 

「……どうして止まったと思う?」

 

 ハルのレンズがわずかに絞られる。

 

「さぁね。触らぬ神に祟りなしって言うし」

「そうね」

 

 〈HUD:SYNC 1.82/通信 安定〉

 

 ベッドに腰を下ろす。擦りガラスの向こうで、廊下の非常灯が白く滲んでいる。

 どこかで——

 

 ——ぽたり。

 

 同じ間。どこかで聞いたような感覚だ。

 横になり、目を閉じる。

 視界の端に映るハルの姿がかすかに揺れる中、音は少しずつ遠のいていく。




 付録A:第七区画封鎖通達 抄(市保全部第17-κ)

 発出:都市保全部 旧軍資産管理班
 件名:第七区画 地下実験系統(冷却棟含む)封鎖の継続

 1. 当該区画は「旧規格通路・高湿・低照度・腐食進行」のため一般通行禁止。

 2. 旧軍設備の残留自動制御については停止確認未了。侵入による損害は申告対象外。

 3. 不法回収物品は没収。相転移電源体は所持段階で違反(条例21条)。

 4. 巡回ログは搬送線路通過時に同期収集。例外的欠落は記録保持上の仕様であり、苦情は受理しない。
 付記:水害対策の予算は本年度も否決。排水能力は現状維持。





 付録B:相転移バッテリー 安全通告 抄(旧軍整準-電源第9号)

 名称:相転移電源体(可搬型)
 運用温度:−10〜+25℃(外装表面9〜12℃が正常域)
 失活徴候:外装膨潤/診断パネルERROR連鎖/甘い揮発臭
 危険:低温熱傷/冷媒吸入による頭痛・めまい/端子焼損時の微量フッ素化合物
 取り扱い:屋外での開封禁止。減圧処理は認可施設のみ。
 備考:試験機への外部給電配線は床溝へ逃がす規格。切断時は残エネルギが遅延放散される。
 回収時注意:センサー遮蔽の上、機体ごと運搬可。現場解体は想定しない。
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