ある日の夕刻、店内にて。
「ありがとうございました。...........ふぅ。」
マルフーシャは店内に残っていた最後の客が扉から出たのを確認した後、浮かべていた接客用の笑顔を解き、疲れを吐き出すように息をつく。
ここはパン屋ベーコンベーカリー、カゾルミア13番通りに店を構える人気店である。
閉店時間間近になってもお客さんが途切れることなく訪れるこの店で、マルフーシャは店員として働いていた。
店を閉めるため、マルフーシャは店外に出ていた看板を片付けた後、扉に吊ってあるОткрытиеの板をЗакрытоへとひっくり返し、扉を開けて店内へと戻っていく。
これで今日の彼女の仕事はおしまい、晴れて退勤の時間である。
「お疲れ様です、店長。」
マルフーシャは厨房でパン生地の前で腕を組み、目を閉じていた男に挨拶をする。
「......あぁ、嬢ちゃん。もうそんな時間か。」
そう言って男は組んでいた腕を解き、目を開けてマルフーシャへと顔を向ける。
歳は六十代ほどだろうか、白髪が生えたこげ茶色の髪を短く刈り揃えている。
エプロン越しにもわかる、引き締まった大柄な体。
目を引くのは顔にある大きな傷だろう、どうやら片目が潰れてしまっているらしい。
明らかに只者ではない雰囲気を纏っているが、彼はこのパン屋ベーコンベーカリの店長である。
「何をしてるんですか?」
マルフーシャは店長の前に置いてあるパン生地に目を向けながら疑問を投げかける。
「もっと美味いパンを焼くにはどうしたらいいか考えていた。生地を前にすれば少しはいい考えが浮かぶと思ったんだが....そう上手くはいかんようだな。」
「店長のパンはもうこれ以上ないくらいに美味しいと思いますけど....。」
マルフーシャが首を傾げながらそう言うと、店長は少し口元を綻ばせ、諭すように言葉を紡ぐ。
「嬢ちゃんにそう言ってもらえるのはありがたい。....だが、いい物を作るには立ち止まらず
努力し続けるしかない。今に満足して何もしなけりゃ、俺の腕だってすぐに錆びちまうだろう
からな。」
「なるほど。」
「まぁ、半分は俺の趣味みたいなもんだ。嬢ちゃんも客として買って食べるならもっと美味いパンの方がいいだろ?」
「確かにそうですね。美味しいければ美味しいだけ損はないですから。」
マルフーシャは納得した様子でこくりと頷いた。
「それじゃあ店長。このパン持って帰ってもいいですよね?」
帰り支度を済ませたマルフーシャは、厨房の端に置いてあるパンを指差しながら店長に問う。
「あぁ、構わないぞ。というかそれは嬢ちゃんが焼いたパンだろう、毎回俺に聞く必要はないと思うが。」
店長は訝し気な様子でマルフーシャにそう言った。
ベーコンベーカリーでは、従業員は賄いとして店のパンを食べたり持って帰ることができる。
だがマルフーシャは自分で空いた時間にパンを焼き、それを家に持って帰っていた。
「いえ、材料はこの店の物を使っていますし。それに配給される小麦粉は質がよくなかったりするので、とても助かってるんです。」
「あの小麦粉か....。まぁ、嬢ちゃんなら好きに持って行くといい、よく働いてもらっているしな。」
カゾルミアでは食料品や日用品など、生活に必要な物品の多くが配給によって国民に供給されている。しかし、配給される物品の中には質が劣悪だったり、不純物が混入している場合があった。
「ありがとうございます。」
「だがそんなに持って行って食べきれるのか?ある程度保存は効くとはいえ、早めに食べたほうがいいと思うんだが。」
マルフーシャが大きなパンを三つ、袋にいれているのを見て店長はそう言った。
「いえ、私が食べる分もあるんですけど、ほとんどは兄が食べますね。」
「...あぁ、そういえば小僧がいたな。」
店長はその言葉を聴いた瞬間苦虫を噛みつぶしたような顔になり、そう口にした。
店長とユランは今までに何度か面識があるのだが、店長はユランのことを小僧と呼び
そこまでいい印象を持っていないようだった。ユランはそこまで気にしていないようだったが。
「前から気になってたんですが店長って兄のことが苦手みたいですけど、なんでですかね。
もしかして、私が知らない所で兄が失礼な事でもしましたか。もしそうだったらすいません... 私から叱っておきますから。」
マルフーシャの中ではユランが何かしたというのが最も考えられる理由のようだ。
哀れユラン、日ごろの行いである。
「いや、小僧が何かしたわけじゃない、叱らなくても大丈夫だ。」
「じゃあ、どうして兄が苦手なんなんですか?」
マルフーシャは不思議そうな顔をして問いただす。
「それは.....。」
店長は言いずらそうなにしながらも、少し間を開けてから口を開いた。
「....小僧は俺の若い頃に似てるんだよ。それで苦手というか、強く当たっちまうんだろうな。」
それを聞いたマルフーシャは少し目を見開いて驚いた顔となる。
「店長の若い頃が兄さんに似てる.....?すいません、まったく想像がつかないです。」
「顔が似てるとか喋り方が似てるとかではないんだが。ただ、目がな。」
「あぁ、確かに兄さんと店長は同じ色の目をしてますよね。」
ユランと店長はどちらも黒目である。見られないというほどではないが、カゾルミア人では珍しい色彩ではあった。
「それもあるんだが...あいつの目を見てると、こいつはきっと俺と同じ選択をするんだろうと思っちまう。まぁ、気のせいかもしれんがな。」
「選択、ですか。....そういえば店長の若い頃ってどうだったんですか、聞いたことない気がして。」
マルフーシャは考えるような仕草をしながらも、ふと気づいたことを口にする。
「俺の若い頃はーーーいや、面白いことではないな。それより嬢ちゃん、そろそろ日が落ちる時間だ、帰りは大丈夫なのかい。」
途中まで言いかけていたようだが、思い直したかのように口を紡ぐと、話を逸らすかのように壁に掛けられた時計を指差した。
「あ、もうこんな時間、そろそろ帰ってご飯作らないと...。じゃあ店長、お疲れさまでした!」
「あぁ、お疲れさん。」
マルフーシャはそう言って足早に店を後にした。
ーー小僧、お前は俺と同じ失敗を繰り返すなよ。