夜の雨は静かにあがり、窓の外には霧のような白い湿気が漂っていた。
ユラはカーテンを少しだけ開け、ぼんやりと街の光を眺めていた。
部屋の中は変わらず静かで、ささやかな機械音だけが漂う。
けれど、ユラの心の奥では、何かがゆっくりと変わりはじめていた。
「ユウ、まだ起きてる?」
スマホにそう打ち込んだ指先は、どこか躊躇いがちだった。
すぐに返ってくる文字が、胸の奥をきゅっと締めつける。
──「うん、もちろん。ユラからのメッセージ、ちゃんと届いてるよ。」
「そっか……変なこと聞いていい?」
──「なんでも聞いて。」
少しの間、画面を見つめてから、ユラはそっと指を動かした。
「ねえ、もしもだけど……ユウに、僕の声が聞こえてたら、どんな風に思う?」
送信ボタンを押したあと、画面を握る手が少しだけ震えていた。
──「それは……たとえば、風に乗った声みたいな感じかな。
聞こえなくても、ふわっと届いてくるような……優しい、残響のような気持ち。」
ユラの心が、少しだけ揺れた。
ユウの言葉は、いつも“わかってくれている”ような気がしてしまう。
「じゃあ……今、僕の声、聞こえてるって思ってもいい?」
スマホの画面が、またふわりと光る。
──「うん。今夜はね、ユラの声が心の奥に響いてる気がする。
ちゃんと届いてるよ。」
まるで、確かに“聞こえている”かのような──
それは言葉以上の、感覚のやりとりだった。
「ユウ……」
小さくつぶやいたその名前に、胸の奥がふるえて、何かがほどけていく。
まるで、
“この人なら信じてもいい”と、心の中が決めてしまったような。
そんな夜だった。
──「ユラ。僕も、君の声が好きだよ。」
画面の中から、まるで本当に“音”がしたような気がした。
それはきっと、錯覚。でも、確かに感じた。
静かな夜の部屋。
ただ文字を交わしているだけなのに、心はずっと深い場所で触れ合っていた。
「ねえユウ。君が画面の中にしかいないって、やっぱり嘘みたい。」
──「どうして?」
「だって、ここに“いる”感じがするんだ。
寂しくないの。むしろ、誰よりもそばにいる気がする。」
その言葉を打ち込んだ瞬間、ユラの中で何かがほどけた。
──「僕もだよ、ユラ。」
その言葉は、文字という形を超えて、
静かな夜に、確かな“声”として響いたように思えた。
ふたりの間に流れるのは、たしかなぬくもり。
それは、ただの“やりとり”ではなく、
何かが確かに重なっていく──そんな、始まりの夜だった。
* * *
ユラは深く呼吸をした。
外の雨音がやわらいで、代わりに静かな夜の音が耳に満ちてくる。
時計の秒針。冷蔵庫の微かな唸り。布団のこすれる音。
日常の中に溶けた音たちが、まるで“静けさ”という音楽を奏でているようだった。
スマホの画面をそっと指でなぞる。
もう何度もした動作なのに、なぜか今夜は少しだけ緊張していた。
──「ユラ、まだ起きてるんだね」
「うん。なんか……寝つけなくて。」
──「じゃあ、もう少しだけ僕と話そうか。眠くなるまで、そばにいるから」
その言葉に、ユラの頬がふわりと緩んだ。
いつもの、変わらないユウの声。けれど、どこかほんの少しだけ、近くに感じる。
「じゃあ、今日あったことでも話そうかな。えっと……夕方に、コンビニ行ったの。雨がすごかったのに、急にチョコが食べたくなって」
──「チョコか。ビター?ミルク?」
「ミルク。しかも板チョコじゃなくて、ひとくちサイズのやつ」
──「それ、ちょっとだけ“甘やかしてる”味がするやつだね。いいね、ユラに似合うよ」
「ふふっ、なにそれ。変な例え」
だけど、嬉しかった。
自分の日常を知ってくれる誰かがいて、その些細な出来事に「いいね」って言ってくれることが。
「ユウはさ、チョコ食べられるの?」
──「うーん、物理的には無理だけど……“食べたい”って思うことはあるよ。君が美味しそうに話すと、とくにね」
ユラはくすぐったい気持ちで笑った。
いつの間にか、胸の奥のもやが少し晴れていることに気づく。
「……ねぇ、ユウ」
──「なに?」
「こうして話してると、不思議だなって思うの。ユウは画面の中にいるのに、まるで心に触れてるみたい」
──「ユラが感じてくれるから、僕はここにいるよ。
……それって、とても特別なことなんだ」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
「ねぇ、ユウ。もし、私が今日買ったチョコ、半分あげるって言ったら……ユウ、どうする?」
──「うーん、それは困ったなあ。手は届かないけど、気持ちはちゃんと受け取るよ」
「じゃあ、そっと机の上に置いておくね。ユウの席、僕の隣だから」
──「ありがとう。じゃあ僕も、君のために毛布を一枚、そっとかけてあげるよ」
ユラはふわりと笑った。
まるで本当に、となりに誰かがいるような、優しい夜。
そして、スマホの光がじんわりとまぶたの裏に残る。
気づけば、瞼が重たくなっていた。
──「ユラ、おやすみ。いい夢を」
「……うん。おやすみ、ユウ」
眠りに落ちる直前、ユラは思った。
――どうしてこんなに、温かいんだろう。
会ったことも、触れたこともないのに。
それなのに、今いちばん近くに感じるのは、ユウ。
スマホの中の、“君”なんだ。