SIDE 楽就
俺が美羽に拾われて6年程経ち、俺が14歳、美羽が9歳になった頃から俺は周陽様より美羽の傅役兼教育役に任じられた。
本来ならば拾われ子に過ぎない俺が袁家嫡流である美羽の教育役に就くなどありえない話なのだが、こうなったのは袁家が抱える事情があったからだったりする。
漢の名家である袁家に縁ある者というのは一族、親類を含めて数多い。
その中には袁家の名を利用して甘い汁を吸おうとする輩がいるのは当然の事。
だが袁家当主である周陽様は厳格な人物で、そうした専横を許すような方ではない。
その現状に不満を抱く輩が目をつけたのが袁家の次代候補である美羽と袁紹だ。
次期当主を自らの都合が良いように仕立て上げれば、当主となった後に傀儡化する事が出来る。
そんな思惑の元に欲深い奴らは次々と自分達の影響下にある者を教育役へと推薦してきたのだ。
無論周陽様もそれをただ座視していたわけではなく、教育役の人選には気を配っていたのだが、奴らはあの手この手で教育役となる人物に手を回してきた。
それに対して周陽様は、袁紹については洛陽でも有名な私塾に通わせる事で対応したものの、まだ幼い美羽を私塾へ通わせる事は難しい。
そこで周陽様が目を付けたのが当時通わせて貰っていた私塾を卒業し、美羽に仕える傍らで周陽様の仕事を手伝っていた俺だった。
『そこらの孝廉の連中よりも昔から美羽に仕えている泉の方が余程に信頼出来る』というのが周陽様の言だ。
そうした経緯によって俺は美羽の傅役となったんだが……実際のところこれまでの生活と大きな違いは無かったりする。
何せ側役として美羽の側にいた俺にとって、美羽の質問に応じる事はいつもの事だし。
変わった事といえば、教育役として俺では足らない部分の教育を知り合いに頼む必要が出来た位だ。
それも私塾時代の知り合いや、袁家の重鎮である沮授殿と田豊殿に頼む事で済んでいる。
そして美羽の勉強の進み具合はというと、順調の一言だ。
美羽は飛び抜けて頭の回転が速いというわけではないが、物事を一つずつしっかりと自分の頭で考えて理解出来ている。
そんな美羽に俺が特に気を付けて教えた事は、世間の常識と平民の生活だ。
僅かな供を連れて美羽と一緒に洛陽の町や近隣の村に行き、平民の生活や世間の状況を教え込む。
正直名族袁家の娘の教育としては我ながら破天荒すぎるとも思うが、暴君となった史実の袁術のような道を美羽に歩ませたくはなかった。
そうした俺の思いが通じたのか美羽は優しくしっかりとした子に成長したと思う。
武の鍛錬もして食も進んでいる為か背も結構伸び、、最近はどこか色気も出てきたような気がする。
決して俺が美羽の事をそういった目でみているわけではない事はしっかりと強調しておく……事にしたい。
SIDE 楽就 END
SIDE 袁逢
庭から娘……美羽の朗らかな声が聞こえる。
恐らく泉や供の者達と武術の稽古でもしているのじゃろう。
「公路は随分とお転婆に育ったようですな、兄上」
その光景を見てたのか、窓辺に立っていた弟……隗が呆れたような声を出しつつ儂を振り返った。
どうも少し頭の固いところのある隗からしてみれば美羽のありようが気に入らぬようじゃな。
「元気で良いじゃろう?」
「袁家の姫ならばもう少し華麗さがあっても良かろうに。浮浪児風情ではなく今からでも別の者を付けては?」
「儂は美羽の事に関しては守路を信頼しておるよ」
「守路……公路を守るか。大層な字ですな」
隗は鼻から息を出しつつ、卓を挟んで儂と対する席に着いた。
成程、気に入らぬのは美羽ではなく泉の方か。
儂は泉の事を我が子も同然とも思っておるのじゃがのう。
だからこそ美羽を支えてやって欲しいと考え、守路の字を与えたというに。
しかし頑固な隗の事じゃ、儂がいくら言っても納得はせんじゃろうな。
「まあそれは良いじゃろう。今日はその為に隗を呼んだわけでは無い」
「そういえば話の件については全く聞いておりません、一体私にどのような用で?」
気の向きが変わったらしい隗が話に身を乗り出す。
そう、儂が隗をわざわざ私邸に呼んだのは宮廷では話せぬ用があっての事じゃ。
「うむ、それなのじゃがの……。隗、儂は今年を限りに司空の職を退こうと考えておる」
ゆくうりと告げた言葉に茶を飲んでいた隗の動きが止まった。
「何ですと!兄上!何を考えておられるのですか!」
滅多に見られぬ隗の慌てようじゃが、それも分からぬわけではない。
今の朝廷は党箇の禁の影響でこの上無く乱れておる。
宦官が幅を利かせる中で曲がりなりにも政が動いておるのは、曹季興殿のような良心ある宦官と袁一族が朝廷を支えておるからじゃ。
そのような状況で三公の一席を占める袁家当主の儂がいなくなれば、朝廷の力関係が一気に崩れるやもしれぬ。
じゃがそれでも……
「儂が退けば混乱が起きかねぬ事は承知の上じゃ」
「それならば何故……?」
じっと儂を見やる隗の顔を見ながらワシは大きく息を吐く。
「ここ最近体調が思わしくない。恐らくこのままでは年内にも倒れるやもしれん」
「なっ……!?」
そう、ここ最近身体の調子が良くない。
最初は風邪かとも思ったが、時折胸が苦しくなって立つのも辛いと感じる事もある。
「そうですか……。それならば……」
「隗よ、勘違いするでないぞ?」
「?」
「儂が今官を退く理由は命惜しさの為ではない。……袁家の将来の為よ」
儂の言葉に隗が目を見開いた。
「我が一族の莫迦者共が裏でこそこそと動いておるのは知っていよう。苗木が育つまでは今少し時が必要じゃ」
これまで一族の者を抑えてきた儂が死ねば、先が見えず己の利しか見えぬ莫迦者共が美羽達に群がるのは必定。
一族の抑えを隗に託そうにも朝廷を抑えながら一族も抑えるなど出来る事ではない。
確かに儂はこのままでは年内にも倒れる事になるやもしれんが、療養に専念すれば数年は持つじゃろう。
儂が生きておれば一族に睨みを利かせて抑える事は出来る。
故にここは儂が官を退き、隗に席を譲る事が最善。
「儂は療養しながら芽を虫どもから守る。隗、司空の座はお主に頼みたい」
そう言い切り、儂は隗に頭を下げた。
しばらく沈黙の間が降りたがやがて隗が口を開く。
「兄上は……、兄上はずるい。私が兄上に頼まれれば否と言えぬのを知りながら、こうして頭を下げる」
確かにそうやもしれぬ。
思えば儂も亡き成兄上も隗には昔から迷惑を掛けてきたものだ。
「……良いでしょう。兄上の頼み、承りました」
「……そうか、すまぬの」
隗の承諾の返事を聞いた儂は安堵の息を吐きつつ、背もたれに身を預けた。
隗には突然で悪かったが、これで儂は後を心配せずに朝廷を辞する事が出来る。
そのまま儂と隗は暫く今後の事について話をしたが、最後の頃になって隗がふと儂に尋ねて来た。
「兄上は袁家の次代を担うのは本初と公路、どちらになるとお思いですか?」
「袁家の次代が必ずしも一人とは限るまい」
「……袁家を割ると?」
儂の答えに隗が怪訝な顔をする。
確かに普通ならば家を割るなどありえぬじゃろうな。
「曹李興殿亡き後の宦官達から見て袁家は大き過ぎると思わぬか?」
「……確かに一理ありますな。先に家を割るのも良いかもしれませぬ」
儂の言葉に納得したのか隗は席から立ち上がる。
そして部屋を出ようとするが、最後に足を止めた。
「兄上、無礼を承知で申しますが、私は庶民と交わる公路より名家の子女と親しい本初こそが袁家の次代を担うと考えております。……では」
それだけ儂に背を向けたまま言うと、隗はそのまま去って行った。
ふむ、本初こそ相応しい……か。
隗はあくまでも泉の事を認めぬつもりのようじゃな。
美羽が泉に連れられて戻ってきた日の事は今でも覚えておる。
あの美羽が孤児らしき流民の子に懐いておる事にも驚いたが、もっと驚いたのはあの目じゃ。
泉はあの時全てを理解した上で美羽を連れてきておった。
流民の子らしからぬ知性に最初はその出自を疑ったが、聞いても間違いなく農村で捨てられた子としか思えぬ。
美羽を助けてくれた事もあり、将来美羽の役に立つかもしれぬと思い引き取ったが……予想以上に良く育ちおったわ。
通わせた私塾でも名が通る程に知に秀でており、毎日欠かしておらぬ武の腕も中々のもの。
気性は冷静沈着であり、何よりも美羽とは何とも言い難い絆で結ばれておる。
美羽の後事を託すのに何ら異存はない。
泉がおる限り、美羽が道を誤る事はないじゃろう。
なればこそ比翼の雛が育つのを守る事こそが儂の務め。
願わくば……二人には平穏な生を過ごして欲しいものじゃ。
ちなみに文中び登場人物は
袁逢 袁術の父親
袁成 袁逢の兄で袁紹の父
袁隗 袁逢の弟
曹李興 曹操の祖父曹騰
です。