THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
運命を待つ
影はきっと
沈黙を抱いた
月に似ている
第一話 Night of Fate:Quickening
鋭く研がれた刃、あるいは冴え冴えとした月光。
春の夜に出会った彼女は、そんな人だった。
︙
雨音ばかりが響く静かな夜だった。
濡れたビニール傘の外側に一片の白い花びらが止まったのを見て、石田雨竜は足を止めた。頭上を見上げると、公園に生えている桜の木が街灯の明かりに照らされて白々と光っていた。
弓沢区にある弓沢児童公園は小さな公園だが、敷地には数本の桜の木が生えていて、中でも大きい一本は敷地外にまで枝葉を伸ばしている。ざんざ降る雨に打たれ、そこから花びらが雨粒と一緒に降り落ちていた。
月は雨雲に隠れ、夜は暗い。密集する花ばかりが内側から発光しているかのように明るく、対照的に黒い幹は闇に呑まれて輪郭を失っている。白い桜の花の群れがぽっかりと空中に浮かんでいるように見え、冷たい夜気も相まって、その光景は妖しげですらあった。
同じ春だというのにどうしてこうも違うものかと、石田は古い記憶を呼び起こした。──かつて自分が見た桜はもっと鮮やかな薄桃色をしていて、暖かな春の活力に満ちていた。きっとそれは正確な記憶ではなく、大切な人がそばにいたという思い出によって彩られているのだろうが。
石田の母──叶絵は花が好きな人だった。
生まれた時から住んでいた家は空座町の中でも大きな屋敷で、広い庭があった。元は石田家に仕える身だったという母は父と結婚して使用人でなくなっても、庭に手を入れるのを続けていた。
彼女にとっては使用人時代の延長ではなく趣味の一つだったようで、庭師や使用人と談笑しながら土いじりをする母は随分楽しそうだった。小さい頃はそんな母の姿を見かけるたびに駆け寄り手伝いたいとねだっては、一緒に土を掘ったり、花壇に種を撒いたり、花に水をやったりしたものだった。
庭には桜の木まではなかったが、隣町の鳴木市にある市民広場が近所では評判の桜の名所だったので、見頃になると母はよくそこに連れて行ってくれた。
連綿と続く桜並木の下でシートを広げて、母が作ってきてくれたおにぎりを食べながら、いつまでも飽きずに話をしたのを覚えている。
家の近くにある桜と広場に咲いている桜はどうして花の色が違うのかと尋ねると、母は桜には色々な種類があって、それによって花びらの形や色、開花時期が違うのだと教えてくれた。
穏やかな春の風が満開の桜の木を揺らし、薄桃色の花びらが青空に舞う。爽やかな空気に交じる植物の匂い、優しい母の声、繋いだ手のぬくもり。
今や瞼の奥にしか残っていない、遠い思い出だった。
「来年も一緒に見ましょうね、雨竜」
母はそう言った。
……もはや永遠に果たされることのない約束だ。
あれほど美しく管理されていた庭は今では見る影もない。楽しかった頃の思い出ばかりが残る場所が寂しく荒れ果てているのを見るのは胸に棘が突き刺さるようで、足が遠のいて久しい。
惜しむように傘に張りついていた花びらが、とうとう傘布を流れる雨水に流されて地面に落ちていく。
その時。
ふいに、空気が変わった。
「……またか」
雨のカーテンを裂くように現れた不快な気配に天を振り仰ぎ、石田は眉をひそめた。
数百メートル先を、視力を霊力で補強して鋭く見遣る。暗雲の立ち込める空に、夜の静けさを乱す亡霊が漂っていた。
見るからに硬質な仮面は乾いた骨のような汚れた白さで、異形の胴体にはぽっかりと孔が空いている。
──
獲物を見定めるように視線をうろつかせており、こちらに気づいた様子はない。
ここ数日、なぜだかやたらと虚が多い。重霊地である空座町は他の土地に比べると虚の出現率は頭一つ飛び抜けているが、それを差し引いても異常な数だった。まるで何かの予兆のように。
慣れ切った感覚ではあったが、石田の高い霊圧知覚能力は昼夜を問わず現れる虚の気配を鋭敏に察知するので、いい加減辟易していた。
しかし放っておけば、あたら命が散らされることだろう。見て見ぬふりはできない。
傘を放り投げる。先ほど感じた桜への哀愁は既に消え去っていた。花が持つ妖気など、あれに比べればたかが知れている。宙に浮かぶあの異形の亡霊に比べれば、全てのものは瑞々しい生気に満ちているのだから。
肌身離さず身に着けている
矢を番え、弦を引き絞り、指を離す。
身体に染みついた一連の動作に淀みはない。
石田雨竜は
果たして放たれた矢は数百メートル先の虚を寸分違わず撃ち抜き、断末魔を上げる間もなく亡霊は消滅した。
というところで、
「気づいていないとでも思ったのかい?」
もう一度矢を射る。
放った瞬間、物理法則を無視して急角度で後ろに折れた矢は、石田の背後から襲いかからんとしていた虚を一撃で仕留めていた。
大気中の霊子を集束して戦うという性質上、滅却師は霊圧に対して敏感である。無意識下でも機能する霊圧知覚は本能領域に踏み込むもので、個人差による強弱はあれど、意識してオフにしない限り自然と体は霊圧を感知する。
それはつまり、滅却師に不意打ちは通用しないということだ。
「────ッッ!!」
霊圧の接近を察知した──と頭が理解するより先に体が動いていた。
跳ぶ。
弾けるようにその場を飛び退いた直後、一瞬前まで頭があった空間を、何かが目にも止まらぬ速さで横切った。
咄嗟の回避行動はわずかに遅かった。濡れた地面に転がった石田は、次の瞬間には跳ね起きて体勢を整えている。見下ろすと、右腕の肘から下がざっくりと斬れていた。破れたシャツがだくだくと流れる血を吸って真っ赤に染まっていく。
……間一髪だった。あと一秒でも回避が遅れていたら、頭と胴体が泣き別れていただろう。
石田は背中に冷や汗が浮かぶのを感じながら、それを見た。
「仕留め損ネた、仕留メ損ねタ……ヒヒヒ……」
それは見上げるほどの巨体の虚だった。
仮面の下の裂けた口から不愉快な嗤い声が漏れている。生理的な嫌悪を催す醜い造りで、歪な形の胴体にアンバランスな長さの手足がくっついていた。猿の肉体の一部を無理やり引き伸ばし、縮めるとこんな姿になるのではないか、と頭の片隅で思う。
両手に生えた爪は槍の穂先のように鋭い。どうやら自分の腕を裂いた武器はそれらしく、あんなもので引っかかれて切り傷一つで済んだのはむしろ幸運だったか。
「ひひッ、ヒヒヒヒ……! オマエ随分魂が濃いなァ……でモ死神じゃあなイ。何ダ? オマエ」
ざらついた耳障りな声だった。
石田は答えない。焦りで額に汗が浮かぶが、すぐに雨に流される。
滅却十字がない。腕を斬られた時にチェーンも一緒に切れて、どこかに弾かれたらしい。
(くそ……)
噛み締めた奥歯が軋む。
虚は人間の魂を喰らい続けることで強くなり、ある程度のレベルに達すると固有の能力を身に着ける事がある。能力の種類は様々だが、霊圧を消せるとは驚異的だ。目の前にしている今でこそ重たい霊圧を感知できているが、攻撃される寸前まで気づかなかった。
だがそれを負傷の言い訳にするのは無様に過ぎる。
石田はきつく敵を睨んだ。虚は完全にこちらを標的に定めており、逃亡は難しい。まずは武器を取り戻すべきと判断し、素早く視線を周囲に巡らせる。
「まァイイや……そンなのは喰ッちまえば関係なイからなアァ!!」
口を歪めた虚が飛びかかってきたのを後ろに跳んで躱す。振るわれた凶悪な爪が地面を抉り、コンクリートが爆ぜた。
次々飛んでくる攻撃を避けながら辺りを探すと、薄暗い公園の中、ぼんやりとした街灯の明かりに反射して光る銀色の十字が見えた。
一瞬、逡巡する。
間に合うだろうか、と。
虚の機動力は、負傷した石田の動きを上回っている。滅却十字を拾い上げ弓を作り、矢を射るという一連の動作が終わらぬうちに奴の爪が飛んでくるのは予想がつく。
一旦この場所から引き離すのが得策だが、そうするには腕の傷の具合が芳しくない。太い血管が切れたのか出血が止まらず、反応が鈍い。これ以上血を流すと弓が握れなくなる恐れがある。
迷っている時間すら惜しかった。
(致し方ない──!)
対峙した状態から弾かれたように走り出す。同時に虚も動き出したのを視界の端で捉えた。
公園の入口に設けられた低い柵を飛び越え、全速力で地を蹴る。目的物まで残り数メートルというところで、弾丸の速度で爪が飛んできた。
予想していた攻撃は前に転がることで避けたものの、腕に激痛が走る。喉の奥で息が止まったのを無視して、残りの距離を駆け抜けた。
指先が滅却十字に触れた瞬間、周囲の霊子をかき集め、即座に弓を作り上げる。血まみれの右腕は痺れて動かしにくいが、まだ使える。
だが弦を引くより早く、槍の穂先のような爪が目前に迫っていた。コンクリートを容易く砕く威力のそれが直撃すれば、頭蓋骨など粉々に砕け散るだろう。かろうじて避けられたとして、顔をかすめるだけでも惨事は免れない。
──いや。
そもそもこれは、避けられない。
突き出された凶器が迫るのがスローモーションのように見える。一瞬の後、それは吸い込まれるように自身の頭蓋に突き刺さり、貫くだろう。腕の傷など比べ物にもならない、負傷では済まない肉体の致命的な損傷。
正真正銘の
石田は凍りついた意識でそれを悟り──けれど、その予感は現実となる前に打ち消される。
突如、闇を裂くように青い光が弾けた。
「何だ──!?」
目を焼くような閃光が迸り、反射的に目をつぶる。何が起こったのか分からないまま、衝撃波に押されて尻餅をついた。
「イギッ、──ギャアアアアアアア!!」
雨音を掻き消す絶叫は虚のものだ。
眩い光の中、目を開けた石田は息を呑んだ。
噴き出す虚の鮮血から、あるいは虚そのものから石田を庇うように、目の前に背を向けた誰かが立っていた。
その人物の左手には、霊子で作られた弓が握られていた。
「ガアアアアッッ!! ナンデダッ、オマエッ、オマエェッ!! 邪魔スルナアアァァァ!!!」
虚が殺意に満ちた咆哮を上げている。長い腕の片方は半ばから断ち切られており、断面からは血がシャワーのように噴き出していた。つい先ほどまで石田に向けられていた凶器は、無惨にもぬかるんだ地面に転がっている。
それを誰がやったかなど、問うまでもない。
血をまき散らしながら怒り狂った巨体が突進してくるのに、目の前の人物はゆっくりと弓を持つ手を持ち上げることで対応した。弓と同じく霊子で構成された矢が番えられ、そして放たれる。
一閃。
流星のような光の軌跡を残して矢は真っ直ぐに飛び、あやまたず虚の仮面を貫いた。
断末魔すら響かせず、亡霊の肉体は端から崩壊していく。落ちていた血痕や腕すら跡形もなく塵となり、闇夜の闖入者は完全に消滅した。
そうして、夜は静けさを取り戻す。
辺りに満ちる雨音。頼りない街灯の明かり。ぬかるんだ地面の感触。
それらすべてが蘇るように鮮明となりながらも、同時に膜に隔てられたように急激に遠のいていく。
目前の人物は、静かにこちらへ振り返った。
「──────」
言葉を失くす。
呆然と、石田はその
黒いワンピースから伸びる細くしなやかな手足。
真っ白な髪は長く、雨に濡れてなお光をこぼすように輝いている。
小さな顔を支えるほっそりとした首と、白皙の端麗な顔立ち。
噴き出す血のように、あるいは磨き上げられた宝石のように鮮やかな赤い瞳は、どこまでも静穏に凪いでいる。
月のない暗い夜だった。それなのに、月明かりが差し込んだと錯覚した。
それはきっと、その少女が何よりも眩しく見えたからだろう。
「君は……?」
問いの形を成していなかったその言葉に、彼女は澄んだ声で凛と答えた。
「──わたしは、黒崎桜」
冷たい春の夜だった。
この日の出逢いを、石田雨竜はこれから幾度となく思い出すことになる。
「あなたと同じ滅却師よ」
未だ雨は止まず。
桜の花びらが、雨と共に降り注いでいた。
Quickening…胎動
・母の胎内にある子が動くこと。
・比喩的に、ある情勢のもとで動きが表面に現れようとしていること。芽ばえ。