THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
鯉口が刀身のハバキを掴む固い音と共に、納刀の動作は終了した。
京楽春水は倒れ伏した旅禍の少年の意識が完全に失われている事を確認してから、踵を返して副官の元に向かった。
伊勢七緒は地面に倒れていたが、京楽が彼女のそばに膝をつく頃には自力で上体を起こしていた。
苦し気に鳩尾を抑えているが、大事はなさそうでほっと安堵の息を吐く。
「大丈夫かい? 七緒ちゃん」
「はい……、申し訳ありません。不覚を取りました……」
「いいのいいの、ボクも油断してたから。軽傷で済んで良かったよ」
痛みでひるませる事が目的の当て身。矢を撃ち込むこともできたろうにそうしなかったのは、殺意がなかったのか、あるいはその時間すら惜しんでいたのか。
どうあれ七緒の声が聞こえた時、あからさまに動揺を表に出してしまったのは事実。その隙を突かれて攻撃を叩き込まれたのも、己の失態に他ならない。
「こんなの山じいに知られたらまたお小言食らっちゃうよ。ボクもまだまだってことかな」
「隊長……」
京楽はやれやれと肩をすくめると立ち上がり、背後を振り返った。
そこには未だもうもうと土煙を吐く円形の窪みがあった。石畳の一部が抉り取られたように消し飛んでいるのだ。
旅禍の少年が放った最後に放った決死の攻撃──少年にそのつもりはなかっただろうが、結果的にはそうなった──は、自身に届く寸前に少年諸共切り伏せたが、衝撃波はそれで消滅しなかった。
「ここまでやるとはね……全く大したもんだ、恐れ入るよ」
それは攻撃の威力だけでなく、彼の覚悟や度胸も含めての事だった。
自身が敵を引きつけ、もう一人の仲間を先に進ませる。先を急ぐ彼らにとっては理に適った作戦だが、それを年端もいかないただの人間の少年が決意したということが、京楽にはどうにも眩しく思えてならなかった。そして彼の覚悟を汲み、速やかに作戦を実行した少女も。
「一護くん、か。どんな子なんだろうねぇ……興味が湧いてきたよ」
語りかけるように呟き、旅禍の少年の死体に歩み寄る。
……否、死体ではない。胸からだくだくと血を流しているが、まだ息はある。このまま放っておけば本当に死体になってしまうだろうが。
「それより隊長、逃げた旅禍の追跡は如何なさいますか」
七緒の問いかけに首を振る。
「深追いは止そう。他の隊も動いてるんだ、じきにけりが付くさ」
とは言いつつも、京楽はもうこの騒動が簡単に終結するとは思えなくなっていた。
中央四十六室の指令通りに朽木ルキアの処刑が実行させるにせよ、旅禍達がそれを阻止するにせよ、おそらくはこのままでは終わるまいという確信めいた何かが胸裏に浮かんでいた。
その直後、二人の前に隠密機動・裏挺隊が姿を見せた。緊急伝令として告げられたのは、五番隊隊長の訃報だった。
/
「面倒なことになってきたわね……」
天高く聳え立つ白い塔は最早目と鼻の先にある。
適当な屋根の上に立ち、その無機質なまでの白さを眺めながら、桜は呟いた。
懺罪宮と呼ばれる区画に入り、軽く辺りを見て回ったが、酷い有様だった。特に東側の建物はほとんど崩壊しており、整然と並んでいたはずの建物の群れは見る影もなく、瓦礫の山と化している。凄まじい戦いの痕跡だった。
桜がここに辿り着くまでの間に、この場所で二つの霊圧が激しくぶつかり合った末に二つとも消滅したのを感知している。正確には消滅したのではなく、そうなったと錯覚するほど消耗して小さくなっているだけなのだが。
一つは一護。
もう一つの方は知らないが、その圧倒的なまでの霊圧から察するに、噂に聞く十一番隊隊長──当代の剣八だろう。
二人が懺罪宮で対峙していることに、桜は京楽との戦いに入る前から気づいていた。
その事を茶渡に伝えなかったのは、伝えたところでどうしようもなかったからだ。あれほどの霊圧の持ち主相手に加勢に行ったところで肉壁になるのが精々なのだから、自分の戦いに集中してもらった方が良い。むしろ言うだけ言って不安を煽る方が悪手だと判断した。
茶渡が京楽に気を取られてその事に気づかなかったのは僥倖だった。もしも気づいていたら、彼は桜に「一護の加勢に行ってくれ」と頼んでいたかもしれない。
(……いや、そんなことないか……)
天を仰ぐ。
空は広く、現世で見るよりも透き通っているように感じる。
茶渡は一護の覚悟を汲み、自分もまた覚悟を決めたのだ。真っ直ぐにルキアの元に向かわないのは、一護の決意を踏み躙る行為だ。そうわかっていたから、彼は桜を先に進ませたのだろう。
あそこまで言う茶渡が凄いのか、あそこまで言わせる一護が凄いのか。……きっと両方だ。
何をごちゃごちゃと考えているのか、と青空を見上げたまま自嘲する。
頼まれたところで行かなかったくせに。
一護の加勢なんて、行く意味がないとわかっているくせに。
──そう。
行ったところで意味がないのだ。
彼の戦いの結末がどうなるかなど、もう決まっているのだから。
既にどうなるかわかっている事にわざわざ介入するほど無意味なこともない。
そういう意味では、茶渡の判断は正しい。
……そして、もう一つの意味でも。
実のところ、桜にはこのままルキアを素通りするという選択肢すらあった。
彼女の事がまるで気にならないと言えば嘘になるが、それ以前に自分にはやらなければいけない事がある。本来なら今すぐにでも
だが茶渡が桜を先に行かせたのは、ルキアを助けるためだ。
それはルキアのためであると同時に、ここに来るのに集まった仲間達のためでもある。誰か一人でも彼女の元に辿り着き、助け出せれば、それで勝ちなのだから。
──命を懸けた決意を託された。
それに応えないまま背を向けるのは、些かばかり気が引ける。
「我ながら、とんだ安請け合いね」
笑みがこぼれる。
それはやはり自嘲の笑みだったが、先ほどよりは気分が上向いていた。
どうやら、あんな啖呵を聞かされて何も思わない程度には、自分の心は死んでいないらしい。
幸い、まだ猶予はある。戦線離脱した茶渡の後を最低限引き継ぐくらいの事は、今の自分にもできるはずだ。
桜はすっと前を見据えた。
懺罪宮に新たな霊圧が近づきつつある。現世で会った時に比べると数倍に跳ね上がっているそれは、更木ほどに荒々しくはないが、息が詰まるように重苦しく、抜身の刃のように冷たい。
それが誰だか、とうに知っていた。
/
四深牢の扉が開くのを待つ間、長い道のりだったと、山田花太郎は感慨深く思った。
一護と岩鷲に出会い、なし崩しに、だが自分の意思で行動を共にした。恋次と戦った一護の傷を癒し、更木との戦いでしんがりを務めた一護に庇われた。短く、しかし濃い時間を経て、ようやくルキアの元に辿り着いたのだ。
ここまで来てしまっては、旅禍に加担した裏切り者の誹りは免れないだろう。
もしかすると隊には旅禍に人質に取られたものとして報告されているかもしれないが、牢の鍵まで持ち出したのだ、厳しい処断が下ることは目に見えている。降格か謹慎で済めば御の字。物理的に首が飛ばされる可能性すら頭によぎる。
だが後悔はすまいと、花太郎は誓っていた。
後の事は考えない。ただルキアを助けることが、彼女との思い出と、決意を託してくれた一護に報いることになる。
そう信じて、花太郎は重たいシャッターの扉を潜った。
……けれど。
「そいつは……俺の兄貴を殺した死神だ」
岩鷲の言葉に凍りついた花太郎を遮って、ルキアは彼の発言を肯定した。激昂した岩鷲がルキアに掴みかかっても、彼女は至極冷静なまま「好きにしろ」と告げるだけだった。
「やめてください岩鷲さん! 助けに来たんじゃないんですか!? ぼくら、決意を託されたんじゃなかったんですか!?」
必死に岩鷲を止めようとした花太郎は次の瞬間、ゾッと身を強張らせた。
不随意に体が硬直する。全身の皮膚が粟立ち、心臓が胸の内側をドンドンと叩いている。
荒くなる呼吸を抑え込んで背後を振り向いた花太郎は、愕然とした。
「──っあ、ああぁ……! あれは……ッ!!」
震え上がるほどの霊圧。射竦めるような視線。氷ですらまだ温かいだろうと思えるほどの冷徹さ。
──六番隊隊長・朽木白哉がそこに立っていた。
「四深牢への微かな霊圧の移動を感じて、どんな強者が潜り込んだかと思い見に来てみれば……。何のことはない、羽虫か」
凍えた目が岩鷲を睥睨する。
下らぬ、と吐き捨てた白哉がいったい何をしたのか、彼に立ち向かった岩鷲に何が起きたのか、まるでわからなかった。
岩鷲の絶叫と共にその腕から鮮血が噴き出したのを見て、ようやく認識が追いついてくる。
おそらくは渦中にいる岩鷲もそうだっただろう。
だが彼は腕を一本潰されても、白哉に立ち向かうことを止めなかった。
「ゴチャゴチャうるせえぞお坊ちゃん! この程度でビビッて逃げるような腰抜けはいねえんだよ、志波家の男の中にはな!!」
「────そうか。貴様……、志波家の者か」
白哉の目の色が変わった。
ゆらりと振り返った彼はおもむろに腰の刀に手を伸ばす。
「ならば手を抜いて済まなかった。……貴様はここから、生かして帰すまい」
「──だめです! 兄様!!」
抜刀した白哉に、何かに気づいたルキアが叫ぶ。
……だがそれで彼が止まるはずもない。
死すら予感させる重々しい声で、白哉は言葉を紡いだ。
「散れ──〝千本桜〟」
背を向ける白哉の手元は見えない。ただ、その周囲で陽光を受けて何かが輝いたのが見えた。
光の乱反射の合間を縫って目を凝らせば、それは幾百にも上ろうかという花びらのようで──
「ッ逃げろ!!!」
ルキアの悲痛な叫びがこだまする。
鮮血が青い空に舞うのが、奇妙なほどにゆっくりと見えた。
/
「……え、……?」
ルキアは己の目を疑った。
力の入らない体でへたり込んだまま、ただその光景を凝視する事しかできない。
「くっ……!!」
白哉の右腕から血が噴き出している。
かすかに耳に届くのは苦悶の声。
血がぱたぱたと床板に落ち、次いでガシャンと硬質なものが落ちた。──
白哉が斬魄刀を取り落とした。
驚きのあまり、ルキアは目を見開く。そしてようやく、その霊圧に気がついた。
頭上を振り仰いだ白哉が険しい目つきで叫ぶ。
「貴様、滅却師──!!」
青空に、真っ白な髪と黒い洋服が翻る。
霊子の弓矢を手に、よく知った少女が空中を疾駆していた。
「──桜……!」
思わず漏れたその声は歓喜か、悲嘆か。
「ふッ──!」
研ぎ澄まされた赤い瞳が白哉を睨み、強く引き絞られた弓から矢が放たれた。一瞬の風切り音の鋭さが彼女の敵意を物語っている。
矢は空中で分裂し、無数の針の雨となって降り注いだ。ズガガガガッと床板を貫通する強烈な矢速と威力は、ルキアの記憶にあるものとは比較にもならない。
「どぅわ!? 危ねえっ!」
白哉の後ろにいる岩鷲が、巻き込まれかけて慌てて更に後ろに下がった。
一方、白哉は千を優に超える矢の群れを瞬歩でくぐり抜けながら鬼道で応戦する。
「破道の五十八──〝
手のひらから放たれた突風が矢を散らす。
絶え間なく降り注いでいた霊子の矢は風に煽られて一斉に宙に舞い上がり、空気に溶けるように霧散した。
青い霊子の残滓が空中で煌めく中、ルキアの前に降り立った少女は油断なく次の矢を番えながら、こちらを振り向かずに言った。
「お久しぶりね、朽木さん。まだ頭と胴が繋がってるみたいで良かったわ」
「っお前まで……!」
もしやとは思っていた。一護が乗り込んできたと聞いた時、彼女の顔が思い浮かばなかったわけではない。ルキアが尸魂界に送還されたあの場に居合わせた桜が、一護に同行する可能性はゼロではないと。
だが、桜は滅却師だ。彼女自身、自分を死神の敵だと語った事がある。一護の手助けをするにしても、こんなところに一人で乗り込んでくるなんて。
「なんだ、喜ばないの。覚悟決めてるところ悪いけど、みんなあなたの事助けたがってるから、助かってもらわないと困るわ」
やはり振り向かないままに桜が言うのに、ルキアはぎゅっと目を閉じて俯いた。
殺気石でできた牢から出て初めて気づいた。一護や桜だけではない、石田に井上、茶渡の霊圧が瀞霊廷内にある事に。
なぜ、とは問うまい。その理由は既に桜が口にしている。
……喜べない。
喜べるはずもない。
自分は誰かが血を流してまで助ける価値のある人間ではない。こんな自分のために誰かが傷つくなど、あってはならない。
「────っ!」
……そのはず、なのに。
胸の奥底から湧き上がるようなこの熱は、一体何なのだろう──。
「……なぜ、お前は私を……」
顔を上げたルキアは桜の背中に疑問をぶつけた。
彼女は首だけを動かす小さな動作でルキアを一瞥し、それだけで問いの意図を正確に捉えた。
「別に。彼らに仲間外れにされるのは困るってだけ。……でも、強いて言うなら、そうね」
そこで彼女は、一旦言葉を切った。
「──わたし、妹を傷つける兄って気に入らないのよね」
それが誰に向けられた言葉かなど、言うまでもない。
かちゃりと軽い音がした。
白哉が落ちた斬魄刀を左手で拾った音だった。
彼の右腕は肩からだらりと垂れ下がって動かない。破れた着物の袖から覗く肌は真っ赤に濡れていて、肩から手首までを縦断する長い傷が走っているのが見えた。白い手甲が血をしとどに含み、柘榴の粒のような血が滴り落ちている。
「残念ね。当分そっちは使い物にならないわよ」
「…………」
「でもまあ、いいでしょう。もう片方あれば刀は振れるものね」
桜の表情は見えないが、その声には挑発的な響きがあった。
こ奴、売られた喧嘩は叩き返すタイプか、と今更察する。
桜を睨む白哉の目線は恐ろしく鋭い。静かな怒気が瞳の奥で燃えている。
傍らに立つ花太郎の体がびくっと跳ねたのが気配でわかった。標的にされているのはこちらではないというのに、その余波だけで凄まじい威圧感がある。
「……千本桜を全て撃ち落とし、あまつさえこの私に刃を向けるとは──」
先ほど岩鷲を襲うはずだった刃の群れのことごとくを、桜が矢を以て撃ち落としたのだ。
千本桜の始解は刀身が千本の刃に分かれ、白哉の意思によって縦横無尽に動くというもの。滅却師の周囲の霊子を利用するという性質を考えれば、現世よりはるかに霊子が濃い尸魂界でならば、千の刃に正面から対抗することも不可能ではないだろう。
「不届き」
白哉が刀を構えた。
桜が強く弓を引く。
「此度は骨では済まさん。死に絶えた一族の後を追わせてやろう」
「ご親切にどうも。そういう貴方は、先祖に合わせる顔がなさそうね。──それとも、妹一人見殺しにするのが尸魂界の貴族の仕来りなのかしら」
その瞬間、白哉が目を見開いた。
──空気が一変する。
とめどなく溢れ出る霊圧は塔を震わせ、大地が揺れ動いているのではないかと錯覚するほどだった。
粘着質な殺気が首を締め上げてくるのに、喘ぐように呼吸をすることしかできない。
「──貴様……」
激情を押し殺すような低い声。
白哉のそんな声を、ルキアは初めて聞いた。
前を見る。
指一本動かすことすら憚られる緊張感の中、真っ直ぐに立ち続ける少女の後ろ姿が目に焼きついた。
「貴様如き不逞の輩が、我ら貴族を語るな」
その声が合図だった。
白哉の姿が消え、懺罪宮に甲高い音が響き渡った。