THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
そろそろ石田を書かないと死ぬぜ!
汗で湿った手を壁について、窓越しに月を見上げた。
霊圧が、ひどく不安定に揺らいだ。何かに怯えるような、悲しみに暮れるような波立ち方だった。
だがそれはほんの一瞬のことで、瞬きの間に痕跡もなく消え去ってしまう。揺らぎなど初めからなかったように。
だが、それは確かにあったはずだ。
霊圧に影響を及ぼすほどの感情の動き。切実なほどの何かが彼女の
(何が──……)
普段から泰然としていて、滅多な事では感情を荒げないひとだ。それだけに、他人にはっきりと感知できるほどの感情の揺らぎが気にかかる。
負傷した、という感じではない。そもそも敵と思しき霊圧と交戦していた様子もなかった。
一体何があったのか。更に霊圧知覚を研ぎ澄ませようとした時、高速で矢が飛んできた。
大きく飛びずさってそれを回避した石田は、それを撃ってきた相手を忌々し気に睨む。
「上の空だな。そんなに死神達の戦いが気になるか? 雨竜」
「──なんの話だ」
息を荒げる自分とは対照的に、父は涼しい顔のまま平生通りの余裕を崩さない。かっちりと着込んだスーツが少しも乱れていないのが腹立たしい。
「僕が気になっているのは、本当にこんなやり方で僕に
「信用できないか」
「難しいね」
白で埋め尽くされた部屋の中で、視線が交差した。
髪と同じ銀色の瞳が、眼鏡のレンズ越しにこちらを見上げてくる。鉱物のように硬く冷たい眼差しだった。
「霊化銀と霊化硝子でできたこの隠し部屋で、あんたの矢を躱し続ける。そんなことを延々続けて──本当に僕は滅却師の力を取り戻せるのか!?」
「……無論だ」
思わず声を荒げた石田に、竜弦はあくまでも冷ややかな眼差しを返し。
気づけば、小弓に番えられた矢先が目と鼻の先にあった。
「──お前が死にさえしなければな」
/
破面達の襲撃から一夜明けた。
夜が明ける頃には尸魂界の修繕の手配が間に合って、街中に残った戦いの痕跡はすっかり消え失せていた。
手際の良さに関心するのも束の間、一護がいなくなった。ルキアはいたく心配してあちこち捜し回っているようだが、なかなか霊圧を捕捉できずにいるらしい。
まあ十中八九、平子のところだろう。浦原の思惑通りに事が運んでいるという事については思うところがあるが、一護の事を考えれば最良の策なのも事実。仮面の軍勢は元は護廷十三隊の隊長格だった面々だ、一護の事は彼らに任せておけばいい。
「黒崎が休み? 珍しいな……あいつ授業はサボるけど休みはほとんどないのに」
担任の教師が手元の名簿に出欠を書き込みながらぼやく。
やがてホームルームが終わり、空白を抱えたまま日常が始まる。
教室の空席は四つ。
これが埋まる日は、果たして無事に訪れるのだろうか。
◇
数日後。九月も中旬に入り、いよいよ秋の気配が強まってきた。
街路樹の一部が黄色い小さな花をつけているのを見つけて足を止める。甘い濃厚な匂いがした。故郷では見かけなかった花だ。
「ねえ井上さん、これって何の花?」
「これは金木犀っていうの。いい匂いだよね。お花はシロップ漬けにしたら食べられるんだよ!」
「へえ……食べたことあるの?」
「それがまだないんだよね」
アイスにかけると絶品らしいよ! と力説する織姫に相槌を打ち、再び歩き出す。
放課後である。
桜は織姫を自宅まで送る為、住宅街を歩いていた。破面達はあれから沈黙を保っているが、先日のような無差別な襲撃がないとは言い切れず、有事に備えてのことだった。
織姫の家は桜の家から離れているので織姫は申し訳なさそうにしていたが、むしろ降って湧いた暇な時間に戸惑って何をすればいいのかわからなかったから助かっている。
「……みんな、今日も学校に来なかったね」
ぽつりと織姫が言うのに、そうね、と同意した。
一護と石田と茶渡はしばらく学校に来ていない。全員それぞれ霊圧は感じ取れるので、特に問題があるわけではなさそうだと放置しているのだが。……本当は石田の様子だけは逐一確認しているのだが、織姫にそんな事を言えるはずもない。
「どこかで修行でもしてるんでしょうね」
「そうだよね……捜さない方がいいのかな」
そんな事はないだろう。捜したいと思うなら捜せばいいし、会いたいと思うなら会いに行けばいい。誰も嫌がりはしないだろう──特に一護は。
そう思ったが、口にする前に織姫が尋ねてきた。
「桜ちゃんは、心配じゃない?」
「まあ……元気にやってる事がわかってるからね。むしろ出席日数の方が心配ね」
「はっ! そ、そうだね。みんな進級大丈夫なのかな……?」
うんうん悩み出した織姫の横顔をそっと見る。前よりは元気を取り戻したようだが、時折物憂げな表情をすることは変わらず、色々と悩みは尽きないらしかった。
すると、彼女がおずおずとこちらを見上げてくる。
「どうしたの?」
「あのさ……桜ちゃんは……寂しくない?」
「寂しい?」
「うん。桜ちゃんっていつも石田くんと一緒にいるから、寂しくないのかなって」
思わずその場で立ち止まった。つられて織姫も足を止める。
「わたしそんなに石田くんと一緒にいるイメージなの?」
「そうだよ! 黒崎くんも茶渡くんも朽木さんも同じこと言うよ!」
「そんなに……?」
積極的に石田と行動を共にするように心掛けていたのは事実だが、周囲にそこまで印象づいているとは。
それはさておいて、織姫の問いに少し考える。
「別に……寂しくはないわね。戻ってくるってわかってるから」
夏休みが明けてすぐ、石田は桜に告げた。必ず滅却師の
あの言葉は誓いだった。他でもない、桜に向けての。
ならば彼は必ず戻ってくる。誓いを果たすために。
……それに、「待ってる」と言ってしまったからには、待っていないといけないだろう。
数えきれないほど嘘も隠し事もしているのに、こんな事だけは彼に誠実でいたいと思う自分が馬鹿らしくて、少し笑えた。
「──そっか。桜ちゃん
織姫は何故かにこにこと嬉しそうな笑みを浮かべている。
も、というのが少し気になったが、彼女に問いを返すことにした。
「井上さんは寂しいの?」
「あたし? あたしは寂しくないよ。一人だったらそうかもしれないけど、でも桜ちゃんがいるから」
「────」
彼女はそう言って微笑んだ。
……その瞳に宿る光が。優しくて、暖かくて、綺麗で。
それを無下にできない。したくないと、思ってしまう。
「……わ──たしも……」
「?」
「わたしも、その……井上さんがいるから……、」
「──さ……」
驚いたように織姫が目を丸くする。名前を呼ぶように口が半端な形に動いて、その先からは聞こえなかった。
突然落ちた沈黙に耐え切れず前言を撤回しようとした時、
「──桜ちゃんっ!!!」
「ぐふっっ」
ほとんどタックルのような勢いで織姫が抱きついてきた。
「あたしも!! あたしも桜ちゃんのこと大好きっ!!!」
「いや、あの、」
「はあぁーー……うれしい……うれしすぎるよぉ……」
大好きとまでは言っていないのだが、顔をふにゃふにゃにしている織姫に言うのは憚られ、かといって背中に手も回し返せず、おろおろと手を彷徨わせるしかない。
「そうだ桜ちゃん! 今度一緒におもしろいもの食べに行こう! パフェ丼とか!」
「……なんて?」
「たつきちゃんも誘っていいかな?」
「それは勿論いいけど……っていうかパフェ丼って何?」
た・の・し・みだなー! と歓声を上げながらスキップする織姫の耳には桜の疑問は入っていないようだ。
ウキウキと歩を進める織姫についていくと、やがて彼女の自宅であるマンションに続く曲がり角が見えてきて、そこで彼女はくるりと振り返った。
「ここで大丈夫! ありがと、桜ちゃん」
「ええ。また来週ね」
「またねー!」
大きく手を振りながら歩いていく織姫が角の向こうに消えたのを見送ると、肩からどっと力が抜けた。ため息ともつかない吐息が漏れる。
──なんというか、うまくいかない。
予防線を張らないといけないのに、伸ばされてくる手を拒めない。縮められる距離を前にしているのに、そこから足が退けない。
一番問題なのは、それらに
(……何やってんだかな……)
来た道を戻るべく踵を返した桜は、そこに立っていた人物に目を丸くした。
/
彼女が振り返った時、翻った白い髪が陽の光を受けてキラキラ光って見えた。
こちらを捉えて驚いたように丸くなる赤い瞳はよく熟れた果実のよう。
数か月前、兄がまだ高校に入ったばかりの頃。夕食の場で「やたら綺麗な女子が同じクラスにいる」とこぼしたことがある。
その時は人の顔を覚えるのが苦手な兄にしては珍しいなと思ったのだが、あのうるさい父がついに我が愚息にも春が来たかと騒ぎ立て、怒った兄との間で低レベルかつ恒例の親子喧嘩が勃発してしまい、結局その場は曖昧になったのだ。
だからその女子とはどんな人物なのかと密かに気になっていた。夏休みの最中の花火大会で一度会っているはずだが、その時の記憶はほとんどなかったので。
実際に間近で見てみると、兄がああ言ったのも頷ける。──これは確かに、やたら綺麗だ。
そんな事を考えていると、こちらをじっと見つめていた桜が、
「……夏梨ちゃん、だったかな」
と、確認するように尋ねてくる。
黒崎夏梨はそれに驚きつつ、こくりと頷いた。
「うん。あたしの名前知ってたんだ」
「あなたのお兄さんから聞いてるから。わたしに何か用事?」
「ちょっと訊きたい事あって……
「……ごめんなさい、わたしもわからないの」
申し訳なさそうな顔をする桜に、続けて尋ねる。
「じゃあ、一兄が死神ってことは?」
「…………それは一護くんから聞いたの?」
彼女の顔から表情が消える。問いは質問の答えも同然だった。
夏梨は首を横に振る。
「あたし、見えるんだ。霊とか。だから一兄が虚と戦ってるのも……ずっと前から見えてた」
夏梨は一家の中では一護に次いで霊感が高かった。昔から霊の姿や声を見聞きすることは当たり前にできていたし、それが日常だった。
だがその日常は、黒い和服に刀を持った兄が現れたことで少しずつ変わり始めた。
その変化は六月に母の墓参りに行った日に決定的になった。身の毛もよだつような空気を纏った化け物と、それと戦う一護の姿は、未だにはっきりと思い出せる。
その化け物が虚という名である事、黒い和服姿の兄が死神と呼ばれる存在になっている事は、しばらくしてドン・観音寺から聞いた。
そして数日前。街の一角に不気味な霊圧が現れた日。
一護は、夏梨の目の前で死神になった。
「そう。相変わらず詰めが甘い子ね」
呆れたような、どこか冷ややかな声だった。
桜が「家まで送るわ」と言うので、夏梨は「子供扱いすんな」と言い返しかけて──結局、無言のまま頷いた。兄の同級生から漂う独特の雰囲気に、どこか気圧されていた。
連れ立って歩く午後の街並みは静かで、平穏そのもののような空気が流れている。
けれどその平穏は見せかけだけで、とても脆いものなのだと、最近知った。
(なんだよ……あたしだって、もう子供じゃないのに)
背負ったランドセルの肩ベルトを握る手に、ぎゅっと力が籠る。
一護は──兄はいつもそうだ。何かあっても全部一人で背負い込んで、自分だけ戦って、傷ついて、夏梨や遊子には何一つ教えてくれない。
それが家族を危険から遠ざける為の行動だとしても、安全なところから兄が傷ついているのをただ見ているだけなんて、心穏やかでいられるはずもない。
「……あたし、ずっとイライラしてんだ」
漏れ出た声は地を這うように低い。
夏梨が足を止めたのに桜が黙って振り向く。
「一兄が何かに悩んでるのも、血ぃ吐いて戦ってんのも知ってる。知ってるのに、何もできない」
自分には想像の及ばない何かが動いている。それはきっと夏梨が今まで目にしてきた虚よりずっと恐ろしい何かだ。
一護はそれと戦っている。自分の手の届かないところで。
それが、悔しくて、腹立たしくて、悲しくて──とても苦しい。
「桜──ちゃんはさ、一兄の仲間なんでしょ」
「…………」
「なら……、一兄を助けてやってよ……!」
握り締めた拳が震えている。
絞り出すように、夏梨は秘めた胸の裡を告白した。
「あたしもう……一兄があんな怪我してるとこ見たくないよ……ッ!!」
夏梨の家族は、もう既に一人欠けてしまっているのだ。優しい太陽のようだった母がいなくなってから、心から笑えるようになるまで随分時間がかかった。
今でこそ母がいた頃の日々を思い出として振り返れるようになったけど、当時は過去を思い出すのも辛かった。毎日寂しくて悲しくて……胸が潰れそうだった。
もしも、あの喪失をもう一度味わうことになってしまったら──
(嫌だ……ッ! そんなの、絶対嫌だ……!!)
奥歯を噛み締めて涙を堪えて下を向く夏梨の視界に、ふいに影が差した。
見上げると、桜が太陽を背にして立っている。逆光で表情は見えない。
「……大切なのね、お兄さんのこと」
「当たり前だろ……っ」
掠れた声で返すと、桜はしばらく黙っていた。
街の喧騒から切り離されたような静寂がその場に落ちる。
「──わかった」
桜はおもむろに膝を折ると、夏梨と目線の高さを合わせてそう言った。
「今から一護くんを捜し出して、あなたが心配してるって伝える。素直に家に帰るかはわからないけど、連絡くらいさせるわ」
「え……、」
涙で潤んだ目を丸くする夏梨に、「それでいい?」と桜は優しい声で尋ねてくる。
「み、見つけられんの? そんなすぐに……」
「できるわよ。こう見えてわたし結構
本当だろうか。あのルキアという死神の関係者らしき少女が方々を捜し回っても、一護の行方は頑として知れないのに。
けれど桜の言葉は夏梨を安心させる為の方便というには自信に満ちていて、淡い期待を覚える。
目元をごしごし擦って目尻に溜まった涙を拭い、
「……し、心配してるとまでは、言わなくていいよ……」
と、口の中でもごもご呟く。
桜はそれに目を細めて、小さく微笑んだ。