THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
原作開始
あっという間に桜の季節は過ぎ、教室の窓からは眩しい初夏の陽射しが差し込むようになった。
石田が桜と出会ってから、一か月と少しが経つ。これといった大事が起こることもなく、二人は安穏とした日々を送っている。
「あ、桜ちゃんだ! おはよう!」
「おはよー桜」
「おはよう、井上さん、有沢さん」
文庫本の小さな文字を集中して追っていた意識が、その声に反応して霧散する。自席で本を読んでいた石田は、背後──教室の後方を首だけを傾けて振り返った。
ちょうど井上織姫と有沢竜貴が、教室に入ってきた桜を迎えたところだった。一番後ろの窓際の自分の席に鞄を置いた桜は、口々に声をかけてくる他のクラスメイトとも挨拶を交わしている。
「おっはようマイエンジェルサ・ク・ラ〜~!! 今日もクールでビューティでお肌とぅるとぅるで最高ね!!」
「おはよう、本匠さん。今日も元気ね……」
あれを挨拶といっていいのかは分からないが。
桜に抱き着いた本匠千鶴が竜貴にあれよあれよと回収され、過激なスキンシップから解放された桜は席に着く──と思いきや、すたすたと石田の前までやってきた。手には一冊の文庫本を持っている。
「おはよう、石田くん。これ貸してくれてありがとう」
「……おはよう黒崎さん。早いね、急がなくてよかったのに」
「面白かったから一気に読み進めちゃって」
桜は「ありがとね」と、もう一度礼を言って踵を返し、今度こそ自分の席に着いた。
「桜ちゃんって石田くんと仲良いよねえ。元々知り合いだったの?」
続きを読もうと思ったが、すっかり集中が切れてしまった。受け取った本と読んでいた本を鞄に収めていると、後ろから織姫の声が聞こえてくる。
「いいえ? こっちには知り合いはいないわよ、わたし」
「あ、そっか。桜ちゃん外国にいたんだっけ」
石田は学校では桜とあまり話さない。今のように本の貸し借りをするか挨拶をする程度だが、桜も石田も積極的に人の輪に入っていくタイプではないので、進んで声をかけることがあるだけ親しいのだと思われているらしい。
なぜか様々な意味で目立つ生徒が多く集まっている一年三組の中でも、桜は存在感のある生徒だった。本人が望んでそうなっているわけではないが、綺麗な人間というのはそれだけで否応なしに視線を集める。
白い髪に赤い瞳という日本人離れした容貌は人目を引く華やかさがあったが、清楚で凛とした佇まいと落ち着いた性格が容姿から受ける印象を否定していた。
彼女の纏う空気は波ひとつない水面を連想させ、口数もそう多くなく、同級生と話しているよりは一人で静かに本を読んでいるのを見かける方が多い。加えて女子にしては高い身長と、彼女の内面を周囲が推し量る要素は揃っていた。彼女に近寄りがたい雰囲気を感じている者は少なくないだろう。
……そんな桜がわざわざ声をかけている奴、として変な注目を浴びている気がしないでもない。石田自身は目立たない生徒であるからして。
しかし桜の態度は決して冷たくないし、感情が表情の変化に直結しないだけで話してみると穏やかなので、交流のあるクラスメイトは少なくない。
だが石田は知っている。
物静かな性格にたおやかな口調と淑女を体現したような桜だが、あれで結構猫を被っている。学外で会う彼女は存外さっぱりした口ぶりで、よく喋る。
「じゃあ石田とはどういう関係なの?」
好奇心を隠し切れない竜貴の言葉に桜は、
「秘密」
と事もなげに答えた。
「ひ、ひみつ……!?」
「なんてアダルティな響きなのっ!? あのメガネ、あたしの桜に何やらかしてるわけ!?」
「あんたのじゃないでしょバカ女。つーかあんたもメガネでしょ」
女子達が集まっている一画が妙な盛り上がりを見せた時、廊下から騒がしい足音と声が聞こえてきた。
「おいおいおい黒崎! ギリギリだぞ早く入れ!」
「うーっす」
前方のドアが乱暴に開いて、担任の越智が教室に入ってくる。続いてやってきた男子生徒に、石田はさりげなく視線をやった。それに気づくことなく、その生徒は足早に教室を横切っていく。直後にチャイムが鳴り、あちこちに散っていた生徒が慌ただしく席に戻っていく。
喧騒の中で、肌がざわつくような感覚を石田は確かに感じていた。
◇
「今日石田くんが読んでた本って何?」
とっくに日の落ちた夜空を背景に、隣を歩く桜が尋ねる。今朝教室で読んでいた文庫本のことだと察して、石田は答えた。
「ガルシア・マルケスの『百年の孤独』」
現代文学の中では一、二を争うほどの有名な作品だが、桜は「知らないなあ……」と言う。
読書家である彼女とは本についても盛り上がったのだが、知識にはやたらと偏りがあり、古典文学は誦じられるほど読み込んでいるのに、近現代文学となるととんと無知だった。
「面白い?」
「面白いよ、読み応えもあるし。よかったらまた貸すよ」
「いいの? ありがとう。借りてばっかりでごめんね」
「いいよ、これくらい」
こんなやり取りをするのも何度目かになる。
高校に入るタイミングで一人暮らしを始めた石田の家には本棚こそあるが、本の数はそう多くないので貸そうにも限りがある。実家に帰れば書庫があるが、あそこには必要最低限のときにしか帰らないと決めている。そろそろ桜には空座町の図書館のカードの作り方を教えたほうがいいだろう。ついでに鳴木市の図書館にも案内するべきだろうか。わざわざ隣町にまで行くのは手間だが、そちらの方が規模が大きいし蔵書数も多いので、石田もたまに利用する。
自分はこんなに甲斐甲斐しい人間だっただろうか、と不思議に思う。
ひと月前までは、こんな事を考えるようになるとは思ってもみなかった。
朝起きて学校に行き、日中は授業を受けて部活に励み、夕方に家に帰って修練に打ち込む。それが前々からの石田の習慣で、高校に入ったところで変わらないだろうと思っていた。だがその予想は良い意味で裏切られ、代わり映えしない日々には大きな変化が訪れた。
こうして夜に出歩く事も、最近では町のパトロールという目的の他に別の意味が加わったような気がする。
「学校には慣れたかい? もうすぐ中間テストがあるけど」
「みんな良くしてくれるから大丈夫。テストは受けるの初めてだから、少し緊張するけど」
桜は生まれも育ちも外国だが、日本の血を引いていることもあって日本語は流暢で、学業に問題はない。
だが日本に来る前は学校に行っておらず、勉強は家で兄に教わっていたという。同級生ができたのもこちらに来てからが初めてで、どうやら他者との交流があまりなかった環境にいたらしい。常識知らずということはないが、世間慣れしていないところがある。
クラスの女子達が何くれと桜に声をかけているので、石田自身は学内で桜に話しかけることも少ないが、つい気にしてしまう。
「中間は範囲も狭いし、黒崎さんなら復習をしっかりしていれば大丈夫だと思うよ」
「だといいんだけど。成績が悪かったらどうなるわけでもないけど、なんか嫌なのよね」
「自分の問題だからね、そういうのは」
話しながら歩いているうちに、時刻は午後九時近くになっていた。
南川瀬地区に入ったあたりで、ふと違和感を感じる。虚の姿をまるで見かけないのだ。
「随分少ないわね。……少なすぎるくらい」
「そうだね。ちょっとおかしいな、これは」
突如上昇した虚の出現率はここ一か月下がる様子がなく、石田は努めて街の気配を探っていた。人に危害を加えそうな虚がいたら牽制するなり滅却するなりして追い払っているが、立場上あまり派手には動けず、歯痒く思っていた。
だが今日は虚がやけに少ない。ここに来るまでの道でも見なかった。たまたまそういう事もあるのかと思っていたが、違和感を払拭できなくなってきた。
遅い時間ではあるが、夜中というほどではない時刻。通行人の一人や二人いてもおかしくないが、人気は失せ、人間どころか霊も見かけない。辺りは異様なほどに静まり返っている。
「この辺りの霊や虚を死神が根こそぎ浚っていったとか?」
「まあ、考えられなくはないわね。だとしても随分仕事熱心な死神だけど」
尸魂界からは現世の霊や虚を葬るため、死神が派遣されてくる。虚退治は本来死神の仕事なので、自分が関与していない間に死神が虚を狩っていったというのならそれで済む。
むしろ石田が勝手に首を突っ込んでいるだけなのだ。正規の手段を持っている者が動いているのならそちらに任せればいい。
今夜も午後八時過ぎに南川瀬地区で急激な霊圧の高まりと虚の気配を感じて家を出たが、桜と合流して移動しているうちにそれが消えた。死神が対処したのだろうと思い、見回りついでに様子を見ようとここまでゆっくり歩いてきたのだ。
石田は、ここ十数年死神を見ていない。
幼少期から死神が見えていたので見れないということはないはずだが、とある時期を境にぱったりと、現代では悪目立ちするあの黒衣を目にすることがなくなった。
あちこち探し回ったこともあったが、ついぞその姿を見ることはなかった。単にことごとくタイミングを逃しているだけなのだろうか。だとしたらそれは、運が良いのか悪いのか。
(死神…………)
祖父の顔が脳裏によぎった。彼が死んだ時の事も。
腹の底から熱い何かが湧き上がってくるような感覚がして、石田は目を伏せた。臓腑を焦がすような激情が、とめどない憎しみなのか張り詰めた決意なのかは判らない。だが、深く息を吸ってそれを鎮めた。今は自分の感傷より優先されるべきことがある。
静まり返った夜道をしばらく歩いていると、住宅街に入り込む。その一角を見て、石田は唖然とした。
クロサキ医院の看板が掲げられた一戸建ての建物の壁に大穴が空いていた。
「うわ、酷いな……」
「…………」
大穴にわずかに残存した霊圧は虚のものだ。辺りを見渡すと、道路には破壊の跡がある。ここで戦闘があったのだろうか。
桜がぽつりと言う。
「……ここ、黒崎一護くんの家よね」
黒崎一護。
クラスメイトの一人で、クラス内どころか学年全体で見ても目立つ生徒だ。それは決して良い意味ではない。
曰く地毛であるらしい派手なオレンジの髪と、見る者に威圧感を与えるしかめ面に粗暴な態度。
悪い噂に事欠かず、教師陣に目をつけられている彼は一見完全に不良なのだが、席が近く話すこともあるという桜に言わせると、「見た目で損してる普通の子」らしい。
問題は黒崎一護の実態ではない。彼が持つ桁外れの霊圧だった。
空座町は重霊地で、霊なるものが集まりやすい。その影響か、住民の中にはまれに魂の霊的濃度が高い人間が生まれる事がある。いわゆる霊感がある人間だ。虚ではない通常の霊──
だが黒崎一護の場合は見る以外に喋る、触れることまでできるようで、彼が少女の霊と会話しているところを石田は目撃したことがある。
魂の霊的濃度の高さは霊力の高さに直結する。彼が持つ霊圧は人間にしては異様なほどで、入学してすぐの頃は何度か話題に上った。
「そういえば黒崎って苗字、君と同じなのは訳があるのかな」
「偶然じゃない? 特別珍しい苗字ってわけでもないし」
そんな会話をしたのもひと月ほど前の話だ。ややこしいので、ほとんどのクラスメイトは桜を名前で呼んでいる。
何日か様子を見た限り、黒崎一護は虚の存在には毛ほども気づいていないようだった。普通の霊はともかく虚が見えないのならば、特異ではあるが人間の枠に収まるだろうということで、彼についての話はそれで終わった。
だが、そこで終わらせるべきではなかったのかもしれない。
黒崎一護の自宅はおそらく虚に襲われ、そしてそれを撃退したと思しき痕跡が残っている。
家の中からはかすかに人の気配を感じる。死人が出ているということはなさそうだが、果たして何があったのか。
その後、石田と桜はクロサキ医院の近辺を回ってみたが、霊の気配の消え失せた街に収穫といえるものは何もなく、結局その日はそれで解散した。
◇
翌日。
石田は驚愕した。
黒崎一護が死神になっていたのだ。