THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
ルキアが浦原商店のガラス戸に手をかけようとした瞬間、引き戸が内側から勢いよく開かれた。
「──井上? どうした? 何をそんなに……」
「……朽木さん、……っ」
戸を開けたのは織姫だった。
目を丸くしていると、彼女の大きな瞳にみるみるうちに涙が浮かび、終いには肩を震わせて俯いてしまう。
「っど──どうした井上!? どこか痛むのか!?」
垂れた髪の隙間からぽろぽろと雫が落ちていく。いよいよルキアは狼狽した。
すると地下に続く梯子から桜が上がってきて、織姫の様子を目に留めるなり眉間にきつく皺を寄せる。
「……ひとまず場所を移しましょう。朽木さんもそれでいい?」
「う、うむ」
桜に肩を抱かれた織姫は黙ったまま小さく頷く。コンクリートの床に雫が点々と黒い染みを作っていた。
◇
適当なビルの屋上に腰を落ち着けると、淡い月明かりの下で織姫は一部始終をぽつぽつと語った。
「なんだそれは!! 浦原の奴、許せんな……!!」
憤慨するルキアに対し、少し離れた壁に背を預ける桜は能面のような無表情で黙り込んでいる。
膝を抱える織姫は泣き腫らした目を笑みの形に歪めて、苦く笑った。
「ううん……これで良かったんだよ、きっと。だって、あたしに力が足りないのはほんとの……」
「良くない!!!」
諦めの言葉を口にする織姫の胸倉を衝動的に掴み上げる。
「お前は今までずっと戦ってきたではないか! 尸魂界まで乗り込んで戦ってきたではないか! それをそんな簡単に切り捨てられて、悔しくはないのか!!」
「く、くやしくないよ……」
「嘘をつくな!!」
「う、嘘じゃないもん! くやしくなんかないもん! ただ……みんなと一緒に戦えなくて、淋しいだけだもん……!」
それでも、一護やみんなの足手纏いになるくらいなら淋しい方がずっといいのだと織姫は言う。
涙の膜の張った目で薄く微笑んでみせる織姫に、ルキアは思わず眉根を寄せた。
二人のやり取りを黙って聞いていた桜はおもむろに織姫の前までやって来て、その場に膝をついた。そして、織姫の袖から覗く二の腕に手を翳す。
「……桜ちゃん?」
よく見るとそこには爪が食い込んだような小さな傷がある。
真新しい傷跡は桜の手から溢れる青い光によってたちまち癒され、数秒後には光ごと跡形もなく消えた。
「あ──ありがとう……」
物言いたげにしながらも、桜は終始無言だった。何か言いたいが、言葉が見つからない──そんな表情で俯いている。
ルキアは織姫の肩をぽんと叩いた。
「──聞け、井上。戦いにおいて足手纏いなのは力のない者ではない。覚悟のない者だ」
尸魂界での戦いで、足手纏いになった者など一人として居はしない。
例えば花太郎。彼は自分の立場が危うくなるのを承知で旅禍である一護達にすることを決めた。
例えば岩鷲。彼はルキアが兄の仇とわかっても尚ルキアと花太郎を背にして白哉に立ち向かった。
一護に茶渡に石田、桜や井上は……最早言うまでもない。
誰か一人でも欠けていたら、今の自分はここにはいない。自分のために戦ってくれた者達への想いは、ルキアの中に強く刻み込まれている。
「……決戦に向けてできることは必ずあるはずだ。一緒に探そう、井上」
織姫の濡れた目尻を拭ってやる。
彼女は小さく鼻をすすって、ようやくそのかんばせに繕ったものではない笑みを浮かべた。
「……うん。──ありがとう、二人とも……!」
/
霊化銀と霊化硝子でできた無機質な部屋は、天井が高いこともあって、音がよく響く。
「──はっ、はっ、はっ……!」
荒い呼吸を隠す余裕はとうになく、石田はぜいぜいと肩で息をした。額に張りつく髪は汗でじっとりと濡れ、毛束の先から雫を滴らせている。
滅却師の能力を取り戻す為の修行が始まってから数日が経つ。石田は昼も夜もなく、寝食を削って竜弦が放つ矢を躱し続けていた。
辛うじて残ったわずかな霊圧知覚で頭上からの攻撃を察知すると、後ろに飛び退く。
だが足場にかけたはずの足はずるりと滑り、背中から落下していく。飛廉脚はもう使えない。
「──く……そッ!」
懐に手を入れて銀筒を取り出し、即座に床に叩きつけた。
「
ゴォン、と轟音が響く。
銀筒に溜めていた霊圧を放出して落下の衝撃を和らげた石田は、吹き上がる粉塵の合間から見える父の姿を睨みつけた。
「まだ銀筒を隠し持っていたのか……随分と用心深い奴だ」
「……臆病者と言われているように聞こえるね」
青い光が瞬き、瞬きの間に竜弦の手にした小弓に矢が装填される。
「──その通りだ」
言うや否や、竜弦は再び矢を撃ち放った。
息つく間もない連射を自前の身体能力だけで回避していくが、その速度は数日前に比べれば遥かに遅い。
竜弦もそれがわかっているのか、「それで逃げているつもりか!? その程度がお前の限界か!」と、矢と共に追い立てるような声が飛んでくる。
(限界……確かにそうだ。腕も脚ももう動かなくなってきてる)
疲労が体の動きも頭の回転も鈍くしていることは自覚していた。更に目立った流血こそしていないが、全身に細かな傷を負っている。
竜弦は「矢を躱し続ければ滅却師の能力は戻る」と告げたが、その兆候は未だにない。それが嘘かどうかはさておいて、体力の限界が来るのは石田の方が早い。そうなれば容赦なく降る矢の雨に撃ち抜かれ、蜂の巣にされるのは必至。
幸いなのは、竜弦の霊圧も確実に弱まってきていることだ。石田が竜弦の矢を避け続けているということは、その間竜弦も矢を撃ち続けているということ。相応の消耗はあって当然だろう。
このままこの男の言うことに従い続けるか、一か八かの勝負に出るか。二つに一つだ。
──「がんばってね。待ってるから」
ふいに、脳裏を鈴の声がよぎった。
思い出すのは、青空の下で彼女が見せた綻ぶような笑顔。
「待ってる」と言ってくれた──石田が力を取り戻すと信じてくれている彼女。
彼女へ立てた誓いを裏切るわけにはいかない。絶対に。
選ぶまでもなく答えは決まった。
石田はなけなしの霊圧を放出して急加速し、追い縋る霊子の矢を振り切った。
その勢いのまま男の懐に飛び込めば、銀髪の下の目が驚きに見開かれる。
最後の銀筒を投げつけ、素早く詠唱を唱えた。
「
銀筒が爆ぜる。
中に溜め込まれた霊圧によって小さな筒は五つの帯に変貌し、巨大な石棺となって竜弦を内側に呑み込んだ。
固形化した霊子の帯で構成されたドーム状の壁の中に対象を閉じ込めて封殺する──それがこの〝五架縛〟だ。物理攻撃でこれを破壊するのは至難の業。狭い空間の中では満足な威力の矢も撃てまい。
石田が勝利と修行の終わりを確信した時──
「──!」
灰色の壁が、内側からぼろぼろと崩壊していく。
それが霊子の結合が解かれているのだと気づいた時には既に、その男は身の丈ほどの大弓に矢を番えていた。
「──残念だったな」
終わりだ、と冷徹な声が告げる。
同時に放たれた矢は、寸分の狂いもなく石田の心臓を真っ直ぐに撃ち抜いていた。
/
どっ、と地面に倒れ込むなり、細い体躯はぴくりとも動かなくなる。
竜弦は霊子兵装を展開したまま、ゆっくりと彼に歩み寄った。
仰向けに倒れた雨竜は完全に気を失っている。襤褸切れのようになったシャツから覗く胸元に刻まれているのは、滅却師の象徴である五芒の十字。
それを確と目に留め、ようやく武装を解除した。
精神と肉体を極限まで削り、その状態で心臓の洞房結節右十九ミリメートルに霊弓の一撃を受ける。
それが〝
極限まで、とは言葉通りの意味である。
事前に伝えては意味がない。手緩い攻撃では意味がない。命の危機を感じさせるほどに追い詰めて初めて、この方法は成立する。
……こんなものに執心し、記録にまで残していた
竜弦は膝をつき、至近で雨竜の顔を見下ろした。
苦し気に眉間に皺を寄せたその表情は、とても安らかとは言えない。
「まったく……何故あそこで使うのが〝
どれほど嫌っていても身内は身内だと言わんばかりの甘さ。安易に他人に傷を負わせることを良しとしない潔癖さは美徳だが、度が過ぎれば愚かなだけだ。
竜弦からすれば、攻め切らなければ自分が殺されるかもしれないという状況で選ぶのが敵への攻撃ではなく拘束な時点で話にならない。
「……だからお前は馬鹿だと言うんだ。反吐が出る」
苦々しいため息と共に言葉を吐き出す。
だから滅却師になどなるなと再三言ったのに、この頑固者は聞き入れるどころか耳を貸すことさえしない。
本当にどうしようもないほどに──馬鹿な息子だ。
「……だが、まあ──」
/
『──今日のところは見逃してやる……』
耳元でかすかに聞こえる男の声には、これまでとは打って変わって相手を慈しむような響きがあった。
桜はそれを身じろぎもせず聞いていた。紅い瞳は周囲の風景を映しながらも、その実どこも見てはいない。
対象人物が発する声や周囲の音を、その人物の霊圧を介して大気中の霊子に伝搬させて傍受する諜報術。
桜はこれを石田に対して使い、ここ数日で彼の周辺に起きた出来事を把握していた。
他者の霊圧に干渉する──言うのは簡単だが、実際やろうと思えば難易度が高いもの。
滅却師には自らが発する霊圧を取り込んで霊圧を消す高等技法があるが、干渉する霊圧が自身のものか他者のものかという違いは大きい。
対象の霊圧組成を知り尽くしていなければできないし、できたところで対象者の霊圧知覚が敏感な場合は気づかれてしまう恐れがある。
ただ今の石田の霊圧知覚は弱り切っていて、わずかな霊子の動き程度は気づけないと判断した。石田の修行の相手をするのに集中している竜弦にも同じことが言える。
好条件が揃っている。であれば、桜の霊子操作能力を以てすればやってやれないことはない。
霊圧とは霊力を持つ者の身の裡から自然と溢れ出るもの。体内に異常があれば、当然霊圧もわずかながらに変化する。
石田は尸魂界で涅マユリと戦った際、体内に妙なものを仕込まれていた。あれに早々に気づいて排除できたのは僥倖だった。でなければ調整が今よりもっと面倒になっていただろう。
……すべてがとんとん拍子に進んでいる。
思い通りにはならないものだと、内心嘆息した。
石田が滅却師の能力を取り戻せないなら、それはそれで構わなかったのだ。
今後の予定が色々と変わるし、もしかすると彼から──もっと言うとこの街から離れることになるかもしれないが、そうなれば少なくとも、これから起きる戦いには巻き込まずに済む。
だが、そう願うのと同じ思考回路で、そうはならないだろうと確信してもいた。
それは彼が既に運命という大きな流れに巻き込まれているから、というわけではない。
他ならぬ彼自身が、それを許すまいという確信。
石田雨竜という人間が
「──どうした? ぼーっとして」
と、ルキアが横から顔を覗き込んでくる。
それで思考は断ち切られた。
織姫を励ましていたところ、突如やって来た仮面の軍勢の一人である猿柿ひよ里に織姫がかっ攫われてしまった。織姫を連れて行った彼女から敵意の類は感じなかったし、無理やり結界を破ることもないだろうと、こうしてアジトの前で待っているのだった。
「気に病んでおるのか」
「何が?」
「井上に何か言いたそうにしていただろう。言葉が見つからなかったのかと思ってな」
「ああ……」
別にそういうこともない、と口にしようとしてやめる。あそこで言葉に詰まったのは事実だったから。
「そうかもね。わたし、そういうの下手みたいだから。この前も思い知ったところよ。……朽木さんは、人を励ますの上手よね」
「そ、そうか?」
「この前も学校で一護くんにガツンと言ってたでしょう」
「見ていたのか!? あ、あれは励ましたというか……あ奴があまりにもうじうじしておったからカチンときてだな……」
赤面したりもじもじしたりと、ひとしきり恥ずかしがってから、ルキアはこほんを咳払いをした。
「私が人を励ますのが上手いかどうかはさておいて、お前とて下手ではないだろう」
「わたしが?」
「ここ数日ずっと井上のそばにいただろう。充分ではないか」
「でも、何も言ってあげられなかったし……」
「確かに言葉にしなければ伝わらない事はあるが、だからといって全てが伝わらないわけではない。お前は行動で井上を元気づけようとしていた。その気持ちは井上にきちんと伝わっているはずだ」
「…………」
桜はまじまじとルキアの顔を眺めて、
「……やっぱりあなたって人を励ますの上手ね」
と、小さく呟いた。
夜風に紛れた声を聞き取れなかったのか、ルキアが首を傾げる。
その時、結界に包まれた倉庫の中から織姫がひょっこり出てきた。
「──朽木さん! 桜ちゃん!」
「用事は済んだ? 井上さん」
「うん。ありがとう、二人とも」
「では行くとするか。浦原の鼻を明かしてやらねばな!」
意気揚々と歩き出したルキアに続く桜の腕に、織姫が後ろからぎゅっと抱きついてくる。
「ね、桜ちゃん。あたし、桜ちゃんがあたしのこと元気づけようとしてくれたの、ちゃんとわかってるよ」
「…………聞いてた?」
「えへへ……ごめんね。聞こえちゃった」
先ほどまで涙を浮かべていた瞳は、今は月明かりの下で美しく輝いている。
喜色を露わにしてはにかむ織姫を見つめ──桜は小さく俯いて、少し笑った。
痛みを堪えているような笑みだったが、垂れた髪が表情を隠してしまったから、ルキアも織姫もそれを目にすることはなかった。