THE CHERRY BLOSSOM AND THE RAIN 作:さーもんありなん
物心ついた頃から、生きている人間を見るのと同じように霊が見えていた。
整、虚、死神──いわゆる霊体を当たり前に見ることができた幼い僕に、母は言った。
「それは普通の人は見えないものなのよ」
これが普通だと思っていたから、その言葉には驚いた。自分が“特別な側”の人間だと自覚したのはこの時だ。同時に、虚がどういう存在なのか、そして自分にどんな
しかるべき知識を得た後に改めて世界を見渡せば、世に潜む不可視の危険の多いこと。
霊圧に敏感だったから、生きている人間と死んでいるものの区別がつかないということはなかったが、その分はっきりと、人間の暮らしの裏で牙を研いでいる虚の存在を理解できた。……それによって傷つけられる人の存在も。
ただ平穏に生きている人たちが虚に襲われ、いたずらに傷を負い、血が流れ、命が失われる。
その理不尽さに胸が痛んだ。見ていられなかった。
僕には力があった。生まれた時からそうだった。けれど、滅却師になりたいとはっきり思ったのは、その時が初めてだった。
──父は、それに反対した。
「お前は滅却師である以前に人間だ。人間として、人間を救えればそれでいい。虚にも死神にも関わる必要はない」
突き放すように冷たく告げられたその言葉に、「嫌だ」と思ったことを、今でもはっきりと覚えている。
無残に失われる命があると知っていても、それに背を向けて。助けられる力を持ちながら、見て見ぬふりをして“普通”の人間として生きる。
そんなのは、嫌だった。
力ある者は弱き者を助けるべき、なんて高尚な考えがあったわけではない。
立派な理屈も、損得の有り様も頭になかった。ただ、何もせずに黙っているなんて、絶対に御免だった。
だから、そんな父から教えを受けることを諦め、滅却師として奮闘していた祖父を師と仰いだのは、自然な流れだった。
祖父に初めて「滅却師になりたい」と言った時、祖父は僕に尋ねた。
「雨竜。お前は、何のために滅却師になる?」
それは、いつも穏やかで優しい祖父が初めて見せた真剣な表情だった。後にも先にも、あの人があんなに険しい顔をしたことはない。
「虚と戦うことに見返りはない。誰にも感謝されん。怪我をすれば、痛い思いも苦しい思いもする。命を落とすこともある」
静かな口調とは裏腹に、言葉は強く言い切られた。不確かな可能性を語るのではなく、確実な事実を予言するように。
僕は幼心に悟った。
僕よりもはるかに長い時間を生きてきた祖父が、これまで見聞きし、感じ、生き抜いてきた世界が、どれほど過酷なものだったのかを。
その過酷な世界で生きていくには、理由が必要なのだ。何のためにそう在るのかという確固とした理由が。
肉体を動かす原動力にして、心を支える軸。それがなければ、きっとどこかで立ち行かなくなる。
それをよく知っていたから、祖父はそう尋ねたのだろう。
「──お前は、何のために戦う?」
真っ直ぐに向けられた目を見返して、僕は──
/
「わからないかい、黒崎一護。こう言ってるんだ。
──君を憎む、と」
まったくもって気に入らない。一護はむかっ腹を立てていた。
昨夜突如として現れた石田雨竜という少年は滅却師と名乗り、死神を憎むと冷酷な眼差しで告げた。ここ最近行く先々で虚が消えていたのは石田の仕業らしく、一護は死神業務の邪魔をされたことになる。
滅却師という言葉にまるで心当たりはない。ルキアは色々調べてくると言ってコンを一護に預け、放課後になって早々に学校を出て行った。
すっかり憤慨していた一護だが、その石田が同じクラスにいると織姫に言われるまで気づいていなかった。
織姫は石田と同じ手芸部だが、親しいわけではないらしい。
「あ、でも桜ちゃんは石田くんと仲良いみたいだよ」
「桜が?」
意外な人物の名前が出てきた。桜はやたら濃いクラスの面々の中では話しやすい部類に入るが、かといって進んで誰かと話すことはなく、基本的には物静かに過ごしている。男子に自ら絡んでいくタイプには見えないが。
「学校ではそうでもないみたいなんだけどね。『ぶら霊』の時、石田くんと一緒に来てたよ」
「あの収録の時にか!?」
「うん。……あ、これ言っちゃいけないんだった!」
織姫は慌てて口元を押さえた。
「どういうことだ?」
「石田くんから口止めされてて……噂になるのが嫌だって」
「へえ……」
教室の中には、クラスメイトの女子が持ってきたぬいぐるみを早業で繕う石田の姿がある。
女子の礼を突き放したような口調で一蹴し、言われた女子はすっかり萎縮してしまっている。
頼み事を断らないあたり、取り付く島もない冷血漢というわけではなさそうだが、つっけんどんな男である。
「うーん。桜ちゃんといた時はあんな感じじゃなかったんだけどなあ……」
と織姫はぶつぶつ言っている。
一護は石田を睨めつけるように見た。細い背中が纏う張り詰めた空気は、昨夜会った時と変わらなかった。
◇
学校を出た石田の後を一護は追いかけた。
人気のない住宅街に差しかかったところで、向こうから反応がある。
「うちまでついてくる気かい? ストーカーじゃあるまいし、怪しい真似は品位を下げるんじゃないか」
「いちいち癇に障る奴だな、てめぇ……」
すっかり不良のレッテルを貼られている身であるので、今更品位も何もない。
二人の間の空気は徐々に緊迫していく。ひりついた応酬の末、石田は「勝負しないか黒崎一護」と突きつけるように言った。
「解らせてあげるよ、死神なんてこの世に必要ないってことをさ」
一度は受け流そうとした一護だが、挑発されては黙っていられない質である。勇んで死神化した一護に対して、石田はあくまで冷静であるかのように見えた。
だが石田が取り出したのは、「対虚用の撒き餌」。街はやがて餌につられた虚で埋め尽くされるという。
「集まってきた虚を二十四時間以内に多く倒した方の勝ち、ってのはどうだい?」
「ふざけてんじゃねえぞ、お前何様のつもりだ!!」
正気を疑う勝負内容に、一護は激昂した。それは街中の人間の命を危険に晒す行為だ。石田が喧嘩を売ってきた理由は知らないが、到底看過できることではない。だが一護が止めるよりも、撒き餌が砕かれるのが早い。
怒りのままに石田の胸ぐらを掴み上げたが、涼しい顔で「もう賽は投げられたんだ」と冷たく一護を見下ろしてくる。
「僕に掴みかかるより先に、走った方がいいと思うよ。君が少しでも多くの人を虚から守りたいと願うならね」
そして告げられた言葉に、一護は頭に血が昇る感覚と、全身から血の気が引く感覚を同時に味わうことになる。
「知ってるだろうが、虚は霊力の高い人間を好んで襲う習性がある」
脳裏に妹の姿がよぎる。
家族の中で唯一、霊がはっきりと見える存在。
「この野郎──!!」
矢も盾もたまらず、一護は走り出した。
/
視界いっぱいに晴れ渡った夏空が広がっている。雲は少なく、澄み切った青に太陽の光が眩しい。
その爽快さにまるで釣り合わない不吉な亀裂が、蒼穹にいくつも走っていた。数秒とおかずに亀裂は広がり、殻を破るように裂け目の中から白い仮面が顔を覗かせる。
咆哮する仮面の異形は、地上より飛来した青い光の矢に貫かれて即死した。
桜は開け放った自宅の窓から、その光景を眺めていた。
「随分大胆な手段を取ったものね……」
虚の気配は現れては消えてをひっきりなしに繰り返している。あの光景が、目視できる範囲以外でも起こっているのだろう。
凝縮された霊力が解き放たれる感覚は独特なもので、撒き餌が使われたことはすぐに分かったが、彼がここまで強硬的な手段に走るとは予想外だった。存外荒っぽいという見立ては、やはり間違いではなかったらしい。
ここ数日の間、石田が桜に何も言わずに虚退治を行っていることには早々に気づいていた。
何も言わずに、という表現も少々おかしい。死神代行が現れるまでは頻繁に石田と虚退治に出ていたが、それは示し合わせてのことではない。単に桜が石田の動向を察知して追いかけていただけだ。石田は自分と同じく、桜も虚の霊圧を感じてのことだと思っていたようだが。
だがそれも黒崎一護が死神の力を手にするまでの話。ここ二か月ほど、虚退治はすっかりそちらに任せていたので、霊子兵装を手にする機会は減っていた。
しかし今週に入ってからというもの、石田は積極的に虚を狩り始めた。虚の出現を悟るや否や即座に矢を放ち、死神の出る幕などないと言わんばかりの速度で滅却していく。
桜はそれに同行しなかった。あの廃病院での一件の後、意を決したような表情の石田に、
「これから少し騒がしくなるけど、気にしなくていいから」
と言われたからだ。
桜は素直に頷いて、様子を見ることにした。石田の狙いが一護を誘い出すことだと見当がついていたからだ。
いつぞやの空き教室での問答より前から、石田が死神を恨んでいることは想像がついていた。
それにしては空座町に駐在している死神に対して何のリアクションもなかったので不思議に思ったが、疑問はすぐに解消された。おそらく彼の父親が何らかの干渉をしていたのだろう。
石田にとっては、祖父の死後初めて接触した死神が、黒崎一護だったのだ。
一護がそうなってからというもの、石田はずっと思い悩んでいるような素振りを見せていたが、先日の廃病院の一件で一護が虚と戦うところを直接見たのが決定打になったのか、いよいよ死神への復讐へ踏み切ったらしい。
まさか街中の人間を巻き込むことも厭わないとは思わなかったが。強引な手段は自信の表れか、自分を追い込んでいるのか。それほど死神への恨みが深いのか。
彼が師と慕う祖父が辿った末路を思えば、致し方ない恨みである。
石田の死神への恨みを、桜は肯定も否定もしなかった。特定の存在へ向ける強い感情など、その正負に関わらず、他人が軽々に踏み込んでいいものではない。
この騒ぎに巻き込まれた者は気の毒だと思うが、所詮それだけだ。
したいようにすればいい。彼には、その自由と権利があるのだから。
桜はただ、石田の動向を見極めるのみである。
「…………」
窓の前で佇んだまま思い出す。
あの空き教室で、石田は過去を慈しむ静かな表情で祖父との思い出を語った。強く、優しく、誰を憎むこともなかった気高い人だったと。
きっと彼にとっては、滅却師である事は誇りなのだろう。
後ろを振り返る。
狭い六畳の一室と玄関の間を結ぶ短い廊下には、小さなキッチンが備え付けられている。そこに、ジュースの缶がぽつんと置かれていた。
廃病院での一件があった日、石田に奢ってもらったものだ。持ち帰ってきたはいいものの、捨てそびれて放置したままになっている。……なんとなく捨てにくかった、という方が正しい。
それをじっと見て、桜は小さく呟いた。
「……ま。これ以上は放っておけないしね」
石田がこの復讐劇に桜を巻き込まなかった理由はなんとなく察しがつくが、それに付き合ってやる理由はこちらにはない。
制服のスカートが翻る。桜は滅却師十字を手に取ると、部屋を飛び出した。