――濡れたアスファルトに、血と雨が混ざる匂いが漂っていた。
梅雨前線が街を丸ごと呑み込み、昼間なのに空は墨をこぼしたように暗い。遠雷が低く唸り、かすかな振動が足下を揺らす。
北区外縁部、廃工場跡。鋼鉄製の骨組みが錆びて軋み、崩れた屋根から冷たい雨粒が容赦なく落ちてくる。
夏芽は深呼吸した。肺の奥まで湿った空気が入り込み、胸が重くなる。制服の袖に張り付く雨を払いながら、魔法陣を展開――淡青の光が一瞬だけ闇を裂き、皮膚を焼くような魔力の刺激が走る。
(今度こそ、私が“前”に立つ)
その決意を噛み締めた瞬間、視界の奥、瓦礫だらけのフロアに“それ”は現れた。
濃紫の靄が渦を巻き、無数の棘がのたうつ。
薔薇を模した巨大な蕾――だが花弁は煤け、毒の芳香を撒き散らす妖花。
中心部から溶鉄のような魔力光が滲み、雨粒が触れただけで弾け飛ぶほど高温だ。魔女級脅威ランク「A」。一般魔法少女なら小隊レベルで挑むべき相手。
だが今日の戦力は、夏芽と柚依の二人きり。
しかも柚依のソウルジェムは、あの戦い以来ひび割れを止められず、黒の翳が刻一刻と浸食していた。
薔薇の魔女が咆哮した。まるで乾いた金属音――顎を軋ませ、花弁の奥から無数の触手が迸る。
夏芽は即座に〈治癒結界:光環(ハイロータス)〉を展開。淡光が円状に広がり、触手が接触すると弾けるように浄化火花を散らす。だが圧が重い。腕が痺れ、踵が滑る。
「大丈夫だよ、夏芽」
背後から静かな声。振り向くと柚依が片膝をつきながらも、嵐を切り裂くような白銀の防壁を張っていた。
瓦礫が跳弾し、雨が霧化するほどの高エネルギー。けれど彼女の指は小刻みに震え、ソウルジェムの表面に弾けた稲光が黒い罅(ひび)をさらに拡げていく。
「無理しないで!」
夏芽の声が掻き消えた瞬間、魔女の蕾が開いた。中心部――灼熱のコアが脈打ち、雷鳴のような魔力光を噴き上げる。
胸を撃ち抜くほど鋭い殺気。触手が槍に変形し、二人を同時に貫こうと突き出された。
刹那、夏芽が前へ出る。
靴底が水飛沫を弾き、スカートが雨を吸って重く絡みつく。
「〈輝環障壁・三重展開!」
息継ぎもなく魔力を叩き込み、三層の光壁を咲かせる。衝突――耳鳴りと共に視界が白く弾け、膝が砕けそうな衝撃が全身を這い上がる。
だが貫通はさせない。庇われるだけの自分には戻らない。
直後、背後から柚依の防御結界が重なった。銀と青の光壁が二重らせんの紋を描き、触手を押し返す。
「今度は私が支える。撃ち返せ、夏芽!」
柚依の声は雨音を割って届く。夏芽は頷き、魔力を全開放――**〈蒼蓮雷槍(ブルーロータス・ジャベリン)〉**を生成。
掌に成形された光槍が稲妻を纏い、雷轟とともに魔女のコアへ一直線に突き刺さる。
爆裂。
薔薇の蕾が裂け、黒紫の血飛沫が雨と混じる。だがまだ終わらない。花弁の奥から新たな核心が芽吹き、触手が再生しようとしていた。
夏芽の視界が揺らぐ。魔力の過剰放出で視界が霞み、ソウルジェムの色が鈍くくすむ。
(私も、そろそろ限界……でも柚依はもっと――)
見ると、柚依のジェムはほとんど漆黒。雨粒が落ちるたびに、ガラスのような亀裂が音を立てて広がっている。
柚依は静かに微笑んだ。
「大丈夫。最後まで一緒にいるよ」
声は淡々としているのに、瞳だけが――夏芽を失わないよう、必死に焦点を合わせるかのように揺れていた。
その瞬間、夏芽の胸に灼けるような痛みが走る。
「守らせて……お願い……!」
涙が雨と混じり、頬を伝う。
柚依はふっと目を細め、小さく首を振った。
「守るのは……盾の仕事。私はずっと、そうしてきたから」
薔薇の魔女が再び咆哮。新生したコアから破滅的なエネルギーが集中砲火となって吐き出される。
夏芽はとっさに前へ。けれど脚がもつれ、滑る。
刹那――柚依が夏芽を抱き寄せ、背中で砲撃を受け止めた。
白銀の結界が一瞬で四層展開。しかし衝撃はそれを裂き、柚依の身体を跳ね飛ばすほどの圧力を残した。
「柚依!」
血が雨に薄まって染み広がる。柚依の掌からソウルジェムが滑り落ち、地面に転がった瞬間、音を立てて割れた。
黒い靄が噴き上がり、柚依の意識が遠のく。
夏芽は叫びと共に柚依を抱きかかえ、胸元に額を押し当てた。息が浅い。冷たい肌。
「行かないで……まだ、終わりじゃない……!」
涙が溢れ、ソウルジェムの残骸に落ちる。
――その雫が淡い光を放ち、ひび割れた破片が微かに輝いた。
〈相互魂環修復術式(リンク・ジェムリペア)〉
夏芽の無意識が発火させた新たな魔法。彼女のジェムから清純な青光が流れ込み、柚依の黒靄を洗い流していく。
だが代償は大きい。夏芽のジェムが猛スピードで濁り、黒く脈動し始める。
蘇った光が柚依の胸に戻る。彼女は微かに目を開き、夏芽の泣き濡れた顔を指で拭った。
「……また泣かせた……ごめん」
声は掠れているが、生きていると伝えてくる温度があった。
夏芽は首を振り、嗚咽混じりに笑った。
「いいよ……生きてるだけで、いい……!」
だが魔女はまだ生きている。蕾は再生を終え、最後の咆哮を上げた。
夏芽は立ち上がる。全身が鉛のように重い。それでも――
「行くよ、柚依。今度は二人で」
柚依は頷く。二人の手が触れ合い、青と白の光が絡みあう。
共鳴魔法〈双蓮円舞(デュアル・ロータス・リヴァイブ)〉
旋回する双輪の光が生まれ、雨を蒸発させながら魔女へと突き進む。触手を斬り裂き、蕾を捻じ切り、コアを貫く。
眩い閃光。衝撃波。
雨雲を裂くように光柱が立ち昇り、闇薔薇は塵となって散った。
静寂が訪れる。
工場跡に差し込む曇天の隙間から、初夏の朝陽が覗いていた。
夏芽はその光を見上げ、深く息を吸った。
胸のジェムは漆黒に近い。それでも淡く瞬いて、わずかな青を残している。
柚依がそっと手を重ねた。
「守られたよ、今度は私が」
「……ううん、私だって守られた」
二人は小さく笑い合う。雨の匂いに混ざって、どこか甘い柚子の香りがした。
でも、終わりじゃない。
二つのソウルジェムは限界を越えて交わり、災厄を遠ざけた。
その代わりに――どちらも、元の輝きには戻れない。
だからこそ夏芽は言う。
「まだ、行けるよね?」
柚依は短く頷き、朝陽へ視線を移す。
「……約束。次は一緒に帰ろう。必ず」
雨上がりの空に、淡い虹が滲んでいた。
けれど虹の下には、砕けたグリーフシードが静かに転がっている。光はなく、ただ冷たい金属色を残して――。
---