授業どころじゃなかった。
さっきからずっと、一向に既読がつかないLIMEの履歴に気を取られっぱなしだ。昨日のハロウィンは渋谷で待ち合わせをして、そのときの通話記録が喜多川さんの最後の応答だった。
バニースーツの上に何も羽織らず、そのままの姿で夜寒に晒されていたのだから無理もない。俺はウサギの着ぐるみが思いのほか暑かったから気付かなかった。それでも素肌面積が大きい衣装だって判っていたんだから、製作者ならそれくらい準備しておいて然るべきだ。俺の責任だ。
喜多川さんは昨日あれからずっとくしゃみが止まらなかったけれど、心配して家まで送っていってくれた菅谷さんたちから『海夢、家に着いたら落ち着いたみたいだよ』と連絡が入り、俺も安心していた。でも今朝、風邪で休むという連絡が花岡先生のところに入った。電話の声がひどくて熱も相当出ているらしい。
ただの風邪だろうとは思う。そんなに心配しなくてもいいのかもしれない。俺は自分にそう言い聞かせた。授業に集中すべきだ。授業中にこんなにスマホを見ているのは良くない。休んでいる喜多川さんのためにもノートをしっかり書いておかなければ。集中するんだ。
――苦しかったよなあ。
――ゆっくり、休めよ。
だというのに、項垂れたじいちゃんの顔と声が脳裏に浮かんでくる。
白い布を顔に被せられたばあちゃん。
ずっと苦しそうだった。
やっと苦しまなくて済むようになったら、もう話ができなくなっていた。遠い世界に行ってしまった。父さんと母さんのいるところへ。
中学校が終わるとまっすぐ病院に向かった毎日の記憶は鮮明だった。真っ白な病室のベッドの上で、管につながれた透明なマスクをしているばあちゃんの姿が日に日に細くなっていくのを、何もできずに見ていたことを。ばあちゃんと最後に何を話したかは覚えていない。ただ、最後に必死に差し伸べてくれた手を、ぎゅっと握りしめた、あの感触だけははっきりと覚えている。
葬式のときに木魚の音が響いていたことが印象に残っていた。あの音を聞いて俺は姿勢を保っていることができなくなった。喪服姿の晴美おばさんが背中を擦りながら言ってくれた。
――わっちゃん、小さい頃ね、すごく頑張ってお葬式に出てくれたのよ。そのときのことを思い出しちゃったんだと思うわ。本当に辛かったわよね、ありがとう……
いったんあの音を思い出すと、俺は不安で不安で居ても立ってもいられない気分になった。
縁起でもないことを考えている自分自身を何度も
喜多川さんは一人暮らしだ。喜多川さんのお父さんもすぐには単身赴任先から戻って来れないだろう。彼女は料理の栄養管理もあまり得意な方ではないし、何より高熱で身動きがとれないかもしれない。
一人で寂しく弱って行く喜多川さんを想像した。白い布。木魚の音。
「先生、頭痛と腹痛が酷く、めまいもします。申し訳ありませんが早退させて頂いてよろしいでしょうか」
気づけば勢いよく手を上げて教師にそう申し出、荷物をまとめて早々に教室を出ていた。
まずドラッグストアで薬を買おう。そして栄養だ。声が酷いらしいから喉の風邪だろう。青ネギと生姜を入れたおかゆに仕立てるか。身体を回復させるには肉や卵が必要だとよく聞く。鶏胸肉を煮て、やわらかくほぐしてあげよう。出汁は引いてる暇がないから本だしを使うか。そういえば俺が風邪をひいたときには、ばあちゃんがよく蜂蜜りんごのすり下ろしを作ってくれた。こちらの材料も買っていこう。
あれこれ考えているうちに喜多川さん家の最寄り駅に着いた。駅前のドラッグストアで風邪薬を買う。隣接するスーパーはちょうど混雑の時間帯が終わったところらしく空いている。決めておいたものをさっさと買ってマンションに向かう。駅から近いし何度もお邪魔しているので今さら道順もなにもない。最短ルートでエントランスに辿り着きエレベータに乗って角部屋の呼び鈴ボタンを押す。一回目、応答なし。たぶん寝ているのだろう。ギリギリまで休んでいて欲しかったから道中にLIMEはしなかった。待たされるのは予想通りだ。LIMEでメッセージを送り、再度呼び鈴を押す。三回目でインターフォンの応答があった。
「五条です」
『……あれ? ごじょ、くん? あれ?』
インターフォン越しの声はか細く、聞き取りにくかった。
「……なんれ? まらゆうがた、じゃないろ?」
喜多川さんは呂律も回っていないし声がガラガラだ。かなり具合が悪そうだった。外は寒いし玄関で長話をさせるわけにもいかない。俺は仮病で早退したことを手短に伝えた。すると同時に喜多川さんがよろけた。驚いたがすかさず支える。額に手を当てるとかなり熱い。寝室までおぶっていかないと無理そうだ。背中に体を預けてもらい、彼女の膝裏に手を回すとじっとりとした感触があった。寝汗がかなりひどい。できれば着替えさせてあげたほうがいいのだろうが、さすがにそこまで踏み込んでいいのだろうか、と悩む。それに昨晩、渋谷のカラオケで菅谷さんたちに問いかけられた言葉の衝撃がまだ鮮明だった。
――五条君と海夢って、つきあってんの?
そんなはずがないだろう。俺なんかが喜多川さんと付き合っているなんてありえない。喜多川さんは誰に対しても平等に接してくれる、公平な人だ。俺はたまたま他のクラスメイトよりも服を縫う経験が豊富だっただけだ。自分だけが特別に思われているだなんて、烏滸がましいにも程がある。
洗面所まで彼女をおぶって入り、あくまで自分で着替えてもらうための準備をすることにした。洗濯かごの中から着替えを取り出して喜多川さんに渡す。次に洗面台を使わせてもらい熱めのお湯でタオルを何本か絞っておく。喜多川さんにこれで体を拭いてもらうためだ。準備を済ませると洗面所のドアを閉めた。喜多川さんに着替えてもらっている間、リビングのキッチンにお邪魔させてもらい、調理器具を確認する。意外、と言っては失礼だけど喜多川さんの家は調理道具が結構そろっている。土鍋があっさりと見つかったのでこれでおかゆを煮ることにした。無ければ炊飯器で作るつもりだったけれども土鍋のほうが香りがいい。
洗面所をノックすると、弱々しく返事があった。俺は断りを入れて入室し、着替えを終えて洗濯機に寄りかかっている多川さんを抱えあげた。あまり彼女をまじまじと見ないようにしながら寝室に運び、ベッドにそっと横たえる。
キッチンに戻りおかゆの支度をする。米びつからお米を拝借しザルで研ぎ、そのまま水を切っておく。土鍋に多めの水を注ぎ少々の酒と本だしを加え軽く混ぜる。生姜と青ネギを刻み、鶏肉を適当な大きさに切って鍋に入れた。本当なら十五分ほどかけてゆっくり煮たいが喜多川さんはお腹を空かせているはずだ。灰汁を取りながら、五分程度で手早く煮出すことにする。
煮終えると鍋の具材を一度全部掬い上げた。代わりに鍋に米を加え、再度蓋をして中火でコトコト煮る。ここから三十分ほどかかるだろう。まずは煮た鶏肉を食べやすいように丁寧にほぐしてからほかの具材と一緒に小鉢にわけておく。次いで買ってきたりんごや蜂蜜を取り出す。おろし金を借りてりんごをすり下ろし、小鍋に入れ、蜂蜜、絞ったレモン汁、少々の水を加えて煮る。いい香りがしてきたところで弱火に落とす。もちろん、隣のコンロの上でコトコト言っているおかゆ鍋の火加減もちゃんと見なければならない。こちらはさっきから盛んに湯気を噴いていて、そろそろトロ火にしてもいい頃合いになっていた。少し待ってから火を弱め、煮続ける。りんごのほうは火を止めて、粗熱を取るために水を張ったボウルに浸けた。
キッチンを後にし、喜多川さんの部屋の様子を見る。どうやら眠れないらしくノックするとすぐに反応があった。ちょうどいいので布団を替えてあげることにした。喜多川さんに替えの寝具の場所を聞き、シーツと綿毛布と布団を全部入れ替えた。
次に、替えた寝具の片付けを考える。使っていた綿毛布は汗のせいでかなり湿気っており、このままでは気持ち悪くて眠れなかっただろうと思った。この際、洗濯しておくべきだと考え、ドラム式の洗濯機にシーツと一緒に入れて洗濯から乾燥まで設定しておく。掛け布団はどうしようか悩む。高層階のここでは
おかゆもそろそろ炊き上がりそうなので、分けておいた具材を米の上に乗せてさらに少し煮る。粗熱を取っていたりんごのすり下ろしはまだ少し温かかったが、蓋付きの保存容器に移し換えて冷蔵庫に入れた。買ってきた卵豆腐と一緒に、冷蔵庫の見つけやすそうな高さの棚に置いておく。冷たくてのどごしの良い食品なら小腹が空いたときに食べやすいだろう。
「おかゆ、出来ましたよ」
お椀一杯分のおかゆと水、風邪薬をトレーに乗せて寝室に入る。
喜多川さんの背中にクッションを差し込んで上体を起こしてもらう。
一さじ掬って喜多川さんの口元まで運ぶ。喜多川さんはそのまま口に入れてしまい、熱そうにしていた。しまった、自分で熱い食べ物を冷ますこともできない病人だったことを束の間忘れていた。
二さじ目からは吹いて冷ましながら口元に運ぶことにした。楽に食べられるようになったらしく、三さじ、四さじと進む。
「――っ」
五さじ目を掬おうとしたところで喜多川さんが突然、泣き出した。涙をいっぱい浮かべてわんわんと泣いている。体調を崩すと気持ちが弱るものだ。お腹に食べ物が入ったことで、ひとりきりの心細さをやっと吐き出せたのかもしれない。
俺も喜多川さんが声を上げて泣いているのをみて、喜多川さんには悪いけれど少し安心した。ちゃんと食欲もあって意識もはっきりしていて体も少しずつ動くようになってきたらしい。喜多川さんはそのままお椀のおかゆをぺろりと平らげてくれたので、持ってきたコップの水と薬を差し出した。喜多川さんは自分でコップと薬を受け取って飲み下す。
トレーを下げるために居間に戻る。ついでにキッチンの冷凍庫を探すと氷枕を見つけた。タオルで巻いて喜多川さんの部屋に持っていく。熱を計っていた喜多川さんが体温計を差し出す。三八.一。まだ高い。背中を支えていたクッションを外し、氷枕を頭の下に敷いて喜多川さんを横たえる。少し眠ったほうがいいだろう。一眠りすれば熱が下がるだろうから、それを見届けたら帰ろう。その間、おかゆを容器に移して冷蔵庫に片付けて、食べるもののメモ書きを残しておくか。その間に毛布も乾燥まで終わるだろう――そう考えて居間に行こうと立ち上がったところで、手を引かれた。
「ごじょ、くん……あいがと」
喜多川さんが手を握っている。力は強くないが、少しだけ切実な感じがした。
「ごじょくん……いる?」
「はい、居ます」
まだ心細いのだろう。ベッドに腰を下ろして彼女を見守る。
「ごじょ、くん……」
「はい」
「……よんららけ……」
「……はい」
一人で眠るのが寂しいのだろうか。このまま彼女が眠りにつくまで待っていたほうがよさそうだ。
そう考えたところで、喜多川さんが握っていた手を離し、俺の左側のほうを指さした。そちらを見ると本棚がある。
「ね……ごほん、よんで……?」
「本を読んで欲しい、ですか?」
「うん……」
眠る前に本を読んでもらいたい、ということだろうか。俺にはあまりそういった記憶がないけれど、喜多川さんは小さい頃、そうしてもらっていたのかもしれない。
「どの本がいいですか?」
「にだんめの、いちばん、はしっこ……」
喜多川さんが示した本を取り出す。薄い絵本のようだ。タイトルには見覚えがあった。小さい頃、テレビでよく観ていた子供向けアニメのキャラクターだ。
「〝ぱくもぐ〟ですね」
「うん、それが、いい……」
喜多川さんもよく観ていたのだろう。この絵本も何度も読まれていたらしく、縁のところが少し擦り切れている。
「ごじょくん、よんらこと、ある?」
「いや、俺はないですね。テレビでは観てましたが」
俺には絵本を読む習慣もなかったし、読んでもらった記憶も、残っていない。
俺は再びベッドに腰を下ろすと、最初から声に出して読み始めた。
ゆっくり、はっきり、ちゃんと喜多川さんが聞き取れるように読む。なんだか現代文の授業のときみたいだ。今日の授業も先生に指名されたけど、喜多川さんのことが気になって何度も読み間違えたっけ……などと思い出しながら読む。喜多川さんを見ると、目を瞑っている。眠ってしまったのだろうか、と思ってしばらく彼女を見ていたら「もっと」と声が聞こえた。ちゃんと聞いているらしい。俺は続きを読んでいった。
読んでいくうちに、不思議と、とても懐かしい気持ちになった――それは初めのうちは、決して楽しいものではなかった。
なんだかすごく悲しくて辛くて、そこから逃げたくて暖かく柔らかい薄暗がりの中に逃げ込み、苦しみが通り過ぎるまでじっと丸まっているような気持ち。この苦しさも寂しさも、そのうちきっとどこかへ居なくなってくれると願っていたときの気持ち。それでも、願っても願っても寂しさは居なくなってくれなかった、あの、世界から見捨てられたような、いっそこのまま居なくなってしまいたいような、寄る辺のない不安ばかりの時間。
でも、そこから掬い上げてくれる声があった。あの声を思い出すと、悲しみも苦しさも薄らいでいく気がした。
ぼくは何も特別なことはできないけれど。
ぼくはきみと一緒にいる。
きみはひとりじゃないよ。
きみの悲しみはぼくが一緒に味わってあげる。
きみが抱えきれない悲しみを。
ぼくは自分の中に引き受けてあげる。
全部、飲み込んであげる。
――そんなことを、あの声は一生懸命に呼びかけてきてくれたような気がする。
この本に書いてあったことだったのかもしれない。誰かがこの本を読んで、小さく丸まっていたあのときの俺に聞かせてくれていたのかもしれない。
あれは、誰の声だったのだろう。
◇
短い本だったけれども、読み終わった頃には喜多川さんは静かな寝息を立てていた。呼吸もだいぶ楽になっている様子だった。
台所もすべて片付けて、乾燥の終わった綿毛布とシーツをたたんでおいた。
授業のノートを写真に撮って喜多川さんに送っておこうかとも思ったけれど、俺も今日はろくにノートなんか書いていなかったことを思い出した。後で菅谷さんたちに直接頼んでもらったほうがいいだろう。
そのまま俺は二時間ほど喜多川さんの寝室で待っていた。部屋の中に夕闇が染み込んできた頃、喜多川さんが目を覚ました。
「ごじょー君、ずっと居てくれたの?」
「はい」
喜多川さんの声はまだ少し弱々しいけれど、はっきりと発音できるようになっていた。喉の痛みがだいぶ収まったようだ。
口の中がもにょもにょする、というので洗面台まで連れていく。肩を貸そうとしたが、もうふらつくことなく一人で歩けるらしい。喜多川さんは軽く歯磨きとうがいをし、口の中をさっぱりさせてからベッドに戻った。
「すりおろしりんご、食べますか?」
「うん!」
こちらも自分で器を持ってぱくぱくと平らげていく。食欲もすっかり元通りのようだ。
「冷たくて甘酸っぱくておいしー! いままさに体が求めてる味! って感じ」
体温を計ってもらうと三六.九と表示された。ほとんど平熱まで下がっている。薬が効いているのもあるだろうから、まだ学校は休んだほうがいいだろう。明日はちゃんとした病院に行ってもらおう。
そんなことを考えて、冷蔵庫の中には作ったり買ったりした食品を入れたことを伝え、布団や寝間着もこまめに交換するように言って、そろそろお暇しよう、なんて思っていたところに、インターフォンの音が響いた。
菅谷さん、八尋さん、山内さんの顔がモニタに映っているのを見て、俺は顔面蒼白になった。
その後のドタバタはよく覚えていない。
自分が喜多川さんと付き合っている、なんていう馬鹿げた話をもう繰り返させたくはなかった。なのに今のこの状況を見られてしまったらそんな誤解を助長するに違いなかった。
必死になってカバンに靴という物証を携えてベランダに隠れ、マンション高層階につきものの夜風に晒されながら二時間ひたすら待った。
翌日、俺はすっかり風邪っ引きになって自室の寝床に横たわっていた。
看病をしてくれたじいちゃんが、とても心配そうな顔をして見ていた。
「新菜。体を大切にしろって、いつも言ってるだろ。もう無茶、するんじゃねえぞ」
ぽつり、ぽつりとじいちゃんが言う。
白い布を掛けたばあちゃんに語りかけていた、あのときみたいだった。
返す言葉もなかった。
涙が出そうになった。
「ごめんなさい、じいちゃん」
俺はもう、二度とじいちゃんに心配をかけまい、と誓った。
明日、次話(〆です)を投稿します。