「ごほっ、ごほっ」
咳が止まらない。
渋谷からの帰りの電車に乗ってたときは、まだそこまで咳もくしゃみもヤバくなかった。
乃羽たちもついてきてくれたけど、家に着く頃にはだいぶ落ち着いてたから全然へーきだと思ってた。
それが甘かった。甘すぎた。
夜中ぐらいにはもう、頭がぐらんぐらんしてた。
熱を計ったら三八.五とか出ちゃって、数字を見たら「やっぱあたし風邪なんだ」って理解させられて急に体から力が抜けた。「いちおー念の為」って大空が買ってくれたポカリを飲んでベッドに転がり込んだ。薬を買ってなかったことに後悔した。あたし片頭痛もないし生理痛も軽いから家にロキソニンとか置いてない。本格的にヤバいと思った。
寝ようと思っても咳が出たり頭がピキってするたんびに目が醒める。どうせ眠れないなら、あまり食欲もないけど栄養だけはとっておこう、なんて思って壁に寄りかかりながらキッチンまで行く。やっとたどり着いて扉を開けた冷蔵庫は、無情だった。きれーにすっからかんだった。調味料しかなかった。冷凍庫も氷と氷枕しかない。冷凍食品もアイスもなかった。お米はあるけど、これから炊く気力なんてない。
しょんぼりして部屋に戻ると、もうこれ以上動きまわる気力まですっかりなくなってた。大人しくベッドに潜り込んでも、咳も頭痛もちっとも収まってくれない。うとうとすると痛みで目が醒めて、またうとうとする。そしたら咳が出てまた目が醒める、の繰り返しだった。
夢だったのか幻覚だったのかわかんないけど、そのうち昔のことが頭にほわほわと浮かんできた。
――お父さん、もうすぐ来るからね。
――もうすぐって、いつ?
――うーん。暗くなる前、かな?
小学校三年生くらいのときだっけな。
学校行って、お昼過ぎくらいから具合が悪くなった。
熱が出て頭も痛くなって、そのうち保健室のベッドから起き上がれなくなった。先生がお父さんに連絡してくれて、「迎えにくるよ」と言ってくれた。でも少し時間がかかるかもしれないよ、とも言った。
お父さんはなかなか来なかった。仕事が忙しいんだろうと思った。
外が暗くなってもまだ来なかった。
頭がずっとピキピキ言って、このまま死んじゃうんじゃないかと思った。
ひもじい、つらい、さびしい、こわい。
――お父さん。
――お父さん。
――おとうさん。
何度も呼んだ気がする。
それでもまだ、お父さんは来なかった。
耐えられなかった。涙が止まらなかった。
だから呼んだ。
呼んじゃった。
あたし、どんなときでも、絶対に呼ばないように我慢してたのに。
――おかあさん。
◇
気づいたら朝だった。
枕がびしょびしょだった。
頭はまだピキピキいうし熱も下がってない。咳は少し治まったみたいだけど声もヤバかった。
花ちゃんに電話して学校を休む連絡だけはした。
ポカリを飲んで枕を替えてまた寝る。
余計なことを考えたくない。夢ももう見たくない。泥みたいに眠ってしまいたい。
だけどシーツも毛布も湿っていて、気持ち悪い。気になってちゃんと眠れなさそーだから、居間のソファに行って寝転がってみる。
ここなら眠れるかな。そーいえば小さい頃はよくここで寝ちゃってお父さんに怒られたなー。なんて思い出したらまた悲しくなっちゃって結局ダメだった。
仕方なくぺしょぺしょのベッドに戻る。寝具を替える気力なんて一ミリも残ってない。そのまま横になって布団を被った。
ゆうべと同じように、うとうとしながら過ごす。そしたらやっぱりまた同じような夢を見ちゃってる。悲しくなって目が醒めて、またうとうとして悲しい夢を見る。その繰り返しだった。寝れば寝るほど疲れちゃう気がした。
何度目かわからない、うとうとの繰り返しの後だった。
玄関のピンポーンの音が聞こえた気がした。
気のせいかな、と思ってたら、どこかからスマホの振動音が聞こえてきた。頑張って手を動かすけど、ベッドの上にスマホが見つからない。そのうちまた、ピンポーンと、今度ははっきりと音が聞こえた。
壁伝いに居間まで行く。ぼーっとしていても、居間のモニターで誰が来たかちゃんと確認をしなきゃってことは体が覚えてたっぽい。ボタンを押すとモニターに男の人の顔が映ってた。びっくりした。絶対に見間違えるはずなんてない、でも今ここに居るはずもない人。
「……あれ? ごじょ、くん? あれ?」
ひょっとしたら夢かまぼろしかもしれない。けど夢でもいいや。でもでも、いま消えちゃうのはいやだ。
必死になって玄関まで歩いた。居なくなっていませんように、なんて祈ってみたりもした。すぐに外れないロックがめんどい。外れた。ドア、開いた。
外はめっちゃ眩しかった。すごい久しぶりに外の光を浴びた気がした。その眩しい光の中に、背の高い影が浮かんでた。間違いなく、ごじょー君だ。ちゃんと、実在してる。
ごじょー君は学校をバックレてきちゃったらしい。あたしのために。学校サボらせちゃって悪いな、とは一瞬思ったけど、ここに居てくれる安心感のほうが圧勝した。ほっとしたら膝から力が抜けた。
ごじょー君はへなへなになったあたしを背負って部屋まで運んでくれた。着替えも出してくれたし、体を拭く温かいタオルも用意してくれた。
あたしが横になっている間、ごじょー君はごはんを作ってくれているらしい。それなら少し寝ようかな、とも思ったけど、あたしは熱もまだあるし頭も痛いし布団の居心地もやっぱり良くない。何よりも、眠ったらごじょー君が居なくなってるんじゃないかと思っちゃったから、眠れるはずもなかった。あたしの中で夢と現実がひっくり返ってるっぽかった。
ごじょー君は料理をしながら、ときどきあたしの部屋に来てはお布団を入れ替えてくれたりした。シーツも毛布も入れ替えてもらったら、肌触りがさらさらのふかふかでめっちゃ快適になった。
そのうちごじょー君はほかほかのお椀を持ってきてくれた。めっちゃいい匂いがする。ごじょー君はベッドに腰掛けると、お椀を持って「あーん」してくれた。我慢できなすぎてすかさず口に入れる。あつあつの、味のついたおかゆだった。ほわほわと生姜の香りがして、それだけで風邪をやっつけてくれそうな気がする。小さく切ってある鶏肉からもじゅわっと味が滲み出てきて美味しい。控えめにいって絶品だった。ひとくち飲み込んだら今まで病気でぐったりしてた胃袋も復活したっぽくて、急にお腹が空いてきた。もっと欲しくて口を開けると、ごじょー君はふーふーして口に運んでくれた。
ふたくち、三くちと食べているうちに、昔、病気になったときにおかゆをこうやって食べさせてもらったことを思い出した。
今のごじょー君みたいに、ふーふーして冷ましてくれて。
「あーん」してくれて。
だからスプーンを運んでくれる姿に向かって、思わず口に出そうになった。「おかあさん」って。
ああダメだ。今日のあたし、全然我慢ができないっぽい。
必死になって言葉をおかゆごと飲み込み、代わりに「おいしー」って笑おうと思った。けどやっぱダメだった。涙が勝手に溢れてきた。
視界がぼやけてくると、そこにいるごじょー君がおかあさんと重なった。そしたら今日何度もやってきたあの気持ちが全部、ダダ漏れになって口から出ちゃってた。動けなくて怖かったとか、苦しかったとか、頭痛かったとか、もーダメかと思ったとか、ホントに全部。
一度出ちゃったらもう、しょーがなかった。ガン泣きした。ごじょー君はその間もやさしい手つきでおかゆを運んでくれた。それがやっぱりおかあさんみたいで、あたしはまた泣いた。
お腹が満足したら、少し元気が出てきた。
ごじょー君が渡してくれたコップと薬を自分で飲んだ。ごじょー君は氷枕を持ってきてくれて、あたしの頭の下に置いてくれた。ひんやりして気持ちいい。頭が痛いのも治まった気がする。お布団も快適だし、今ならちゃんと、一人ででも眠れそうな気がする。
でも、ごじょー君が立ち上がろうとしたのを見たら、とたんに寂しくなった。気づいたらあたしはごじょー君の手を掴んでた。今日はいちど我慢をやめちゃったからかな。もう、いろいろと止められなくなってるっぽかった。ごじょー君にずっとここに居て欲しい気持ちがダダ漏れてた。
ちょうど風邪薬が効いてきたみたいで、あたしはだんだん意識がぼんやりしてきた。昨日の夜とか今日の朝みたいに息苦しくて真っ暗なもやがかかってる感じじゃなくて、暖かくて優しいふわふわ感だった。幸せな眠りに落ちていきそうだった。だからその前に、あたしは最後のおねだりをした。
部屋の本棚のすみっこ。小さいころの絵本が並んでいるところ。その中の一冊を取ってもらった。
何度も読んだし、読んでもらった。だから見た目はわりかしボロい。でも絶対捨てられない、あたしの宝物。
ごじょー君もテレビは観てたらしく、知ってるっぽい。でも絵本は読んだことがなかったらしい。だったら絶対読んでほしい。あたしの好きなものは何だってごじょー君に知ってほしい。
ごじょー君が手にとって、ゆっくりと読み始めた。
低くて、ゆったりとして、でもはっきりとした声。
ぽかぽかとしたものに包まれているような、優しい声。
あたしは少しずつ、暖かいところに落ちてゆく。
柔らかくてしっとりとした重たいものが、たゆたうところ。
声はその中で、とくとくと響いていた。
◇
【 ぱくもぐ 】
ここは ようせいのくに。
たくさんのようせいたちが くらしています。
ようせいたちは いつも にんげんのこどもたちを みまもっています。
こまっているこどもを みつけると
ようせいは すぐにやってきて
とくいのわざで たすけてくれます。
「ころんで すりむいちゃったよう いたいよう」
「ぼくが なおしてあげるよ!」
けがをなおす ようせいが つえをふります。
ぱっ! とすりきずは きえてしまいました。
「おなかが すいたよう」
「ほら ケーキを つくったよ!」
ケーキづくりが とくいな ようせいも だいかつやく。
ようせいは こどもたちが だいすきです。
ぱくもぐ は たべることがだいすきな ようせいです。
くだものも ぱくり。
ケーキも ぱくり。
なんでも ごくん。
ぱくもぐは どんなたべものも まるのみで ごくん。
でも ぱくもぐは まだ こどもたちをたすけたことが ありません。
こともたちのおやつを まちがって たべてしまったり
なかまのようせいがつくったケーキを まるのみにしてしまったり
しっぱいばかりです。
ぱくもぐだって こどもたちが だいすきです。
でも ぱくもぐは たべることしか できません。
まるのみにすることしか できません。
あるところに ないている こどもがいました。
ようせいたちが やってきて たすてあげようとします。
「どこか いたいのかな?」
けがをなおす ようせいが とくいのつえを ふりました。
でも こどもは なきやみません。
「ほら ケーキだよ」
ケーキづくりがとくいなようせいが ケーキをだします。
でも こどもは ケーキを たべません。
ずっと ないています。
ようせいたちが おもちゃを つくっても
すてきな おんがくを きかせてあげても
ダンスを おどって はげましても
こどもは ずっと ずっと ないています。
ようせいの おうさまが いいました。
「とてもとても かなしいことが こどもを つつみこんで しまっている」
ようせいたちが さびしそうに いいました。
「それじゃあ ケーキも たべられない」
「きれいな おんがくも とどかない」
「ぼくたちでは たすけられないよ」
そのとき ぱくもぐは いいました。
「ぼくが かなしみを たべてあげる」
ぱくもぐは こどもを まるのみにしました。
ぱくもぐの おなかのなかで かなしみが ふくらみました。
ぱくもぐも かなしさで はれつしそうに なります。
「がんばれ!」
ようせいたちが いいました。
ダンスをおどったり おんがくを えんそうしたりして おうえんします。
ぱくもぐは げんきが でました。
ぱくもぐは ごくんと かなしさを のみこみました。
こどもが ぱくもぐの くちから でてきました。
「ありがとう ぱくもぐ」
こどもは すっかり えがおになりました。
ぱくもぐ きょうも たくさんたべます。
なんでも くちに いれてしまいます。
こどもたちの かなしさも まるのみにします。
こどもたちは みんな きょうも えがおです。
おしまい
「めでたし、めでたし」
「ぱくもぐ、すごい」
「本当だね。悲しいことも全部食べちゃうなんて、すごいね」
「あたしも、ぱくもぐみたいになりたいな……」
「なれるよ。そのためにも、ごはん、残さないで食べないとね?」
「……うん! あたし、もうごはん、のこさない!」
「お、えらいえらい!」
「……いっぱい、たべる……」
「……そうだね。さ、海夢、もう寝なさい」
「……うん、おかあさん、おやすみ……」
「おやすみ、海夢。良い夢、みてね」
〈了〉