ランホアは容赦なく短剣を薙ぎ払った。空気は引き裂かれ、物質に切られたことすら理解させない。掠っただけでも致命傷に至るだろう。
嵐のように放たれる見事なまでの一撃を、紙一重でレイヴンはかわす。皮膚と死の境界線を首皮一筋で渡り歩くような回避。
だが、しかし──。
《
魔法により、どれだけ距離をとろうとしても引き戻され、攻撃は無力化され、未来は潰される。
ランホアの魔法が引き戻せる時間は、わずか1秒ほど。巻き戻された時は存在しなかったことに変換される。よって、レイヴンは1秒先に2つ目の未来を作らなけばならない。したがって、レイヴンは後出しジャンケンという理不尽なチート行為をの上から、さらに別の手を出さなければならないことになる。
そんな理不尽、レイヴンはとっくにわかっていた。
「──ッ! 」
短剣の切先がわずかに額を掠めた。神経が空気に晒される痛みと滲み出ていた汗が傷口に滲みる。血液が眼の中に流れ視界が赤く染まる。
ランホアはそんなこと気にもせず、短剣を垂直に振り落とす。本来短いはずの短剣の刃がレイヴンには大剣のようにレイヴンは感じた。
──避けきれない。
いや、最初から避けるつもりなどないに等しい。短剣がレイヴンの左肩に切断しようとする瞬間、またしても1秒前の世界へと捻じ曲げられ、レイヴンの反撃はなかったことにされる。
「……チッ」
相討ち狙い、捨て身の一撃、小さな子どもでも思いつくような愚鈍な策。その一撃が、自動的に無効化される。
ランホアは魔法が使用した直後の数秒間はレイヴンから距離を取る。
レイヴンは推測した。おそらくあの魔法には再使用ができるまでのクールタイムがあると。そして、そのときが今、このほんのひと握りの隙をレイヴンは逃さない。
地面を強く踏み込み、鉄砲玉のような勢いでレイヴンは肉薄する。
だが、それは焦りゆえの誤算だった。人とはわずかな希望という火種を見つけると、それが大火になると信じる生き物だ。その火種が、自らの体を焼き尽くすものとは知らずに。
レイヴンの致命的な誤算、それは魔法のクールタイムが考えていたより、短かったことだ。
喉元を狙ったナイフの切先は虚しく空を裂いた。
次の瞬間、レイヴンの右大腿に短剣が突き刺さり、鮮やかな鮮血が花弁のように舞い散る。
言葉では表現不可能な激痛を感じるよりも先に、ランホアの鋭い蹴りが横腹に突き刺さる。内臓が圧迫される嘔吐感とともにレイヴンは10メートルほど吹き飛び、コンクリの壁に打ち付けれる。
口いっぱいに鉄の味が広がり、大腿からの大量出血の影響で目の前の視界が白く濁る。
混濁とする意識、魔法という、どう足掻いても超えられない壁、圧倒的な理不尽。
それらが、レイヴンの失われていた記憶を呼び戻す。
俺が、俺がまだウクライナで、兵士ですらなかった頃。
俺はただの学生だった。ただ、心の奥底から平和を願い、争いを嫌う、平和主義者だった。憎しみを持たなければ人は争わないとすら信じる、ただの愚かな若者だった。
俺には妹がいた。アンナという少女だった。純粋無垢で汚れを知らない白鳥のような存在、それはアンナ。
「私、この世界が好き! 暗いこともあるけど、神様が絵を描いたみたいだもん! 」
黄金色の小麦畑で笑う彼女の姿をはっきりと思い出す。こんななんの特別さもない普通の日常が続くと思っていた。あの日が来るまでは──。
あの日は不気味なほど、空が赤かった。学校から帰っているときだった、装甲車と武装した軍人たちとすれ違った。嫌な予感がした。
いつも賑やかな街は、誰もいないと言わんばかり沈黙し、カラスがなにかをつついていた。家は怪獣が踏み潰したように破壊されており、ところどころにロシア国旗が掲げられている。
脂汗が額から滲み出た。荷物を全て投げ捨てて、家へ走った。頼むから、予感が外れてくれと神に願った。だが、そんなこと無駄だった。
「父さん! 母さん! アンナ! 」
家のドアは無惨にも破壊されており、玄関には父さんが壁にもたれかかったまま、生き絶えていた。父さんの胸元は赤く染まっていて、薬莢が床に転がっていた。
「……は」
充満した鉄の匂いが吐き気を掻き立てる。どうにか吐くことを堪えながら、家の中でアンナと母さんを探した。家は激しく荒らされており、食料、毛布、洋服などの日用品がなくなっていた。
だが、そんなことはどうでもいい。母さんとアンナがいない。もしかすると、2人は連れ去られて──。
突如として、発砲音が響く。それとともに甲高い悲鳴、女性の声。広場の方からだった。
無意気と俺は足を進めていた。
広場には赤い水たまりができていた。死体の山の中に、少女が1人。麦畑のような色の髪はどす黒い液体に濡れており、わずかながらに胸が上下している。
「……アンナ! 」
俺はアンナの傷を見る。胸に銃創が……。俺は両手で胸を押さえる。だが、そんなことをしたところで出血は止まらない。
アンナの体温は急速に冷え、血の匂いが鼻を刺す。呼吸は途切れ、視線は揺らいでいた。
「お兄……ちゃん……」
震える唇が最期の言葉を紡ぐ。
「……ごめん……なさい……」
俺はアンナを抱きしめた。視界が涙で滲む。
「──ッ」
どれだけ強くアンナを抱きしめてを、それが返ってくることはなかった。
俺の口からは言葉にすらならない絶叫と憎しみが吐き出される。
どれだけ、多くの人々が平和を願おうとも、横暴を振るまう者がいれば、その願いなど簡単に踏み潰される。弱者が願う平和ほど愚かなものはない、違う、弱者には平和を願う権利すらない。
強者こそが正義で、弱者は悪。そんなことあってはならない。理不尽だ。
俺は拳を握りしめ、地面を殴った。そして、自らに誓った。
アンナが好きなこの世界から、
混濁とする視界が、一瞬にして澄み渡る。敵の少女の輪郭がはっきりと見えた。
短剣がレイヴンの首を目がけて振り落とされようとしたとき、少女に悪寒が走る。気づけば、自動的に時が戻されていた。
怒りで沸きそうになる頭を冷ますために、拳を壁に打ち付ける。痛みで冷静を取り戻すためだ。
レイヴンは心の中で自らに言い聞かせる。
眼前にいる少女、名前すら知らないが、こいつは理不尽そのものだ。こいつが、タミスを、エレクシアを、仲間を奪おうとする。ただちに排除するべき存在だ。
レイヴンはゆっくりと脱力して、ナイフを構える。
大腿からの出血は3分以内で死に至る。3分、それがレイヴンに与えられた猶予だった。
ランホアは皮膚がひりつくの感じた。明らかに目の前に立つ標的の気配が変わったからだ。明確に滲み出る殺意の鋭さが変わっている。根拠ない焦りが短剣を握る手の力を強くさせた。
「じゃましないでよ! 」
鼓膜を震わせる高い声とともに、ランホアは地面を踏み込み、レイヴンに斬りかかる。
ランホアからすれば、最初の攻撃が外れても、時を戻してしまえばいい。その慢心が命取りなった。
レイヴンがナイフを振りかざす瞬間に1秒、時を戻す。それだけで、攻撃は回避できるはずだった──。
予測外の一撃がランホアの頬を抉った。