ナイルダン共和国の親中派政権は完全に排除された。
米国は中国系PMC「華龍安保軍団」による戦争犯罪の証拠を国連に提出し、中国による地域侵略の疑義を強く糾弾した。ナイルダンでは米国主導の暫定政権が発足し、国連は破壊された市街地の復興支援を行う予定だ。
少なくとも表向きには、ここでの争いは終わった——そう言える状況になっていた。
野営地の片隅で、チヌークのローターが重く唸りを上げていた。
「お別れやなレイヴン〜。めっちゃ寂しいわ」
軽口を交わすゼロ・ゴーストの声は陽気だが、言葉の裏に相変わらずの薄っぺらさが滲んでいた。隣でグリムはわずかに肩をすくめ、どこか安堵した表情を見せている。俺も同じだった。これ以上、あの女に煩わされるのはごめんだ。
「ゼロ・ゴースト、行くぞ! 」
隊員の声がかけられると、ゼロ・ゴーストははしゃぐ子供のように駆け寄ってきた。
「レイヴン、お別れのチューは? 」
「……」
ゼロ・ゴーストの手が当たり前のように俺の髪に触れた。その仕草は軽く、馴れ馴れしい。内心、不快感が膨らむが、面倒事を避けるために流すつもりだった——はずだった。
「ん……」
だが、次の瞬間に伝わってきた感触、生温かかった。ゼロ・ゴーストが力を込めて俺の顔を引き寄せ、唇を押し当ててくる。開かれた口に、彼女の舌が押し込まれるように滑り込んだ。
脳を走る嫌悪。それは本能的で、震えるほど生々しかった。息が詰まりそうになる。
「照れへんの? ドーテーやのに? あ、今女やからショジョか」
次の瞬間、ゼロ・ゴーストは殴り飛ばされた。
目の前には、グリムが血管を額に浮かべ、怒号を散らす。
「お前……ふざけるのも大概にしろよ。ぶち殺すぞ」
その一声は怒号というより静かな断罪だった。ゼロ・ゴーストの笑顔は一瞬で砕け散り、周囲の空気が凍る。
「ああ、ムカつくわ……クソガキが」
ゼロ・ゴーストは唇の端を吊り上げながら、ゆっくりと立ち上がった。砂塵が靴先から舞い上がる。瞳にはあからさまな殺意が宿り、まるで銃口のようにグリムを射抜く。
グリムは一歩も引かない。その瞳は、逆に氷のような静けさで相手を見返していた。
互いの間に、砂漠の風が音もなく流れ抜ける。緊張が、一瞬で野営地全体を凍りつかせた。
「……ゼロ・ゴースト、やめろ。余計なことをするな」
低く抑えた声が響く。TF-17の隊員だった。
その口調には怒りよりも、呆れと軽蔑が混じっていた。まるで「子どもの喧嘩を見せられている」とでも言いたげな声音だ。
ゼロ・ゴーストは一瞬だけ顔を歪め、次いで大きく舌打ちする。
「……チッ、わかっとるわ」
不貞腐れたように吐き捨てると、乱暴にヘルメットをかぶり直し、チヌークのランプへと向かう。後ろ姿にはまだ怒気が漂っていた。
TF-17の隊員は頭を手で押さえ、重い息を吐く。
「最後まであいつが迷惑をかけてすまない」
彼の言葉は風に溶けていったが、確かに疲れが滲んでいた。
ゼロ・ゴーストがチヌークに乗り込むと、整備兵たちが素早くハッチを閉じる準備を始める。エンジン音が次第に高まり、砂埃が再び空へ舞い上がった。
その中で、隊員が俺たちに向けて振り返る。
バラクラバから覗く彼の目は、戦場帰りの兵士にしか出せないほど静かで誠実なものだった。
「……レイヴン、それとWingshade Division」
ローターの轟音に負けぬよう、隊員は声を張り上げた。
「任務の協力に感謝する」
短く、だが真っ直ぐな言葉だった。
チヌークのハッチがゆっくりと閉まりゆく。そのわずかな隙間から、隊員の敬礼が見えた。
砂嵐の中に立つその姿は、まるで薄明の向こうに消えていく亡霊のようで——。
やがて、機体が地を離れ、夜空の彼方へと消えていった。
残されたのは、砂の焦げた匂いと、戦いの終わりを告げる重たい静寂だけだった。
ロシア、コーカサス山脈──荒涼とした稜線に設けられたPMC「Alpha Company」の基地。
凍てつく朝靄の中、一人の男が姿を現した。彼の通る通路の両脇には、規律正しく兵士たちが整列している。足音は雪を踏む軋みだけを残し、空気は張りつめていた。
「キャプテン・バルコフ!」
誰かの声が鳴り、呼名が反響する。
バルコフと呼ばれた男は、兵士たちが作った道をゆっくりと、しかし堂々と歩み進めた。その立ち姿には不思議な威厳があり、立ち止まった時にはまるで古い聖画に描かれた救世者のような気配を放った。
彼は隊列の前に立ち、短い沈黙が広がる。冷たい風が襟元を撫で、数秒が長く引き伸ばされる。
やがて、バルコフは口を開いた。
「……この世界は、長きにわたり争いに苛まれてきた。原因はただ一つ、この世界を動かす愚かな権力者どもの腐敗だ」
兵士たちは言葉を、宗教的な熱を帯びた教えのように受け止める。誰もが息を殺し、彼の一語一語を待っていた。
「私は、この腐敗しきった秩序を根底から覆す。争いのない、真に新しい世界をもたらすーーそれが私に科せられた使命だ」
視線を巡らせ、バルコフは集まった顔を一つずつ確かめるように見渡す。声は冷たくも断固としていた。
「だが、それを成すには君たちの力が要る。ここにいる者たちに問う——私が掲げる新しい世界のために、君たちは命を投げ出せるか?」
呼応するように、兵士たちの列から轟く咆哮が湧き上がった。
「ウーラー!」