村へと続く街道には、穏やかな風が吹いていた。
頭上には雲一つない青空が広がり、道の両脇では背の低い草花が風に揺れている。
そんな、どこまでも平和な景色の中。
「――なあ、エリス」
「あ?」
「お前ってさ、なんでそんなに余裕あんの?」
唐突な質問に、エリス・フォン・フェンウィックは面倒くさそうに眉を寄せた。
「なんだよ、藪から棒に」
「いや、前から思ってたんだけどさ。お前って何があっても動じねえじゃん?」
「そうか?」
「そうだよ! 普通もうちょい悩んだり、焦ったり、こう……あるだろ!」
「んなもん、悩んでどうにかなるなら悩むわ」
「……そりゃそうなんだけどさ」
スバルは頭を掻いた。
この男と話していると、どうにも調子が狂う。
自分が必死になって考えていることを、エリスは実にあっさりと片付けてしまうのだ。
「ま、俺は運がいいからな」
「……運?」
「ああ」
エリスは当然のように頷いた。
「生まれてこの方、運が悪かったことがねえ」
「……は?」
「だから、大抵のことはなんとかなる」
「いやいやいや! それはさすがに楽観的すぎねえ!?」
「事実だから仕方ねえだろ」
鼻を鳴らすエリス。
その態度には、冗談を言っている様子など微塵もない。
「……なんだよ、それ」
スバルは苦笑した。
運が悪かったことがない。
そんな人間が、本当にいるのだろうか。
少なくとも。
自分とは、正反対だ。
何度も死んで。
何度もやり直して。
それでも、何が正解なのかわからない。
そんな自分とは。
「エリス様は、昔から不思議と物事が上手く運ぶお方ですから」
少し前を歩いていたレムが、振り返って微笑んだ。
「以前も、屋敷の近くで突然雨が降り出したことがあったのですが……」
「ああ、あったな」
「エリス様が外へ出られた頃には、ちょうど雨が止んでいたんです」
「……マジで?」
「はい。偶然だとは思いますが」
「偶然も実力のうちだろ」
「運も実力のうち、じゃねえの!?」
「似たようなもんだ」
「全然違うわ!」
スバルが突っ込むと、エリスは愉快そうに笑った。
その笑顔を見て、スバルもつられて笑う。
――運がいい、か。
強くて。
周囲から信頼されていて。
そのうえ、運までいい。
まったく。
どこまで恵まれているのだろう。
けれど。
不思議と、嫌いにはなれなかった。
◇◇◇
村が見えてきたのは、それからしばらく歩いた頃だった。
小さな家々。
畑仕事に精を出す村人たち。
そして、広場から聞こえてくる子供たちの声。
「おっ! 着いた着いた!」
スバルは大きく伸びをした。
「いやー、やっぱり村ってのはいいねえ! なんつーか、こう、のどかで!」
「スバルくんは村がお好きなんですね」
「そりゃあもう! 都会の喧騒から離れたスローライフ! 憧れますなぁ!」
「何言ってんだお前」
エリスが呆れたように呟く。
そのときだった。
「あっ!!」
広場の方から、甲高い声が響いた。
「エリス兄ちゃんだ!!」
「ほんとだ!」
「エリス兄ちゃーん!!」
次の瞬間。
子供たちが、一斉に駆け寄ってきた。
「うおっ!?」
スバルが思わず身を引く。
その横で、エリスは面倒くさそうに眉を寄せた。
「……げっ」
「エリス兄ちゃん! 遊ぼ!」
「ねえねえ! 今日は何してくれるの!?」
「また魔法見せて!」
「うるせえな、お前ら!」
エリスは大きな声を上げた。
「一度に喋んな! 耳が腐る!」
「えー!」
「けちー!」
「最悪の騎士ー!」
「誰が教えた、その呼び方!」
子供たちは、きゃっきゃと笑った。
スバルは、その光景を呆然と眺めていた。
「……お前、めちゃくちゃ人気者じゃん」
「あ? どこがだよ」
「いや、どう見ても!」
子供たちはエリスの服を引っ張り、腕にしがみつき、好き勝手に騒いでいる。
エリスは文句を言いながらも、振り払おうとはしなかった。
「ったく……おい、そこのチビ」
「なにー?」
「走るなら足元見ろ。さっきから転びかけてんぞ」
「はーい!」
「返事だけは一丁前だな」
そう言いながら、エリスは子供の頭を軽く小突いた。
その子は、嬉しそうに笑った。
「……なんつーか」
スバルは苦笑した。
「お前って、ほんと不思議な奴だよな」
「何がだよ」
「口悪いのに、なんでこんな好かれてんの?」
「知るか」
「知るかって!」
エリスは肩をすくめた。
「勝手に寄ってくんだよ、こいつら」
「……へえ」
スバルは、子供たちへ視線を向けた。
そこには、疑いのない笑顔があった。
エリスを怖がる様子など、まるでない。
むしろ。
この男が何を言おうと、絶対に自分たちを傷つけないと信じている。
そんな顔だった。
――すげえな。
また、そう思ってしまった。
けれど。
「――あ! スバル兄ちゃんもいる!」
「ほんとだ!」
「スバル兄ちゃーん!」
「うおっ!?」
今度はスバルの方へ、子供たちが駆け寄ってきた。
「今日も遊んで!」
「変な顔してー!」
「変な顔ってなんだよ! 俺の十八番はもっと高尚な芸なんですけど!?」
「やってやって!」
「しゃーねえなぁ! 特別サービスだ!」
スバルは両手を顔に当て、思い切り頬を引っ張った。
「うにょーん!」
「きゃははは!」
「変なのー!」
「ひでえ!」
子供たちの笑い声が、広場に響く。
スバルも笑った。
そうだ。
自分だって、ここでは歓迎されている。
エリスだけではない。
自分のことを覚えてくれている子供たちも、確かにいる。
ただ。
――覚えてくれてるのは、今の俺だけなんだよな。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
以前、同じように遊んだ子供たち。
交わした言葉。
向けられた笑顔。
それらの中には、もう誰の記憶にも残っていないものがある。
スバルは、その思考を振り払うように笑った。
「よーし! 今日のナツキ・スバルは一味違うぜ!」
◇◇◇
「――それでは、レムは買い出しを済ませてまいりますね」
広場の端で、レムが二人へ声をかけた。
「おう! 頼んだぜ、レムりん!」
「エリス様も、あまり無茶なことはなさらないでくださいね」
「あ? 俺が何するってんだよ」
「以前、子供たちに魔法を見せようとして、広場の地面を少し壊されたことがありましたので」
「……あれはちょっと力加減間違えただけだろ」
「そうでしたね」
レムはにっこりと微笑んだ。
「ですので、今回はお気をつけください」
「……へいへい」
珍しくエリスが素直に引き下がった。
その様子を見て、スバルは吹き出した。
「ぶはっ! お前、レムりんには弱いのな!」
「うるせえ。お前も一緒に吹っ飛ばすぞ」
「暴力反対!」
レムは小さく笑い、村の商店へと歩いていった。
その背中を見送ったスバルは、ふと表情を引き締める。
――さて。
ここからだ。
遊びに来たわけではない。
自分がここへ来たのには、理由がある。
呪い。
もし本当に、自分の死に呪術が関わっているのなら。
何か、手掛かりがあるはずだ。
誰かに触れられたのか。
何かを渡されたのか。
それとも、まったく別の方法なのか。
わからない。
何もわからないからこそ、調べなければならない。
「……おい、スバル」
「ん?」
エリスがこちらを見ていた。
「何ぼーっとしてんだよ」
「……いや、ちょっと考え事」
「ふーん」
エリスはそれ以上追及しなかった。
代わりに、子供たちへ向き直る。
「おい、お前ら!」
「なにー?」
「遊びてえんだろ? だったら、あっちの広場まで競走だ!」
「やったー!」
「エリス兄ちゃんも走って!」
「馬鹿か。俺が本気出したら勝負になんねえだろ」
「ずるーい!」
「うるせえ! ほら、行け!」
子供たちは歓声を上げながら駆け出していく。
エリスは、その後ろをゆっくり歩き始めた。
そして、スバルへ顎をしゃくる。
「ほら、お前も来いよ」
「……ああ!」
スバルは頷いた。
調査は必要だ。
けれど、焦ったところで答えが見つかるわけではない。
まずは、村の様子を見て回ろう。
そう考えながら、子供たちの後を追った。
◇◇◇
それからしばらく。
村の広場には、賑やかな声が響き続けていた。
「スバル兄ちゃん! こっち!」
「待て待て! そんな一気に引っ張んなって!」
「エリス兄ちゃん! 魔法!」
「またかよ。お前ら飽きねえな」
「見たい見たい!」
「ったく……しゃあねえな」
エリスは面倒くさそうに右手を上げた。
その指先に、小さな光が灯る。
「おおっ!」
子供たちが目を輝かせた。
光はゆっくりと宙へ浮かび上がり、いくつもの小さな粒へと分かれていく。
まるで、昼間の空に星が現れたかのようだった。
「すごーい!」
「きれーい!」
「へえ……」
スバルも思わず見入った。
エリスの魔法を見る機会は、これまでにもあった。
だが、こうして子供たちを喜ばせるために使っている姿は、どこか新鮮だった。
「……お前、こういうこともできんのな」
「あ? 俺をなんだと思ってんだよ」
「いや、もっとこう、ドカーン! バコーン! みたいなのが専門かと」
「間違っちゃいねえな」
「否定しねえのかよ!」
エリスは鼻で笑った。
「これくらい、誰でもできんだろ」
「できねえよ!」
スバルが即座に突っ込む。
そのとき。
「――あ!」
子供の一人が、何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ! スバル兄ちゃん!」
「ん?」
「わんちゃん、見せてあげる!」
「……犬?」
「うん! すっごくかわいいの!」
少女は嬉しそうに頷いた。
その足元から、別の子供が顔を出す。
「ちっちゃいんだよ!」
「黒いの!」
「おとなしいの!」
口々に説明する子供たち。
スバルは小さく首を傾げた。
「へえ。村で飼ってんの?」
「ううん! 最近いるの!」
「……最近?」
その言葉に、スバルはわずかに反応した。
最近。
それは、いつからだろう。
自分が屋敷へ来た頃か。
それとも、もっと前からか。
「どこにいんの、その犬?」
「あっち!」
少女が指差したのは、広場の外れ。
家々の陰になった、小さな路地だった。
「……ふーん」
スバルは、そちらへ視線を向けた。
何かが引っかかった。
けれど。
それが何なのかは、まだわからない。
「……おい、スバル」
背後から、エリスの声がした。
「何してんだ?」
「ああ、いや。犬がいるんだってさ」
「犬?」
「おう。ちょっと見てこようかなって」
「ふーん」
エリスは興味なさそうに頷いた。
そして、当然のように歩き出す。
「じゃ、行くぞ」
「……お前も来んの?」
「あ?」
エリスは振り返った。
「お前、俺が何しにここまで来たと思ってんだよ」
「……あ」
「ったく。何回言わせんだ」
エリスは呆れたように頭を掻いた。
「そばにいるって約束しただろうが」
「…………」
スバルは、思わず笑った。
「……そうだったな」
「忘れんなよ、馬鹿」
「へいへい!」
子供たちに手を引かれながら、二人は路地へと向かう。
その先に。
小さな黒い犬がいた。
丸い瞳。
短い足。
ふわふわとした毛並み。
子供たちが夢中になるのも、無理はない。
「……おお」
スバルは思わず声を漏らした。
「かわいいじゃねえか」
「でしょー!」
少女が嬉しそうに笑う。
犬は、こちらを見上げていた。
じっと。
まるで、何かを待っているかのように。
「……ん?」
スバルは小さく首を傾げた。
その視線が、妙に気になった。
けれど。
「ほら、スバル兄ちゃん!」
少女に背中を押され、スバルは犬の前へしゃがみ込む。
「よーしよし。怖くないぞー」
そっと手を伸ばす。
犬は、しばらくその手を見つめていた。
そして。
――かぷっ。
「いってぇ!?」
突然。
小さな牙が、スバルの手に食い込んだ。
「うおっ!? 噛みやがった!」
慌てて手を引っ込める。
犬はすぐに口を離し、何事もなかったかのように尻尾を振っていた。
「……なんだよ、こいつ!」
「えー! わんちゃん、そんなことしないのに!」
少女が驚いたように声を上げる。
「スバル兄ちゃん、嫌われた?」
「ちょっと待て! 俺、犬にまで嫌われんの!?」
子供たちが笑った。
その隣で。
「……ぷっ」
エリスが吹き出した。
「ははははっ!」
「おい! 笑うな!」
「いや、お前……犬にまで舐められてんのかよ!」
「うるせえ! ちょっと油断しただけだ!」
「ははっ! 傑作だな!」
エリスは腹を抱えて笑っている。
スバルはむっとした顔で、噛まれた手を見下ろした。
小さな傷。
血が、ほんの少しだけ滲んでいた。
「……ったく」
大した傷ではない。
少なくとも、今すぐどうこうなるようなものではなさそうだった。
けれど。
――なんだ?
妙な胸騒ぎがした。
理由はわからない。
ただ。
この小さな傷を、見過ごしてはいけないような。
そんな気がした。
「……おい、スバル」
エリスが笑いを収め、こちらへ歩いてきた。
「手、見せろ」
「……ん?」
「噛まれたんだろ」
「ああ、まあ……」
スバルが右手を差し出す。
エリスは傷を一瞥した。
「……浅いな」
「だろ? 大したことねえって」
「だからって放っとくなよ。あとでレムに洗ってもらえ」
「……お前、意外と細けえのな」
「あ?」
「いや、なんでもありません!」
エリスは鼻を鳴らした。
そして、犬へ視線を向ける。
「おい、駄犬」
「わふっ!」
「次噛んだら承知しねえぞ」
「わん!」
「……お前、犬と会話してんの?」
「うるせえ」
子供たちが、また笑った。
犬も、何事もなかったかのように尻尾を振っている。
そこには。
何の異変も見当たらなかった。
少なくとも。
その場にいた誰の目にも。
◇◇◇
それから少しして。
レムが買い出しを終え、広場へと戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「おっ! レムりん、おかえり!」
「ただいま戻りました、スバルくん」
レムは微笑み、エリスへ視線を向ける。
「エリス様も、ありがとうございました」
「あ? 何がだよ」
「子供たちのお相手をしてくださったのでしょう?」
「勝手に寄ってきただけだ」
「ふふっ。そうですね」
レムは小さく笑った。
そのとき。
「あ、そうだ。レムりん」
「はい?」
「ちょっと犬に噛まれちゃってさ」
「……犬に?」
レムの表情が、わずかに変わった。
「お怪我は?」
「いや、大したことねえよ。ほら」
スバルは右手を見せた。
レムは傷を確認すると、小さく息を吐く。
「……浅い傷ですね」
「だろ?」
「ですが、念のため洗っておきましょう」
「了解!」
レムは持っていた水筒の水で傷を洗い、清潔な布を取り出した。
手際よく処置を終えると、スバルへ微笑む。
「これで大丈夫だと思いますが、屋敷へ戻ってからも様子を見てくださいね」
「おう! ありがとな!」
スバルは笑って答えた。
けれど。
その視線は、無意識に路地の方へ向いていた。
あの犬。
小さな黒い犬。
何の変哲もない、ただの子犬。
そう見えた。
けれど。
――なんか、気になるんだよな。
スバルは、小さく眉を寄せた。
呪い。
その言葉が、頭の片隅をよぎる。
まさか。
いや。
まだ、何もわからない。
決めつけるには、あまりにも情報が足りなかった。
「――おい、スバル!」
エリスの声が響いた。
「帰るぞ!」
「あ、ああ!」
顔を上げる。
エリスは既に歩き出していた。
その隣には、レム。
そして、村の子供たちが手を振っている。
「エリス兄ちゃん! また来てねー!」
「スバル兄ちゃんもー!」
「おう! またなー!」
スバルは大きく手を振り返した。
エリスは片手をひらひらと振る。
「ったく、騒がしいガキどもだ」
そう言いながら。
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
スバルは、その横顔を見つめる。
強くて。
運がよくて。
誰からも頼られる男。
そんな男が、今は自分の隣を歩いている。
――大丈夫。
そう思いたかった。
今度こそ。
何かが変わると。
そう信じたかった。
けれど。
右手に残る小さな噛み痕だけが。
いつまでも、妙に気になっていた。
挿絵とかあった方がええかな