月光る夜   作:案院運

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怒涛


ロズワール邸9

屋敷へ戻る頃には、太陽も随分と傾いていた。

 

 長く伸びた影が石畳を覆い、夕暮れの風が庭木を静かに揺らしている。

 

「いやー、疲れた疲れた!」

 

 屋敷の玄関をくぐるなり、スバルは大きく伸びをした。

 

「村のガキども、元気すぎだろ……。俺の体力、根こそぎ持ってかれたわ」

 

「お前が貧弱なだけだろ」

 

「いやいや! あの人数相手にしてみろって! 無限に湧いてくんだぞ!?」

 

「俺は普通に相手してただろうが」

 

「そういやそうだった!」

 

 スバルは隣を歩くエリスを見た。

 

 相変わらずの余裕綽々とした態度。

 

 着崩した騎士服。

 

 肩に無造作に掛けられた上着。

 

 そして、腰元に収められた黒い鞭。

 

 村の子供たちと遊んでいたときと、何一つ変わらない。

 

「……なあ、エリス」

 

「あ?」

 

「お前って疲れることあんの?」

 

「あるに決まってんだろ」

 

「マジで?」

 

「当たり前だろ。俺をなんだと思ってんだ」

 

「いや、なんかもう人間離れしてるっつーか……」

 

「失礼な野郎だな」

 

 エリスは鼻を鳴らした。

 

 そのやり取りを聞いていたレムが、小さく微笑む。

 

「お二人とも、お疲れ様でした」

 

「おう! レムりんもお疲れ!」

 

「ありがとうございます。では、レムは買ってきたものを片付けてまいりますね」

 

「ああ、頼む」

 

 エリスが軽く手を振ると、レムは一礼して廊下の奥へと消えていった。

 

 その背中を見送ってから、スバルは何気なく右手へ視線を落とした。

 

 小さな噛み痕。

 

 布で覆われたその傷は、既に痛みもほとんどない。

 

 だが。

 

 ――やっぱ、気になるんだよな。

 

 村で噛まれたときから、妙に引っかかっている。

 

 呪い。

 

 ベアトリスから聞いたその言葉。

 

 それが、どうしても頭から離れなかった。

 

「……おい」

 

 エリスが声をかけてくる。

 

「さっきから何見てんだ?」

 

「あ? いや、ちょっとな」

 

「犬に噛まれたとこか?」

 

「……まあ」

 

「まだ痛むのか?」

 

「いや、そういうわけじゃねえんだけど」

 

 スバルは少し迷った。

 

 エリスに話すべきか。

 

 自分が何を疑っているのか。

 

 何を恐れているのか。

 

 だが、うまく説明できる気がしなかった。

 

 何しろ、自分自身ですら確信が持てていないのだから。

 

「……なあ、エリス」

 

「なんだよ」

 

「ベア子って、今どこにいると思う?」

 

「あ? ベティー?」

 

「ああ」

 

「書庫じゃねえの?」

 

「……だよな」

 

 スバルは頷いた。

 

 ならば、行くしかない。

 

 確かめなければ。

 

 この小さな傷が、何を意味するのか。

 

「ちょっとベア子に用事があんだけどさ」

 

「ふーん」

 

 エリスはそれだけ言った。

 

 そして。

 

「じゃ、行くぞ」

 

「……へ?」

 

「何ぼさっとしてんだ。ベティーんとこ行くんだろ?」

 

「いや、お前も来んの?」

 

「あ?」

 

 エリスは眉を寄せた。

 

「そばにいるっつっただろ」

 

「…………」

 

「お前、何回言わせんだよ」

 

 スバルは、思わず笑った。

 

「……いや、ありがとな」

 

「気色悪いこと言ってんじゃねえ」

 

「ひっでえ!」

 

 いつものようなやり取り。

 

 だが。

 

 その何気ない言葉が、今のスバルには少しだけありがたかった。

 

     ◇◇◇

 

「――ベティー!」

 

 エリスが廊下の扉を開け放った。

 

「いるかー?」

 

 その先に広がっていたのは、見慣れた光景だった。

 

 本。

 

 本。

 

 本。

 

 壁一面を埋め尽くす書棚。

 

 どこまでも続いているように錯覚するほどの蔵書。

 

 禁書庫。

 

 そして、その中央。

 

「……まったく」

 

 小さな少女が、椅子に腰掛けていた。

 

 金色の縦ロール。

 

 豪奢なドレス。

 

 不機嫌そうに寄せられた眉。

 

「エリス。お前はもう少し静かに入ってこられないのかしら」

 

「別にいいだろ。どうせ暇してんだから」

 

「暇などしていないのよ!」

 

「へいへい」

 

 エリスは適当に返事をしながら、少女の隣へ歩いていく。

 

 そして、当然のように椅子へ腰を下ろした。

 

「お茶くれ」

 

「……まったく、図々しい男なのよ」

 

 ベアトリスは文句を言いながらも、立ち上がった。

 

 棚からティーカップを取り出し、手際よく茶を淹れ始める。

 

 その様子を見て、スバルは目を丸くした。

 

「……おいおい」

 

「あ?」

 

「ベア子、お前には普通にお茶淹れんのな」

 

「何か文句でもあるのかしら」

 

「いや、俺が頼んだときはあんなに嫌そうだったのに……」

 

「お前とエリスを一緒にするんじゃないのよ」

 

「差別!!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 エリスは愉快そうに笑った。

 

「ははっ! 嫌われてんな、お前!」

 

「お前が特別扱いされすぎなんだよ!」

 

「知らねえよ」

 

 エリスは肩をすくめた。

 

 やがて、ベアトリスが茶を差し出す。

 

「ほら、エリス」

 

「おう、ありがとな。ベティー」

 

「……ふん」

 

 ベアトリスは顔を背けた。

 

 だが、その頬がほんのり赤くなっているのを、スバルは見逃さなかった。

 

 ――なんだよ、この空間。

 

 自分が必死になって禁書庫を探し回っている間に。

 

 エリスは当然のように扉を開け、当然のように歓迎される。

 

 しかも。

 

 あのベアトリスが、自分からお茶を淹れている。

 

 ――ずりぃなぁ。

 

 スバルは小さく苦笑した。

 

 別に、エリスが悪いわけではない。

 

 ベアトリスが悪いわけでもない。

 

 ただ。

 

 自分にはないものを、あまりにも自然に持っている。

 

 それが、少しだけ羨ましかった。

 

「……で?」

 

 ベアトリスがスバルへ視線を向けた。

 

「お前は何の用かしら」

 

「あ、ああ!」

 

 スバルは我に返った。

 

 そうだ。

 

 ここへ来た目的を忘れてはいけない。

 

「実はさ、ちょっと見てほしいもんがあって」

 

「……何かしら」

 

 スバルは右手の布を解いた。

 

 そこには、小さな噛み痕が残っている。

 

「村で犬に噛まれたんだよ」

 

「……犬?」

 

「ああ。ちっこい黒い犬」

 

 ベアトリスの眉が、わずかに動いた。

 

「それで?」

 

「いや、その……」

 

 スバルは言葉を探した。

 

 どう説明すればいいのだろう。

 

 自分の死について。

 

 その原因について。

 

 何もかもを話すことはできない。

 

 けれど。

 

 何かを確かめなければならない。

 

「……前にさ」

 

 スバルは慎重に口を開いた。

 

「呪いについて、ちょっと聞いただろ?」

 

「……覚えているかしら」

 

「それで、なんつーか……」

 

 スバルは右手を差し出した。

 

「これ、変なもん付いてたりしねえかなって」

 

 沈黙。

 

 ベアトリスは、しばらくスバルを見つめていた。

 

 やがて。

 

「……手を出すのよ」

 

「お、おう」

 

 スバルが右手を差し出す。

 

 ベアトリスは、その手を取った。

 

 小さな指が、噛み痕へ触れる。

 

 そして。

 

「――――」

 

 ベアトリスの表情が、変わった。

 

「……ベティー?」

 

 エリスが声をかける。

 

 だが、ベアトリスは答えなかった。

 

 その瞳は、スバルの手に釘付けになっている。

 

「……おい」

 

 スバルの喉が鳴った。

 

「……なんか、あんのか?」

 

 ベアトリスは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……あるのよ」

 

「…………」

 

「お前、呪われているかしら」

 

 その言葉が。

 

 静かな禁書庫に、落ちた。

 

     ◇◇◇

 

「…………は?」

 

 スバルは、間の抜けた声を漏らした。

 

「……呪い?」

 

「そう言ったのよ」

 

 ベアトリスは険しい表情のまま、スバルの手を見つめている。

 

「かなり厄介な術式が刻まれているかしら」

 

「……マジ、かよ」

 

 スバルは息を呑んだ。

 

 呪い。

 

 本当に。

 

 本当に、あったのか。

 

 自分が疑っていたものが。

 

 恐れていたものが。

 

 今、目の前で形になっている。

 

「……おい、ベティー」

 

 エリスが口を開いた。

 

「どういうこった」

 

「そのままの意味なのよ」

 

「誰がやった?」

 

「……わからないかしら」

 

 ベアトリスは首を振った。

 

「ただ、術式が刻まれたのは比較的最近なのよ」

 

「……村か」

 

 エリスが呟いた。

 

 その声から、先ほどまでの軽薄さが消えていた。

 

「犬に噛まれたって言ってたな」

 

「あ、ああ……」

 

「その犬が怪しいってことか?」

 

「断定はできないかしら」

 

 ベアトリスが答える。

 

「けれど、噛まれた場所に術式の痕跡がある以上、無関係とは考えにくいのよ」

 

「……なるほどな」

 

 エリスは頷いた。

 

 それだけだった。

 

 自分が気づけなかったことを悔やむでもなく。

 

 ベアトリスの判断を疑うでもなく。

 

 ただ、状況を理解しようとしている。

 

「……で、ベティー」

 

「何かしら」

 

「解けんのか?」

 

「……ベティーを誰だと思っているのよ」

 

 ベアトリスは、ふんと鼻を鳴らした。

 

「この程度、ベティーにかかれば造作もないかしら」

 

「だよな」

 

 エリスは笑った。

 

「頼むわ」

 

「……まったく」

 

 ベアトリスは呆れたように呟く。

 

 けれど。

 

 その表情は、どこか嬉しそうだった。

 

「仕方ないのよ」

 

 小さな手が、スバルの傷へかざされる。

 

 淡い光が灯った。

 

 スバルは、息を止める。

 

 何かが。

 

 身体の奥底から、引き剥がされるような感覚。

 

「……っ!」

 

 思わず顔をしかめる。

 

 だが、それも一瞬だった。

 

 光が消える。

 

 ベアトリスは、小さく息を吐いた。

 

「……終わったかしら」

 

「……え?」

 

「呪いは解いたのよ」

 

「…………」

 

 スバルは、自分の手を見下ろした。

 

 噛み痕は残っている。

 

 けれど。

 

 何かが、確かに変わった気がした。

 

「……助かった、のか?」

 

「当然なのよ」

 

 ベアトリスは胸を張った。

 

「ベティーに感謝することね」

 

「……ああ」

 

 スバルは、ゆっくりと頷いた。

 

「……ありがとな、ベア子」

 

「……ふん」

 

 ベアトリスは顔を背ける。

 

 その横で、エリスが立ち上がった。

 

「よし」

 

「……エリス?」

 

「とりあえず、一件落着だな」

 

 そう言って、スバルの肩を軽く叩く。

 

「運がよかったな、お前」

 

「…………」

 

 スバルは、エリスを見上げた。

 

 運がよかった。

 

 確かに、そうなのだろう。

 

 もし村で噛まれたことを気にしなければ。

 

 もしベアトリスに見せなければ。

 

 もし。

 

 もし。

 

 また、自分は死んでいたのかもしれない。

 

 ――運がよかった、か。

 

 スバルは小さく笑った。

 

 そんな言葉を、こんなにも素直に口にできるエリスが。

 

 少しだけ。

 

 羨ましかった。

 

 けれど。

 

 今は、それよりも。

 

 生きている。

 

 その事実が、何よりもありがたかった。

 

 スバルは、大きく息を吐いた。

 

 ――今度こそ。

 

 今度こそ、何かを変えられるかもしれない。

 

 そう思った。

 

 そのときだった。

 

「……待つのよ」

 

 ベアトリスが、不意に口を開いた。

 

「……ん?」

 

 スバルが顔を上げる。

 

 ベアトリスは、険しい表情をしていた。

 

「……どうした、ベティー」

 

 エリスが問いかける。

 

 ベアトリスは、ゆっくりと口を開いた。

 

「……その犬」

 

「…………」

 

「もし本当に、呪術を仕掛けるための存在だったのなら」

 

 沈黙。

 

 そして。

 

「――お前以外にも、呪われた者がいる可能性があるのよ」

 

 その言葉に。

 

 スバルの背筋が、凍りついた。

 

 




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