屋敷へ戻る頃には、太陽も随分と傾いていた。
長く伸びた影が石畳を覆い、夕暮れの風が庭木を静かに揺らしている。
「いやー、疲れた疲れた!」
屋敷の玄関をくぐるなり、スバルは大きく伸びをした。
「村のガキども、元気すぎだろ……。俺の体力、根こそぎ持ってかれたわ」
「お前が貧弱なだけだろ」
「いやいや! あの人数相手にしてみろって! 無限に湧いてくんだぞ!?」
「俺は普通に相手してただろうが」
「そういやそうだった!」
スバルは隣を歩くエリスを見た。
相変わらずの余裕綽々とした態度。
着崩した騎士服。
肩に無造作に掛けられた上着。
そして、腰元に収められた黒い鞭。
村の子供たちと遊んでいたときと、何一つ変わらない。
「……なあ、エリス」
「あ?」
「お前って疲れることあんの?」
「あるに決まってんだろ」
「マジで?」
「当たり前だろ。俺をなんだと思ってんだ」
「いや、なんかもう人間離れしてるっつーか……」
「失礼な野郎だな」
エリスは鼻を鳴らした。
そのやり取りを聞いていたレムが、小さく微笑む。
「お二人とも、お疲れ様でした」
「おう! レムりんもお疲れ!」
「ありがとうございます。では、レムは買ってきたものを片付けてまいりますね」
「ああ、頼む」
エリスが軽く手を振ると、レムは一礼して廊下の奥へと消えていった。
その背中を見送ってから、スバルは何気なく右手へ視線を落とした。
小さな噛み痕。
布で覆われたその傷は、既に痛みもほとんどない。
だが。
――やっぱ、気になるんだよな。
村で噛まれたときから、妙に引っかかっている。
呪い。
ベアトリスから聞いたその言葉。
それが、どうしても頭から離れなかった。
「……おい」
エリスが声をかけてくる。
「さっきから何見てんだ?」
「あ? いや、ちょっとな」
「犬に噛まれたとこか?」
「……まあ」
「まだ痛むのか?」
「いや、そういうわけじゃねえんだけど」
スバルは少し迷った。
エリスに話すべきか。
自分が何を疑っているのか。
何を恐れているのか。
だが、うまく説明できる気がしなかった。
何しろ、自分自身ですら確信が持てていないのだから。
「……なあ、エリス」
「なんだよ」
「ベア子って、今どこにいると思う?」
「あ? ベティー?」
「ああ」
「書庫じゃねえの?」
「……だよな」
スバルは頷いた。
ならば、行くしかない。
確かめなければ。
この小さな傷が、何を意味するのか。
「ちょっとベア子に用事があんだけどさ」
「ふーん」
エリスはそれだけ言った。
そして。
「じゃ、行くぞ」
「……へ?」
「何ぼさっとしてんだ。ベティーんとこ行くんだろ?」
「いや、お前も来んの?」
「あ?」
エリスは眉を寄せた。
「そばにいるっつっただろ」
「…………」
「お前、何回言わせんだよ」
スバルは、思わず笑った。
「……いや、ありがとな」
「気色悪いこと言ってんじゃねえ」
「ひっでえ!」
いつものようなやり取り。
だが。
その何気ない言葉が、今のスバルには少しだけありがたかった。
◇◇◇
「――ベティー!」
エリスが廊下の扉を開け放った。
「いるかー?」
その先に広がっていたのは、見慣れた光景だった。
本。
本。
本。
壁一面を埋め尽くす書棚。
どこまでも続いているように錯覚するほどの蔵書。
禁書庫。
そして、その中央。
「……まったく」
小さな少女が、椅子に腰掛けていた。
金色の縦ロール。
豪奢なドレス。
不機嫌そうに寄せられた眉。
「エリス。お前はもう少し静かに入ってこられないのかしら」
「別にいいだろ。どうせ暇してんだから」
「暇などしていないのよ!」
「へいへい」
エリスは適当に返事をしながら、少女の隣へ歩いていく。
そして、当然のように椅子へ腰を下ろした。
「お茶くれ」
「……まったく、図々しい男なのよ」
ベアトリスは文句を言いながらも、立ち上がった。
棚からティーカップを取り出し、手際よく茶を淹れ始める。
その様子を見て、スバルは目を丸くした。
「……おいおい」
「あ?」
「ベア子、お前には普通にお茶淹れんのな」
「何か文句でもあるのかしら」
「いや、俺が頼んだときはあんなに嫌そうだったのに……」
「お前とエリスを一緒にするんじゃないのよ」
「差別!!」
スバルが叫ぶ。
エリスは愉快そうに笑った。
「ははっ! 嫌われてんな、お前!」
「お前が特別扱いされすぎなんだよ!」
「知らねえよ」
エリスは肩をすくめた。
やがて、ベアトリスが茶を差し出す。
「ほら、エリス」
「おう、ありがとな。ベティー」
「……ふん」
ベアトリスは顔を背けた。
だが、その頬がほんのり赤くなっているのを、スバルは見逃さなかった。
――なんだよ、この空間。
自分が必死になって禁書庫を探し回っている間に。
エリスは当然のように扉を開け、当然のように歓迎される。
しかも。
あのベアトリスが、自分からお茶を淹れている。
――ずりぃなぁ。
スバルは小さく苦笑した。
別に、エリスが悪いわけではない。
ベアトリスが悪いわけでもない。
ただ。
自分にはないものを、あまりにも自然に持っている。
それが、少しだけ羨ましかった。
「……で?」
ベアトリスがスバルへ視線を向けた。
「お前は何の用かしら」
「あ、ああ!」
スバルは我に返った。
そうだ。
ここへ来た目的を忘れてはいけない。
「実はさ、ちょっと見てほしいもんがあって」
「……何かしら」
スバルは右手の布を解いた。
そこには、小さな噛み痕が残っている。
「村で犬に噛まれたんだよ」
「……犬?」
「ああ。ちっこい黒い犬」
ベアトリスの眉が、わずかに動いた。
「それで?」
「いや、その……」
スバルは言葉を探した。
どう説明すればいいのだろう。
自分の死について。
その原因について。
何もかもを話すことはできない。
けれど。
何かを確かめなければならない。
「……前にさ」
スバルは慎重に口を開いた。
「呪いについて、ちょっと聞いただろ?」
「……覚えているかしら」
「それで、なんつーか……」
スバルは右手を差し出した。
「これ、変なもん付いてたりしねえかなって」
沈黙。
ベアトリスは、しばらくスバルを見つめていた。
やがて。
「……手を出すのよ」
「お、おう」
スバルが右手を差し出す。
ベアトリスは、その手を取った。
小さな指が、噛み痕へ触れる。
そして。
「――――」
ベアトリスの表情が、変わった。
「……ベティー?」
エリスが声をかける。
だが、ベアトリスは答えなかった。
その瞳は、スバルの手に釘付けになっている。
「……おい」
スバルの喉が鳴った。
「……なんか、あんのか?」
ベアトリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……あるのよ」
「…………」
「お前、呪われているかしら」
その言葉が。
静かな禁書庫に、落ちた。
◇◇◇
「…………は?」
スバルは、間の抜けた声を漏らした。
「……呪い?」
「そう言ったのよ」
ベアトリスは険しい表情のまま、スバルの手を見つめている。
「かなり厄介な術式が刻まれているかしら」
「……マジ、かよ」
スバルは息を呑んだ。
呪い。
本当に。
本当に、あったのか。
自分が疑っていたものが。
恐れていたものが。
今、目の前で形になっている。
「……おい、ベティー」
エリスが口を開いた。
「どういうこった」
「そのままの意味なのよ」
「誰がやった?」
「……わからないかしら」
ベアトリスは首を振った。
「ただ、術式が刻まれたのは比較的最近なのよ」
「……村か」
エリスが呟いた。
その声から、先ほどまでの軽薄さが消えていた。
「犬に噛まれたって言ってたな」
「あ、ああ……」
「その犬が怪しいってことか?」
「断定はできないかしら」
ベアトリスが答える。
「けれど、噛まれた場所に術式の痕跡がある以上、無関係とは考えにくいのよ」
「……なるほどな」
エリスは頷いた。
それだけだった。
自分が気づけなかったことを悔やむでもなく。
ベアトリスの判断を疑うでもなく。
ただ、状況を理解しようとしている。
「……で、ベティー」
「何かしら」
「解けんのか?」
「……ベティーを誰だと思っているのよ」
ベアトリスは、ふんと鼻を鳴らした。
「この程度、ベティーにかかれば造作もないかしら」
「だよな」
エリスは笑った。
「頼むわ」
「……まったく」
ベアトリスは呆れたように呟く。
けれど。
その表情は、どこか嬉しそうだった。
「仕方ないのよ」
小さな手が、スバルの傷へかざされる。
淡い光が灯った。
スバルは、息を止める。
何かが。
身体の奥底から、引き剥がされるような感覚。
「……っ!」
思わず顔をしかめる。
だが、それも一瞬だった。
光が消える。
ベアトリスは、小さく息を吐いた。
「……終わったかしら」
「……え?」
「呪いは解いたのよ」
「…………」
スバルは、自分の手を見下ろした。
噛み痕は残っている。
けれど。
何かが、確かに変わった気がした。
「……助かった、のか?」
「当然なのよ」
ベアトリスは胸を張った。
「ベティーに感謝することね」
「……ああ」
スバルは、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとな、ベア子」
「……ふん」
ベアトリスは顔を背ける。
その横で、エリスが立ち上がった。
「よし」
「……エリス?」
「とりあえず、一件落着だな」
そう言って、スバルの肩を軽く叩く。
「運がよかったな、お前」
「…………」
スバルは、エリスを見上げた。
運がよかった。
確かに、そうなのだろう。
もし村で噛まれたことを気にしなければ。
もしベアトリスに見せなければ。
もし。
もし。
また、自分は死んでいたのかもしれない。
――運がよかった、か。
スバルは小さく笑った。
そんな言葉を、こんなにも素直に口にできるエリスが。
少しだけ。
羨ましかった。
けれど。
今は、それよりも。
生きている。
その事実が、何よりもありがたかった。
スバルは、大きく息を吐いた。
――今度こそ。
今度こそ、何かを変えられるかもしれない。
そう思った。
そのときだった。
「……待つのよ」
ベアトリスが、不意に口を開いた。
「……ん?」
スバルが顔を上げる。
ベアトリスは、険しい表情をしていた。
「……どうした、ベティー」
エリスが問いかける。
ベアトリスは、ゆっくりと口を開いた。
「……その犬」
「…………」
「もし本当に、呪術を仕掛けるための存在だったのなら」
沈黙。
そして。
「――お前以外にも、呪われた者がいる可能性があるのよ」
その言葉に。
スバルの背筋が、凍りついた。
また書きます