月光る夜   作:案院運

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王選8

SIDE エリス

 

「――まったく! あの人間は何を考えているのかしら!」

 

 王城の廊下に、甲高い声が響き渡った。

 

 声の主は、俺の腕の中に収まっている小さな少女。

 

 ベアトリス。

 

 俺の契約精霊であり、現在進行形で絶賛ご立腹中の少女である。

 

「しかも! エリスのことを何だと思っているのかしら! あれだけ世話になっておきながら、あんな口を利くなんて信じられないのよ!」

 

「はいはい。そうだな」

 

「ちゃんと聞いているのかしら!?」

 

「聞いてる聞いてる」

 

「絶対に聞いていないのよ!」

 

 ……やれやれ。

 

 俺は小さくため息を吐いた。

 

 王選会議が終わってからというもの、ベティーはずっとこの調子だった。

 

 原因はもちろん、ナツキ・スバル。

 

 あの馬鹿野郎である。

 

 どうやら、あいつが会議中に俺へ食ってかかったことが、よほど気に入らなかったらしい。

 

「だいたい、騎士を名乗るなら相応の振る舞いをするべきなのよ! エリスがわざわざ忠告してやったというのに、逆恨みもいいところかしら!」

 

「まあ、そう怒んなって」

 

「怒るに決まっているのよ!」

 

 ベティーがぷくりと頬を膨らませる。

 

 俺は思わず笑った。

 

「……何がおかしいのかしら」

 

「いや、別に」

 

「笑っているのよ!」

 

「悪い悪い」

 

 俺は空いている手で、ベティーの頭を軽く撫でた。

 

 柔らかな金髪が指の間を滑る。

 

「俺のために怒ってくれてんだろ? ありがとな」

 

「…………っ!」

 

 途端に、ベティーの顔が赤く染まった。

 

「べ、別に! お前のために怒っているわけじゃないのよ!」

 

「そうか?」

 

「そうなのよ!」

 

「じゃあ何で怒ってんだ?」

 

「そ、それは……!」

 

 ベティーは言葉に詰まった。

 

 そして、俺の胸元へ顔を埋める。

 

「……エリスの馬鹿」

 

「なんでだよ」

 

 理不尽である。

 

 俺は肩を竦めた。

 

 だが、ベティーはしばらくして、再び顔を上げた。

 

「……でも、エリス」

 

「あ?」

 

「本当に、腹が立たないのかしら?」

 

 先ほどまでとは違う、静かな声だった。

 

 俺は少しだけ考えた。

 

「……別に、怒るほどじゃねえよ」

 

「…………」

 

「スバルだって、リアを守りたかったんだろ。やり方は間違ってたけどな」

 

「……だからって、エリスにあんなことを言っていい理由にはならないのよ」

 

「ああ。そりゃそうだ」

 

 俺は頷いた。

 

「だから、ちゃんと言っただろ? お前のそれは本当に騎士としての行動か、ってな」

 

「……そうだけど」

 

「それで十分だ。あいつがどう受け取るかは、あいつ次第だろ」

 

 ベティーは不満そうに唇を尖らせた。

 

「……エリスは甘いのよ」

 

「味方にはな」

 

 俺は口元を歪めた。

 

「敵なら話は別だが、スバルは俺の友達だろ?」

 

「…………」

 

「友達が一回馬鹿やったぐらいで、いちいち見捨ててられっかよ」

 

 ベティーは黙り込んだ。

 

 そして、小さく呟く。

 

「……そういうところが、ずるいのよ」

 

「あ?」

 

「何でもないかしら!」

 

 ……なんなんだ、まったく。

 

 俺は苦笑しながら、ベティーを抱え直した。

 

 その時だった。

 

「――エリー!」

 

 廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。

 

 振り向けば、銀髪の少女がこちらへ駆け寄ってくる。

 

「おう、リア」

 

「よかった、ここにいたんだ」

 

 エミリアは俺の前で足を止め、ほっと息を吐いた。

 

 だが、その表情はすぐに曇る。

 

「……エリー。ちょっと、話してもいい?」

 

 俺はベティーへ視線を落とした。

 

 少女はまだ少し不満そうだったが、エミリアの様子を見て、静かに口を閉じている。

 

「……ああ。スバルのことか?」

 

「……うん」

 

 エミリアは小さく頷いた。

 

「私、どうしたらよかったのかな……」

 

 俺はしばし、その顔を見つめた。

 

 そして、軽く肩を竦める。

 

「……さあな。俺にもわかんねえよ」

 

「……エリーでも?」

 

「ああ」

 

 俺はベティーを片腕で抱え直し、空いた手をエミリアの頭へ伸ばした。

 

「けどまあ、一つだけ言えることはある」

 

「……なあに?」

 

「お前は間違ったこと言ってねえよ」

 

 エミリアの瞳が揺れる。

 

「……でも、スバルは私のために……」

 

「だからって、お前が全部受け入れる必要はねえだろ」

 

 俺は静かに続けた。

 

「お前は王様になりたいんだろ?」

 

「……うん」

 

「だったら、他人の顔色ばっか窺ってんじゃねえ。自分の意思ぐらい、堂々と通せ」

 

 エミリアは目を見開いた。

 

 そして、ゆっくりと頷く。

 

「……うん。ありがとう、エリー」

 

「おう」

 

 俺は満足げに笑った。

 

 すると。

 

「……まったく」

 

 腕の中から、小さな声が聞こえた。

 

「エリスは、誰にでも甘すぎるのよ」

 

「なんだよ、ベティー。妬いてんのか?」

 

「なっ……!?」

 

 ベティーの顔が真っ赤になった。

 

「ち、違うかしら!!」

 

「ははは!」

 

「笑うななのよ!!」

 

 その様子を見て、エミリアも小さく笑った。

 

 先ほどまで曇っていた表情が、ほんの少しだけ明るくなる。

 

 ……まったく。

 

 世話の焼ける奴らだ。

 

 俺は二人を見比べ、肩を竦めた。

 

 だが、エミリアの笑みは長くは続かなかった。

 

「……エリー」

 

「ん?」

 

「スバル、すごく無理してるように見えたの」

 

「ああ」

 

「だから、ちゃんと休んでほしかった。私のことを心配してくれるのは嬉しいけど……私の言うことも、聞いてほしかったの」

 

「なら、それを言ってやれ」

 

「……うん」

 

「お前が何考えてるかなんて、口にしなきゃ伝わんねえだろ。俺だってそうだ」

 

 エミリアは少し驚いた顔をした。

 

「エリーでも?」

 

「当たり前だ。俺を何だと思ってんだ」

 

「……何でもできる人?」

 

「はっ。そりゃ買い被りすぎだ」

 

 俺が笑うと、エミリアもようやく少し笑った。

 

 腕の中のベティーだけが、なぜか不満そうに俺を見上げている。

 

「……ベティーは、エリスなら大抵のことは何とかすると思っているのよ」

 

「お前まで何言ってんだ」

 

「事実なのよ」

 

「へいへい」

 

 俺はベティーの頭を撫で、歩き出した。

 

 エミリアも隣に並ぶ。

 

 王城の窓から差し込む陽光が、三人の影を長く伸ばしていた。

 

     ◇◇◇

 

「――相変わらず、君は随分と賑やかだね」

 

 廊下の角を曲がったところで、聞き慣れた声がした。

 

 紫色の髪。

 

 整った顔立ち。

 

 隙のない立ち姿。

 

 ユリウス・ユークリウス。

 

 王国近衛騎士団に所属する、俺の友人の一人だ。

 

「なんだユリウス。盗み聞きか?」

 

「君たちの声が大きいだけだよ。特にエリス、君の声がね」

 

「はっ。耳のいい奴だな」

 

「君がもう少し静かに歩いてくれれば、僕も助かるんだけど」

 

「無理だな」

 

「だろうね」

 

 ユリウスは呆れたように笑った。

 

 こいつは相変わらず、何もかもが騎士の模範だ。

 

 剣の腕。

 

 礼儀作法。

 

 立ち居振る舞い。

 

 そして、その馬鹿みたいに真面目な性格。

 

 俺とは正反対の男である。

 

 もっとも、だからといって仲が悪いわけじゃない。

 

 むしろ、妙に馬が合う。

 

「……それで? 何の用だ」

 

 俺が尋ねると、ユリウスの表情が少しだけ引き締まった。

 

「ナツキ・スバルの件だ」

 

「……ああ」

 

 俺は鼻を鳴らした。

 

「まだ根に持ってんのか?」

 

「根に持っているわけじゃない。ただ、看過できないこともある」

 

「騎士の誇りってやつか?」

 

「そういうことだね」

 

 ユリウスは静かに頷いた。

 

 俺は小さくため息を吐く。

 

「……で、何する気だ?」

 

「彼に決闘を申し込もうと思っている」

 

「…………」

 

 しばしの沈黙。

 

 俺はユリウスの顔を見つめた。

 

 そして。

 

「……お前、頭でも打ったか?」

 

「君に心配されるほどではないよ」

 

「いや、心配にもなるだろ。お前とあいつじゃ勝負にならねえぞ」

 

「理解している」

 

「だったら何でやんだよ」

 

 俺が眉を寄せると、ユリウスは少しだけ目を伏せた。

 

「……彼は、あの場で騎士を名乗った」

 

「ああ」

 

「それも、エミリア様の意思を無視してね」

 

「……そうだな」

 

「彼の発言を不快に思った者は少なくない。中には、相当腹を立てている者もいる」

 

 なるほど。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 こいつが何を考えているのか、ようやく理解できた。

 

「……お前が先に叩きのめして、ほかの連中に手を出させねえってわけか」

 

「さて。どうだろうね」

 

「白々しいんだよ」

 

 俺は鼻で笑った。

 

 ユリウスもまた、小さく笑う。

 

「君は本当に、こういう時だけ察しがいいね」

 

「こういう時だけは余計だ」

 

「失礼。普段からもう少し察しがよければ、と思ってね」

 

「喧嘩売ってんのか?」

 

「まさか。君に喧嘩を売るほど、僕は命知らずじゃないよ」

 

「はっ。よく言うぜ」

 

 俺は肩を竦めた。

 

 だが、すぐに真顔へ戻る。

 

「……ユリウス」

 

「なんだい?」

 

「やりすぎんなよ」

 

「わかっている」

 

「それと、あいつが断ったら終わりだ。無理やり引っ張り出すな」

 

「もちろんだ」

 

 俺はしばしユリウスを見つめた。

 

 こいつは嘘をつくような男じゃない。

 

 少なくとも、こういう約束を破ることはない。

 

「……なら、好きにしろ」

 

「ありがとう、エリス」

 

「礼なんざいらねえよ」

 

 俺は歩き出そうとした。

 

 だが、その前に。

 

「……待つかしら」

 

 腕の中から、小さな声が響いた。

 

 ベティーだった。

 

「エリス。どうして止めないのよ」

 

「……ベティー?」

 

「勝負になるわけがないのよ。あの人間が、そこの騎士に勝てるはずがないかしら」

 

 ユリウスが僅かに苦笑した。

 

「手厳しいね、ベアトリス」

 

「事実なのよ」

 

 ベティーはきっぱりと言い切った。

 

 俺はその頭を軽く撫でる。

 

「……あいつが受けるかどうかは、あいつ次第だ」

 

「…………」

 

「ユリウスも、考えなしにやるわけじゃねえだろ」

 

「……そうかしら」

 

 ベティーは不満そうだった。

 

 だが、それ以上は何も言わなかった。

 

 ユリウスはそんな俺たちを見て、小さく笑う。

 

「……君たちは本当に仲がいいね」

 

「まあな」

 

「べ、別にそういうわけじゃないのよ!」

 

「はは。そういうことにしておこう」

 

「……お前まで笑うなかしら!」

 

 ベティーが頬を膨らませる。

 

 俺とユリウスは顔を見合わせ、思わず笑った。

 

     ◇◇◇

 

 王城の訓練場。

 

 そこには、既に大勢の騎士たちが集まっていた。

 

 中央には二人の男。

 

 ユリウス・ユークリウス。

 

 そして、ナツキ・スバル。

 

「……ったく」

 

 俺は人混みを抜け、訓練場の端へと向かった。

 

 ベティーは相変わらず俺の腕の中にいる。

 

 その表情は、先ほどまでとは違い、どこか険しかった。

 

「……エリス」

 

「あ?」

 

「本当に、見ているだけなのかしら」

 

「……ああ」

 

「…………」

 

「必要になりゃ止めるさ」

 

 そう答えた、その時だった。

 

「――エリス!」

 

 聞き慣れた声が響いた。

 

 振り向けば、赤髪の騎士がこちらへ歩いてくる。

 

 ラインハルト・ヴァン・アストレア。

 

 剣聖。

 

 そして、俺の友人にして最大の好敵手だ。

 

「よう、ラインハルト」

 

「来ていたんだね」

 

「まあな。友達がボコボコにされるって聞いて、見に来ねえわけにもいかねえだろ」

 

 俺が肩を竦めると、ラインハルトは困ったように微笑んだ。

 

「……君なら、止められると思ったんだけど」

 

「お前だって止められるだろ」

 

「それは……そうかもしれないね」

 

「だったら止めりゃいいじゃねえか」

 

 ラインハルトは小さく苦笑した。

 

「……ユリウスにも考えがあるんだろう」

 

「お前もそう思うか?」

 

「ああ」

 

 俺は鼻を鳴らした。

 

 まったく、どいつもこいつも面倒臭え。

 

「……それより、エリス」

 

「あ?」

 

「この前の勝負、覚えているかい?」

 

「……お前な」

 

 俺は思わず顔を顰めた。

 

 ラインハルトは楽しそうに笑っている。

 

「僕の勝ちだったね」

 

「うるせえ。あれは時間切れみてえなもんだろ」

 

「でも、勝ちは勝ちだよ」

 

「……お前、最近調子乗ってねえか?」

 

「はは。君ほどじゃないさ」

 

 俺は舌打ちした。

 

 この野郎。

 

 最近、妙に勝ち越しやがって。

 

 実力はほとんど変わらない。

 

 ただ、戦いが長引くほど、こいつが有利になる。

 

 何でもできる万能型。

 

 それがラインハルトだ。

 

 対して俺は、近接戦闘に特化している。

 

 短期決戦なら、俺の方が分がある。

 

 だが、長期戦となると話は別だ。

 

 こいつの底なしの持久力には、さすがの俺も付き合いきれない。

 

「……次は最初から全力で来いよ」

 

「もちろん。そのつもりだよ」

 

「はっ。今度こそぶっ飛ばしてやる」

 

「楽しみにしているよ、エリス」

 

 ラインハルトは笑った。

 

 俺もまた、口元を歪める。

 

 ……やっぱり、こいつとの勝負は面白い。

 

 何度戦っても、飽きることがない。

 

 だが。

 

 今は、それどころではなかった。

 

「……始まるみたいだね」

 

 ラインハルトの言葉に、俺は訓練場へ視線を向けた。

 

     ◇◇◇

 

 決闘が始まった。

 

 そして。

 

 ――一瞬で、勝負は決まった。

 

「ぐっ……!」

 

 鈍い音。

 

 スバルの体が地面へと転がる。

 

 ユリウスの木剣が、容赦なく少年の隙を突いていた。

 

 肩。

 

 腕。

 

 脇腹。

 

 足。

 

 致命傷こそ避けているものの、その一撃一撃は確実にスバルの体力を削っていく。

 

「……くそっ!」

 

 スバルが立ち上がる。

 

 木剣を振るう。

 

 だが、届かない。

 

 ユリウスは最小限の動きでそれを躱し、反撃する。

 

 再び、スバルが倒れた。

 

「……もう十分だろ」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 隣でラインハルトが頷く。

 

「……ああ」

 

 勝敗など、とうの昔に決している。

 

 だが。

 

「まだだ……!」

 

 スバルが立ち上がる。

 

「まだ……終わってねえ……!」

 

 ……馬鹿野郎。

 

 俺は奥歯を噛み締めた。

 

 何がそこまでお前を駆り立てるんだ。

 

 負けたっていいだろ。

 

 弱くたっていいだろ。

 

 今のお前がユリウスに勝てないなんて、当たり前の話じゃねえか。

 

 なのに。

 

 どうして、そこまで必死になる。

 

「……エリス」

 

 ラインハルトがこちらを見る。

 

 俺は小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

 もう、十分だ。

 

 俺はベティーをそっと地面へ下ろした。

 

「……ちょっと行ってくる」

 

「……エリス」

 

 ベティーが俺の外套を掴む。

 

 その小さな手を、俺は軽く握った。

 

「心配すんな」

 

 そう言って、訓練場へと足を踏み入れた。

 

「――そこまでだ」

 

 声を張り上げる。

 

 ユリウスの動きが止まった。

 

 スバルもまた、荒い息を吐きながらこちらを見る。

 

「……エリス」

 

「終わりだ。これ以上やる意味はねえ」

 

 俺は二人の間へと歩み寄った。

 

 ユリウスが静かに木剣を下ろす。

 

「……そうだね。これ以上は無意味だろう」

 

「お前も、もう十分だろ」

 

「……ああ」

 

 ユリウスは僅かに目を伏せた。

 

 その表情には、何とも言えない苦さが滲んでいる。

 

 ……ったく。

 

 お前も面倒臭え奴だよ。

 

 俺はスバルへと向き直った。

 

「立てるか?」

 

「…………」

 

 返事はない。

 

 少年は地面に膝をつき、俯いていた。

 

 俺はその前にしゃがみ込む。

 

「……スバル」

 

「……なんで」

 

「あ?」

 

「なんで……止めたんだよ……」

 

 掠れた声だった。

 

「俺は……まだ……!」

 

「馬鹿野郎」

 

 俺はスバルの額を軽く小突いた。

 

「勝負はとっくについてんだよ」

 

「…………」

 

「負けたなら負けたでいいだろ。次に勝てるようになりゃいい」

 

 そう言って、手を差し出す。

 

「ほら、立て」

 

 だが。

 

 スバルは、その手を取らなかった。

 

「……エリスには、わかんねえよ」

 

 小さな声だった。

 

「エリスみたいな奴には……俺の気持ちなんかわかんねえ……!」

 

 ……そうか。

 

 俺は差し出した手を、ゆっくりと下ろした。

 

 別に、腹が立ったわけじゃない。

 

 ただ。

 

 少しだけ、寂しかった。

 

「……そうかもな」

 

 俺は立ち上がる。

 

「俺はお前じゃねえからな」

 

 スバルは俯いたまま、何も答えなかった。

 

 俺も、それ以上は何も言わなかった。

 

     ◇◇◇

 

 その後、スバルは治療を受けることになった。

 

 フェリスが呼ばれ、傷の手当てが行われる。

 

 俺は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

 

「……随分と派手にやったねぇ」

 

 フェリスが呆れたように呟く。

 

「まったくだ」

 

「エリスも止めればよかったのにぃ」

 

「止めたよ。聞かなかったんだ」

 

「ふぅん……」

 

 フェリスは意味ありげにこちらを見た。

 

 俺は思わず眉を寄せる。

 

「……なんだよ」

 

「別にぃ?」

 

 妙に甘ったるい声。

 

 わざとらしく首を傾げる仕草。

 

 ……こいつ、相変わらずだな。

 

 俺は少しだけ距離を取った。

 

 フェリスはそんな俺を見て、楽しそうに笑った。

 

「エリスってば、ほんっとわかりやすいんだからぁ」

 

「うるせえ」

 

 俺は顔を背けた。

 

 まったく。

 

 どいつもこいつも、面倒臭え。

 

 その時。

 

「……エリス」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 振り向けば、ベティーが立っていた。

 

 先ほどまでの怒りは、もう表に出ていない。

 

 ただ、その表情はどこか複雑だった。

 

「……あの人間は」

 

「あ?」

 

「……どうして、あそこまで意地を張るのかしら」

 

 俺はスバルへ視線を向けた。

 

 治療を受ける少年は、俯いたまま何も喋らない。

 

「……さあな」

 

 俺は肩を竦めた。

 

「俺にもわかんねえよ」

 

「…………」

 

「けど、あいつなりに必死なんだろ」

 

 ベティーは小さく唇を噛んだ。

 

「……だからって、エリスにあんなことを言っていい理由にはならないのよ」

 

「まあな」

 

「…………」

 

「けど、今は十分痛い目見ただろ。これ以上責めても仕方ねえよ」

 

 ベティーはしばらく黙っていた。

 

 そして、小さく呟く。

 

「……エリスは、本当に甘いのよ」

 

「味方にはな」

 

 俺が笑うと、ベティーは小さくため息を吐いた。

 

「……まったく」

 

 そう言って、俺の外套を掴む。

 

「……仕方ないから、ベティーも少しだけ我慢してやるかしら」

 

「おう。ありがとな」

 

「……べ、別にお前のためじゃないのよ!」

 

 俺は笑った。

 

 ベティーは頬を膨らませたが、その手は外套を離さなかった。

 

     ◇◇◇

 

 そして、夕刻。

 

 事態は、さらに悪い方向へと進んだ。

 

「――どうして、わかってくれないの!」

 

 廊下に響いた声。

 

 リアの声だった。

 

 俺は足を止める。

 

 少し先の部屋。

 

 扉が僅かに開いている。

 

 その向こうから、二人の声が聞こえてきた。

 

「俺はエミリアたんのために……!」

 

「私は、そんなこと頼んでない!」

 

 ……ああ。

 

 やっぱり、こうなったか。

 

 俺は扉の前で立ち止まった。

 

 中へ入るべきか。

 

 それとも、放っておくべきか。

 

 少しだけ迷う。

 

 だが、これは二人の問題だ。

 

 俺が口を挟んだところで、どうにかなる話ではない。

 

「……エミリアたん」

 

 スバルの声が聞こえる。

 

「俺は……俺は、エミリアたんのために色々やってきたんだよ……!」

 

「……スバル」

 

「エミリアたんが知らないところで! 俺がどれだけ頑張ってきたか……!」

 

 ……ん?

 

 俺は僅かに眉を寄せた。

 

 知らないところで?

 

 何の話だ?

 

「俺がいなかったら……!」

 

 スバルの声が震える。

 

「俺がいなかったら、エミリアたんは……!」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 沈黙。

 

 そして。

 

「……ごめんなさい」

 

 リアの声が聞こえた。

 

「私には、スバルの言っていることがわからない」

 

「…………」

 

「スバルが私のために頑張ってくれたことは、嬉しい。でも……」

 

 その声は、今にも泣き出しそうだった。

 

「私の気持ちを無視してまで、頑張ってほしくないの」

 

 ……リア。

 

 俺は静かに目を閉じた。

 

 あいつは優しい。

 

 優しすぎるほどに。

 

 だからこそ、誰かが自分のために傷つくことを嫌う。

 

 スバルは、それを理解しているはずだった。

 

 理解しているはずなのに。

 

「……エリスなら」

 

 不意に、スバルが呟いた。

 

 俺は目を開けた。

 

「……え?」

 

 リアの声。

 

「エリスなら、よかったんだろ……?」

 

 …………。

 

 何を言い出すんだ、あいつは。

 

「エリスなら、何やっても許されて……! エミリアたんだって、エリスのことなら信じて……!」

 

「スバル、それは違うわ」

 

「何が違うんだよ!」

 

 怒声。

 

 俺は思わず扉に手を掛けた。

 

 だが、止まる。

 

 ……違う。

 

 ここで俺が入ったら、余計に拗れる。

 

「エリーは……」

 

 リアが静かに言った。

 

「エリーは、私の話を聞いてくれるの」

 

「…………」

 

「私が嫌だって言ったことは、ちゃんと考えてくれる。私が自分でやりたいって言ったら、見守ってくれる」

 

 その声には、確かな信頼があった。

 

「エリーは、私のことを信じてくれてるの」

 

 ……リア。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 別に、そんな大層なことをしているつもりはない。

 

 ただ、あいつがやりたいことをやらせているだけだ。

 

 俺が勝手に全部決めたところで、何の意味もない。

 

 だが。

 

 その言葉は、スバルにとって残酷だったのだろう。

 

「……そっか」

 

 小さな声が聞こえた。

 

「……やっぱり、エリスなんだな」

 

「スバル……?」

 

「……わかったよ」

 

 しばしの沈黙。

 

 そして、足音が近づいてくる。

 

 俺は慌てて扉から離れた。

 

 次の瞬間。

 

 扉が開いた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 スバルと目が合う。

 

 顔には、まだ傷が残っていた。

 

 フェリスの治療を受けたとはいえ、完全には回復していないのだろう。

 

 そして何より。

 

 その表情が、ひどく疲れていた。

 

「……エリス」

 

「……よう」

 

 俺は片手を上げた。

 

「……聞いてたのか?」

 

「……まあ、ちょっとな」

 

「……そっか」

 

 スバルは俯いた。

 

 俺は少しだけ迷ってから、口を開いた。

 

「……スバル」

 

「……なんだよ」

 

「飯でも食いに行くか?」

 

 スバルが顔を上げた。

 

 俺は肩を竦める。

 

「腹減っただろ。俺も減ったしよ」

 

「…………」

 

「奢ってやるから、付き合えよ」

 

 しばしの沈黙。

 

 そして。

 

「……悪い」

 

 スバルは小さく首を振った。

 

「……今は、一人にしてくれ」

 

「……そうか」

 

 俺は頷いた。

 

「わかった」

 

 それ以上、引き止めなかった。

 

 スバルは俺の横を通り過ぎ、廊下の向こうへと歩いていく。

 

 その背中は、ひどく小さく見えた。

 

「…………」

 

 俺はしばらく、その姿を見送っていた。

 

 ……まったく。

 

 どうして、こうなっちまったんだろうな。

 

     ◇◇◇

 

「……エリー」

 

 背後から声が掛かる。

 

 振り向けば、そこにはリアが立っていた。

 

 その目には、涙が浮かんでいる。

 

「……スバル、行っちゃった?」

 

「ああ」

 

「……そっか」

 

 リアは俯いた。

 

 俺はしばし、その姿を見つめる。

 

 そして。

 

「……リア」

 

「……なあに?」

 

「お前、間違ったこと言ってねえよ」

 

「…………」

 

「少なくとも、俺はそう思う」

 

 リアの肩が震えた。

 

「……でも」

 

「あ?」

 

「スバル、すごーく悲しそうだった……」

 

 ……ああ。

 

 そうだな。

 

 俺も見た。

 

 あいつの、あんな顔。

 

「……私、どうしたらよかったのかな」

 

 リアが呟く。

 

 俺は少しだけ考えた。

 

 だが、答えは見つからなかった。

 

 俺は別に、何でも知っているわけじゃない。

 

 剣を振るうことならできる。

 

 敵を倒すこともできる。

 

 誰かを守ることだって、できるつもりだ。

 

 だが。

 

 人の心をどうにかする方法なんざ、知らねえ。

 

「……さあな」

 

 俺は正直に答えた。

 

「俺にもわかんねえよ」

 

「……エリーでも?」

 

「ああ」

 

 そう言って、リアの頭に手を置く。

 

「けどまあ、時間はあるだろ」

 

「……うん」

 

「今すぐ答え出さなくたっていい。あいつだって、頭冷やしゃ何か考えるだろうしな」

 

 リアは小さく頷いた。

 

 俺はその頭を軽く撫でる。

 

 ……スバル。

 

 お前、何をそんなに焦ってんだ。

 

 強くなりたいなら、強くなればいい。

 

 認められたいなら、認められるように頑張ればいい。

 

 別に、今すぐ全部できる必要なんざないだろうに。

 

 俺だって、最初から何でもできたわけじゃない。

 

 少しずつ。

 

 一つずつ。

 

 積み上げてきただけだ。

 

 ――ただ、一つだけ。

 

 俺には、どうしてもわからないことがあった。

 

 あいつは、何をそんなに恐れている?

 

 負けることか。

 

 認められないことか。

 

 それとも、俺には想像もつかない何かなのか。

 

 答えは出なかった。

 

 俺はただ、スバルが消えていった廊下の先を見つめていた。

 

 友達だからといって、何もかもわかるわけじゃない。

 

 差し出した手を、必ず取ってもらえるわけでもない。

 

 そんな当たり前のことが、妙に胸に引っかかった。

 

「……ったく」

 

 小さく息を吐く。

 

 どうにも、後味の悪い一日だった。

 

 それでも。

 

 あいつがまた馬鹿みたいに笑って戻ってくるなら、俺はいつも通り迎えてやるつもりだった。

 

 ――その時は、まだ。

 

 それで十分だと、思っていた。

 

    

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